goo blog サービス終了のお知らせ 

回遊草(KAI YU SO)

さすらいの乙男妄想オヤジの妄想ブログ。あらゆるジャンルのカワイイを中心に浮気中?でも、惚れてるのはやっぱり「ミク」かな?

父の死

2011-11-14 22:31:17 | 命(いのち):生きているということ・死
6日(日)に実家(静岡)の父が亡くなった。

本当に、急だった・・・。


2ヶ月前、9月の始めに「遠近両用メガネ」を作るために、「ららぽ」の「JIN!S」へ案内したときは“いつも通り”だった(ような気がする)・・・


それが、先月21日(金)に突然、“具合が良くない・・・、会いたい・・・”みたいな電話をかけてきた。

その時、私は珍しく体調を崩していたので、翌週の30日(日)に実家に行った。


思った以上にやつれていた・・・

175cmくらいあって(私よりも長身)「ダンディ」な父だったが、あの“試写会の時の「原田芳雄」”みたいだった・・・

いきなり、「診断書」を見せた。



ずっと具合が良くなくて、かかりつけの医者にいろいろ訊いてもハッキリしないので、自分で市民病院で丸一日かけて「精密検査」をしたのだという・・・。

「胆のう癌」とか「肝臓」「リンパ」「転移」とか、走り書きみたいに書いてあった。


“1年は、もたない”みたいなことを言われたらしい・・・。


“そんなこと、ハッキリ言うんだ・・・!”と思ったが、不思議と冷静に受け止めた。



それから、すぐ近所で民生委員をしている方がいて親身にやってくれているというので、挨拶に行っていろいろと話しを聞いた。

その方は、今は(ご主人をずっと前に亡くして)一人暮らしていて、これまでも多くの父のような末期の人をみていたという。

“そんなに悪い父が、どうして入院していないのか・・・?”と疑問をぶつけたら、「末期」の(完治の見込みのない)場合は、入院させないことも少なくないそうだ・・・。

下手な「延命治療」をして副作用で苦しむより、自宅で心静かに“最期の時を迎える”方が「幸せ」じゃないかという考えらしい。 

同感である。

だから、薬も(副作用の少ない)一番「穏やかな効き目」のものをもらっているらしい。


それで、「介護保険」の手続きや、「介護ベッド」の手配などもしてくれた。(まだ、届いていなかったけど)


実は、「長女」が東京へ行くことになっていた(本当は、29日(土)にも引っ越す予定だった)が、急きょ取り止めて父の世話をすることにした。

というのは、母が少々「ボケ」気味で(ウチと違って、「父」の方がしっかり者(お金の管理とかも全部、父がやっていた)の家庭だった)、心配だったから・・・。




仕事の関係で、3日(木)に見に行った一番下の弟が、電話をくれた。

婿に行った先の父親を少し前に亡くしていたが、その時よりもずっと元気で「安心」したと言った。

義父は、”3ヶ月の命です。”と言われたが、結局「3年」生きたそうだ。

(ただし、最後は(肺がん」だったせいか)「酸素マスク」を付けたままの寝たきりだったそうだ・・・。
 薬の「副作用」も、酷かったそうだ・・・)


5日(土)、「長女」が着替えとか取りに戻って泊まっていった。


6日(日)、私は「中川あゆみ」ちゃんのライブを見に、「焼津」へ出かけた。

当日は、冷たい雨が降っていて、“ぬかるみのグランドでの「野外ステージ」”という気の毒なくらいの「悲惨なライブ」だった・・・。

それでも、彼女はめげる素振りも全く見せずに、健気に明るさを振りまいていた・・・。



私は、非情にも午前のステージだけで見切りをつけて、“せっかく、「焼津」に来たついでに・・・”と思って、「さかなセンター」で「カニ」とか「干物」を買い漁った・・・



「お寿司の弁当」を買って、駐車場の車の中で食べようとした瞬間、「長女」からの携帯が鳴った。

“「じいじ(父)」の具合がおかしい・・・”ということだった。家を出る直前にかけてきたという。



結局、実家(静岡)には、私が最初に着いた。

「警官」が3人いた。



静岡に帰るので何気なく電話したら、母の様子がおかしかったらしい。

“返事をしないし・・・、手が冷たいが体は温かいから・・・”

そのまま、どうしていいか分からなかったらしい。

「長女」が「119通報」して、「掛川」の消防から「静岡」に手配して、「救急車」が来たが“そのまま帰った”らしい。

それで、「警官」が来たようだ。(奥さんの時もそうだったが、「医師」の立会がなかったので来るようだ)

届いたばかりの「介護ベッド」に横たわった父の手は冷たく、顔はまるで「蝋人形」のようだった。

けっこう長くいろいろ聞かれた。(”どう見たって、病死だろう・・・!?”)

体をキレイにしてくれた。(帰ってから、布団をめくったら裸だった。「民生委員」さんがいっしょになって、「スーツ」を着せてくれた)


“そんなに早く亡くなるのか!?”

と驚いたが、悲しさは無かった・・・。

「あの日」から1年が過ぎ、“「死」を受け止める”ことができるようになってしまった。


「83歳」だったから、「寿命」なんだろう・・・。



「田舎」の掛川と違って(「隣組」でやってくれないので)、自分で「葬祭業者」に電話した。

7日(月)通夜、8日(火)火葬ということにした。「葬儀・告別式」は「後日」ということで・・・


しかし、「母」が京都の山奥(丹波篠山)の「お寺の娘」で、「実家」と「甥の家」で電話したら、(二人とも「お坊さん」で)8日に来るということになった・・・。



結局、「8日」に二人の立派な「お坊さん」がやってきた。


だから、「内々」だけど、立派な「葬式」ができた。


私は、別にどうでも良かったが、「娘」たちは喜んでいた・・・。



9日(水)、10日(木)は、母の保険・年金の手続きで、あっちこっちを駆け巡った・・・・

お役所の「たらい回し」というか、一番のネックはたとえ実の息子でも「同居」でないと(母は、疲れて自宅に残していたから)【委任状】が必要だということ・・・。


市役所やら、年金事務所やら、法務局やらと、自宅を何度も往復した・・・。



疲れたけど、悲しみは湧いてこない・・・。


我ながら、“なんて冷たい人間なんだろう!”って思う。
  










神と死者

2011-08-18 13:47:30 | 命(いのち):生きているということ・死
お盆休みも終わり、昨日からまた仕事が始まりました。

この時期は、お盆だけではなく、「終戦記念日(8/15)」や「御巣鷹山の日航機事故(8/12)」、また少し時期がずれますが「広島(8/6)長崎(8/9)の原爆投下」など「死」と向かい合う機会が集中しています。

そうしたものが「お盆」に集約されているように思います。


“盆と正月”と言われるように、「旗日(祝日?)」がひとつもないにもかかわらず、当たり前にこの時期は「連休」になっています。


ウチはちょっと事情があって、「お盆」らしいことをした記憶がありません。


だから、今までは“単なる「夏休み」”くらいに思ってきました。

ここ5,6年は、ちょうどこの時期にやる「エーネ(a-nation)」に行くのが「決まり」になっていました。



そんな会場から、1本の電話で車を飛ばして帰ってきたのが1年前の8/14でした・・・。



人生で最大の悲劇で、最大の驚きと悲しみでした。


驚きと悲しみは怪我をした時の「痛み」のようなもので、案外と早く消えるのかなと思いますが、そのあとに襲ってくる「喪失感」とか「寂しさ」というものは長く尾を引いて、時にフラッシュバックしてきます。


“何でもないようなこと・・・”が、いかに「大切」なことだったのかと思い知らされました。

空気や水と同じように、普段有る時は全く感じなくて、”失くなって初めて”その「ありがたみ」の大きさに気づくのでした・・・。



もともと「葬式」が嫌いでしたが、今も「身内の葬式」はトラウマになっています。

地区のような「他人」のものは何でもないのですが、「親戚」などの“喪服の顔”は見ることが出来ません。



1ヶ月くらいは「後悔」にさいなまれました。

“もし・・・”とか“何にもしてやれなかった・・・”ということが、次から次へと浮かんできました。












そこから、私の選んだ道は「異質」だったと思います。







常に頭に浮かぶのは“生き返って欲しい”“もう一度、何か「話」がしたい(たとえ、ひと言でも・・・)”という想いでした。




しかし、それは決して“叶わぬ願い”でした。




たぶん、「普通」の人は、【死者】に想いを馳せるのでしょう・・・。




けれど、わたしは【死者】というものを受け入れることができませんでした・・・。



“化けでもいいから、出てこい”とか思いましたが、結局、何も起こりませんでした。



私の出した「結論」は、“死は「終わり」”であるということでした。



考えれば考えるほど、“死は「終わり」”なのです。


「命」とは、“生まれてから、死ぬまで”だと思います。


だから、「死の先」など「無い」と思ってしまうのです。


だから、【死者】というものは存在しないと「悟って」しまったのです。




少し前に【神】というものは存在しないと悟っていました。




   ・・・・・・




ちょっと前から、「芸能人」が亡くなったりすると、よく(奥さんと)“私が死んでも、葬式はしなくていいから”とか“墓もいらないし、遺灰は海にでもまいてくれ”とか、話していました。

彼女は笑っているだけで、(自分のことは)何も言いませんでした。

私も、一方的に自分のことを言うだけで、彼女のことは聞きませんでした。

彼女も、自分の「死」など想ってもいなかったことなのでしょう・・・。





普通のひとは、【死者】に想いを馳せることで、「後悔」や「喪失感」「寂しさ」を乗り越えるのでしょう・・・。


“天国から見守っている”とか、“今は、ゆっくり休んでください”とか、普通に(生きている時と同じように)話しかけるでしょう・・・?



洋の東西にかかわらず、「死後の世界」は当然のことだと思います。



でも、私は素直にうなずくことができないのです・・・。



   ・・・・・・



先日(8/13)、「初盆」と合わせて「一回忌」をやりました。

この1ケ月くらいは、ずっと憂鬱でした。

トラウマ的なこともありましたが、もっと重要なことは「意味」を持てないということからでした。

「慰霊」=“霊を慰める”や、「鎮魂」=“魂を鎮める”という言葉は、私には「無意味」に響くのです。

「霊」も「魂」も、私には存在しないものだからです・・・。


本当はやりたくないと思っていましたが、せめて「初盆」まではと考えました。「お坊さん」だけは頼みました。


でも、「仏壇」とか「位牌」とかは、作りたくありませんでした。

あんなゴテゴテしたものは“似つかわしくない”と感じました。



   ふと、思いました。



   “私は、仏教徒じゃない!”



仏教を信じていません。


たぶん、日本人は「当たり前」に「仏教式」の葬式や「供養」をするのでしょう。それは、「文化」「風習」と言ってもいいのでしょう・・・。



   つづく・・・

 











上原美優ちゃんが・・・(>_<)

2011-05-12 11:32:55 | 命(いのち):生きているということ・死
突然のニュースに驚きました・・・。



今朝は8時半過ぎに起きてTVをザラッと見ていました。10時ごろに出かけようとしたら、『モーニングバード』でそのニュースが流れました・・・。


“大家族貧乏アイドル”として人気のタレント「上原美優」ちゃん(24)が、今朝未明に自宅マンションで自殺していたのが見つかったそうです・・・。


言葉を失いました・・・。


とにかく愛くるしいカワイさと、豊かな現代日本では信じられないような「大家族貧乏生活」とのギャップに驚きましたが、なにより「明るく」話すキャラに惹かれました。





それでも、物心付くようになると自らの境遇に反発し、大好きだった「母親」にも反抗するようになっていったそうです・・・。

15歳になったら「自立」するという「家訓」に従って家を出てからも、壮絶な数年間を送りました。


それでも、TVに出たい(芸能人になりたい)という夢を諦めずに、苦労の末、その夢を叶えたはずでした・・・。


ブレイク直後に、“壮絶な数年間”を告白した自伝を発表しました。

せっかくの人気に水を差すような出版を止める事務所に、彼女は確かこんな風に答えたはずです。

 “私のような辛い目に遭っても、こうして元気にやり直すことができるということを知ってもらいたかったから・・・”


   ・・・・・・・


  本当に残念です・・・





    何があっても


    死んじゃあ、ダメだよ!








 


家事騒乱・・・?

2010-11-30 20:51:21 | 命(いのち):生きているということ・死
「シングルファーザー」は、大変です・・・w


  (たぶん、「シングルマザー」の方がもっと大変でしょうが・・・)


三重苦、四重苦・・・?w


私自身の内面の問題と、「外側」の問題が徒党を組んで襲ってくるみたいなものです・・・w


内面の問題で言えば、やっぱり「孤独」です・・・。  ふとしたきっかけで、底無しの闇のような「虚しさ」に引きずり込まれそうになることがあります・・・。 (と言っても、ほんの一瞬ですけど・・・w)


「連れ添う」と言う言葉は、「連れる」+「添う」という同じ意味の言葉を重ねています。

私のイメージでは、「連れる」は二人が“手をつないでいる”様子で、「添う」はお互いが“もたれかかっている”様子です。

「夫婦」と言うものは、知らず知らずのうちに“お互いが支え合っている”のかもしれません。

そんな「支え」の一方が突然なくなってしまったら、普通の人なら「倒れて」しまうのも当然です・・・。

私は「異端」だから倒れはしないけど、「バランス」が取りにくいです・・・w

私は「人生を楽しむ」タイプですが、以前のように“心の底から楽しむ”ことができなくなったような気がします。

「連れ添い」がある(いる)というのは、人生のポテンシャルが「上がる」のだと思います。


ひとは、「独り(ひとり)」では生きていけないように作れられているのだと思います。


【絶対的幸福(幸せ)】とか【絶対的不幸(不幸せ)】と言うものは、存在しないのかもしれません。

今まで「幸せ(楽しい)」と感じていたことが、それほどに感じなくなってしまったのはちょっぴり寂しいことです。



ちなみに、たけしの『みんなの家庭の医学』で、「うつ病」を取り上げていました。

“うつ病になりやすい「考え方のクセ」”を「5つ」のタイプに分けていました。

  ☆対人優先タイプ

  ☆他者依存タイプ

  ☆完全主義タイプ

  ☆自責傾向タイプ

  ☆秩序志向タイプ

5点~1点の答えの質問を3問ずつチェックしました。それぞれ、「12点」以上あればそのタイプに当てはまるそうです。

私の結果は、「5点」「6点」「4点」「4点」「4点」でした・・・!!! www

まぁ、私の「座右の銘」は“まっ、いいか”ですから・・・w

人生なんて、何が起こるか分からないものですから・・・。

仕事でも、毎日のように大なり小なりの「トラブル」が起こりますが、常に頭にあるのは“想定の範囲内”という言葉です。

トラブルが起こるのは当たり前で、それを“どう解決するか”が大事です。 マニュアルがなければ、自分で考えてやってみるしかないのです・・・。 たとえ「予期せぬ事態」であっても、“想定の範囲内”と思ってやるしかないのです。それでも手に負えないと思ったら、上級者に助けを求めればいいのです・・・。

「パニック」ということは、私には無縁です。なぜなら、パニックを起こしても問題は解決しないからです・・・。





そんな訳で、「うつ病」にはならない私ですが、テンションが上がりにくくなったのは仕方のないことだと諦めています・・・。




さて、「外側」の問題は【家事】です・・・!


「衣・食・住」、「炊事・洗濯・掃除」・・・、とにかく【家事】は“生きていく”ために避けては通れない「仕事(作業)」です・・・。


今までは、そのほとんどを「奥さん」に【丸投げ】していました・・・w

そうして、ネットやライブに「現(うつつ)を抜かして」いたのです・・・orz


それが、一気に私に襲い掛かってきたのです・・・。


幸いなことに、子どもたちがある程度大きくなっていた(三女が高3)のと、「乙男(オトメン)」だから「炊事」(食いしん坊)「洗濯」「(お日様大好き)があまり苦になりません。(「掃除」は、アバウトな性格と、目が悪いので“ホコリが見えないw”から、あまり熱心ではありません・・・w)

それでも、流しに食器が山になっていて(娘がやってくれなかったりして)、キレそうになることも珍しくありません・・・。


年末調整とか、娘の送り迎えとか、アルバイトのための「口座」作り(今では、簡単にできない!)とか、「手間」と「時間」のかかることが毎日のように次々に起こります。



その結果、「PC」に向かう「時間」と「やる気」がどんどん削られていくのです・・・w


ほんとは、こんな「愚痴」ではなくて、もっと「創造的」?なことを書きたいのに・・・!!!




それでも、「癒される」ことはあります・・・www




「KARA」とか『小田霧響子・・・』の「石原ひとみ」ちゃんとか・・・デレデレ…

             
     Have a good night...







「生者」と「死者」について

2010-10-24 12:19:27 | 命(いのち):生きているということ・死
『行列…』で、「関根勤」さんが“友だちがいないし、休日は録画したTVを観ている”みたいなことを言っていました。


あんな楽しそうな人に友だちが少ないのは意外ですが、なんか「似たもの同士」の共感がわきました・・・w

「カワイイお嬢さん」もいるし・・・。うちの娘も、けっこうカワイイし・・・w しかも、うちは3人もいるから・・・www


ただし、違っていることもあって、関根さんみたいに素敵な「カッコイイパパ」ではありません・・・。もっと、おじさんです・・・w


それと、娘に対しては全く違って、いたって「クール」です。 今は、一日も早く「自立」して欲しいというのが望みです。


「父親」として「娘」に対する想いは、かなり「異端」です。




さて、本題に入ります。


「生者」は「しょうじゃ」と(「せいじゃ(しゃ)」とも)読んで、意味はもちろん“生きている者(人)”ですが、あまりに「普通」過ぎて敢えて使うことはありません。私も、今回辞書で検索して「初めて」知りました。

もちろん、「死者」の「反語」ですが、圧倒的(1億:1くらい?)に「死者」と言う言葉の方が普遍的です。




でも、私はこの「死者」と言う言葉に、疑問を感じています・・・。



  “「死者」って、なんだろう? そもそも、「死者」って存在するの?”


私の「死生観」も、かなり「異端」です。


私は、常々

  “私が死んでも「葬式」はしないで! 「灰(遺骨)」は、駿河湾にでも撒いて!”

と、言っていました。 


今年も、ある有名人が死んだ時、奥さんにも言っていました。彼女は、“その方が、かえって面倒だわ”と笑うばかりで、「自分」のことは何も言いませんでした。 「死」など、まだ無縁のことだと思っていたのでしょう。 私も、あえて追求しませんでした・・・。


うちの地区は年寄りが多くて「葬式」が多いのと、「土人(どにん)」としての「お手伝い」が大変です・・・w

「葬式」なんて、面倒なばかりです。 せめて、自分は面倒をかけたくありません。

私の「死生観」は、

  ”死んでからのことなんか、知ったこっちゃない!”

というものです。

『999』風に言えば、


 “「限りある」命だから、精一杯「生きる」”

ということです。



  “「天国(極楽)」に行けるように(行きたいから)・・・(「地獄」へ行きたくないから・・・)”


というような気持ちは微塵もありません。



私にとっては、「死」とはひとつの「命」の“全ての「終わり」”だと思うからです。




【神】とは、科学が未発達だった時代に、“人智を遥かに越えた「力」(「地震」「雷」「台風」など・・・)”を説明するために“人間が考えた存在”です。

「未知」というものは、何よりも「不安」「恐怖」を生み出すものなのです。

「雷」は「電気」の力であることは、今では「小学生」でも知っていますが、それが分かっていてもあの「恐ろしさ」は格別です。「地震」でも、同じです。


ましてや、その「原理」もまったく分からなかった「大昔の人類」には、とてつもない「恐怖」だったことは理解に難くありません。



  “死んだら、どうなるか?”


というのも、“「未知」という「恐怖」”の代表格のひとつです。


そうした、“「未知」という「恐怖」”を解決してくれたのが、【宗教】なのです。

(正しいかどうかは別にして)「説明」してくれたことが、「不安」を取り除き、心に「癒し」を与えることができたのです・・・。



【宗教】は、“【神】が【人】を創った”と言いますがw、「真実」は、次のとおりです。



   “【人】が「神」(という「存在」)を「考え」だした”







さて、、「宗教」については簡単に終わります。



「人」について語るとき、よくこんな風な言い方をします。

  「心(精神)」と「体(身体)」

「人」と言うものは、「体(ボディ)」と「心(ハート)」の二つの異なる「要素」から成り立っています。


「体」は物質的なもので、「たんぱく質」とか「カルシウム」とかで作られていて、目に見えるし、「触る」ことも可能です。 柔らかかったり硬かったり、サラサラしていたり、においもするし(味は・・・?w)、「声」も聞こえます。何より、「人肌」の「温かさ」があります。

こうした「特徴」は、「人」ばかりでなく他の多くの「生き物」とも共通しています。

簡単に言うと、“「命」は「体」を持っている”ということです。



「死」によって、「体」に変化が起こります。

まず「動かな」くなります。 やがて、「体温」が下がります。「冷たく」なります。体が硬くなります。血液が循環しなくなり、肌の色から「生気」が失われ、低いところに血がたまり「紫斑」が浮かびます・・・。

放置すれば、「腐敗」が始まり、いずれ「朽ち果て」ます・・・。


すべて、「物質」としての「運命(定め)」なのです。 すべての「命」(=すべての「生き物」)の「運命(定め)」なのです。




いっぽう、「心(精神)」の方は、まだまだ「解明」が進んでいません。


  “我想う、ゆえに我あり”

というように、「心(精神)」こそが、“「人」の【本質】”とも言えるものです。

「体」を無視するつもりはありませんし、私たちが「他人」を認識するのは“人間の「外側」”というか“「心」の「入れ物(容器)」”としての「体」がほとんどじゃないですか・・・?

大体が「容姿」とかで判断するでしょう・・・? (背が高いとか、「イケメン」とか、「カワイイ」とか、「いいに匂い」とか、「声がいい」とか、「脚がキレイ」とか、「おっぱいが大きい」とかw・・・・)


で、それから、「性格」とかを判断してゆくわけです。


私も、あなたも、【心】を持っていています。「当然」です。「心」があるから、「感じ」たり、「考え」たりできるのです。


私は、「私のすべて」を知っています。心も体も。 ただし、「背中」とかは自分では見られないし、「体の中」(内臓とか血管とか)は、ほとんど分かりません・・・orz


でも、「心」は、ほとんど「隅から隅まで」知っています。まさに、「手に取る」ように分かります。普段はお澄ましでも、じつはかなり「エロ」だったりとか・・・w



もちろん、あなたも「あなたの心」のことは、手に取るように分かるでしょう・・・。



でも、「心」は手に取ることは出来ません。「恋人」の手は取れるのに、恋人の「心」は手に取ることが出来ません。

ってゆーか、誰の心も手に取ることはおろか「見る」ことすら出来ません。


自分の心は、こんなにはっきりと「認識」できるのに、隣の人の心は「まったく」分かりません。


そもそも、「心」の「正体」って何なのでしょう・・・?


それが、一番の不思議です。



さっき「性格」を「判断」すると言ったけど、それはあくまでも「自己判断」というか、相手の「行動」とかから「推測」するしかありません・・・。


だから、後になって「騙された!」ということも少なくないのです・・・w



そんな「心」がどこから生まれるかということは、分かっています。


「脳」からです。 (昔は、「心臓(ハート)」に宿ると考えれていましたが・・・。)


「脳波」とかグラフみたいので見ることも出来ます。 また、「α波」とか「β波」とかの働きを脳内部を「色分け」して見る「図」のようなものもよく見かけます。


でも、それは「心そのもの」ではありません。


今、私がこの「文章」をパソコンに打ち込んでいるときにも(あなたが、この文章を読んでいるときにも)、私の(あなたの)「心(脳の中)」では、ある「声」が聞こえます(聞こえるはずです)。


それは、外から聞こえる普通の声とはちょっと違っていますが、「私の心の声」(あなたの心の声)なのです。

ちなみに、それは「私が聞いている自分の声」(自分の頭の中で響いている声で、「耳」で聞いている声)とも、ちょっと違います。

いわば、自分の「理想の声」だと想うのです。


耳で聞いているのではありませんが、確かに「聞こえる」声なのです。


その証拠に、心の中では「他人」の声はちゃんと「他人の声」で(心に)聞こえるのです。


よく、「マンガ」がアニメ化されたときに、「キャラ」の声に違和感を感じることがありませんか?


それは、「心」にそのキャラの“自分の「理想の声」”が聞こえていたからだと想うのです。




さて、問題はいよいよ「核心」に迫ります。



「人(命:生き物)」が死んだときに、「心」はどうなるか?ということです。


「体(身体)」は、「死んで」朽ち果てていくことに異論はないでしょう・・・。



では、「心」も死ぬのでしょうか・・・?




「宗教」では、「心(ハート)」が【魂(ソウル)】となって“生き続ける”と、説きます。(【エイワ】の中で生き続けるみたいな・・・w)










【真実】でしょうか・・・?












「心」の拠り所である【脳】が朽ち果てても、生き続けることが可能なのでしょうか・・・?









『ゴースト~ニューヨークの幻~』は、よく出来ている映画だと思います。


死んだ主人公の「霊」は、声も聞かせられないし、姿も見せられないので、「霊媒師」の体(声)を借りたり、「コイン」を浮かせたりします。


「心」も、(もし存在するなら)「霊」も【見えない】からです。


ただ、最終的に「姿」を見せたのは、「商業的(映画的)」な妥協?だと思いました・・・・www




よく「心霊写真」というものがありますが、私は“「霊」ではない”と思うのです。

なぜなら、「霊」のもとである「心」はそもそも「見えない」からです。

それが、“写真に「写る」”ということは、「不合理」だからです。


「心霊写真」に写っている「何か」は、霊とは別の「何か」だと思うのです。


「霊」そのものが「存在する」かどうかが一番の「疑問」なのです。



「死」によって、「体」も「心」も死ぬのです。


「体」が死ぬ(朽ち果てる)のに、「心」が死なないというのは「理屈」が通りません。


「「心」とは、生きている脳に宿るものなのです。




奥さんの葬式は、「セレモニーホール」で「仏式」で行いました。「四十九日」も同じお坊さんにやってもらいました。 まだ、そんなに年配ではありませんが、心穏やかで徳の高さを感じるよいお坊さんでした。


そして、「供養」についても丁寧に説いてくださいましたが、私は本心からは納得していません。


私にとっては、「死者」は存在しないからです。


「死んだ者」があるとすれば、残ったものは「遺骨」くらいで(それは、もはやただの「物」でしかない)、「霊」も「仏」もそれは「架空の存在」です。


人々を安心させるための「方便」だと考えるからです。

「死者」に(正確には“生前の思い出に)対して【敬意】は払いますが、「供養」はあまり考えません。


  “「仏様(死者)」も喜ぶでしょう・・・”

など、(心の中では)全く思っていません。それをする前に、生きている間に何もしてやれなかった「後悔」「未練」が強く湧き上がるのです。



もし、そんな私を恨むのなら、“化けて出てみろ!”と言いたいです。

もし、もう一度話が出来るのなら、ちっとも怖くなんかありません!  ・・・・でも、出来っこないだろ!!!

   “悔しかったら、化けて出てみろ!”


絶対、この世に(特に「子ども」たちに)「未練」はいっぱいあるに違いないから・・・!



でも、死んじゃったらおしまいなんだよ、人生ってものは・・・。



たぶん、そんな残された者のどうしようもない「後悔」の念(「未練」)の「はけ口」が、【供養】なんでしょうね・・・。


それを救いにしたい人は、それでいいと思います。 だって、まだ生きていかなくちゃいけないから・・・。いつまでも、立ち止まっていられないから・・・。




「話」は変わるけど、『千の風になって』のヒットに対して、


 “「墓の前で泣くな」とは、何だ! 私は、泣きたいんだ!”

みたい「クレーム」をつけた頭の固いオジサンがいたそうですが、ほんと笑っちゃいました・・・www


だって、それもこれも全て「個人の自由」なんですから・・・。ここは、どこかの「統制国家」じゃないんですから!


  “「墓の前で泣かないで」と言うけれど、私は(こうこうこういう理由で)これからも(愛する人の)墓の前で泣くでしょう。”


と言えば済むことで、“「ケチ」をつける”必要もないでしょう・・・。


そういうことが「カッコイイ」と勘違いしている「へそ曲がり」が少なくないのです。


私は、ただの「異端のへそ曲がり」で、ただ自分の想いを誰かに聞いてもらえば気が済むだけで、それを押し付ける気は毛頭もありませんから・・・。
















命(いのち):“生きている”ということ そして “死”

2010-09-30 08:46:28 | 命(いのち):生きているということ・死
ブログ更新がめっきり減りました・・・


理由は、「野暮用」(日常的な“業務”w)に追われているからと、「テンション」が上がらないからです・・・



考えてみれば、「野暮用」は全て奥さんに「丸投げ」していて、浮世離れした自分の世界に入り浸って“現(うつつ)を抜かして”いました・・・。


「子ども」たちのことだって、「娘」ばかりだし、半分は「諦め」もあったし、全く任せっ切りでした。


何より、自分のことも含めて「家の中」のことは、奥さんに聞かなければ何も分かりませんでした。

  “アレ、どこにある?”

は当たり前のように口をついて出る言葉で、すぐに現物が現れるか、(彼女の)心当たりをいくつか「捜索」に取り掛かるかのどちらかでした・・・。



そんな彼女の「死」以来、「役所的な手続き」がいくつも必要でしたが、なかなか手につかないままでした・・・。

それでも、ここ数日、やっと「重い腰」を上げ始めました・・・



 テンション


「テンション」といえば、どうしようもなく「落ちて」しまうことが少なくありません・・・。

“空しさ”というか、突然「塞ぎ込む」ことが何度もありました・・・。



と言っても、日常的なこと(生きていくこと)自体には、なんの問題もありませんが・・・w


問題は、ココ(ブログ)です。


ココは、私にとっての【お出掛け】です。もちろん、「バーチャル」での・・・w

「バーチャル」と言っても、「お出掛け」にはそれなりの「準備」が必要です。

普通の「お出掛け」には、それなりの「ファッション」や「メイク」が必要になるでしょう・・・?

男の私の場合は、せいぜい着るもののチョイスくらいですが・・・(市内なら「ジャージ」でも、「ららぽ」にはNGとかw)

【お出掛け】ともなると、当然「テンション」も上がるでしょう・・・。




ココに来るには、それなりの「テンション」が必要なのです。特に、ココはテンション高めですから・・・w

でも、そういうテンションUPに、エンジンがかからないのです・・・。


  “【お出掛け】なんかしないで、「家」に居ればいいじゃん!”

そんな「声」に押されて、すっかり「引き篭もって」しまいました・・・


今が「不幸せ」とは思わないけど、「幸せ」には“何かが足りない”です。その「何か」は分かっていても、決して埋めらるものではありません。それが分かっているから、どうしてもテンションが上がらないのです・・・。


「幸せ」になりたいかと聞かれれば・・・、

   ”別に・・・”w

と答えるでしょう・・・www


今までずっと「幸せ」だったら、もう十分かな・・・?

「自分」のことより、「ほかの誰か」が幸せになってくれることがうれしいかな・・・?

特に「倖田」さんとかw、「Metis」とか・・・w

「テルマ」ちゃんは、今は大変な時だろうけど、若いからもう少し苦労してもいいかな・・・?w

(そう言えば、あんまり見に行ってないなぁ・・・)

「香里奈」さんはしっかりしてるから、「余計なお世話」でしょう・・・w



  “生きている”ということ そして“死”


ココは、基本、浮世離れした「妄想」の世界で、それはこれからも変えるつもりはありません。

だから、「死」を語ることは似つかわしくないかもしれません・・・。

これからも、「ことさら」に語るつもりはありません。

でも、「無視」すること、“背を向ける”ことも、フェアでない気がします。

普段、当たり前に生きている(日常の生活をしている)人たちにとっては、「死」を考える機会なんて皆無でしょう。 ましてや、「身近」なひとの身の上に、そんなことが降りかかろうなんて夢にも思わないでしょう。

実際は、それで何の問題もないのです。 そんな「不幸」は、滅多に起こらないのです・・・。


身近な大切なひとの突然の「死」に直面して、改めて“生きている”ということの「大切さ」を実感しました。



  結婚・夫婦

「夫婦」って何でしょう・・・?

基本的には、「子孫を残す」ことが一番の目的です。

もちろん、“子どもを作らない”“子どもが(欲しいけど)できない”という夫婦もあるでしょう。

そうしたこととは別に、“夫婦って何だろう?”って考えた時、私の思い当たった答えは

  “いっしょに暮らす”

ということです。たとえ寝室(ベッド)が違っていても、「ひとつ屋根の下」に住んでいれば、顔を合わせたり、言葉を交わすでしょう。

そこに、「あかの他人」とは違う「安心感」があると思うのです。

それが、元々は「あかの他人」であった二人の「男女」が夫婦であることの「証」であり、「ご褒美」だと思うのです。



生きてれば、何気ない会話もできるし、いろんな「スキンシップ」もできるでしょう・・・w





   余命

“余命1ヶ月の花嫁”の「長島千恵」さんのことも書きました。

「ガン」とかで、「余命○○」と宣告される人も少なくないでしょう・・・。

 “あなたの「命」は、あとこれだけです・・・”

なんという残酷な宣告でしょう・・・。

「死」への【恐怖】、そして「病気」の進行(あるいは治療そのもの)による【苦痛】、そして更なる【恐怖】・・・という「デススパイラル」の中に叩き込まれる、「本人」の苦しみを図り知ることは不可能でしょう・・・。


そして、それを見守る「身近な」ひとたちの苦しみも、相当なものに違いありません。


けれど、不遜にも、私はこうも思ってしまうのです・・・。


  “それでも、彼らは「幸せ」なのかもしれない・・・”

と。

もし、私の奥さんが「余命1ヶ月」だったらショックはめちゃくちゃ大きいでしょうが、すぐに涙をぬぐって立ち上がることでしょう。

だって、残りの「1ヶ月間」に彼女にできる精一杯のことをしてあげなくちゃいけないんですから。
残された時間は少なく「1秒」だって無駄にしたくないでしょう・・・・!
(彼女だって、子どもたちのためにいろんなことしたと思うのです。)

旅立った者も、残された者も、精一杯「やり切った」と思えるのじゃないでようか?(もちろん、決して「十分」だと思えないかもしれませんが・・・)

「悔い」は、少ないといえるのではないでしょうか・・・? ある種の「満足感」があるのではないでしょうか・・・?




それが、突然の死、突然の別れでは、「何ひとつ」できなかったのです・・・。


残されたのは、底知れぬ「空しさ」ばかりでなく、永遠に取り返すことのできない「悔い」なのです・・・。


それが、一番の「心残り」なのです。


次の「一歩」が踏み出せない重い「足かせ」なのです・・・。


もう「幸せ」を望んじゃいけないと思ってしまうのです・・・。


(それでも、決して「不幸せ」ではありませんから・・・w)



これを書くことは、ココでの「次の一歩」だと思っています・・・。






  あなたの身近な大切なひとのことを想ってください。


  できること、したいこと、を迷わずに「してみて」ください・・・。