★蟹守土俗再考(1/4)のつづき
安産祈願で箒を奉納する神社としてまず最初にあげたいのは、中山が『蟹守土俗考』で取り上げた、長崎県対馬市豊玉町仁位の和多都美神社である。
仁位浦は対馬中央部にある深い入江で、
沿岸には弥生時代の遺跡が多く分布する。
和多都美神社はこの入江の奥部に鎮座し、
しゅうへんは広大な原生林につつまれている。
神話的なふんいきが横溢した当社の社地にいると、
「海幸・山幸」の舞台がここであってもおかしくはないという気にさせられる。
和多都美神社社殿
当社は『延喜式』神名帳、対馬島上県郡に登載ある同名の明神大社の有力な論社とされ(同郡の式内明神大社、和多都美御子神社とする説もある。)、古代海人族がワダツミを祀った格式高い古社である(現祭神はヒコホホデミ尊とトヨタマ姫)。
海中に連なる鳥居は当社のシンボル
この光景が見たくて対馬に行ったようなもの
里人が当社で安産を祈請する際、まず箒一本を奉納し、無事出産が済めば、また一本を奉納する習俗があることはすで紹介した。また、神主の長岡家には、「トヨタマ姫がお産の時、蟹が這ってきたので、箒で掃き出した。産がある家に蟹が出るのを嫌うのも、女は箒をまたぐものではない、というのもそのためだ。」との伝承があるという。
社地で見かけた蟹
社伝によれば、かつてこの地には海神が造営した壮大な宮殿があり、記紀の名高い「海幸・山幸」の舞台 ── 紛失した兄の釣り針を捜して海神の宮殿を訪れたヒコホホデミ尊が、海神の娘のトヨタマ姫と出会って結ばれるという周知のストーリー ── もここであったという。やがて後世、宮殿の跡地に尊と姫を祀るために創建されたのが当社であった。
ふきんには尊と姫が最初に出会った井戸とか、姫の山陵と呼ばれるものがある。
和多都美神社ふきんの海浜にある「玉の井」。
もともとは海神の宮殿の門の所にあった井戸で、
ここを訪れたヒコホホデミ尊がトヨタマ姫と出会った場所であるとか、
海神の御子が出生したおり、産湯を汲んだ井戸であるとか伝承されている。
和多都美神社背後の森の中にある「トヨタマ姫の山陵」
注連縄のしてある石標の載った石積みが
古来、トヨタマ姫の奥津城とされてきたもの。
背後には巨岩が露頭しており、本来はこれが
当社の磐座として信仰されていたのだろう。
社地の傍らは、それほど大きくはないものの河川が流れている。河口部に鎮座するという特徴的な立地において、以下に紹介する久田の志々伎神社や、宮城県岩沼市の湊神社と共通していることが注意をひく。
社地の傍らを流れる小河川
対馬にはもう一社、箒を奉納して安産祈願をする神社がある。長崎県対馬市厳原町久田の志々伎神社である。永留久恵の『対馬の文化財』によれば、「久田の志々岐神社は、安産の神として信仰されているが、これには安産を祈願する妊婦が、箒を奉納することで有名である。以前は手作りの箒を献上したものであるが、今では市販の箒が上げられている。」とある。
祭神は豊玉姫命、天忍人命、十城別命の三柱。天忍人命は掃守連の祖神であり、十城別命は日本武尊の弟で、肥前国松浦郡の式内社、志々伎神社の祭神である。この肥前の志々伎神社と当社の関係はよくわからないが、いずれかの時代に勧請されたものだろう。
志々伎神社社殿
当社を訪れたおり、拝殿の床下にプラスチック製の柄がついた箒が何本も突っ込んであるのを見つけた。家庭で玄関を掃く時などに使われるもので、神社の境内を掃くには小さすぎる。柄にマジックで「奉納」とし、その下に奉納者の氏名が書いてあるものがいくつかあったが、全て女性の名だった。どうやら安産祈願で奉納さられたものらしい。こうした目的が確実にわかる箒を神社で見たのは、今のところ当社だけである。
安産祈願で奉納されたらしい箒
どこの神社でも見かける竹箒。これも安産祈願で奉納されたものかどうかは不明。
この神社も河口に面して鎮座している。
社地の前を流れる河川の状況
橋の向こうの船だまりは、もう海