ふかよんライフスタイルファンド日記Ⅱ

生活・仕事・遊びのポートフォリオを重視し、ライフスタイルの「運用」を考えていきます。

私の個人主義 (夏目漱石)

2011-08-26 04:53:30 | Weblog
私はこうした不安を抱(いだ)いて大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越(ひっこ)し、また同様の不安を胸の底に畳(たた)んでついに外国まで渡(わた)ったのであります。しかしいったん外国へ留学する以上は多少の責任を新たに自覚させられるにはきまっています。それで私はできるだけ骨を折って何かしようと努力しました。しかしどんな本を読んでも依然(いぜん)として自分は嚢の中から出る訳に参りません。この嚢を突き破る錐は倫敦(ロンドン)中探して歩いても見つかりそうになかったのです。私は下宿の一間の中で考えました。つまらないと思いました。いくら書物を読んでも腹の足(たし)にはならないのだと諦(あきら)めました。同時に何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。

 この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念(がいねん)を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟(さと)ったのです。今までは全く他人本位で、根のない萍(うきぐさ)のように、そこいらをでたらめに漂(ただ)よっていたから、駄目(だめ)であったという事にようやく気がついたのです。私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似(ひとまね)を指すのです。一口にこう云ってしまえば、馬鹿らしく聞こえるから、誰もそんな人真似をする訳がないと不審(ふしん)がられるかも知れませんが、事実はけっしてそうではないのです。近頃流行(はや)るベルグソンでもオイケンでもみんな向(むこ)うの人がとやかくいうので日本人もその尻馬(しりうま)に乗って騒(さわ)ぐのです。ましてその頃は西洋人のいう事だと云えば何でもかでも盲従(もうじゅう)して威張(いば)ったものです。だからむやみに片仮名を並べて人に吹聴(ふいちょう)して得意がった男が比々皆(みな)是(これ)なりと云いたいくらいごろごろしていました。他(ひと)の悪口ではありません。こういう私が現にそれだったのです。たとえばある西洋人が甲(こう)という同じ西洋人の作物を評したのを読んだとすると、その評の当否はまるで考えずに、自分の腑(ふ)に落ちようが落ちまいが、むやみにその評を触(ふ)れ散らかすのです。つまり鵜呑(うのみ)と云ってもよし、また機械的の知識と云ってもよし、とうていわが所有とも血とも肉とも云われない、よそよそしいものを我物顔(わがものがお)にしゃべって歩くのです。しかるに時代が時代だから、またみんながそれを賞(ほ)めるのです。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.html

------------------------

夏目漱石の講演記録「私の個人主義」を読みました。

他人本位や人真似を、私自身もかなりしていると思いました。

会社でこういう仕事をして欲しいとか、お客様の依頼を受けてとか、自分というものが無くなったまま、仕事を請けてきたり、流行のテーマの事業企画に携わり世の中のブームに流されたりとか、私自身も根のない浮き草のようだと思います。

要するに、自分がこれをしたいというものが希薄で、儲かりそうな市場の動向に合わせていただけなのです。

市場の動きに合わせて事業化することはできても、テーマはその時々で儲かりそうなものを選択しているので、数年のタイムスパンで見ると、テーマに関して、私には専門性が無いのです。

漱石が言う通り、そこいらをでたらめに漂よっていたから、駄目であったという事です。

事業を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと思いました。

気づきを与えてくれた漱石に感謝。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする