神社の世紀

 神社空間のブログ

聖山のお皿様【赤日子神社(愛知県蒲郡市)】

2011年06月06日 00時25分33秒 | 磐座紀行

 先日、安産祈願のために箒を奉納する信仰がないかと思って愛知県蒲郡市の宝喜神社を参詣した記事をアップしたが、同じ蒲郡市内には、三河国宝飯郡の式内社、赤日子神社が鎮座している。
 赤日子神社はヒコホホデミノ命、トヨタマ彦命、トヨタマ姫命、の三柱の海神を祀る古社で、トヨタマ彦命いがいの二柱は、安産祈願のために箒を奉納する信仰の見られる対馬の和多都美神社でも祀られている。じつはそうした信仰が宝喜神社に見られないかと思って出かけたのも、たんに社名が「ほうき」というだけではなく、蒲郡市内にワダツミ系海人たちによって奉斎された古社があったからで、彼らによってそうした信仰がこの地に伝えられていないか、などということもちょっと考えていたのである。赤日子神社へは宝喜神社を訪れたのと同じ日に参詣してきた。

 当社は市内の神ノ郷町というところに鎮座している。海が近いのにどこかの高原にいるような気分になれる高燥な土地で、空の美しさが印象に残った。
Mapion

 赤日子神社は参詣するまで何となくこぢんまりした神社というイメージをいだいていたのだが、じっさいに着いてみると拝殿の建物や社頭にある石灯籠などがものすごく大きく、村の鎮守というレベルをはるかに越えた構えの神域であった。どうやら国家神道の時代に整備されたものらしい(当社は旧県社)。総じて、国家神道の時代に大規模に整備された神社は、今、訪れると壮大というより、むしろレトロな感じを受けることのほうが多いが、当社からはなぜかそうした印象をあまり受けなかった。祭神や蒲郡の風土から受ける海のイメージが、広々とした風通しの良い境内のふんいきとよく溶け合っていたせいかもしれない。

赤日子神社

 境内から出て北西のほうに目をやると、平たい円錐形をした山がみえる。各地の神体山で何度も目にしてきた山容だ。地図で確認しないでもこれが聖(ひじり)山だとわかった。当社の神体山である。この山の山頂には赤日子神社の奥宮があるが、そこには拝殿や本殿といった建物のしつらえはなく、岩石だけが祀られている。今回、蒲郡を訪れた最大の目的は、この磐座を訪れることであった。

聖山
Mapion

 聖山の登山口は山の中腹にあり、そこまでは白龍池の背後を廻る道路をつかって車で行くことができる。詳しいアクセスは、「蒲郡市 聖山」等で検索すれば登山のブログなどに紹介があるだろうから省略。

 登山口から奥宮の「お皿様」までは20分程度かかる。ちなみに、途中の林相はありふれた用材林や二次林らしき広葉樹林だった。

 お皿様はこの赤日子神社奥宮にある磐座の通称である。聖山のほぼ山頂にあり(裏手を登ればすぐに山頂)、全長はだいたい高さ4m×幅7mくらいある。神さびているというよりもっとプリミティブな感じを受ける磐座で、対馬などに残された古い祭祀遺跡とふんいきが似ている。

お皿様全景

 お皿様の岩石は、一見して自然の露頭ではなく、人工的に構成された組石とわかる。各パーツの岩ももともとここにあったものではなく、どこからかに搬入されたものだろう。ちなみに私が登っている間、聖山ではあまり岩石を見かけなかったので、かなりの距離をここまで運び上げた可能性がある。もっとも、ここにあった古墳の横穴式石室が破壊され、その石材が利用された可能性も考えられるが、しかし現状ではどう見ても横穴式石室のように見えないし、『蒲郡市埋蔵文化財地図』もお皿様を古墳とは見なしていないようだ(★)。

★ なお、『ひじりの里 神ノ郷史話』ではお皿様を『蒲郡市埋蔵文化財地図』の神ノ郷3号墳に比定しているが、『蒲郡市史(本文編1)』p78に載っているこの古墳の写真は、お皿様のそれではない。『ひじりの里 神ノ郷史話』の誤解だろう。

 お皿様の外見で特徴的なのは、上部中央に怪獣の首のような岩の柱が突起していることである。さすがに登って確認はしなかったが、後述するお皿様の名前の由来となったくぼみはこの岩柱の頭頂部にあり、お皿様への信仰の中心となっている。

怪獣の首のようなお皿様の突起部

 赤日子神社は伊勢の多度大社とともに、雨乞いに霊験ある神社として有名というが、当社の雨乞い神事はお皿様の前で行われた。『ひじりの里 神ノ郷史話』に勇壮なその様子が紹介されているので、引用する。

「さて、この雨乞い行事は先ず、神前において氏子総代が御神火を作るのである。禊ぎをした数人が長さ三尺、幅一尺、厚さ一寸位の枯れた女竹を持ってもみこむのだ。だんだんくぼむ、くずが熱のためにぶすぶすえぶる。ここへガマの穂をやると火がつく。仲々の業で三人がかりで一時間くらいはかかる。やって得た火を神前に供える。又一方では神社の巽にあるオオタラヒ(清水が出て小さい池をなす)で雌雄二匹のタニシを手槽に入れてくる。これでお山登りの用意はできた。夕方を待って村人はタイマツを作って集る。
 このタイマツとは、長さ二尺程表棹・萱などを枯竹で包んだもので、昔はミノカサでお山登りをしたのだそうだ。このお山というのは氏神の戌亥聖山で、登山口を毘沙門口と呼んでいる。御神火をタイマツに点火した村人は夕闇を勇しく登り始める。火の行列約十五町程登ると、天之磐座がある。この広前に奉燈して天を焼く。この磐座のくぼみにタニシを逃がし、御神酒をお供えして祈願をする。実に壮観といおうか勇壮といおうか絶筆につきぬものがある。〈中略〉
 下山した村人は氏神様へ帰って来て拝殿に参籠する。この行事は祈願の初日と七日目に行われるのである。この間には、きっと霊験があるといわれている。(p40~41)」

 「お皿様」という奇妙な名前については次のような由来がある。

「この磐座に皿程のくぼみがある所から俗にお皿様といって、こんな伝説がある。このお皿様にはいつも水が満ちて居たが、ある時、村の童子がこの岩に登り他童のとめるのもきかず小便をひっかけた。すると不思議やくぼみにひびが入ってみるみる水がしみこんでしまった。童子連は恐れをなして逃げ去ったと。以後このお皿様には水の満つることがない。(p41)」

 くだんの悪童は血を吐いて死んでいたとも伝わっている。今でこそ民話的な装いをしているが、この伝承はかつてのお皿様が、聖なるものにつきものの厳重なタブーの対象であった記憶を伝えるものだろう。

お皿様の基部は祭壇になっている。

 かつてここで行われた雨乞い神事では、お皿様にたまった水に雌雄のタニシを放す行事が行われたというが、先日、紹介した宮城県気仙沼市に鎮座する大島神社の磐座もタニシにまつわる伝承があった。タニシは古来、水田農耕となじみの深い貝であっただけに、これを農耕神の使いとする信仰が各地にあったようだが、大島神社の磐座もお皿様と同じように山頂近くの、あまり湧水などありそうもない場所にある。そのほか、大島神社には赤日子神社と同じく、ともに海上安全のような航海神の信仰がみられた。こうした両社の共通性は、黒潮ルートによる信仰の伝播も思わせてなかなか興味ぶかい。

 


 

赤日子神社

 愛知県蒲郡市蒲郡市神の郷町森58蒲郡市神の郷町森58に鎮座
Mapion

 創祀年代は不詳だが、後述のアカヒコムラの時代にまで遡る可能性がある。
 文献上は『日本文徳天皇実録』仁寿元年(851)十月十日条に、三河国の十一神に従五位下が授けられた神階記事があり、その中に「赤孫神」の名が見えているのがもっとも古い。つづいて『日本三代実録』貞観七年(865)十二月二十六日条に従五位上、同貞観十八年(876)六月八日条に正五位下がそれぞれ授けられた記事がある。『延喜式』神名帳では、三河国宝飯郡の小社として登載されている。
 なお、『日本総国風土記』には「参河国宝飯赤孫郷赤日子神社圭田三十九束三毛田、所祭海神綿積豊玉彦神也、天智天皇甲戌九月、始奉圭田加神礼、有神家巫戸等」とある。

 現祭神は、彦火火出見尊、豊玉彦命、豊玉姫命の三柱で海神を祀り、上代のこの地域で活動した安曇系海人族によって奉斎されたと思われる。ちなみに三河国の式内社には、海や舟運との関係を強く感じさせるものがいくつかあるが、当社もその1つ。

当社はワダツミを祀る神社

 昭和三十七年に当社から東南に約100mはなれたミカン畑から、多数の弥生式土器が出土し、赤日子遺跡の存在が明らかになった。土器は寄道式と呼ばれる形式のもので、編年でいうと弥生後期の3世紀半ば、ちょうど卑弥呼が亡くなった頃のものだった。その後、平成十年代になってからの発掘調査で、赤日子神社の芝居小屋跡に隣接するミカン畑から、環濠の一部と思われる深さ約1m、幅2mの東西に延びる溝が検出され、当社境内から南東にかけての地下に、大規模な環濠集落の遺跡が眠っていることが明らかになった。遺跡の全容は解明されていないが、赤日子神社の創祀年代はこのアカヒコムラの時代にまで遡る可能性がある。

瑞垣の中を覗くと、本殿手前の石灯籠の根本にシャコ貝の貝殻が置いてあった。
ワダツミの故郷からもたらされたものだろう。

 いっぽう、「アカヒコ」の社名から、伊勢神宮に貢納された三河赤引糸との関わりを指摘する言説もある。
 『今昔物語集』に「參河の國に犬頭糸を始むる語」の説話もある通り、三河地方の養蚕は歴史が古く、このため、この地方には養蚕と関係の深い神社がいくつもある。また、三河湾沿岸部には伊勢神宮の神領が多く分布し、海を介して古くから伊勢神宮とのつながりが強かった。こうした背景からか、『領義解』などには伊勢神宮の神官の神衣は、三河赤引糸を使って織る旨の規定があり、荒木田經雅は『大神宮儀式解』でこれに着目して、「あかひこ」は「赤引(あかひき)」の転訛ではないかと記している。
 もっとも、赤引糸の「赤」は借字でほんらいは「明(あか)」であり、赤引糸は「光って美しい清浄な糸」の意であるが、そのいっぽう率直に考えれば「アカヒコ」は祭神名だろう。とすれば、意味上異なる2つの語の間に、転訛関係を想定するのはどうか、という気もする。

 当社は養蚕の守護神としても崇敬され、現在、当社拝殿の西側には養蚕祖神を祀った塚がある。

拝殿西側にある三河養蚕祖神を祀る塚

塚というか自然石を組んだもの

 平成「祭り」データにある由緒は以下の通り。

「総国風土記参河国宝飯赤孫郷赤日子神社圭田30束3毛田 天智天皇甲戌9月始奉圭田加神礼有神家巫戸等(1267年前) 延喜式神名帳に参河国宝飯郡六座並小赤日子神社文徳実録に仁壽元年冬10月乙巳授三河国赤孫神社従五位下(1076年前)三代実録に清和天皇貞観7年12月26日癸酉授三河国従五位下赤孫神従五位上(1062年前)国内神名帳に正二位赤孫大明神式内座宝飯郡早くより朝廷の御崇敬厚く国司領主地頭等尊敬も厚く寄進状十数通あり 明治5五年郷社に列せらる 明治12年7月改めて十有五ヶ村(三谷、牧山、五井、平田、小江、府相、新井形、竹谷、鹿島、拾石、西迫、柏原、清田、水竹、坂本)の郷社として崇敬せられたり 往昔当社より年々伊勢大御神の神衣を織奉る赤引の絲の調物を奉献りしにより其名著し当社は雨乞に霊験顕芳なりとて伊勢の多度神社と併称せられ又養蚕の守護神として其名高し 明治40年10月神饌幣帛料供進指定神社に列せられたり 大正5年三月14日に県社昇格す 昭和7年1月久迩宮邦英王殿下より神社号御染筆の額御賜進あらせらる 昭和9年10月」

赤日子神社社殿