前回の投稿で、
村上春樹の名前から、
浮かんだことがある、
と書きました。
今日は、そのお話を。
村上春樹の作品は、
5年くらい前に、
集中的に読んだ(ハマッた)事があり、
一時期は、文体を真似ることさえ、
出来そうな気がしていました(笑)。
初期の3部作が、私には特に面白かったのですが、
今日はその話ではなく、
「やがて哀しき外国語」というエッセイ集の中の、
「さらばプリンストン」というエッセイの中で、
書かれていることについてです。
以下、抜粋引用
ひとりのアメリカ人の学生は吉行淳之介の「樹々は緑か」を取り上げて論じた。(中略)困ったことに僕はこの作品をずっと昔読んだきりで、その内容をほとんど何も覚えていない。(中略)実際に読んでみると、この「樹々は緑か」の英訳版はかなりきちんとした丁寧な翻訳であった。(中略)僕はふと「たしかにこの翻訳はよくできている。でもこれをもう一度そのまま日本語に直してみたらいったいどうなるんだろう」という疑問に襲われた。
そして、この後、吉行淳之介の原文と、
英訳から再翻訳された、
村上春樹版の翻訳文章が紹介されています。
再び、抜粋引用
書いてあることは同じだけれど、こうして再翻訳してみるとけっこう雰囲気が違っていることがおわかりになると思う。
として、その後、違いの説明が続きます。
ここから、鈴木の書きたいことですが。。。
実は、ご本人がおっしゃっているよりは、
原文と再翻訳文というのは、
情景描写、心理描写において、
かなり近い、
近似値レベルのものであると、
私なんかは思います。
で、
やや、話がそれますが、
その昔、
どなたか、著名な同時通訳者が、
同時通訳時に、
「日の丸弁当」を、"Apple Pie"
と訳された、といったような話を、
聞いたことがあるように思います。
(間違っていたら、ゴメンナサイ。)
同時通訳の場合、
例えば、「日の丸弁当」という一語に対し、
英語で、
「日の丸弁当。米の上に、梅干ひとつをのせた、質素で簡易な携帯食。しかしながら、貧しかった当時の食料事情において、そうした質素な弁当すら、たいそうなご馳走であった。」
といったような解説を入れることはできないでしょうから、
こうした、その文脈において、
「同義になり得る単語」を、瞬間的に当てはめるという、
天才的なひらめきと語彙の選択センスが、
知識、技術のみならず必要になるんだなぁと、
畏敬の念とともに思います。
その反面、
もう一度、再翻訳する場合を想定すると、
そこに訳者のひらめきとセンスを必要とするなら、
再翻訳をする訳者に、同様のセンスがなければ、
"Apple Pie"では、
"日の丸弁当"に、
戻っていかないような気も
ほんのちょっとだけ、
します。
日本語を英語にするとき、
文化的な違いもあって、
日本語の単語を、ただ、英単語に置き換えるだけでは、
Nativeに解る英語文にならない場合も多いと推測しますが、
元の日本語が見える形で、
英語に変換していく技術というのもあったりするのかなぁと、
今回、ふと、
思ったのでありました。
そんなこんなで、
村上春樹訳の、「グレートギャツビー」
面白いんだろうな、と思います。
読んだら、また、
感想、書かせて頂きます。
村上春樹の名前から、
浮かんだことがある、
と書きました。
今日は、そのお話を。
村上春樹の作品は、
5年くらい前に、
集中的に読んだ(ハマッた)事があり、
一時期は、文体を真似ることさえ、
出来そうな気がしていました(笑)。
初期の3部作が、私には特に面白かったのですが、
今日はその話ではなく、
「やがて哀しき外国語」というエッセイ集の中の、
「さらばプリンストン」というエッセイの中で、
書かれていることについてです。
以下、抜粋引用
ひとりのアメリカ人の学生は吉行淳之介の「樹々は緑か」を取り上げて論じた。(中略)困ったことに僕はこの作品をずっと昔読んだきりで、その内容をほとんど何も覚えていない。(中略)実際に読んでみると、この「樹々は緑か」の英訳版はかなりきちんとした丁寧な翻訳であった。(中略)僕はふと「たしかにこの翻訳はよくできている。でもこれをもう一度そのまま日本語に直してみたらいったいどうなるんだろう」という疑問に襲われた。
そして、この後、吉行淳之介の原文と、
英訳から再翻訳された、
村上春樹版の翻訳文章が紹介されています。
再び、抜粋引用
書いてあることは同じだけれど、こうして再翻訳してみるとけっこう雰囲気が違っていることがおわかりになると思う。
として、その後、違いの説明が続きます。
ここから、鈴木の書きたいことですが。。。
実は、ご本人がおっしゃっているよりは、
原文と再翻訳文というのは、
情景描写、心理描写において、
かなり近い、
近似値レベルのものであると、
私なんかは思います。
で、
やや、話がそれますが、
その昔、
どなたか、著名な同時通訳者が、
同時通訳時に、
「日の丸弁当」を、"Apple Pie"
と訳された、といったような話を、
聞いたことがあるように思います。
(間違っていたら、ゴメンナサイ。)
同時通訳の場合、
例えば、「日の丸弁当」という一語に対し、
英語で、
「日の丸弁当。米の上に、梅干ひとつをのせた、質素で簡易な携帯食。しかしながら、貧しかった当時の食料事情において、そうした質素な弁当すら、たいそうなご馳走であった。」
といったような解説を入れることはできないでしょうから、
こうした、その文脈において、
「同義になり得る単語」を、瞬間的に当てはめるという、
天才的なひらめきと語彙の選択センスが、
知識、技術のみならず必要になるんだなぁと、
畏敬の念とともに思います。
その反面、
もう一度、再翻訳する場合を想定すると、
そこに訳者のひらめきとセンスを必要とするなら、
再翻訳をする訳者に、同様のセンスがなければ、
"Apple Pie"では、
"日の丸弁当"に、
戻っていかないような気も
ほんのちょっとだけ、
します。
日本語を英語にするとき、
文化的な違いもあって、
日本語の単語を、ただ、英単語に置き換えるだけでは、
Nativeに解る英語文にならない場合も多いと推測しますが、
元の日本語が見える形で、
英語に変換していく技術というのもあったりするのかなぁと、
今回、ふと、
思ったのでありました。
そんなこんなで、
村上春樹訳の、「グレートギャツビー」
面白いんだろうな、と思います。
読んだら、また、
感想、書かせて頂きます。