ふうてんの猫の猫耳東風的フリチベ生活

働きながら和製MBAと工学博士取得をしていた自称苦学生バックパッカーの日記。
今は学位もとって大阪で技術戦略考えてます

京大のカンニング事件

2011年03月01日 | 政治・経済・社会現象
入試問題投稿 携帯から特定へ
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1517869&media_id=4

河合塾の模試まで受けているとすると、愉快犯ではなくて、ガチで合格したかった高校生の仕業のようにも思えてきました。

僕が仕込むなら
・ 携帯電話は当然飛ばし。多重債務者なり、ホームレスなりに頼んで、不正な携帯を入手する
・ 回答をネット経由なんて具の骨頂。 せめて英語ぐらいは、機械翻訳でもいいから、その場で和英と英和で回答を作る。 (まぁ、TOIEC730点程度の人を見つけて答えを書いてもらうだけなので、人員は容易)
・ 数学は解ける人を仲間にする

と考えるな。

カンニングが一番難しいのは、試験会場での行動だと思う。
それさえクリアーできれば、合格請負ビジネスをアングラですることも十分に可能です。

受験者Aから500万円で京大合格を請け負う

チームを次で結成
・ 英語できる人
・ 数学できる人(京大の貧乏大学院生あたりで十分)
・ 問題を会場から送る受験生になれる若者 (センターから受けないと二次試験にたどり着けないが)
・ 回答をAに送る人

で、一人100万円ぐらいの稼ぎになる。

これで、腕時計型受信機に回答を送るアングラビジネスが成立

入試問題投稿 携帯から特定へ
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1517869&media_id=4

河合塾の模試まで受けているとすると、愉快犯ではなくて、ガチで合格したかった高校生の仕業のようにも思えてきました。

僕が仕込むなら
・ 携帯電話は当然飛ばし。多重債務者なり、ホームレスなりに頼んで、不正な携帯を入手する
・ 回答をネット経由なんて具の骨頂。 せめて英語ぐらいは、機械翻訳でもいいから、その場で和英と英和で回答を作る。 (まぁ、TOIEC730点程度の人を見つけて答えを書いてもらうだけなので、人員は容易)
・ 数学は解ける人を仲間にする

と考えるな。

カンニングが一番難しいのは、試験会場での行動だと思う。
それさえクリアーできれば、合格請負ビジネスをアングラですることも十分に可能です。

受験者Aから500万円で京大合格を請け負う

チームを次で結成
・ 英語できる人
・ 数学できる人(京大の貧乏大学院生あたりで十分)
・ 問題を会場から送る受験生になれる若者 (センターから受けないと二次試験にたどり着けないが)
・ 回答をAに送る人

で、一人100万円ぐらいの稼ぎになる。

これで、腕時計型受信機に回答を送るアングラビジネスが成立

試験会場から試験問題を入手する方法さえあれば、受験者に回答を送るのはきわめて容易
腕時計型受信機だろうが、骨伝道装備のメガネ型デバイスだろうが、どうにだって送れる

完全に愚痴 もうタイ タオ島は行かないかも・・・・

2011年02月07日 | 徒然なるまま(日々雑事)
旅の行き先を考えていて、とりあえず、タイのチケットを取ろうと思ったのですが、
いつもなら行くかなぁと思う、タオ島は、「あー、行きたくないな」と思ったので、
ひょっとしたら、もう、タオ島は二度と行かないかも

タオ島には、かれこれ10年近くのお付き合いで、下手をすると、いまのガイドよりも古い付き合いではあるのですが、前回のダイビングショップのパーティーもこの10年間でこれ以上ないというダメップリ。

ただ、そんな日本でのパーティーはどうでもよくて、
僕が好きだったタオのダイビングは体育会的で、素手だと色々なものに触って、リーフや、その他の生物を傷つけるから、手袋着用不可とか、絶対に、ジンベイには触るな、触ったら浮上させる というような厳しくも理にかなったルールを課すやり方でした

しかし、最近は、イントラが、他のショップが見てないなら、ジンベイ触るとか言い出す始末だし、
魚などを捕まえて見せたりするような感じ。
ぶっちゃけ、伊豆あたりでも、魚を捕まえると弱って捕食されやすくなるから、するなと言われます

そして、前回のダイビングでは、同じボートに乗った日本人の常連客の女性が、同じチームのときに、二度も群れに突っ込みやがった。
しかも、二つ目も群れは、繁殖行動なのか、普通は見られないような群れだった。

僕が水上で戒めても、「突っ込んだもん勝ちでしょう♪」とかいう
デブでバカな女性ですが、それをちゃんと注意できないイントラには、もう、かなり幻滅した。

結局、バックパッカーというのは、自分の居場所を求めて旅を続けるのでしょう。
そして、どうもタイのタオ島は僕にとって、居場所のいいところではなくなったように思う。

僕は旅先でも、まともな人たちと時間を過ごしたいのだ


タオという島は好きだからまた行くかもしれない。
しかし、タオにいっても、きっとしばらくは別のダイビングショップを利用してみるのでしょうね。

学生の頃の思いって何だろう、情報通信の社会インフラって何だろう?

2011年01月30日 | IT・情報化・コンサルティング
先週は大忙しだったけど、金曜日の朝一番で行った、
「次年度の研究の重点分野案」の大ボスへの説明は、宿題はもらって厳しいコメントも貰ったけど、にこやかでした。

「議論をして、考え抜くのが大切だ」
ということだそうで、
「方針さえ決まれば資料なんて一週間で書けるのだから、もっと議論しなさい」

ということで、いわれたのは、
「自分たちがやっているのは、社会インフラを作るということで、将来(2015年)に、技術が進んでいくときに、自分たちが何を提供しようとするのか」
ということを考えろということだそうです。

結局、ジェロントロジーにしても、センサーNWなどのよるスマートシティーなども、それをやるのは、よしだけど、それをどう、サービス性、ビジネス性を持たせるかというのを考え抜いて研究開発しろ
ということなのだと思います。

学生の頃は、社会を変えるのだ!! という思いの強い学生の人たちとゆるーーくつながっていたので、約10年前に、会社員になるのを決めたときには、どうして企業なんかで働くの?
と聞かれたのだが、当時は、「自分が偉くなったら、企業の協賛とかで貢献することもできると思うし、思いがある人が、みんなNPOやNGOで食おうと思ったらスポンサーつかないでしょ?」

という話をした覚えがある。

たぶん、そういう時の気持ちというのは、比較的残っていて、とりあえず、チベット支援だろうが、派遣村だろうが、カンボジアの児童買春だろうが、わずかでも、身銭を切って頑張っている人を応援しよう という気持ちになりやすくって、財布の紐が緩みやすい

それで、今は、自分の仕事として、巨大企業が将来どんな価値を社会に適用すべきか
ということを真剣に悩めと言われているわけですが、悩むほど、それを技術で解決できるのか、そしてサービス性はあるのかと ぐるぐる回ってしまいます。

先日、研究所の若手が大阪に来たので、飯を食った際に、クラウドシステムを作らされている?彼が
「自分は世の中の人に使ってもらえるものを作りたかったのに」
といった際に、
「本当にやるべきことがあるなら、うちで数億円の予算はつけられると思うし、研究所と一緒にやるフローも作ってあげられると思うよ」
と答えたら、彼はしばらく悩んで、
「うーん、悔しいけど、思いつかないですね」
と答えていた。

技術やサービスで世の中を変えたい という想いを持つ人は多いが、
それが、募金などの無償ではなくて、企業としての取り組みとしてのアイディアまで持っていくのは結構難しいのだと思う。

そして、それはまさに自分があたっている悩み
世の中には山のように、IT業界、ICT業界 というところに人がいるわけで、新しい可能性を自分たちが見つけるのは結構難しい。

だからこそ、孫正義のソフトバンクは付加価値をつけられず、NTTの通信料を下げさせる以外には会社の利益をあげる方法を思いつかないわけですしね。
(iPhoneはAT&T同様に、台数の普及がインフラのキャパシティを超えてしまって設備投資に追われて、支出が増加し、速度低下や通信断といったサービス品質が低下するというジレンマに陥っています)


社会起業として考えても、ICTネタは、ITバブルの狂気の頃に、猿でも思いつくようなアイディアは全て試されたあとだとね。
まぁ、うちの大ボスたちにしても、
「依然やってダメだったからやるなとは言わないが、自分たちがやるなら、うまくいく という理由は示せ」

ということなのですよね。
センサーNWにしろ、詳細(数十センチ以下)な位置情報提供による盲目の方の移動支援(今うちで実証試験してます)とか、スマートグリッド(同じく検証に参加中)とか、構想はあるけど、ビジネスとして回るか難しい ということが多々あります

土日はそういうのを思考として整理する日

そういう日に最適な身近なカフェがあった武蔵小金井が懐かしいです。



アイディア募集!!


助けて[m:44]


追伸:

今日は、昨日買ってきた 「2030年日本」(産経新聞社)を読んで、日本の将来の社会変化を妄想してます。


のんびり連休 お友達できた♪

2011年01月11日 | 徒然なるまま(日々雑事)
先週末にラオスから帰ってきたおいらは、この週末は激しい予定はいれずに、のんびりしてました

★土曜日はゆっくり起きて、近所のまったりカフェでカレーランチ600円(大盛りにつき+100円)を食べる
年末とラオス旅行で発生した大量の洗濯
洗濯機を二回まわして満足

近所のスーパーに行ってみる。いろいろと買い込んでくる
そして、二階の僕の寝室を掃除

すごい綿ぼこりを掃除して、パソコンの中の中のほこりも綺麗にして満足
終わったら朝方になっていたので寝る


★日曜日は、やっぱりゆっくり起きて、ブランチ後に中国鍼に行く
新聞に出るような有名な先生だが、たまたま、家から徒歩1分のところにある。
とても助かっている

案の定眠くなるので昼寝をして、旅人飲み会に参加する。

二次会のテーブルが激しく盛り上がり、盛り上がったメンバーで、僕の家で二次会をする
昨日掃除が終わったばかりの部屋に入ったのに、女性陣は
「えー、引越しして半年でこんなに散らかってるの?」
とのたまう。
いや、昨日掃除したのだが・・・・
とは言えない[m:44]

ちなみに、今の職場はアクセスフリーで、自分のIDカードを指すとシンクライアントが立ち上がる仕組みで、自分のロッカーはあるが机はないという世界だが、研究所時代は、大きな机二つが、自分のスペースなので、机は散らかし放題だった。
おそらく、研究所内でもっともエントロピーの高い机の一つだったと思われるが、それでも、頑張って綺麗にしていた。
整理整頓という回路が脳についていないように思う

それで、朝、始発が動く5時まで、いろいろな話をしながら、水タバコ、チベットのお香、シンギングボールでもてなす
さらに話が盛り上がり、2月のこのメンバーを中心に白川郷へ行くことになる。


月曜日は、やはりゆっくろおきて、近くのカフェにうまい昼飯を食いに良く
今日は、羊肉のトマトソース煮だった
羊の脂を丈夫に落としていて丁寧な仕事がわかるが、僕は羊脂が好きなのでちょっと物足りないが、うまい。

その後、無印に電話してカーテンの在庫を確認して買いに良く(日曜日に店にいったら4枚欲しいのに3枚しかなかったので、より大きい店に行く)
無印(ロフト店)に良くと、目の前が、日本最大級の丸善&ジュンク堂であることに気づく
http://www.junkudo.co.jp/tenpo/shop-MJumeda.html

200万冊の在庫らしい。
(僕の母校の図書館がそれぐらい蔵書の数だったが、歴史的な役割を終えた指数関数表なども含めている)

無印の重い荷物を抱えて、本を見て回る。こんな大型書店はロッカーを置くべきだと切に思う。

世界の貧困・フェアトレードだけで、書棚が一つ埋まっているなど、かなり幸せ
湯浅氏の本と、ビッグイシューから出た「若者ホームレス」を買って帰る。
蟻族や、国際開発、フェアトレード関係は次回にまわす。

そんな感じで、帰ってきて、鍋を作って食べて、NHKスペシャル見たりして今(AM2時過ぎ)にいたる。

なんか、ゆっくりとして、休日 という感じのよい休暇だった。

昨日の旅人飲みは、マイミクさんもたくさんできて良かった。

そして、来週か、再来週は、綺麗にしても汚いといわれる我が家に、古民家コミュの人が遊びに来る予定。

大阪に住んで半年。お友達もできてきました

が、やっぱり東京にいる、武蔵小金井の仲間や、タイのダイビング仲間にも、チベット支援の仲間にも、mixiのオフ会の人にも会いたいなりね。

やっぱり2月の一週目は、東京出張に絡めて、東京でみんなに会ってこよう。
チベット支援の仲間?(フェイスブックのお友達) もアメリカから来て僕ら相手のセミナーしたいみたいだし。(おいら英語はわからんが)

日本国憲法前文を素直に考察して読んでみる

2011年01月07日 | フリーチベット
日本国憲法前文 理念は素晴らしいと思う


日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。



オスロー宣言を支持する社会民主主義者も全く異論がないであろう前文である

ところが特に9条と関係しそうな
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」 
について、諸国民ってのはたぶん世界150カ国以上を指すので、 試しに日本と国境線が隣接する個々の名前を入れてみる 


「平和を愛するアメリカ国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」
「平和を愛する中国国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」
「平和を愛する北朝鮮国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」


なんか、この3つを読んで、うんその通りだ と思う人は、右派、左派問わず、いないと思う。

もうね、憲法の前提である、前文の現状認識がおかしいのです
マジで

だいたい9条マンセーな人たちは、本当に
「平和を愛する諸国民(含むアメリカ国民)の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」
なんて思うの?

前文に論理的な正当性が無い以上、諸外国同様に憲法を改正していくのは当然だと思う

そしてもう一つ
「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」

この理念に対して、全世界は、個々の国を入れても当然成り立つはずですが

「われらは、北朝鮮の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」
「われらは、中国(含むチベット)の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」
と日本共産党の信者はそう思っていますか?

もし、そうでないなら、あなたたち日本共産党や社民党が国会に議席を置くこと自体が憲法の理念に違反している。
自由主義陣営だろうが、共産主義陣営だろうが、途上国だろうが先進国だろうが、全世界の人々が、恐怖と欠乏から免れることを願う人たちだけが、わが国の国会に議席を持つことが、憲法の理念を生かすことだと私は思う

世界の人々の平穏を願うことが憲法の前文に明記されている以上、憲法99条の要請
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

から、イラクやチベットの人々の平穏に生きる権利があることを確認できない外道は違憲な存在である


だから、憲法上の要請から日本共産党はゼロ議席になるべきだ

日本国憲法前文を素直に考察して読んでみる

2011年01月07日 | フリーチベット
日本国憲法前文 理念は素晴らしいと思う


日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。



オスロー宣言を支持する社会民主主義者も全く異論がないであろう前文である

ところが特に9条と関係しそうな
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」 
について、諸国民ってのはたぶん世界150カ国以上を指すので、 試しに日本と国境線が隣接する個々の名前を入れてみる 


「平和を愛するアメリカ国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」
「平和を愛する中国国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」
「平和を愛する北朝鮮国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」


なんか、この3つを読んで、うんその通りだ と思う人は、右派、左派問わず、いないと思う。

もうね、憲法の前提である、前文の現状認識がおかしいのです
マジで

だいたい9条マンセーな人たちは、本当に
「平和を愛する諸国民(含むアメリカ国民)の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」
なんて思うの?

前文に論理的な正当性が無い以上、諸外国同様に憲法を改正していくのは当然だと思う

ラオスを旅して、仕事や日本の貧困やチベット支援について考えてきました

2011年01月05日 | 徒然なるまま(日々雑事)
旅をしていろいろと考えてきました。

メコンを眺めながらいろいろを考えてきました。
仕事ではやはり、公共のために尽くす企業に入りたい と思った学生のころの思いを形にしたいなと思いました。

今日も職場で話したら、いくつかの施策のうちの一つとしてはありじゃないかと、おおむね好評だったのですが、人と人がつながるコミュニケーション を愚直にアプローチするような研究開発を重点の一つに置くことをしていきたいと思います

たとえば、TV電話が普及しないのは、顔写真をみるような平面的なものだからであって
母が娘に味噌汁の作り方を教えられるようなコミュニケーション、祖母が孫に折り紙の折り方を教えられるようなコミュニケーションが実現できるのだ というのをコンセプトとして示せないか?

離れて暮らす家族の身に心配があるときに、適切なセキュリティーとプライバシーコントロールがあった上で、家族が本当に心配なときに、警察に頼らずに部屋を見られるような通信もあっていいんじゃないか?

老人が悪徳商法に騙されないように、インターフォンや玄関のやり取りを、離れて暮らす子供たちが、リアルタイムや後から聞けるような仕組みがあってもいいんじゃないか?

病院の中に入院している人が、孤独を感じないようなコミュニケーションを実現できないか?
(それって装置の電波の問題なのか、それ以外の検診などの問題なのか、課題設定はまだわからないけど)

そんな風に、家族など、大切な人同士のコミュニケーションをもっと密にできることを取り組んでもいいんじゃないかと思います。

今年度は私が来る前に、完全な盲目の方の外出をサポートするACTシステムの試験研究があって、それに予算を数億円つけていたのですが、今年は、老化などによるハンディのような軽微なハンディをサポートしたい普通の家族が使えるようなアプローチを目指せないかとか、家族や人の孤独を和らげるようなコミュニケーションとか、愚直に取り組むことにも予算と人を割り振りたいと思いました

僕の裁量で、おそらく数億円は確保できるので、コミュニケーションの可能性というのを具現化するような営みを次の一年で実現できればと思いました。

その中では、他の企業の社会科学系の研究所や大学の先生方とも相談して、社会に対して自分たちの企業の技術が何が貢献できるのか、考えて形にしていけたらと思います
(マイミクさんにも期待しています 特に有識者の方)

一方で、やはりラオスという豊かではない国を旅すると、貧困という問題が頭から離れなくなります
余談ですが、たまたま、日本のラオス大使をされていた方とご一緒したのですが、ラオスでは共産主義では珍しく、汚職をすると大臣が更迭されるそうです。
そのあたりが、ラオスが日本共産党の友党になれない理由だろうなとも思いました(マルクスが唱えた民主集中制ではなく、ラオスはある程度民意を反映している)

それで、対して日本を思うと、外道日本共産党のせいで今年の派遣村がなくなったように、社会が「努力しても解決できない貧困」への抵抗力を弱めつつあるように思います
高校無償化など民主党の成果も極わずかにはありますが、やはり雇用は厳しいままですし、努力をする日本人に対して許されてはいけないレベルで困窮している人たちもまだまだいます。


そうした現実を踏まえると、
キリスト教徒として、神の代理として、地上に愛を示そうとなさったマザーテレサが、1981年4月に来日なさった際に、黒柳徹子氏に向かっておっしゃった


「自分の国で苦しんでいる人がいるのに他の国の人間を助けようとする人は、他人によく思われたいだけの偽善者である」

「大切なことは、遠くにある人や、大きなことではなく、目の前にある人に対して、愛を持って接することだ」。

「日本人は他国のことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります」


とおっしゃる事に私は全面的に同意しますし、今、身をおいているチベット支援のコミュニティーへの違和感も感じます

僕は、チベット支援をしてきたのですが、日本の高校生の相応の割合の子供たちが、経済的な理由で中退をしている昨今において、そうした問題をさておいて、チベット人の大学教育などについて熱く語れることに、強い違和感を感じています。
http://www.youtube.com/watch?v=NsSYSAWG10k&feature=related

この国で保守論者というときに、私は、天皇陛下が貧困者への思いを述べられることに報いたいと思うような私達のような保守が、本来の日本の保守であって、
貧困者を切り捨てようとするようなネトウヨのような連中に保守は、日本共産党が偽りの格差是正論者であるのと同様に、保守の偽者であると確信しています。
「敵に塩を送る」という美徳や、同胞たちを愛さない連中が、中国や韓国や北朝鮮を敵だといったからといって、「保守」になれるわけでは断じてない

そんな風に感じる僕はチベット支援ではなくて、もやい やビッグイシューなどのように、イデオロギッシュな既存の外道日本共産党などとは違うアプローチで、同胞を救おうとする人たちに尽くすべきではないのかとも、いろいろと考えました。

おそらく、僕は、チベットについてmixi日記などで熱く言論を語るけど、日本の貧困について語ったことのない人、人権と声高に言うけど、中国国内の人権問題以外を語ったことのない人と一緒にいることが苦痛なのだと、率直に思います

もちろんそうでないチベット支援者の中もたくさんいて、実はそういう人と、リアルな世界では仲良くしているのですが、どうもネットでの言説をみると、自分の居場所ではない気がしてしまう。

そして、こちらの悩みついては答えが出ないまま帰国しました。

しかし、わずかながらも助力をしてきて、チベット人の方もそれに謝意を丁寧に示してくれた中で、彼らの期待を裏切るようなこともしたくない。

おそらく現実的にあるべき解は、日本の貧困者への支援と、チベットへの支援の両方を続けることなのだろうなと思いました。
しかし、仕事もハードになっていく一方でそれなりに厳しい道ではあります。

それでも、おそらく日本という先進国の貧困問題は日本人の手で解決するしかない。
先進国のわが国の貧困を他国が助けてくれることは無いでしょう

一方で、チベットの問題については、チベット人の手だけで解決する方法はない。
この地球に生み出されたマルクスの悪夢に対抗する正義があることを示すには他国が助けるしかないのでしょう。

僕は村上龍氏がいうように「他人に期待すべきではない」と基本的に思いますが、それでも、僕の身近なチベット支援者について期待したいことは、
「いきとしいけるものよ、幸せであれ」
という「仏陀の言葉・蛇の章」の言葉は、まず身近な家族や同胞に対してこそ向けられるべきことである という態度をぜひとも示して欲しいと思うし、それをマザーテレサだけでなく、ダライラマ法王という偉大な宗教的指導者の一人も望まれていると私は思いますし、そうであるなら、そのように互いに実践していきたいと私は思います。

そして、私たちが、イデオロギッシュではなく、真に社会の許せないものと対峙しているのだという示すことは、チベットやウイグルをはじめとする、多くの人々への人権救済への支援が、人々に支持されるために役立つと私は思います

35歳を救え 貧乏な家庭の子供のネタ

2010年12月13日 | 格差社会を考える
mixiのキーワードが「貧乏」なんてすごいことになっていて、やっぱり日記を書いてみようと思いました

貧乏な家庭は、子供作っちゃだめですか?
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1435918&media_id=116


日本に住む、とある一組の夫婦がいました。夫は30代後半で年収300万、妻は30歳の派遣社員で年収200万の年収500万円世帯です。年齢的にも「そろそろ子供が欲しいね」と夫婦で話し合っていることを、知人の女性に話したところ、

   「そんな年収で子どもを作るなんて非常識、子どもがかわいそう」

と言われ、ショックを受けたというfumitamaさん。彼女自身、貧しい家庭で育ち、兄弟3人川の字で寝たり、テレビは1台でチャンネル権は父親、末っ子だから着る物も全部お古、だけど「この世に生んでくれた両親に感謝している」といいます。しかし知人は

   「今は時代が違う。…貧乏な家庭に生まれた子どもにはいい迷惑だけど、別にあなたたちが悪いわけじゃなく、こんな世の中が悪い」
と言い、それを聞いて悲しくなったfumitamaさんは、教えて!gooで皆に意見を求めました。

「お金がないのに子どもが欲しいという願望は、私たちのエゴなんでしょうか」

■「与えなくては話題についていけない」

寄せられた回答は34件。子供がいる親や、子供がいない夫婦、独身者などから、様々な意見が寄せられました。

   「二児の母です。その女性が言うのは間違ってません。ホントに昔と今では違うのです」

というのは中学生の娘を持つmama4615さん(36歳)。今はほとんどの子が習い事をしており、小学生で携帯電話を持たすのも当たり前。ニンテンドーDSで遊ぶことも多く、与えなくては話題についていけないといいます。そして中学生になると塾の三者面談で受験校を決めるなど、昔と今では子供にかけるお金も、親の教育観念も変化してきているといいます。経済面での不安をあげる方もいました。


まず、世帯年収500万円というのは、「貧乏」の範疇に入るのだろうかと思いました。

アカデミックでいう、格差や貧困の話というのは、学費が未納で高校や大学を中退するような話であって、「お稽古事」なんていう話をしているのではなかったと思います

僕の世帯は父がかなりダメな人間なので、母は、私の哺乳瓶を買うかどうか迷って、何度も薬局の前を行ったりきたりするような生活をしていたそうです。

母方は母子家庭で育っていて、私の祖母の仕立ての仕事で生計をたてていたそうですが、在日朝鮮人のやっている呉服屋で仕事の代金をちょろまかされたり、騙されたりして大変で、一日、一把の冷麦で家族三人がすごしていたころもあったそうです。
(だからといって在日の人を敵視するようなつもりは毛頭ないですが、彼らが日本社会の一方的な被害者だというのは一切支持しないです)

母にしろ、乳児の頃の私にしろ、貧乏でしたが、そんな酷い人生だったのかというと、必ずしもそうではないと思うのですよね。それは、私も母も、母親の愛情を注いで育ててもらったというのが、とても大きいと思います。

もちろん、本当に餓死しちゃうとか、高校を中退さざるえないとか、そういう事態になる貧困というのが思われるなら、子供を産むのは避けた方がいいと思う

しかし、稽古事ができない という程度のことだったら、堂々と産んで欲しいし、稽古事の変わりに、親が勉強を教えたり、遊んだりして、お金の変わりに愛情と時間をかけて育てて欲しいと思います。

一方で、そもそも子供にお稽古事をさせるなんてことに興味もなく、入った金はギャンブルと酒というような家庭もあれば、親の文化資本が低くて、金はあっても教育に興味もないとい世帯ももちろんあります。

日本はまだ欧米ほど身分や階層が明確化していませんが、近未来に日本も欧米のように、
DSを子供がもっていて、塾や英語やスポーツを学ぶ子供の居住区と、
放し飼いのような野性児(not 野生児)のような子供のいる地域にわかれるかもなと思います。

そうすれば、欧米や中国・ソビエト、北朝鮮などのマルクス主義国家のように、身分、階層の固定化が進み、ゲーティッドコミュニティーまであと一歩になります。
低年収の人も、高年収の人も同じスーパーで買い物をしたり、同じファミレスにいったりする国というのは、とても珍しいそうです。(私はG8参加国では、日本以外に知りません)


記事を見て思ったのは、おそらく、この会話をした女性同士は、そこそこの教育などの階層に属しているのだろうなということです

しかし、近い将来、家賃が安くて、スラム街化したところで育つ子供という世界もイメージできて、そこでは、もはやお稽古事なんてことをさせるかどうかなんて心配じゃなくて、子供が学校に通わない、素行が悪いといった事態が日常になるエリアができるんじゃないかと思います。


ところで、子供を産むべきじゃないという人たちが、普段どんな言動をするんだろうと思うと、たとえば、
子供がDSがないと話題についていけない という母親は、自分の子供にDSが買ってもらえない子供へどう接するべきかをちゃんと教えているのでしょう?

子供のいじめが陰湿だとかというのは、貧しい家の子供を傷つけちゃいけないと親が教えない時代になったという意味で、私達の親の世代からの人間の劣化の連鎖のように思います

まぁ、僕らの頃はまだ、ファミコンやスーパーファミコンだから、誰かの家に集まってみんなでゲームをしていたわけで、自分が持っていなければ必ずしも仲間に入れないというものではなかったですね。

ただ、現実は、夫年収300万円だと、妻の年収200万円について、産休・育児の際は、おそらく無収入になるし、再就職が同じ条件で見つかるのかと考えると、家計についても危ない橋を渡るように思います。

NHKの「35歳を救え 」では、夫の月収が会社倒産で44万円から19万円まで激減した主婦の生活が出ていますが、子供三人(9歳、6歳、3歳)いて食費を月に3万円に抑えながら、深夜の仕事をして、それでも足りなくて、もう一つ仕事を入れようかと考えているという話がでてきます。(深夜アルバイト6時間、時給950円で月収10万円)

最後に、その記事を引用して終わりたいと思います。 親の覚悟と愛情というものを考えさせられるドキュメンタリーでした。大変だけど、寄りそいあう家族って、人間の根源的な美意識を突き動かすように思います
http://www.amazon.co.jp/%E2%80%9C35%E6%AD%B3%E2%80%9D%E3%82%92%E6%95%91%E3%81%88-%E3%81%AA%E3%81%9C10%E5%B9%B4%E5%89%8D%E3%81%AE35%E6%AD%B3%E3%82%88%E3%82%8A%E5%B9%B4%E5%8F%8E%E3%81%8C200%E4%B8%87%E5%86%86%E3%82%82%E4%BD%8E%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B-NHK%E3%80%8C%E3%81%82%E3%81%99%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8D%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88/dp/4484092433


働きだしてから、子供たちが家事を手伝ってくれるようになったと、磯山さんはうれしそうに話す。
「今日も1階から全部、床磨きをしてくれて。洗濯も畳むし、お風呂も掃除するし。わたしが何もやらなくても、子供がやってくれるんで。私が横になると、座布団をもってきてくれたり、布団を引っ張り出してかけてくれたり、わかってくれてるのかと思って。
 大変な思いをさせてるなっていうのも、ちょっと感じるかな。本来、わたしがやるべきことを代わってやってくれたりするので、すごく感謝してます」
 そして、最後に一言、磯山さんは言った。
「たぶん、ずーっと働いていくんでしょうね。働かないと食べていけないですし、働くことはやっぱり生きることだし」

 子どもたちの前では、輝くような笑顔を見せていた磯山さんが、一瞬、遠い目をしたのが印象深かった。
 応援したい。取材だということを忘れて、そう思った瞬間だった。
 3人の子供たちが大きく成長する頃、きっと今の苦労が報われる時が来ると信じたいと、思わずにはいられなかった。
<pp.50-51>

でも、結婚もしていない僕から見れば、贅沢な悩みでもあります[m:44]

社会民主主義 オスロー宣言 コピペ

2010年11月29日 | 政治・経済・社会現象
http://homepage2.nifty.com/socialist-consort/SDforeign/SI/Oslo/OsloDeclJ.html
より
万が一消えると困るので、コピペして保全


今日の世界―社会主義の展望(試訳)



(C) Translated by Hidemi Watanabe

社会主義インタナショナル決議―1962年6月2-4日オスロで開かれた評議会で採択



社会主義インタナショナルは、1951年フランクフルト宣言「民主的社会主義の目的と任務」の諸原則を再確認する。



 1950年代において明らかになったことは、多くの新しい科学の発見が平和のために使われるなら、人類史上初めて地球から飢えと貧困をなくすことができるということである。同じ発見が軍事目的に使われるなら我々の文明に滅ぼすであろう。

この巨大で多様な変化を生みだした10年問は歴史上ほとんど例がない。植民地諸国民の独立の要求に応じて、社会主義政権がはじめた仕事は前進してきた。1960年までに、アジアとアフリカのほとんどの国々は独立をかちとり、自立した国々の仲間に加わった。こうして歴史上初めて、すべての大陸の国民が外国による支配から解放されて一堂に会した。社会主義インタナショナルは、新しい国々の10億の人々に挨拶を送り、かれらが全人類のため、正義、平等、そして平和を求める共通の追求に参加することを歓迎する。



しかし、植民地主義はいまだに生き残っている。それは、社会主義運動の存在が許されていない国々、民主主義そのものが抑圧されている国々においては、いちじるしく強固になっている。社会主義インタナショナルは、植民地主義が引き続き存在していることに対してどのような道徳的正当化をも見出さない。また、そのすべての形態を非難する。

多くの民主主義諸国では過去10年間に、経済拡大によって福祉社会へ向けためざましい進歩が可能になった。その結果、それらの諸国では市民の長年の不安はかなり引き下げられた。しかし同時に、富んだ国と貧しい国との間の生活水準の格差はいっそう広がった。数億の人々が今だに飢えと貧困に苦しんでいる。

 1950年代に自由と尊厳を求める人間精神がくりかえし確認されてきた。ラテン・アメリカの多くの国々では独裁政治が打ち倒された。共産主義世界のいくつかの国ではスターリン主義による鉄の支配が弱まった。スターリン自身が非難された。非スターリン化宣言が、いまわしい過去と決別し、新しい政策を始めようとする大衆の圧力によって作成された。しかし、共産主義世界における自由の野蛮な抑圧と、自己の勢力圏を拡大しようとする共産主義の執拗な行動は今も続いている。

過ぎ去ったこの10年問に世界は多くの危機に直面した。いくつかの地域では武力紛争が起きた。しかし、特徴的なことは、あらゆる国々で人々に根付いた戦争に反対する世論が戦争を避ける力となったことである。

 社会変革のためのもっとも躍動的、劇的な力は、民主的社会主義政党が効果的な影響を及ぼすことができる国々で生じた。歴史は、プロレタリアートの状態がますます悲惨になるという教義を証明しなかった。資本主義の最悪の欠陥は、社会主義政党、労働組合、そして共同組合の不断の活動を通じて是正されてきた。所有と生産管理の新しい方式が現れた。大量失業は回避され、社会保障は普及し、労働時間は短縮され、教育と就職の機会は拡がった。

 民主的社会主義政党が野党になっている国々においても、政府は世論にしたがって、完全雇用と社会保障といった問題について、本質的に社会主義的な解決策をしばしば採り入れることを余儀なくされた。同様に、アメリカ合衆国においても、労働組合とその他の進歩的な社会勢力の圧力は明白な影響を感じさせるようになった。

 このような改善にもかかわらず、深刻な問題が先進国社会を悩まし続けている。これらの問題は民主的社会主義の原則を適用することなしには解決できないと、我々は確信している。国家と公的機構による恒常的な経済制御が経済危機のおこる危険性を減らしている。だが、着実な経済拡大を妨げる不況は回避できないでいる。

 経済力の集中と独占の巨大化が制御されないなら、深刻な問題を引き起こす。企業の経営規模が大きくなるにしたがって、経営者の新しい階級が発生した。かれらは、企業活動をしている地域にたいして責任をとることなく、その大きな力を思いのままふるっている。社会主義が直面する仕事はこれらのグループに社会的責任を認識させることである。

 多くの国において、投資水準は以前より高くなっているが、適切に計画された経済が達成できる水準より未だはるかに低い。加えて,投資がしばしば浪費に向けられている。投資は経済基盤を計画的に強化するか、または緊急な社会的文化的ニーズを満たすのではなく、その場限りの資本家の利益のためにおこなわれることが多い。

 国民大衆の生活水準はかなり向上したが、いぜんとして富と所得の分配には大きな不平等が残っている。私有財産の大部分は、未だきわめて少数の手にある。脱税と資本価値の莫大な増殖によって、この害悪が永続化している。社会は、いぜんとして出生や相続という偶然に基づく地位と生活水準の違い、またこの結果として生ずる教育と訓練の機会における違いによって、社会的階級に分かれている。生気を奪う画一化への傾向を強いる、近代的な商業広告と文化の商業化によって、まったく即物的な目的にたいする誇大な強調がふえている。

 民主的社会主義は多くを達成してきた。しかし、より大きな仕事が前途によこたわっている。今日の社会の弊害をなおすための唯一の方法はない。富の公正な配分を達成するためには、独占を規制し、税制を根本的に改革し、消費者を保護することを目的とした、公的な所有と管理、その他の規制を拡大する必要がある。


 民主的決定にもとづいた権威ある国家の行動は、急速な経済拡大、十分に高い投資水準、そして現代科学技術のすばやい応用のためには欠くことができない。これには中央政府の責任において策定される経済的社会的計画が含まれる。


 民主主義においては、労働者が産業と経済全般についての意思決定と諸条件に効果的に影響を及ぼすことができる枠組みを創られなければならない。

民主主義諸国は、自国の経済資源を活用する技術を向上させ、普及させなければならない。そのことによって、国民の長期的利益に役立つとともに、世界経済の発展により実質的に貢献することができる。これら諸国は、さらに、高関税障壁や外国為替や通貨危機によって妨げられない国際貿易の着実な発展を助けるために、お互いに充分緊密な協力関係をつくらなければならない。経済計画は国境をこえて成長している。地域経済機構の設立を見てもこの事実は確認できる。

人格の自由な発展は、現存する社会的経済的構造の改革によつてのみ確実にすることができる。いぜんとして貧困の中に生活している人々のためには、公正な賃金と実効ある社会保障、家族給付と個人に対する保護と援助の制度によつて諸条件が改善されなければならない。真に民主的で、すべての人に本当に平等な機会を保障することつながる普通教育制度の提供が基本的に要求されている。生涯教育は民主主義にとつて重要で欠くことができない。それは、政府と、政党、労働組合、協同組合、教育団体のようなボランティア組織によつて推進されるべきである。
               、

 民主主義は、その機能についての市民の強い関心と実際の参加を基盤としてのみ、その存続に展望をもつことができる。民主主義は、地方分権、産業民主主義を通して、その機能を拡充し深めることができる。非民主的な統制と抑圧から解放された新聞、ラジオ、テレビは、政治的な問題についての自由で責任ある討論の機会を十分提供するべきである。

変貌した60年代の社会をひき継いだ世代を待っている挑戦は、すでに始まった仕事を完成させる道筋と方法を見いだすことである。この世代は、挑戦にこたえるために創造性とエネルギーを世界全体に向けなければならない。



数億の人口をもつ新興国は貧困の克服という重荷をになっている。これらの国々はこの困難な仕事に奮い立っている。なぜなら、独立が、活力となる豊かな潜在資源をときはなったからである。先進国が集めてきた科学と技術の蓄積のすべては、これら新しい国々の利用に提供されるべきである。

 これらの新しい国々は、資本主義の弊害と共産主義のそれをともに避ける好機に恵まれている。農民を追いたてて都市のスラムへと追いやることを含めて、労働者を無慈悲に搾取する資本主義の方法は非難されるだけでなく、不必要である。テロルを用いて余剰生産物を収奪し、人々の必要、とくに農業開発を犠牲にして工業化を強行している共産主義の方法も同様に廃物となっている。

 未来はもはや共産主義のものでも資本主義のものでもない。共産主義と資本主義は過去の時代に照応している。その時代人間は、素材として扱かわれ、すべての努力の源泉と目的として扱かわれなかった。社会主義インタナショナルは、将来の経済を計画するために努力しているこれら多くの新しい国々が民主主義と社会主義の理念によって鼓舞されている現実を心から歓迎する。

 新しい国々は、農業と工業を結合し、農民による改善された耕作と協同組織を通じて農業を回復するように、経済を計画する機会をつかんでいる。より適切な産業配置と生産設備の集中排除によって新しく巨大都市が拡大するのを抑えることができる。工業化を蒸気ではなく電力によって開始する新しい国々は、より自由に開発を計画すことができる。
 

 新興国は、先進諸国と友好的に協力して、都市と農村の住民のあいだの衝突のような多くの紛争を避けることができる。新しい国々は、停滞を招く経済的諸条件と固化した社会構造に苦しんでいる。均衝のとれた発展は、私企業が少数者を富ませるため利益を持っていくことを許さず、個人と経済のイニシアティブをとき放すよう調整することにかかっている。公正な経済活動と公正な分配が今や政策の基本にならなければならない。

 これらの可能性は次の条件のもとでのみ十分に実現できる。その条件とは、新しい国々が、開発を計画するにあたって、児童にだけでなく成人にも教育を普及し、国民のあいだに技術と一般教養を広め、家族への援助に適切な注意をはらうことである。

 この変化の時代にあって新興国の未来は、社会主義者と他の民主的進歩勢力の努力、そして先進国からの援助にかかっている。訓練、専門技術者の派遣、そして投資資本の蓄積が最も必要とされている。工業国は、無償援助計画に国民所得の少なくとも1パーセントを提供するべきである。新しい国々の前進を速める努力において、すべての国の社会主義勢力を1つにすることが、社会主義インタナショナルの一貫した政策でなければならない。

社会主義インタナショナルは、各国民の民族自決権を確認する。民族主義はしばしば解放と高揚の力となってきたが、それが行過ぎると人間の自由と進歩を脅かす。新興国が人々の福祉を国家的要求のまえに犠牲にするといった、行き過ぎた民族主義の危険を避けるためには、一方でより豊かな国において社会主義者は国民の視点を国家的要請よりも高いものに引きあげ、他方、新しい国において社会主義者は成果の基準を福祉におき、国威におかないようにして経済を発展させることである。

 新しい国の人々は、権威主義による誤った展望に魅せられる危険がある。ヨーロッパ、アジア、ラテンアメリカでの最近の経験は民主主義の否定がいかに不毛であるかを示している。

 ラテンアメリカ諸国は、ずっと前より植民地支配から解放されているが、新興国と共通したいくつかの問題をかかえている。ここでは数千万人の飢え、文盲、そして病気という恒常的な問題を民主的社会主義に突きつけている。

開発途上国は、国民生活と労働のリズムを根底から再編成することをはじめとして、とてつもなく巨大な改革の課題に直面している。数億人の思想と行動様式を広範に変えるには、先進国もまた思想と行動様式にいくつかの基本的な調整をしなければできないと、社会主義インタナショナルはと考える。社会主義インタナショナルは、社会の変革と調整という未踏の仕事にたいして主要な努力を傾けるであろう。


 ソ連では実質経済拡大が生活水準の改善に結びついた。しかし、何よりも軍事力の増大に結びついた。中国の工業化は進んでいる。6億の人口を抱えるあなどりがたい国家権力が全体主義支配と厳格な規律に従っている事実を無視できない。それはアジア諸国にたいする脅威となっている。共産圏で実現されている速度での工業化と現代化は、基本的自由の発展を妨げるか、すでに存在する自由を破壊するという代価を払うことによってのみ続けられている。

 ロシアの場合、とくに1950年代初期に東欧にたいする無慈悲な搾取が伴っていた。東独、ポーランド、そしてハンガリーで圧倒的な力を持つ相手に不屈の勇気を示した人々の蜂起は、これらの政策がある程度誘引となって起きた。反乱は鎮圧されたが、ソ連の指導者たちに譲歩を余儀なくさせた。しかし、ソ連は東欧諸国に対する政治的統制を何とかして保持しようとしている。これらの国において社会主義政党の活動はひきつづき禁止されている。しかしそれら社会主義諸政党の理想と伝統は、無数の支持者の心と胸に生き続けている。

 共産主義世界はもはや1つの中心勢力によって指導されてはいない。ロシアと中国の指導者は、基本的な政治問題について意見を異にしている。彼等の利害対立がイデオロギー上の激突を引き起こしている。これは、共産圏の構造におけるこれまでにない最も重要な公然たる亀裂である。

 ソ連の指導者たちは、中国の共産主義者からの反対にもかかわらず、資本主義と共産主義間における戦争の必然性についての理論を放棄した。その結果、かれらは今や、外交政策を平和共存の原則の上におくことを主張している。しかし、これは実際には、戦術転換にすぎず、非共産主義世界にたいする闘争は別の形態で続けられている。共産主義者は、闘争が縮小しておらず、力点が純粋な政治面から経済、社会、そしてイデオロギーの分野に移っただけであると認識している。

 共産主義は、単に社会的、政治的、そして経済的制度であるだけではなく、自分たちの主張が絶対的に正しいと主張し、かつ全世界に拡めようと懸命になっている教義体系である。

 共産圏において、共産主義勢力の異なる中心間での対立、そして共産主義について意見のいくつかの流れは次のことを明らかにしている。すなわち、個人、国、そして社会発展に対する全体主義統制を正当化する共産主義の強弁は、人間の本質、国の役割、そして社会進歩とは相容れない。

 共産主義者にとって目的は手段を正当化する。そして彼らが言うことと行うことは常に矛盾している。

共産主義国は平和を愛好すると主張しているが、その軍事力を行使する仕方が世界の緊張を激化させてきた。かれらは中立国の立場を有利に利用できる時にはその国を激励するが、それができないときは非難する。

共産主義の国々は最も激しい反植民地主義の言葉を使っているにもかかわらず、幾千万の人々を奴隷にしている。

共産主義国での一党独裁は、社会主義という語を誤用しながら実際は民主的社会の本質である、言論、宗教、批判、自らの意思に基づく結社、そして外の世界との接触といったこれらの自由を否定する専制になっている。



 世界政府こそが社会主義インタナショナル加入政党の究極の目的である。国連については、平和を維持する機関としてより一層効力をもつようにするべきである.各国は、武力に訴えることなく紛争を平和的に解決するべきである。国連憲章とそれに基づいた決定はすべての国によって尊重されなければならない。国連の憲章と構成は、新しい国々が世界の舞台で果たしている、ますます重要になっている役割を反映しなければならない。国連の構成は、中国を含めてすべての国が政権にある政府によって代表されるよう、普遍的でなければならない。

 我々は、世界が永遠にブロックに分極されるよう運命づけられているとは考えない。我々の不断の努力は冷戦を終わらせることに向けられる。東西の対立は主として、それを望んでいない世界に共産主義の指導者によって押し付けられたてきた。アジアではインド北部と他の地域では中国の行動によって緊張が激化されている。しかし、これはまたアメリカの政策におけるいくつかの動向にも起因している。この対立は危険である。それは、エネルギーを建設的な事業から削ぐ。民主的社会主義者にとって共存だけでは十分でない。現在必要性なのは国際協力である。

社会主義インタナショナルは、すべての国を対象とし、かつ真に効果的な管理のもとにおかれる、核兵器と通常兵器双方の完全軍縮に賛成する。社会主義インタナショナルは、国家間の意見の大きな隔たりを現実的に解決するため忍耐強く努力し、けっしてあきらめない。

民主的社会主義者は恒久平和以外を追求しているのではない。しかし、自分たちの自由は固く守る。したがって、民主主義陣営が一方的に軍縮をするべきであるという考えを拒否する。攻撃を受けた時の防衛力は、侵略を防ぐものとして維持されなければならない。

 国連はたびたび国家問の紛争解決に役立ってきた。しかし、国連は現在の制度では、侵略の犠牲となった国を保護し、各国の安全を保障する機能をすることができない。このような状況のもとでは、各国は自国の安全を守る責任を引き受けなければならない。いくつかの国は、非同盟外交が安全と、自国が属する地域の政治的安定のための最善の方法になると考えている。インタナショナルは、世界の勢力関係に関与することなく、自国の運命を切り開く自由をもちたいという国々の願望を尊重する。西欧民主主義諸国の大部分は、北大西洋条約同盟(NATO)の結成に加わった。同盟諸国内の民主的社会主義政党は、同盟を強力な平和のとりでと考え、同盟を支持する固い決意を宣言する。

非同盟国が共産主義の支配下に陥らないようにすることが肝要であるが、その国の意志に反して西側同盟に引きいれようとするべきではない。さらに、自由の回復と、社会的経済的改革のために、共産主義による抑圧に対してはつねに反対しつづけるべきである。

  

我々は1951年にフランクフルトで次のように宣言した。

 「社会主義者は、平和で自由がある世界のために、人による人の、民族による民族の搾取と隷従がない世界のために、そして各人の人格の発展が人類の実りある発展の基盤となる世界のために行動する。」

 この言葉は我々の信念を集約している。

 我々は今、歴史の大きな分岐点に立っている。自然をよく知り、正義と平等の感性を成熟させてきた人類は、行動と思考の古い鋳型から脱皮するために懸命になっている。

 民主的社会主義者は次の我々の信念を宣言する。
 政治がめざす究極の目的は各人の人格の完全な発展であり、自由と民主的自治は譲ることのできない崇高な権利である。

 個人は等しく身分、配慮と機会への権利をもち、人種、皮層の色、国籍、信条または性による差別は容認されてはならない。

 社会は、少数を富ませるのではなく、確実に共同の便益のために物質資源が使われるようにしなければならない。
 何にもまして、自由と平等と繁栄は、国民がいずれかを選ばなければならないのではなく、ともに達成し、享受できる理念である。

 我々は、征服によってではなく、理解によって平和を築くことを決意する。

 我々は、共産主義の非情な専制と、資本主義の浪費と不正を同様に拒否する。

 我々にとって、自由と平等は等しく尊重され、人の幸福にとって本質的なものである。これらは友愛の理念を支える双柱である。


 その理念への我々の信念をふたたび宣言するとき、我々は全世界の人々のために呼びかけていることを知っている。

 社会主義インタナショナルは、世界の人びと、とくに青年にたいして、先を歩む世代が努力の末すべてのためについに切り開いた好機を掴み、そして、よりよい世界のために闘いを引き継ぐよう呼びかける。

トヨタ労組が結婚活動イベント

2010年11月21日 | 格差社会を考える
トヨタ労組が、婚活イベントやるそうです

http://www.nikkei.com/life/news/article/g=96958A9C93819695E3E4E2E0998DE0E2E3E3E0E2E3E2E2E2E2E2E2E2;da=96958A88889DE2E0E3EAEAE7E6E2E0E3E3E0E0E2E2EBE2E2E2E2E2E2



 トヨタ自動車労働組合は社員の「婚活」支援に乗り出す。30歳以上の男女の独身組合員を対象に「婚活」をはっきりうたったイベントを定期的に開催、出会いの場として利用してもらう。社員の晩婚化が進むなか、トヨタ労組は「社員の暮らしを豊かにするため婚活を支援する」と狙いを話している。

 第1弾のイベントは12月11日に名古屋市内で開く。男女それぞれ20人の参加を募る。まず男女に分かれて身だしなみや化粧法、マナーなどを学ぶ勉強会を開催、その後の食事会で対面する。11月に入って募集を始めたところ、すでに定員に近い応募者があるという。

 トヨタ労組は従来もワイン、香水などテーマを決めた催しを開いて社員の交流を図ってきたが、「婚活」支援を明確にしたイベントを改めて企画し、独身男女の交流を促したい考え。今回の実績を踏まえ、年に2回ほど趣向を変えながらイベントを定期開催する。



結婚しない、できない人って、かなり多いし、実際には東京などの都市部の方が多いはず。

先にすこし毒を吐くと
左派は何かと、未婚率の上昇を経済格差などと結び付けようとするけど、
左派からみると、トヨタの社員はきっと貧困層なのですな(笑)

# まぁ、トヨタ社員なんて、専属料理人が4人で家族にまで運転手付の日本共産党幹部と比べれば貧困ですな


それで、元に戻すと、金があろうが、なかろうが、美人だろうが不細工だろうが、結婚についてはつでに例外があるわけで、そもそも、結婚、未婚について、統計的な意味で、支配的な説明変数単独で説明できるものでもなく、個人の様々な資質の結果なんですよね。

進学、就職、転職、結婚、子供の受験 などなど、人生には様々な選択肢が無限に転がっているわけで、その違いは個性であり、資質であり、人生の多様性である。

ということで、結婚まで格差問題にするのはやめて、自分にあう伴侶を見つける双方の努力だとする捉え方が、まともなんじゃないかと思うんですよね。

とはいえ、そろそろ、僕も真剣に考えないとなぁと思った週末であった。