風色明媚

     ふうしょくめいび : 「二木一郎 日本画 ウェブサイトギャラリー」付属ブログ

夢想 私の名前

2009年04月04日 | 夢想の古代史
所詮、人の名前というものは代々受け継がれる苗字の下に適当な名を加えたもの。
名付け親は名のみに知恵を絞り、変えられない苗字を含めた全体の意味など普通は考慮していない。
だから私の「二木一郎」という名前も、全体としての意味などないのである。

意味はないのだが、あえて解釈を加えてみたらどうなるか。
苗字の「二木」は、もっとも素直に考えれば二本の木ということだろう。
祖先の住んでいた場所に特徴的な二本の木でも生えていたのだろうか。
「二木」という苗字は明治維新以前からあった武家の苗字のようである。
だからと言って私の家系がその一族の末裔かどうかは判らない。
農民であった祖先が苗字を許された際に勝手に拝借しただけかもしれないのだ。

「一郎」という名は、「郎」が男を意味するから、最初に生まれた男の子に付けられることが多かった。
その意味では「太郎」も同じで、古典的な長男の名である。
あるいは一番の男になれという願いを込めて作られた名前かもしれない。
だがもっと単純に「一人の男」と解釈できるのだ。

「二本の木」と「一人の男」
これは「二本の木の生えている場所に居る一人の男」と解釈できそうである。
この解釈は一見すると特に意味があるとは思えない。
しかし、「二本の木の生えている場所に居る一人の男」という状況には思い当たることがある。
「二本の木の生えている場所に居る一人の男」のことが書かれている古い書物が伝わっているからだ。

その男が生まれたのはすべてが満ち足りた楽園で、中央には大きな木が二本生えていた。
一本を「生命の木」と言い、もう一本を「善悪の知恵の木」と言った。
男は妻と二人で暮らしていた。
神は二人に「この園に生えている木の実は自由に採って食べてもよいが、善悪の知恵の木の実は食べてはならぬ。」と厳命していた。
にもかかわらず、悪魔の化身である蛇にそそのかされた二人は善悪の知恵の木の実に手を出してしまった。
その背信行為によって神の逆鱗に触れた二人は何不自由ない楽園を追われることになった。
そして彼らと彼らの子孫は、限られた命と、日々の糧を自ら調達しなければならない宿命を背負ってしまった。
言わずと知れた旧約聖書の創世記、アダムとイヴの話である。
「二本の木の生えている場所に居る一人の男」とはエデンの園に居るアダムのことと解釈できなくもない。


もちろんこれは、そういう解釈ができないこともない…という程度の話にしか過ぎない。
私の両親はそんな意味を込めて命名したわけではない。
両親共にクリスチャンでもないし、ユダヤ教徒でもイスラム教徒でもない。
それは私も同じである。
私の名前に隠された暗号というようなドラマチックなものも何もないだ。
所詮私の名前は偶然につけられたものであり、秘められた特別な意味などないのである。

さて、意味がないことを重々承知の上で、なおかつ聖書などを持ち出して私の名前を解釈してみたのは、もちろん理由があってのことである。
私の名前がそうであるように、日本人の名前はほとんどが漢字で構成される。
平仮名や片仮名が使われることもあるが、大半は漢字である。
平仮名や片仮名は日本で作られたものであるが、漢字はほとんどが中国で作られたものである。
中国で作られたものであるが、中国人は全員が漢民族ではない。
古代よりシルクロードを通って、様々な人種や文化が流入している。
当然、漢字成立にも異民族の持つ異文化の影響がなかったとは思えない。
中国からシルクロードを遡って行くと、辿り着く先にはどういう国や文化圏があったか…。

漢字は表意文字だけに一つ一つの文字には実に多種多様な意味が込められている場合がある。
その表意文字を組み合わせると、更に深長な意味合いが含まれることも多々ある。
漢字の成り立ちを調べていくと、いくつも興味深い解釈に出会う。
中には、どう考えてもシルクロードを経てやってきた人々が成立に関わったと思えるような文字もあるのだ。
もちろんそれらはあくまでも推測であり仮説なのだが、他に合理的な解釈があるのなら教えて欲しいと思うようなものも確かに存在するのである。

(以下、「諏訪大社への序章」に続く)

-------------- Ichiro Futatsugi.■



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