BS11で、夏休み恒例の「アニメ特撰」をやっている。
そのうちのひとつが、4夜連続で放送中の「ルパン三世特集」である。
「ルパン三世」と言えば、今や世間でも認知された劇場版『カリオストロの城』(宮崎駿監督作品)が思い浮かぶが、今回の特集は「TVシリーズ」である。
『カリオストロ…』のルパンが「優しいおじ様」なのに対して、TVシリーズは原作の「モンキーパンチ」の味が色濃く出ている。ルパンはスケベな「ちょい悪オヤジ」だし、「不二子ちゃん」はリアルにセクシーだ。「画」もオシャレで、「不二子ちゃん」はどことなく「フランス美女」のようにも見える。
一見すると「エロ」のような場面も、ヨーロッパのエスプリの香りがして大人のおしゃれな「お色気」アニメである。(今から比べれば、直接的な表現ではない“見えそうで見えない”みたいな「描写」に、それでも当時は「大興奮」したものである…)
「ルパン特集」は大々的にやっているが、もうひとつ「ひっそり」とやっている特集が「銀河鉄道999特集」(松本零士監督)である。
こちらは、劇場版の特集である。今日の『エターナル』は観た覚えがなかった(設定とかも、他の2作品とは異なっている)。
なんと言っても『銀河鉄道999』と『さよなら銀河鉄道999』の2作品が、私の「青春の幻影」である・・・。
今でこそ「宮崎駿」の信奉者のひとりであるが、『風の谷のナウシカ』に出逢うまでは「松本零士」信者であった・・・w(もちろん、今でも「信者」であるが、ランクが1段下がったのは事実である。)
「宮崎駿」といえば、一部の例外を除いて「アニメ」である。
一方の「松本零士」は、ずっと「コミック」でお世話になっていた。
夢中になっていたのは、『男おいどん』と「戦場シリーズ」の『コックピットシリーズ』である。
『男おいどん』とは、男の「ひとり暮らし」のすさまじくも涙ぐましいお話である・・・w 今どきの「学生」さんたちの「優雅」な「ひとり暮らし」からは想像もできないような「悲惨」な世界だった・・・。
「下宿」といってもせいぜい6畳一間の狭い部屋で、エアコンはおろか風呂も無く、トイレやキッチンまでも「共同」でさえあった・・・。
さらに、この主人公の部屋の押入れには履き古した「サルマタ(トランクス?)」が充満しており、あまつさえそれらを「苗床」として「サルマタケ」なる不思議な「キノコ」を(自然)「栽培」して「食料」にするという、「潔癖症」の人には3秒と耐えられない「世界」のお話である。(もちろん、そんなキノコなど実在しないwww)
もうひとつの「コクピットシリーズ」は、ガラリと趣を異にして、彼の得意な「メカニック」な世界である。主に第2次世界大戦当時の「ドイツ軍」の武器を題材にして、メカにまつわるエピソード的な展開と同時に、古き良き時代の「武士道(騎士道)精神」みたいなロマンもあったように記憶している・・・。
「松本零士」というと『宇宙戦艦ヤマト』シリーズを思い浮かべる人もあると思うが、あの「世界観」は本来の「松本零士ワールド」とは少し違っていると私は思う。
さて、『銀河鉄道999』シリーズを久しぶりに観て、私の「世界観」や「人生観」果ては「女性観」に多大な影響を与えているということに、自分自身でも驚いている・・・。
まず、“「限りある命」だからこそ、大切にして精一杯生きてゆく”ということを心に刻んだ。“ヌチドゥ宝(命こそ宝)”である。
次が「女性観」である。
「松本零士ワールド」は、完全な「女尊男卑」である・・・w
「男」は、TV版「星野鉄郎」や『男おいどん』の「大山昇太(おおやまのぼった)」や『999』の「トチロー」のように、歯並びの悪い大口にぺしゃんこの鼻、そしてガニマタで2頭身(3頭身?)である。例外は『コクピットシリーズ』や「キャプテンハーロック」くらいで、長身のイケメンである・・・。
それに対して「女性」は、ハリガネのように細い手足に、雪のように真っ白な肌、切れ長のまつ毛もバッチリな眼に、風になびくくるぶしまで届きそうなロングの金髪の8頭身で、「男」とは別の「宇宙人」というか「お人形」さんみたいに理想化されている・・・。
主人公「星野鉄郎」は、“少年から大人(男)へ”と成長してゆく「青春」真っ盛りにいる。
“少女から大人の女性へ”と成長する時期の「女の子」が不思議な存在であるように、「思春期の男の子」も特別な存在である。
それは、「子どもから一人前の大人へ」の成長というばかりでなく、「異性(女性)へ覚醒(めざめ)」でもあると思う。
そして、それには前段階として「母性からの独立(自立)」を成し遂げなければならない・・・。
言うまでもなく、「ヒト」には異なる二つの「性」があり、基本的には同じ「ヒト」ではありながら、微妙な「差(違い)」が存在することも事実である。
出来ることの「差別」はいけないことだが、出来ないことや違いを「区別」することも大切なことである。
だから、親子の関係についても「同性」と「異性」では、微妙なズレがある。
「女の子」と「父親」の関係も微妙だが、「男の子」と「母親」の関係もまた不思議な力学が働く。
「男の子」にとって、「父親」はいずれ自分もなることが可能だし、時には「乗り越える」ことも出来る。
しかし、「男の子」は永遠に「母」にはなれない。 「女の子」も永遠に「父」にはなれないが、「母」にはもうひとつ「大きな壁」がある。
それは、「母」は自らの胎内に子を宿し、成長させ、産み、乳を与え育てることができるからである。
つまり、「子」にとって(男女ともだが)、自らの原点を突き詰めていけば、かならず「母」に行き着くのである。自らを産み育てた母は、大いなる「庇護者」である。母に守られているのある。いつか、「ひとり立ち」する日まで・・・。
それでも、「母」からすれば、ひとり立ちしても「子」は永遠に“愛しい我が子”なのである。そして、「子」の心の中にも、永遠に「母」は生きているのである・・・。
「メーテル」は、行き着くところ、「母の幻影」である。
「男の子」にとって、「母」は世界中で一番「美しく」「優しく」「強い」…、最高(究極・至高)の存在なのである。
そのひとつの「理想の姿」として、私の心に永遠に焼き付けられたのが「メーテル」なのである。さらに言えば、「強さ」を追加したのが「女海賊クィーンエメラルダス」なのである。
だから、私が「メーテル」や「エメラルダス」に抱く感情は、「恋人」としての「恋愛感情」ではなく、「尊敬」「思慕」「崇拝」なのである。
ある種「不可侵」の「絶対領域」なのである・・・w
そう思ったとき、私が「倖田來未」に抱く感情も、「メーテル」たちへのそれと似ているということに気がついた。
くぅの「生き様」に「尊敬」を感じて、応援していると思っている。
ただし、「不可侵」の「絶対領域」までは行ってないが・・・www
ところで、『999』では、「恋愛関係」はないかといえば、そうでもない。
「鉄郎」と同世代の「女の子」も登場する。
1作目の「クレア」と、2作目の「メタルメナ」である。
性格はかなり違う(クレアは、信じられないくらいな純真な子で、対照的にメタルメナはメーテルの体を狙っているツンデレである)が、最終的にはふたりとも鉄郎を助けるために、我が身を犠牲にしているのである。
もちろん、「プロメシューム」という「魔女」のような女性も登場するが、それも娘メーテルのためを思っての「母心」からというように描かれている・・・。
クレアのように「純真」「純粋」な女の子に、胸ときめかせたのである・・・。
・・・それが、今になって「初音ミク」に出逢ったのである・・・。
“今どき、『メルト』や『letter song』…みたいな「純粋」「純真」な女の子なんかいるかい?!”
って思いつつも、やっぱり「いる」と思う。
ギャルみたいに「遊んでる」子も確かにいるだろう・・・。
でも、ギャルだって「純」な心はあると思う。ふだん、目につきにくいかもしれなくても・・・。「ヤマンバ」みたいな「外見」をしてるからって、心まで「山姥」だとは限らない・・・。
そう、私は信じている。
・・・・・・
『999』のエンディングにこんな言葉がある。
やがて、少年は大人になる
そうではあるが。そうでもないかもしれない・・・
やがて、少年(少女)は大人になる
というのは、生物学的に見て自明のことである。幼い個体もやがて「成長して」大人(成体)になるのが生物である。
「子ども」から成長して、やがて「心」も「体」も大人(成人)になってゆく。
「大人なる」とは、ひと言で言えば“自立”することである。独りで生きていく(食べていく)ことである。ごく一部の例外を除いて、「働く」ことである。もちろん、「遊ぶ」こともあるが、子どもと違ってまず働いて稼がなければいけない。
そのために、「心」も「体」も変化する。「たくましく」なっていく。生きてゆくために・・・、時には「闘う」ためにも・・・。
けれど、世の中に「童顔」と言う言葉があるように、外見(体)に「幼さ」が残っている大人もいる。あるいは、せいぜい「箸」くらいしか持てないような、とてもサバイバルにはむかないような華奢な体(体力)の人たちだっている・・・w
「爆笑問題」の「田中」君や「ほしのあき」ちゃんなど、実年齢よりもずっと「若く」見える・・・w
同じようなことが、「心」にもある。
「少年(少女)の心」「子どもの心」を持ち続ける「大人」だって、たくさんいる。
「心」(=脳)というものは、たくさんの「引き出し」のついた「タンス」のようなものだと仮定しよう。
「人」「人格」というものは、決して単純なものではない。いい面もあれば、悪い面もある。優しい一面もあれば、冷酷な面もある。善人だって、時には法を守らないことだってある。悪人だって、人を助けることだってある・・・。
みんな、それぞれ「引き出し」は持っている。人によって、その引き出しの「大きさ」や使う「頻度」に違いはあるかもしれないが・・・。
多分、「大人になる」ということは、使う引き出しの種類が変わっていくことだと思う。子ども頃によく使った引き出しを全然使わなくなってしまい、すっかり「錆びて」開かなくなってしまった大人も多いのかもしれない。
けれど、大人になっても子どもの「引き出し」をよく使う大人も、決して少ないと思う。
「子どもの心」を忘れない、持ち続けている「大人」はたくさんいると思う。
わたしは、そういう人たちが「ヲタク」(マニア)なんだと思う。
「熱中人」とも呼ばれることもあるが、「熱中する」「夢中になる」ということは、まさに「子どもの心」そのものだと思うから・・・。
「松本零士」さんや「宮崎駿」さんも立派な「ヲタク」であり、「少年の心」を持ち続けている「大人」だろう。
「羞恥心」の「上地」君だっけ?、「セミ」のことを話す彼は、本当に「少年」のままだし、「ショコタン」だって「少女の心」を持ち続けている「大人」だ。
ファンのみんなを驚かせて喜ばせたいと思う「くぅの心」は、まさに「子どもの心」だと思う。
「アニヲタ」や「腐女子」や「age嬢」だって、「子どもの心」を持ち続けている心優しいピュアな「大人」だよ・・・。
・・・やがて、少年(少女)は大人になる。けれど、「少年(少女)の心」は永遠に持ち続けることが出来る・・・
そのうちのひとつが、4夜連続で放送中の「ルパン三世特集」である。
「ルパン三世」と言えば、今や世間でも認知された劇場版『カリオストロの城』(宮崎駿監督作品)が思い浮かぶが、今回の特集は「TVシリーズ」である。
『カリオストロ…』のルパンが「優しいおじ様」なのに対して、TVシリーズは原作の「モンキーパンチ」の味が色濃く出ている。ルパンはスケベな「ちょい悪オヤジ」だし、「不二子ちゃん」はリアルにセクシーだ。「画」もオシャレで、「不二子ちゃん」はどことなく「フランス美女」のようにも見える。
一見すると「エロ」のような場面も、ヨーロッパのエスプリの香りがして大人のおしゃれな「お色気」アニメである。(今から比べれば、直接的な表現ではない“見えそうで見えない”みたいな「描写」に、それでも当時は「大興奮」したものである…)
「ルパン特集」は大々的にやっているが、もうひとつ「ひっそり」とやっている特集が「銀河鉄道999特集」(松本零士監督)である。
こちらは、劇場版の特集である。今日の『エターナル』は観た覚えがなかった(設定とかも、他の2作品とは異なっている)。
なんと言っても『銀河鉄道999』と『さよなら銀河鉄道999』の2作品が、私の「青春の幻影」である・・・。
今でこそ「宮崎駿」の信奉者のひとりであるが、『風の谷のナウシカ』に出逢うまでは「松本零士」信者であった・・・w(もちろん、今でも「信者」であるが、ランクが1段下がったのは事実である。)
「宮崎駿」といえば、一部の例外を除いて「アニメ」である。
一方の「松本零士」は、ずっと「コミック」でお世話になっていた。
夢中になっていたのは、『男おいどん』と「戦場シリーズ」の『コックピットシリーズ』である。
『男おいどん』とは、男の「ひとり暮らし」のすさまじくも涙ぐましいお話である・・・w 今どきの「学生」さんたちの「優雅」な「ひとり暮らし」からは想像もできないような「悲惨」な世界だった・・・。
「下宿」といってもせいぜい6畳一間の狭い部屋で、エアコンはおろか風呂も無く、トイレやキッチンまでも「共同」でさえあった・・・。
さらに、この主人公の部屋の押入れには履き古した「サルマタ(トランクス?)」が充満しており、あまつさえそれらを「苗床」として「サルマタケ」なる不思議な「キノコ」を(自然)「栽培」して「食料」にするという、「潔癖症」の人には3秒と耐えられない「世界」のお話である。(もちろん、そんなキノコなど実在しないwww)
もうひとつの「コクピットシリーズ」は、ガラリと趣を異にして、彼の得意な「メカニック」な世界である。主に第2次世界大戦当時の「ドイツ軍」の武器を題材にして、メカにまつわるエピソード的な展開と同時に、古き良き時代の「武士道(騎士道)精神」みたいなロマンもあったように記憶している・・・。
「松本零士」というと『宇宙戦艦ヤマト』シリーズを思い浮かべる人もあると思うが、あの「世界観」は本来の「松本零士ワールド」とは少し違っていると私は思う。
さて、『銀河鉄道999』シリーズを久しぶりに観て、私の「世界観」や「人生観」果ては「女性観」に多大な影響を与えているということに、自分自身でも驚いている・・・。
まず、“「限りある命」だからこそ、大切にして精一杯生きてゆく”ということを心に刻んだ。“ヌチドゥ宝(命こそ宝)”である。
次が「女性観」である。
「松本零士ワールド」は、完全な「女尊男卑」である・・・w
「男」は、TV版「星野鉄郎」や『男おいどん』の「大山昇太(おおやまのぼった)」や『999』の「トチロー」のように、歯並びの悪い大口にぺしゃんこの鼻、そしてガニマタで2頭身(3頭身?)である。例外は『コクピットシリーズ』や「キャプテンハーロック」くらいで、長身のイケメンである・・・。
それに対して「女性」は、ハリガネのように細い手足に、雪のように真っ白な肌、切れ長のまつ毛もバッチリな眼に、風になびくくるぶしまで届きそうなロングの金髪の8頭身で、「男」とは別の「宇宙人」というか「お人形」さんみたいに理想化されている・・・。
主人公「星野鉄郎」は、“少年から大人(男)へ”と成長してゆく「青春」真っ盛りにいる。
“少女から大人の女性へ”と成長する時期の「女の子」が不思議な存在であるように、「思春期の男の子」も特別な存在である。
それは、「子どもから一人前の大人へ」の成長というばかりでなく、「異性(女性)へ覚醒(めざめ)」でもあると思う。
そして、それには前段階として「母性からの独立(自立)」を成し遂げなければならない・・・。
言うまでもなく、「ヒト」には異なる二つの「性」があり、基本的には同じ「ヒト」ではありながら、微妙な「差(違い)」が存在することも事実である。
出来ることの「差別」はいけないことだが、出来ないことや違いを「区別」することも大切なことである。
だから、親子の関係についても「同性」と「異性」では、微妙なズレがある。
「女の子」と「父親」の関係も微妙だが、「男の子」と「母親」の関係もまた不思議な力学が働く。
「男の子」にとって、「父親」はいずれ自分もなることが可能だし、時には「乗り越える」ことも出来る。
しかし、「男の子」は永遠に「母」にはなれない。 「女の子」も永遠に「父」にはなれないが、「母」にはもうひとつ「大きな壁」がある。
それは、「母」は自らの胎内に子を宿し、成長させ、産み、乳を与え育てることができるからである。
つまり、「子」にとって(男女ともだが)、自らの原点を突き詰めていけば、かならず「母」に行き着くのである。自らを産み育てた母は、大いなる「庇護者」である。母に守られているのある。いつか、「ひとり立ち」する日まで・・・。
それでも、「母」からすれば、ひとり立ちしても「子」は永遠に“愛しい我が子”なのである。そして、「子」の心の中にも、永遠に「母」は生きているのである・・・。
「メーテル」は、行き着くところ、「母の幻影」である。
「男の子」にとって、「母」は世界中で一番「美しく」「優しく」「強い」…、最高(究極・至高)の存在なのである。
そのひとつの「理想の姿」として、私の心に永遠に焼き付けられたのが「メーテル」なのである。さらに言えば、「強さ」を追加したのが「女海賊クィーンエメラルダス」なのである。
だから、私が「メーテル」や「エメラルダス」に抱く感情は、「恋人」としての「恋愛感情」ではなく、「尊敬」「思慕」「崇拝」なのである。
ある種「不可侵」の「絶対領域」なのである・・・w
そう思ったとき、私が「倖田來未」に抱く感情も、「メーテル」たちへのそれと似ているということに気がついた。
くぅの「生き様」に「尊敬」を感じて、応援していると思っている。
ただし、「不可侵」の「絶対領域」までは行ってないが・・・www
ところで、『999』では、「恋愛関係」はないかといえば、そうでもない。
「鉄郎」と同世代の「女の子」も登場する。
1作目の「クレア」と、2作目の「メタルメナ」である。
性格はかなり違う(クレアは、信じられないくらいな純真な子で、対照的にメタルメナはメーテルの体を狙っているツンデレである)が、最終的にはふたりとも鉄郎を助けるために、我が身を犠牲にしているのである。
もちろん、「プロメシューム」という「魔女」のような女性も登場するが、それも娘メーテルのためを思っての「母心」からというように描かれている・・・。
クレアのように「純真」「純粋」な女の子に、胸ときめかせたのである・・・。
・・・それが、今になって「初音ミク」に出逢ったのである・・・。
“今どき、『メルト』や『letter song』…みたいな「純粋」「純真」な女の子なんかいるかい?!”
って思いつつも、やっぱり「いる」と思う。
ギャルみたいに「遊んでる」子も確かにいるだろう・・・。
でも、ギャルだって「純」な心はあると思う。ふだん、目につきにくいかもしれなくても・・・。「ヤマンバ」みたいな「外見」をしてるからって、心まで「山姥」だとは限らない・・・。
そう、私は信じている。
・・・・・・
『999』のエンディングにこんな言葉がある。
やがて、少年は大人になる
そうではあるが。そうでもないかもしれない・・・
やがて、少年(少女)は大人になる
というのは、生物学的に見て自明のことである。幼い個体もやがて「成長して」大人(成体)になるのが生物である。
「子ども」から成長して、やがて「心」も「体」も大人(成人)になってゆく。
「大人なる」とは、ひと言で言えば“自立”することである。独りで生きていく(食べていく)ことである。ごく一部の例外を除いて、「働く」ことである。もちろん、「遊ぶ」こともあるが、子どもと違ってまず働いて稼がなければいけない。
そのために、「心」も「体」も変化する。「たくましく」なっていく。生きてゆくために・・・、時には「闘う」ためにも・・・。
けれど、世の中に「童顔」と言う言葉があるように、外見(体)に「幼さ」が残っている大人もいる。あるいは、せいぜい「箸」くらいしか持てないような、とてもサバイバルにはむかないような華奢な体(体力)の人たちだっている・・・w
「爆笑問題」の「田中」君や「ほしのあき」ちゃんなど、実年齢よりもずっと「若く」見える・・・w
同じようなことが、「心」にもある。
「少年(少女)の心」「子どもの心」を持ち続ける「大人」だって、たくさんいる。
「心」(=脳)というものは、たくさんの「引き出し」のついた「タンス」のようなものだと仮定しよう。
「人」「人格」というものは、決して単純なものではない。いい面もあれば、悪い面もある。優しい一面もあれば、冷酷な面もある。善人だって、時には法を守らないことだってある。悪人だって、人を助けることだってある・・・。
みんな、それぞれ「引き出し」は持っている。人によって、その引き出しの「大きさ」や使う「頻度」に違いはあるかもしれないが・・・。
多分、「大人になる」ということは、使う引き出しの種類が変わっていくことだと思う。子ども頃によく使った引き出しを全然使わなくなってしまい、すっかり「錆びて」開かなくなってしまった大人も多いのかもしれない。
けれど、大人になっても子どもの「引き出し」をよく使う大人も、決して少ないと思う。
「子どもの心」を忘れない、持ち続けている「大人」はたくさんいると思う。
わたしは、そういう人たちが「ヲタク」(マニア)なんだと思う。
「熱中人」とも呼ばれることもあるが、「熱中する」「夢中になる」ということは、まさに「子どもの心」そのものだと思うから・・・。
「松本零士」さんや「宮崎駿」さんも立派な「ヲタク」であり、「少年の心」を持ち続けている「大人」だろう。
「羞恥心」の「上地」君だっけ?、「セミ」のことを話す彼は、本当に「少年」のままだし、「ショコタン」だって「少女の心」を持ち続けている「大人」だ。
ファンのみんなを驚かせて喜ばせたいと思う「くぅの心」は、まさに「子どもの心」だと思う。
「アニヲタ」や「腐女子」や「age嬢」だって、「子どもの心」を持ち続けている心優しいピュアな「大人」だよ・・・。
・・・やがて、少年(少女)は大人になる。けれど、「少年(少女)の心」は永遠に持ち続けることが出来る・・・