回遊草(KAI YU SO)

さすらいの乙男妄想オヤジの妄想ブログ。あらゆるジャンルのカワイイを中心に浮気中?でも、惚れてるのはやっぱり「ミク」かな?

「小島よしお」は生き残るか

2007-12-16 17:25:22 | my favorite(お気に入り)
「小島よしお」を初めて見たのは、「ナイナイ(ナインティナイン)」の番組の中の「おもしろ荘」という、ブレイク前の「若手芸人」を紹介するコーナーであった。

なんでも、「賛否両論」で支持しているのは「小学生」なのだと矢部クンが言っていた。

正直、「いえぇ~い!」とか言いながら、海パン1丁で迫ってくるギャグには、“引くよなぁ~!”と思っていたが、あれよあれよという間にブレイクして「そんなの関係ねぇ~!」は「新語・流行語」トップ10にも選ばれた。

その「新語・流行語」に選ばれると「消える!」という「ジンクス」があるらしい。

「ゲッツ!」の「ダンディ坂野」、「・・・って言うじゃない?・・・残念!○○斬り!」の「波田陽区」、「なんでだろ~」の「テツandトモ」、「フォー!」の「レイザーラモンHG」などである。

なんでも、その最初は「だっちゅーの!」の「パイレーツ」らしい。

グラビア・アイドルだったと思っていたが、調べてみたら「お笑い」も兼ねていたらしい。

さて、その「ジンクス」だが、「ネタ(ギャグ)」よいうより、その「人」によるのだろう。

「パイレーツ」なんて、「お笑い」をやってるところを見たことなかったし、当時チラッと見た感じでは、とても「バラエティ」に使えるような力はなかったと思う。

それと比べて、「星野あき」ちゃんなどは30になっても20と言っても通用するくらい「若々しい」し、明るく頭の回転も速そうだ・・・。



では、「小島よしお」はどうだろうか?

あの衣装?は、インパクトありすぎだが、本人はけっこう融通が効きそうな気がする。
そういえば、この前見た「波田陽区」は「侍」でもなく、「ギター」も持ってなかったが、まだいちおう生きていた・・・w


「織田裕二」の『椿三十郎』

2007-12-16 15:15:02 | my favorite(お気に入り)
今日も「宣伝番組」があった。「三船敏郎」主演の「黒澤」作品は、一度だけビデオで観たことはある・・・。

別に、敢えて「世界」の黒澤作品のリメイクをするなというわけではないが、主演は「織田裕二」でよいのか? というか、違うだろう!と思う。

彼は、あまりにもマスクが「甘すぎる」。「素浪人」に見えないし、全然「迫力」を感じない。どう見ても「若造」にしか、見えない。

演出とか、演技とか言う前に、ビジュアル的に「リアリティ」を感じない。

「木村拓哉」の『武士の一分』でも、同じような印象を受けたが、「織田裕二」ほどの「違和感」ではない。

ちなみに、どちらも実際に作品は観ていない。

神はなぜ生き残ったのか・・・①

2007-12-16 09:53:10 | 愛と世界平和と神の存在について
古代の人々が人知を超えた自然の脅威に「神」を見出したのはともかくとして、これだけ「科学」が発達した現代においても「宗教」やそれに付随する「神」が生き残っているのはどうしてだろうか?

その答えを出す前に、「人間」は(例えば「ユダヤ教」が生まれた3000年前)今日まで残る世界的な宗教が作られた時も、21世紀の現代も、もちろんその間中もずっと(「キリスト教」や「イスラム教」や「仏教」が作られたが)、まったく「同じ」行動をしているということを思い出して欲しい。

宗教は、人間の「善」ではない行動、(殺人、姦淫、窃盗、妬み、・・・)を「原罪」などと呼び、不必要な「罪悪感」を煽っている。

しかし、人間もこの地球上に生息する他の「野生動物」の一種であることを考えれば、それは「個体維持(生きる)」ための「本能」であることが分かる。

例えば、ここに二頭の腹をすかした「ライオン」とその間に「肉」があるとする。
当然、生き残るためには「肉」を食べなくてはならない。
そのためには、「相手」を「傷つけたり」時には「命を奪う」ことも必要である。それは、生物としての「本能」であり、人間も持っている。

「緊急避難」という言葉がある。

例えば、船が沈没して海に投げ出された時に、二人の間にかろうじて「ひとり」がつかまれるような「板」があったとする。この時、もし相手を突き飛ばして自分ひとりが助かったとしても、「犯罪」とはならないのである。

「姦淫」そのものは、「不道徳」な性行為であるが、「性行為」そのものは生物としての「種の保存(次の世代に、子孫を残す)」のための重要な行為である。


「殺人(傷害も含む)」「姦淫」「窃盗」「妬み」・・・は、もちろん「社会的」にみて「悪」であり、当然してはいけない行為であり、もししてしまったなら「法」によって裁かれるものである。「人間」は、ひとりで生きているのではなく、多くの仲間と「社会」の中で生きているからである。

しかし、まだ「社会」が出来ていなかった頃、「人間」は一匹の野生動物として、数々の外敵(自分よりも強い)や自然の脅威の中で、必死に生き延びてきたのである。

その時の生き延びるための「知恵」だったのが、「本能」だったのである。今も、誰もが、その「本能」を持っている。

大切なのは、「社会」の中ではそれを「コントロール」することである。

それを可能にするのは、「生まれてから」社会生活の中で「学習(身につける)」した「経験」であり、そうして生まれた「理性」である。

様々な「衝動」が起こるのは「本能」のなせることであり、決して自らを恥じたり、罪の意識にさいなまされる必要はない。

大切なことは、その衝動を「理性」でコントロールして、「行動」に移さないことである。それができなくなった時に、「犯罪」が生まれる。

「犯罪」を抑止するのは、「神」ではない。自らの「理性」である。

・・・もし、これを行ったら、社会からどんな罰を受けるのか? 家族は、どんな苦難を味わうのか? 友人や恋人は?・・・

様々な「葛藤」の末、「行動」を思い止まることもあろう・・・。

不幸にして、「実行」に走ってしまうこともある。


「犯罪者」は、なぜ「犯罪」を「隠そう」とするのか? 様々な「隠ぺい工作」をするのは、なぜか?

「神」には、そんなものは「通用」しないのに・・・w 神は「犯罪抑止力」にはならない。

「テロリスト」ほど、残虐行為を「見せ付ける」のは、なぜか?

彼らは、「神」が「残虐行為」を好むことを知っているからである。「力の誇示」は神の「得意技」なんだから・・・。