「目標」を持つこと

2009-07-20 18:24:33 | Weblog
何か生きる上で目標を持つことは人生で最も大切なことである、と大半の人は思っているようだ。事実学校の先生方も何かにつけて「目標」を口にし、それに向かって進むようにと励ます。
しかし、目標を持つことが人生に於いてそれほど大切なことかな、とふと思うことがある。目標を持つこと、は自分の人生にある枠を嵌めることだ。枠を嵌めること、は人生のいろんな景色をシャットアウトすることだ。
**中学に入ることを目標にすれば、○○中学は視野から除外される。また、夏休みにのびのびと屋外で遊ぶことも除外される。それがそれほど良いことなのだろうか、という疑問が涌く。
**中学に入れば入ったで、次は**高校だ。**高校に入れば、次は東大だ。東大に入れば、次はどこか?
そういう枠を次々に自分に嵌めて行く過程で実に多くのことを振り捨てる。それに気付くのは25歳あたりを過ぎてからだろうか。それとももっと後だろうか。
たとえば、東大の次に**銀行に入ったとする。そうするとまたまた数多くの目標が与えられる。今度は自分で自分に設定するより先に、会社からいやおうなしに与えられる枠である。営業成績のアップの次は**昇進などが続く。その中には結婚も入るだろう。そういうことをしているうちに人生の美味しい部分の大半は過ぎてしまっているはずだ。

それでは目標が希薄な人生はいかがなものだろう。つまり枠が取れた人生だ。その代表例として種田山頭火が頭に浮かぶ。今日は今日、明日は明日で空の雲に導かれて人生を歩む。そういう人生はいかがなものだろうか。考えると、そういう人生を凡人が歩むためには大変なエネルギーが要る。なにしろ、今日寝る場所が見つからないだけで大変な苦痛だ。とてもコオロギの鳴き声を枕に寝ることなど現代の凡人にはできそうにない。またそういう場所もない。それを強行すれば、警察に通報されて警察に泊ることになる。
しかし、こと若者の場合、怠惰でそうするにせよ、意図的にせよ、枠の希薄な人生を送ると、そのうち思いがけない景色が目に入ってくることもあるだろう。その結果前には想像もしなかった人生を送ることになる。事実、そういう人生を送って成功している人も居ることは毎日のテレビを観れば分る。しかしそういう成功者はマスコミが云うほどは多くないだろう。目的を持たず、枠の希薄な人生を送れば成功が待っているような感想を持つとすれば、それは幻想だ。
目的の按配、枠の按配、のバランスを計るのは困難だけれども、そんなバランスには背を向けて「しっかりした目的」を持っていれば凡人は生き易いのは事実だ。しかし目的が大きく挫折した場合は恐ろしい。枠の外にでたことがなければ、自殺、ということになる。

在職中は「枠」とはほどほどに付き合って、退職したら枠などかなぐり捨てて生きる。そういう一生がいちばん良いのかもしれない。よく分らない・・・・。