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闇の日本史:異界の街《長崎》 4

2018-08-26 22:08:03 | 闇の日本史

天草四郎は、倒幕のためにイエズス会によって偶像化された革命の扇動者

ここから端折って一気に結論に到達したいと思います。

長崎の数日の前に、天草諸島に残っている天草四郎の足跡、雲仙普賢岳をはじめとする島原半島の一揆などなど精力的に現地を訪れ、五島列島の島々にあるカトリックの教会のいくつかを実際に訪ねてみました。

そして、その後で、山口県の萩市に飛び、松下村塾とは何だったのか、について得心することができました。

結論は、「長崎で行われたことは、倒幕という独裁主義の打倒であり、開国というグローバリズムの大波の攻防戦であった」ということです。

さらに天草で知り得たことが意を強くしました。

天草諸島の最奥にある本渡市の天草市立天草キリシタン館には、イエズス会と天草四郎との関わりを示す資料があります。

天草四郎(一般には「天草四郎時貞」)は実在した人物で、本名は益田四郎(ますだ しろう)。諱は時貞(ときさだ)。洗礼名は当初は「ジェロニモ(Geronimo)というクリスチャン(キリシタン)でした。

しかし、「水の上を渡った」とか、「手を額に当てただけで子供の病気が治った」などという数々の奇跡を人々の前であらわし、神の子として偶像に祭り上げられた16歳の天草四郎に、年貢の過酷な取り立てに苦しむ島原の農民を組織し、戦い方を教え、原始的とはいえ武器を提供し、島原の乱に導く力などあったのでしょうか?

もちろん、それらの奇跡は、あくまでも「噂」、伝聞です。

天草、島原では、エリマキトカゲのような襞襟(ひだえり)を付けた天草四郎の像や絵画(想像図)を見つけることはたやすいことです。観光資源として偶像化された神秘的な少年の非業の死に、人々は浪漫を抱き涙するのです。

実際に、私は天草四郎の像の前で涙を流している女性を見ました。「おいおい、違うだろ」と言いたかったのですが、おせっかいは止めました。
彼女にとっては、真実より、涙を流す自分が愛おしいのでしょうから。

天草四郎は、非常に怜悧な少年で崇高な宗教心を持っていたことは確かなようです。
しかし、天草四郎の名をかたる少年は13人以上いたのです。

彼らは、あのエリマキトカゲのファッションに身を包み、九州だけでなく全国行脚をこなしながらキリスト教の教えを説いたということになっています。

実際に、天草四郎を討ち取った武将がもってきた首は13体以上あったのです。「いったい、どれが本物の天草四郎なんだ」と幕府軍は首をかしげたのです。
島原の乱を先導した天草四郎は本物ですが、それ以外にも、いったい何人の影武者がいたのか定かではないのです。

天草四郎が、日本で最初のキリシタン大名、 大村純忠や、高山右近などの反幕府の地方の大名によって、経済的支援を受け、口コミと言う宣伝方法によって、天草四郎を偶像化したことは間違いありません。

天草市立天草キリシタン館で長い雨宿りをしている間、細かく展示物を見て回りましたが、天草四郎の思想について説明されているパネルを読んだとき思わず衝撃が走ったのです。

「フリーメーソンの自由・平等・博愛」とまったく同じだ!

この発見については、ネット上でも本でも、どこにも書かれていないようです。
残念なことに、館内では撮影禁止なので、パネルの文言を細かくここにコピーすることができません。

間違いなく、天草四郎は、イエズス会の操り人形として使われた偶像であり犠牲者であったわけです。

天草四郎が起こしたと喧伝される数々の奇跡を信じ込んでしまった純朴な島原・天草の農民たちは、こぞってキリシタンとなって、イエスの救済を求めたのです。

彼は、自分が神の子として、フリーメーソンの「自由・平等・博愛」のために島原の農民たちを煽って倒幕一揆を起こさせるために利用されたことを知ったら、自分で命を絶ったかも知れません。

島原の乱では、政府軍が組織した12万人以上もの討伐軍によって、ほとんどの農民が死傷しました。討伐軍は、子どもでさえ容赦しなかったと伝えられています。

一般には、島原の乱では、死者28000名、負傷者7700名もの死傷者を出したと言われています。天草市立天草キリシタン館の資料でも、そのように記されています。

島原半島にある原城は、島原の反乱農民にとっての最後の砦でした。現況では、外堀の石垣しか残っていませんが、その惨劇を知っている地元の人々は、夕方以降は決して立ち入ることはないのです。

今でも、島原の一揆で討ち取られた農民の魂が彷徨っていると信じられており、実際に、説明のつかない数々の心霊現象が後を絶たないからです。

“聖母マリア”に捧げられた「日本」・・・その聖母の正体

島原の乱が勃発したのが、寛永14年10月25日(1637年12月11日)。
偶像化された天草四郎が生まれたが、元和7年(1621年)。

島原の農民たちが、次々とキリシタンになっていったのは天草四郎がキリスト教を説き始めた数年ですから、いかにキリスト教の浸透力が凄まじかったかが分かるのです。

イエズス会の創設メンバーの1人、フランシスコ・ザビエルが日本に初めてやってきたのが、1549年(天文18年)8月15日。
現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した後、この日がカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは「日本を聖母マリアに捧げた」のです。

勝手に、「日本をマリアに捧げられては困る」のですが、さらに悪いことは、ザビエルのマリアとは、ニムロドの母「セミラミス」のことなのです。

セミラミスの子、ニムロド(Nimrod)につながる古代から伝えられている別の名前としては、マルドゥクの他に、ニヌルタ(Ninurta)、ギルガメッシュ、オシリス、ディオニュソス、アポロ、ナルメル、そしてエンメルカル(Enmerkar)などの名前があります。  これらの名前は、すべてニムロドの別名なのです。

つまり、シリアのバアル神殿の「神」(=反キリスト)と同一人物です。

イエズス会のザビエルは、日本に2年ほど滞在して、長崎の平戸や山口県で布教に力を入れました。

松下村塾とは、この流れを汲んでいることは確かです。

島原の乱の後、九州のキリシタンは弾圧を逃れるため、五島列島などの島々に移住していきました。

そこでは、隠れキリシタンとして、半ば信仰を認められたのです。
幕府も「離島でキリスト教を密やかに信仰する分には見逃してやろう。その代わり、決して本土には戻って来るなよ」ということです。

明治維新とともに、徳川幕府が発布したキリスト教禁止令が解かれ、五島列島の島々には一気に教会が立つ並ぶことになりました。
それは、数えきれない数です。

五島列島では、島によっては、島民のほぼ全員がクリスチャンです。この人たちは、本土から切り離されたことによって、真正クリスチャンのままです。

 

201708-23.jpg
(上五島の突端にある頭ヶ島天主堂)

 

 

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