6日(日)に実家(静岡)の父が亡くなった。
本当に、急だった・・・。
2ヶ月前、9月の始めに「遠近両用メガネ」を作るために、「ららぽ」の「JIN!S」へ案内したときは“いつも通り”だった(ような気がする)・・・
それが、先月21日(金)に突然、“具合が良くない・・・、会いたい・・・”みたいな電話をかけてきた。
その時、私は珍しく体調を崩していたので、翌週の30日(日)に実家に行った。
思った以上にやつれていた・・・
175cmくらいあって(私よりも長身)「ダンディ」な父だったが、あの“試写会の時の「原田芳雄」”みたいだった・・・
いきなり、「診断書」を見せた。
ずっと具合が良くなくて、かかりつけの医者にいろいろ訊いてもハッキリしないので、自分で市民病院で丸一日かけて「精密検査」をしたのだという・・・。
「胆のう癌」とか「肝臓」「リンパ」「転移」とか、走り書きみたいに書いてあった。
“1年は、もたない”みたいなことを言われたらしい・・・。
“そんなこと、ハッキリ言うんだ・・・!”と思ったが、不思議と冷静に受け止めた。
それから、すぐ近所で民生委員をしている方がいて親身にやってくれているというので、挨拶に行っていろいろと話しを聞いた。
その方は、今は(ご主人をずっと前に亡くして)一人暮らしていて、これまでも多くの父のような末期の人をみていたという。
“そんなに悪い父が、どうして入院していないのか・・・?”と疑問をぶつけたら、「末期」の(完治の見込みのない)場合は、入院させないことも少なくないそうだ・・・。
下手な「延命治療」をして副作用で苦しむより、自宅で心静かに“最期の時を迎える”方が「幸せ」じゃないかという考えらしい。
同感である。
だから、薬も(副作用の少ない)一番「穏やかな効き目」のものをもらっているらしい。
それで、「介護保険」の手続きや、「介護ベッド」の手配などもしてくれた。(まだ、届いていなかったけど)
実は、「長女」が東京へ行くことになっていた(本当は、29日(土)にも引っ越す予定だった)が、急きょ取り止めて父の世話をすることにした。
というのは、母が少々「ボケ」気味で(ウチと違って、「父」の方がしっかり者(お金の管理とかも全部、父がやっていた)の家庭だった)、心配だったから・・・。
仕事の関係で、3日(木)に見に行った一番下の弟が、電話をくれた。
婿に行った先の父親を少し前に亡くしていたが、その時よりもずっと元気で「安心」したと言った。
義父は、”3ヶ月の命です。”と言われたが、結局「3年」生きたそうだ。
(ただし、最後は(肺がん」だったせいか)「酸素マスク」を付けたままの寝たきりだったそうだ・・・。
薬の「副作用」も、酷かったそうだ・・・)
5日(土)、「長女」が着替えとか取りに戻って泊まっていった。
6日(日)、私は「中川あゆみ」ちゃんのライブを見に、「焼津」へ出かけた。
当日は、冷たい雨が降っていて、“ぬかるみのグランドでの「野外ステージ」”という気の毒なくらいの「悲惨なライブ」だった・・・。
それでも、彼女はめげる素振りも全く見せずに、健気に明るさを振りまいていた・・・。
私は、非情にも午前のステージだけで見切りをつけて、“せっかく、「焼津」に来たついでに・・・”と思って、「さかなセンター」で「カニ」とか「干物」を買い漁った・・・
「お寿司の弁当」を買って、駐車場の車の中で食べようとした瞬間、「長女」からの携帯が鳴った。
“「じいじ(父)」の具合がおかしい・・・”ということだった。家を出る直前にかけてきたという。
結局、実家(静岡)には、私が最初に着いた。
「警官」が3人いた。
静岡に帰るので何気なく電話したら、母の様子がおかしかったらしい。
“返事をしないし・・・、手が冷たいが体は温かいから・・・”
そのまま、どうしていいか分からなかったらしい。
「長女」が「119通報」して、「掛川」の消防から「静岡」に手配して、「救急車」が来たが“そのまま帰った”らしい。
それで、「警官」が来たようだ。(奥さんの時もそうだったが、「医師」の立会がなかったので来るようだ)
届いたばかりの「介護ベッド」に横たわった父の手は冷たく、顔はまるで「蝋人形」のようだった。
けっこう長くいろいろ聞かれた。(”どう見たって、病死だろう・・・!?”)
体をキレイにしてくれた。(帰ってから、布団をめくったら裸だった。「民生委員」さんがいっしょになって、「スーツ」を着せてくれた)
“そんなに早く亡くなるのか!?”
と驚いたが、悲しさは無かった・・・。
「あの日」から1年が過ぎ、“「死」を受け止める”ことができるようになってしまった。
「83歳」だったから、「寿命」なんだろう・・・。
「田舎」の掛川と違って(「隣組」でやってくれないので)、自分で「葬祭業者」に電話した。
7日(月)通夜、8日(火)火葬ということにした。「葬儀・告別式」は「後日」ということで・・・
しかし、「母」が京都の山奥(丹波篠山)の「お寺の娘」で、「実家」と「甥の家」で電話したら、(二人とも「お坊さん」で)8日に来るということになった・・・。
結局、「8日」に二人の立派な「お坊さん」がやってきた。
だから、「内々」だけど、立派な「葬式」ができた。
私は、別にどうでも良かったが、「娘」たちは喜んでいた・・・。
9日(水)、10日(木)は、母の保険・年金の手続きで、あっちこっちを駆け巡った・・・・
お役所の「たらい回し」というか、一番のネックはたとえ実の息子でも「同居」でないと(母は、疲れて自宅に残していたから)【委任状】が必要だということ・・・。
市役所やら、年金事務所やら、法務局やらと、自宅を何度も往復した・・・。
疲れたけど、悲しみは湧いてこない・・・。
我ながら、“なんて冷たい人間なんだろう!”って思う。
本当に、急だった・・・。
2ヶ月前、9月の始めに「遠近両用メガネ」を作るために、「ららぽ」の「JIN!S」へ案内したときは“いつも通り”だった(ような気がする)・・・
それが、先月21日(金)に突然、“具合が良くない・・・、会いたい・・・”みたいな電話をかけてきた。
その時、私は珍しく体調を崩していたので、翌週の30日(日)に実家に行った。
思った以上にやつれていた・・・
175cmくらいあって(私よりも長身)「ダンディ」な父だったが、あの“試写会の時の「原田芳雄」”みたいだった・・・
いきなり、「診断書」を見せた。
ずっと具合が良くなくて、かかりつけの医者にいろいろ訊いてもハッキリしないので、自分で市民病院で丸一日かけて「精密検査」をしたのだという・・・。
「胆のう癌」とか「肝臓」「リンパ」「転移」とか、走り書きみたいに書いてあった。
“1年は、もたない”みたいなことを言われたらしい・・・。
“そんなこと、ハッキリ言うんだ・・・!”と思ったが、不思議と冷静に受け止めた。
それから、すぐ近所で民生委員をしている方がいて親身にやってくれているというので、挨拶に行っていろいろと話しを聞いた。
その方は、今は(ご主人をずっと前に亡くして)一人暮らしていて、これまでも多くの父のような末期の人をみていたという。
“そんなに悪い父が、どうして入院していないのか・・・?”と疑問をぶつけたら、「末期」の(完治の見込みのない)場合は、入院させないことも少なくないそうだ・・・。
下手な「延命治療」をして副作用で苦しむより、自宅で心静かに“最期の時を迎える”方が「幸せ」じゃないかという考えらしい。
同感である。
だから、薬も(副作用の少ない)一番「穏やかな効き目」のものをもらっているらしい。
それで、「介護保険」の手続きや、「介護ベッド」の手配などもしてくれた。(まだ、届いていなかったけど)
実は、「長女」が東京へ行くことになっていた(本当は、29日(土)にも引っ越す予定だった)が、急きょ取り止めて父の世話をすることにした。
というのは、母が少々「ボケ」気味で(ウチと違って、「父」の方がしっかり者(お金の管理とかも全部、父がやっていた)の家庭だった)、心配だったから・・・。
仕事の関係で、3日(木)に見に行った一番下の弟が、電話をくれた。
婿に行った先の父親を少し前に亡くしていたが、その時よりもずっと元気で「安心」したと言った。
義父は、”3ヶ月の命です。”と言われたが、結局「3年」生きたそうだ。
(ただし、最後は(肺がん」だったせいか)「酸素マスク」を付けたままの寝たきりだったそうだ・・・。
薬の「副作用」も、酷かったそうだ・・・)
5日(土)、「長女」が着替えとか取りに戻って泊まっていった。
6日(日)、私は「中川あゆみ」ちゃんのライブを見に、「焼津」へ出かけた。
当日は、冷たい雨が降っていて、“ぬかるみのグランドでの「野外ステージ」”という気の毒なくらいの「悲惨なライブ」だった・・・。
それでも、彼女はめげる素振りも全く見せずに、健気に明るさを振りまいていた・・・。
私は、非情にも午前のステージだけで見切りをつけて、“せっかく、「焼津」に来たついでに・・・”と思って、「さかなセンター」で「カニ」とか「干物」を買い漁った・・・
「お寿司の弁当」を買って、駐車場の車の中で食べようとした瞬間、「長女」からの携帯が鳴った。
“「じいじ(父)」の具合がおかしい・・・”ということだった。家を出る直前にかけてきたという。
結局、実家(静岡)には、私が最初に着いた。
「警官」が3人いた。
静岡に帰るので何気なく電話したら、母の様子がおかしかったらしい。
“返事をしないし・・・、手が冷たいが体は温かいから・・・”
そのまま、どうしていいか分からなかったらしい。
「長女」が「119通報」して、「掛川」の消防から「静岡」に手配して、「救急車」が来たが“そのまま帰った”らしい。
それで、「警官」が来たようだ。(奥さんの時もそうだったが、「医師」の立会がなかったので来るようだ)
届いたばかりの「介護ベッド」に横たわった父の手は冷たく、顔はまるで「蝋人形」のようだった。
けっこう長くいろいろ聞かれた。(”どう見たって、病死だろう・・・!?”)
体をキレイにしてくれた。(帰ってから、布団をめくったら裸だった。「民生委員」さんがいっしょになって、「スーツ」を着せてくれた)
“そんなに早く亡くなるのか!?”
と驚いたが、悲しさは無かった・・・。
「あの日」から1年が過ぎ、“「死」を受け止める”ことができるようになってしまった。
「83歳」だったから、「寿命」なんだろう・・・。
「田舎」の掛川と違って(「隣組」でやってくれないので)、自分で「葬祭業者」に電話した。
7日(月)通夜、8日(火)火葬ということにした。「葬儀・告別式」は「後日」ということで・・・
しかし、「母」が京都の山奥(丹波篠山)の「お寺の娘」で、「実家」と「甥の家」で電話したら、(二人とも「お坊さん」で)8日に来るということになった・・・。
結局、「8日」に二人の立派な「お坊さん」がやってきた。
だから、「内々」だけど、立派な「葬式」ができた。
私は、別にどうでも良かったが、「娘」たちは喜んでいた・・・。
9日(水)、10日(木)は、母の保険・年金の手続きで、あっちこっちを駆け巡った・・・・
お役所の「たらい回し」というか、一番のネックはたとえ実の息子でも「同居」でないと(母は、疲れて自宅に残していたから)【委任状】が必要だということ・・・。
市役所やら、年金事務所やら、法務局やらと、自宅を何度も往復した・・・。
疲れたけど、悲しみは湧いてこない・・・。
我ながら、“なんて冷たい人間なんだろう!”って思う。