神社の世紀

 神社空間のブログ

蟹守土俗再考(4/4)【湊神社(宮城県岩沼市)】

2011年04月25日 19時00分10秒 | 陸前の神がみ

蟹守土俗再考(3/4)のつづき

 『古語拾遺』の掃守連の説話では、蟹と箒が出産に結びつけられている。 

 このうち、蟹と出産の結びつきは、中山が『蟹守土俗考』で説いたように、蟹が脱皮を繰り返して生命を更新する生物であることから、生まれてくる子供もまた、蟹のように再生を繰り返し、いつまでも若く健康であれと祝福した土俗に由来するように思われる。

 では、箒と出産の結びつきは? これもまた、古代人の間で行われていた箒を使用する何らかの出産儀礼の記憶が、この説話に反映したものなのだろうか。

 中山の『蟹守土俗考』は、対馬の和多都美神社に、箒を奉納して安産を祈願する信仰があることをきっかけに開始されたにもかかわらず、箒のことが話題となるのはこの最初の部分だけで、以後はもっぱら古代人にとって蟹が神聖な生き物で、彼らの出産儀礼には蟹が立ち会わされたことだけが説かれている。箒と出産のつながりはほとんど論じられていない。

 では、トヨタマ姫が出産するおり、掃守連の先祖が箒をつかって蟹を追い払ったという説話は、何か箒を使うような出産儀礼が古代人によって行われていたということではなく、彼らの職務が宮廷の清掃であったことに由来する、ただの附会の説なのだろうか。

 この説話は、海神の娘トヨタマ姫が南九州の浜辺にある産屋で出産するおりのエピソードである。ギラギラ照りつける海辺の陽光と、うち寄せる波の音と、強烈な潮の香がそこには感知される。産屋の習俗も主として黒潮に沿った海岸地方に多く見られるため、南洋系の海洋民族がもたらしたと言われるものだ。となると、この伝承の元となった習俗は、古代海人族のそれではなかったか。

産屋
京都府福知山市三和町大原のもの

 その場合、和多都美神社が安産祈願のために箒を奉納する信仰のある数少ない神社の1つであるとともに、式内明神大社で海神ワダツミを祀る代表的な古社であることは意味深い。それは古代海人の間で箒を使う何らかの出産儀礼が行われていたのではないか、という疑い強めさせるのに十分な事がらである。

 もっとも、すでに述べたように、わが国には安産のために妊婦の枕元に箒を立てるとか、産気づいたときは妊婦の腹を箒で撫でるとか、妊婦は箒を跨いではいけないとかいった俗信があった。また、東北地方では山の神に安産を祈願し、無事、出産できた場合にはそのお礼として箒をあげるという民間信仰もあった。

 こうした俗信は近世以降に盛んになるので、和多都美神社に見られる箒を奉納して安産を祈願する信仰も古代から続くものではなく、近世のこうした俗信が神社の信仰に取り入れられて生じた可能性がある。私としては逆に、まず箒を使用する古代人の出産儀礼が先にあって、そこからの影響でこうした俗信がはじまったと信じたいが、どちらが原因でどちらが結果かというそれは、えてして「ニワトリが先か、卵が先か」に陥るので、あまり手を出したくない議論である。中山が『蟹守土俗考』で箒のことにあまり触れなかったのも、おそらくこのためだろう。

 しかし、もし箒を奉納して安産を祈願する和多都美神社の信仰が、近世になってからこうした俗信を取り入れて生じたものとすれば、私は同じような信仰が見られる神社が全国にもっと多く見られても良いのではないかと思う。だが管見では、このタイプの信仰が見られる神社はこれまで紹介してきた6社だけなのである。私が見落としている神社が他にある可能性を考慮しても、この数は少ないと思う。しかも対馬に2社あるのを除くと、これらの神社は非常に孤立している。すなわち、愛媛県に1社、神戸に1社、大阪府に1社、宮城県に1社という具合なのだ。

 また、もしも神社の信仰にこうした俗信が影響を与えることがあるとすれば、すでに述べたように、大和の葛木倭文坐天羽雷命神社や出雲の加毛利神社は掃守連と関係が深い古社なので、まずこういった神社こそが、箒を奉納して安産を祈願する信仰が見られてもおかしくないと思う。が、両社には安産の信仰はあるものの、箒を奉納するというそれはないのだ。

 といったようなことで、和多都美神社などに見られるこのタイプの信仰は、近世の俗信の影響によって生じたものなどではなく、古代海人たちが行っていた、箒を使用する何らかの出産儀礼を伝えている可能性があると思う。上代の箒は、単なる掃除道具ではなくケガレを祓う呪具としての機能があった。あるいはこのため、産婦と新生児を悪霊の害から護る魔よけの品として、産屋に箒が携行されたのかもしれない。

 それはともかく、その場合、感動的なのは宮城県岩沼市の湊神社である。最初に紹介したように当社には箒を奉納して安産を祈願する信仰があり、阿武隈川河口部の堤防下にある鎮座地は、対馬でこのタイプの信仰が残る和多都美神社や志々伎神社と立地条件がとても良く似ている。

 また、和多都美神社が鎮座するのは仁位浦奥部の静かな入江で、半島と北九州を結ぶ交易にあけくれた海人たちが船を休めるのにいかにも適した場所である。ちなみにこの浦は島内でも沿岸部から『魏志倭人伝』時代の遺物が多く出土することで際だっており、同書に登場する大官「卑狗」も、このふきんに王都を構えていた可能性が高い。また志々伎神社は現在も社前を流れる河川をやや下ったところが船だまりとなっており、ふきんに海人たちのコロニーがあったことを思わせる。

 いっぽう、社伝によれば湊神社も「往昔、田村将軍東夷平定凱旋するに当たり湊の神の恩頼に依り河口に安着せるを報賽せんとして神祠を建立し」たとあり、ここから古い時代には当社の近くに港があったことが分かる。こうしたことも、湊神社と対馬の上記2社を近しいものに感じさせ、古代において当社を奉斎した集団が海人族であったことを伺わす。その場合、距離は離れていても、このように古代海人の活動を介して通ずる点が多い宮城と対馬の神社に、全国的に見ても例が少ない箒を奉納して安産を祈願する信仰が残されているのはまことに意味ぶかいことである。

 唐突だが、ここで今回の地震のことに話を移す。

 3月11日以来、「日本は一体」という同胞意識を強く抱くようになり、それに動かされて、全国レベルで広がる支援の輪に加わろうとした人は少なくないと思う。こういった一体感は未曾有の危機的状況の中で高まったナショナリズムに由来するものだろうか。

 今回の震災は国家的なレベルの問題であると共に、主として東北と北関東の太平洋岸いったいというローカルなレベルの問題でもある。政府の無策により被災地の救援がじゅうぶんに行き届かない今、物質的にも精神的にも、他地域からのはげましや民間活動を生活の支えにしている被災者の方々は少なくないとおもう。その場合、国家ではなく、地域と地域の繋がりによって担保されているという点で、こうした一体感はたんなるナショナリズムとは異なるものだ。

 対馬の和多都美神社と宮城の湊神社はずいぶん離れた場所に鎮座しているが、神戸の箒の宮は、両社のあいだに横たわる空白を埋めるものだろう。
 ところで、この神社は阪神淡路大震災で被災したが、今回の地震で被災地救援のためにもっとも早く立ち上がった団体は、かつて阪神淡路大震災で救援活動を行った経験のある神戸のグループだったと記憶している。したがって箒の宮の信仰は、こうした神戸から東北という人的交流が、じつはにわかにできたものではなく、海人族の活動を介して古代においてもすでにあったことを示唆するのである。

 こうした普段は意識しない他地域とのつながりが、文化の古層に潜ると、しばしば突然、見いだされるというのは、この国の文化構造の強みだろう。記憶装置としての神社がそうした構造を支えるのだ。

 


 

湊神社プロフィール

 

湊神社々殿

宮城県岩沼市寺島字瀬山寺76に鎮座
Mapion
海上安全とともに安産の信仰がある
祭神は「表筒男命」
俗称は「ほうき明神」

社頭の様子

岩沼商工会議所のホームページによれば
当社の境内の大木があって根本に椿の木が宿っており、
その大木を抱くと子が授かるという信仰のことが載っていた
どうやら、これがその大木と椿らしい

社地ふきんの堤防に上って撮影した阿武隈川と対岸の景色

堤防から見下ろした社地全景
境内にあった石標によると、
当社の社殿は平成元年の堤防改修工事の際、
東に10m程度遷座したという