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78回転のレコード盤◎ ~社会人13年目のラストチャンス~

昨日の私よりも今日の私がちょっとだけ優しい人間であればいいな

◎タオル(第1話)

2013-03-22 08:41:46 | ある少女の物語
「腕を前から上に挙げて大きく背伸びの運動から、ハイ」
 数年前の夏休みの気だるい朝が蘇る懐かしい台詞。それが聞こえた時、一瞬戸惑いながらも僕はピアノの伴奏に合わせて両手を動かし始めた。何のことはない。今僕等に課せられた試練は『ラジオ体操第1』を踊りきること、それだけだ。ただ、小学生の頃と異なる点は、1万2000人以上もの老若男女と試練を共有していることと、場所が横浜アリーナであることだった。



「片山奈々美です。よろしくお願いします」
「……それだけ? もっと何か言うこと無いの? 例えば好きなものとか」
「好きなものは……“ゆず”です」
 僕は3学期の訪れと共に転校してきた少女に想いを寄せた。無口で大人しく心を閉ざす彼女にまつわる唯一の情報は『ゆずのファンであること』だった。
 その2文字の平仮名は母親から聞いたことはあった。僕が産声を上げる数年前、伊勢佐木町の商店街に新星の如く現れた男性2人組によるフォークデュオで、今年でメジャーデビュー15周年を迎えるベテランだというが、ジャニーズの5人組や総勢200人を超える国民的アイドルグループの話題で持ち切りの僕のクラスではこれまで彼等の存在自体語られることは無かった。決して流行に流されない少女のセンスの高さを感じた。15周年を記念するライブが2月に自転車で行ける範囲の会場で開かれる。仲良くなるにはこれしかない。僕は有り金を叩いてネットオークションで連番のチケットを落札した。
「あ、あの……立見席だけど、ゆずのライブのチケットが2枚手に入ったから、一緒に行かない?」
 おそらく僕は生まれて初めて“勇気”を出したのだろう。話したことすらない女の子をいきなりデートに誘うのだった。



 公演前に観客のみならずスタッフ、警備員も含めた全員で『ラジオ体操第1』を踊ることがゆずのライブの恒例行事となっていた。
「最後に深呼吸~。大きく息を吸い込んで吐きます。ごぉー、ろく、しち、はち」
 それが終わると会場が暗くなり、トップを飾る曲『1』のイントロが流れ、会場が1万2700人の拍手に包まれる。その光景を見渡した僕は早くも過ちを犯していることに気付いた。アリーナもスタンドも隅の隅までピンク、緑、黄色の光で点々となっている。サイリウムである。不覚にも僕は用意するのを忘れていた。3色いずれかのサイリウムを観客の九分九厘が持っており、すぐ左にいる少女の右手にもピンク色に光るそれがあった。学校で一度も見せたことの無い少女の満面の笑顔がそこにはあった。今、彼女は心の底から本当に楽しんでいると確信した。



「坂本君もゆずが好きなのですか?」
 少女が初めて僕の名前を呼んでくれた。
「う、うん。親の影響で聴き始めたらハマっちゃって」
 ここからは完全に出任せだった。ゆずファンになりきらないと、少女とライブに行くことは不可能。
「とっても嬉しいです。是非行かせて下さい」
 少女がOKしたのは大好きなゆずのライブに行きたいから。僕で無い人が誘っても同じ結果だっただろう。それでも良い。これをきっかけに距離を縮めることが僕の最初の目標である。
 その日から猛勉強の日々が始まった。TSUTAYAでアルバムを5枚借り、その70曲以上の中から1月に行われたばかりの大阪公演のセットリストに含まれる16曲のみをウォークマンに落とした。限られた期間内に横浜公演で歌うと思われる曲を1つでも多く覚えるにはこれが一番効率の良い方法だろう。試験範囲を元に要点を絞って覚える、学校の勉強のようなものだ。幸いにも僕はクラスで両手指に入るレベルの学力はあった。登下校、休み時間、家での勉強中から入浴中まで16曲を繰り返し聴き、その全てをイントロだけでタイトルを当てられるまでに時間はかからなかった。

「一番好きな曲は何ですか?」
 そして訪れた運命の日、2月8日。会場の外で並び待機している最中、少女は聞いてきた。
「初期は『夏色』、最近のだと『虹』かな。“誰のせいでもないさ 人は皆 鏡だから”の部分に北川さんの優しさが滲み出ていると思うの」
 予想される質問にはあらかじめテンプレートを用意し、単語カードに書き込んで覚えていた。
「『虹』私も好きですよ。あとは『つぶやき』とか、初期だと『月曜日の週末』とか。岩沢さんの作る曲のほうが好きですね」
 アルバム曲を挙げるあたり、少女のセンスの高さを感じた。だがその2曲はどちらも大阪公演のセットリストには無かった。おそらく今日も歌わないだろう。
 立見席は2階スタンドの最上段に立って観覧するというものだった。
「ごめん、こんな席ですらない所しか取れなくて」
「全然大丈夫ですよ。ライブ中はどうせずっと立っていますから」
 そう言いながら少女はコートを脱いだ。初めて見る少女の私服は、ラインが濃いめのランダムボーダーニットに緑のフレアミニスカート、黒のニーハイソックスにショートブーツだった。細めと太めが混在するボーダーで視線を拡散させる等、着膨れしがちな真冬に細見えする工夫が施されており、制服とはまた違う魅力の少女を拝むことが出来た。と思ったその時だった。着やせ効果のあったニットを脱ぎ、トップスはゆずのTシャツ1枚だけになってしまったのだ。しかも可愛らしいブーツは大きめの鞄に仕込んでおいたスニーカーに履き替え、ニーソとのバランスが悪くなってしまう始末。これからランニングでもするのかと思うほどダサくなってしまった。

(つづく)

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