「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ
自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません」
(ルカ伝14-26)
キリスト教は愛の宗教であるという。
仏教が哲学的な宗教で、イスラム教が儀式的な宗教であるように、
キリスト教というのは愛を高唱する倫理的宗教であるという。
自分で聖書を読んだことがない人は、
「キリスト教=愛の教え」と勘違いするかもしれない。
しかし、それは違う。
もちろん、イエスは愛を説いた。
人類史上、最大の愛の権威者は、イエスである。
だからキリスト教をもって愛の教えと解するのは、
わからなくもない。
だが、キリスト教の本質は愛ではなく、キリストである。
もし聖書のメッセージが「愛」の一言であれば、
上記の聖句にあるように、自分の家族を憎むというような、
愛に反する教えはあってはならない筈である。
「自分の敵を愛せ」(マタイ伝5-44)と言い給うたイエスが、
なぜ、家族を憎むというような、一見非倫理的なことを教えたのだろうか?
何も、憎む必要はないではないか?
家族も敵も何もかも、愛すればよいではないか?
なぜゆえ、イエスは、憎むことを教え給うたのか?
人は、「愛」さえあれば良いと言うかもしれない。
しかし愛ほど、誤解され易く、間違い易いものはないのである。
誰も愛さない愛というのもあるのである。
誰一人愛さぬ愛というものが、この世にはある。
他人のことを全く気にとめず、他人のことを全く憂慮せず、
まるで愛しているように振る舞いながら、実は他人に無関心な愛があるのである。
「俺は人を愛することができる」と自惚れ、
自分を倫理的・宗教的に一段高い人間に据え置くために、
愛の対象を選び、愛を演じ、一見献身的に振る舞いながらも、
実は全くその人に興味も関心もないというような愛があるのである。
どんなに人を愛しても、彼自身の内に肝心な愛念がないために、
愛すれば愛するほど、相手が踏み躙られたと感じ、侮辱されたと感じ、
冷たくあしらわれたと感じ、圧迫されたと感じる愛があるのである。
社会的経験によって培われた、社交性や如才なさによって、
まるで人を愛しているように見せかけることもできるのである。
悲劇といえば悲劇であるが、愛という言葉の中には、
最も良きものと最も悪しきものが含まれる。
イエスは、心から人を愛せと命じ給うた。
しかし同時に、偽りの愛を禁じ給うた。
愛の本源は神(イエス)であれば、イエスなき愛の行為を、
厳しく禁じ給うた。
まず家族ありき、まず隣人ありき、まず恋人ありき、
そういう愛は、自分の我欲が混じり易い分だけ、
偽りの愛を演じ易い。
もし愛を完全な無私の行為であるとすれば、
愛は一度、我欲の壁(罪)をぶち壊し、他人に向かう必要がある。
家族を愛すればよい、隣人を愛すればよい、恋人を愛すればよい、
そういう直接的な愛は、愛なくとも愛することができる。
すなわち、愛を演じることができる。(ローマ書12-9)
まるで敵国と一時(ひととき)の平和条約を結びながら、
水面下では武力行使の機会を狙うような、愛を演じることができる。
家族と愛ある生活を楽しむように見えて、実は愛など一片もなく、
ぬくぬくと怠惰な生活を営むことだってできる。
イエスは憎しみを推奨するというよりも、偽りの愛を絶滅し、
真の愛を実現するために、絶対化されたすべての隣人愛を否定し給うた。
真の愛を実践するには、一度すべての偽りの愛を断念せねばならない。
他人を真に愛するためには、一度すべての執着を断たねばならない。
キリスト教とは、世間一般で言われるような、愛の宗教ではない。
あまりにも熾烈に愛を求めるが故に、時には憎しみを説くような宗教である。
ならばキリスト教とは何であるかというと、
キリスト教とはキリストである。
愛は大なり、されども、キリストは愛よりも大なり。
キリストなくして、人は、真に他人を愛することができないのである。
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自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません」
(ルカ伝14-26)
キリスト教は愛の宗教であるという。
仏教が哲学的な宗教で、イスラム教が儀式的な宗教であるように、
キリスト教というのは愛を高唱する倫理的宗教であるという。
自分で聖書を読んだことがない人は、
「キリスト教=愛の教え」と勘違いするかもしれない。
しかし、それは違う。
もちろん、イエスは愛を説いた。
人類史上、最大の愛の権威者は、イエスである。
だからキリスト教をもって愛の教えと解するのは、
わからなくもない。
だが、キリスト教の本質は愛ではなく、キリストである。
もし聖書のメッセージが「愛」の一言であれば、
上記の聖句にあるように、自分の家族を憎むというような、
愛に反する教えはあってはならない筈である。
「自分の敵を愛せ」(マタイ伝5-44)と言い給うたイエスが、
なぜ、家族を憎むというような、一見非倫理的なことを教えたのだろうか?
何も、憎む必要はないではないか?
家族も敵も何もかも、愛すればよいではないか?
なぜゆえ、イエスは、憎むことを教え給うたのか?
人は、「愛」さえあれば良いと言うかもしれない。
しかし愛ほど、誤解され易く、間違い易いものはないのである。
誰も愛さない愛というのもあるのである。
誰一人愛さぬ愛というものが、この世にはある。
他人のことを全く気にとめず、他人のことを全く憂慮せず、
まるで愛しているように振る舞いながら、実は他人に無関心な愛があるのである。
「俺は人を愛することができる」と自惚れ、
自分を倫理的・宗教的に一段高い人間に据え置くために、
愛の対象を選び、愛を演じ、一見献身的に振る舞いながらも、
実は全くその人に興味も関心もないというような愛があるのである。
どんなに人を愛しても、彼自身の内に肝心な愛念がないために、
愛すれば愛するほど、相手が踏み躙られたと感じ、侮辱されたと感じ、
冷たくあしらわれたと感じ、圧迫されたと感じる愛があるのである。
社会的経験によって培われた、社交性や如才なさによって、
まるで人を愛しているように見せかけることもできるのである。
悲劇といえば悲劇であるが、愛という言葉の中には、
最も良きものと最も悪しきものが含まれる。
イエスは、心から人を愛せと命じ給うた。
しかし同時に、偽りの愛を禁じ給うた。
愛の本源は神(イエス)であれば、イエスなき愛の行為を、
厳しく禁じ給うた。
まず家族ありき、まず隣人ありき、まず恋人ありき、
そういう愛は、自分の我欲が混じり易い分だけ、
偽りの愛を演じ易い。
もし愛を完全な無私の行為であるとすれば、
愛は一度、我欲の壁(罪)をぶち壊し、他人に向かう必要がある。
家族を愛すればよい、隣人を愛すればよい、恋人を愛すればよい、
そういう直接的な愛は、愛なくとも愛することができる。
すなわち、愛を演じることができる。(ローマ書12-9)
まるで敵国と一時(ひととき)の平和条約を結びながら、
水面下では武力行使の機会を狙うような、愛を演じることができる。
家族と愛ある生活を楽しむように見えて、実は愛など一片もなく、
ぬくぬくと怠惰な生活を営むことだってできる。
イエスは憎しみを推奨するというよりも、偽りの愛を絶滅し、
真の愛を実現するために、絶対化されたすべての隣人愛を否定し給うた。
真の愛を実践するには、一度すべての偽りの愛を断念せねばならない。
他人を真に愛するためには、一度すべての執着を断たねばならない。
キリスト教とは、世間一般で言われるような、愛の宗教ではない。
あまりにも熾烈に愛を求めるが故に、時には憎しみを説くような宗教である。
ならばキリスト教とは何であるかというと、
キリスト教とはキリストである。
愛は大なり、されども、キリストは愛よりも大なり。
キリストなくして、人は、真に他人を愛することができないのである。
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言葉にすれば表現が未熟過ぎて伝えられませんが・・・。
過酷な愛の体現者でもあり、全てを覆い癒して下さった方ということか。・・・深いなぁ。
キリスト教はキリストを説いた。。。
一般的には「愛」と言われるが、
他の執着を戒め、しかしキリストに依存する(執着する)神の絶対唯一を説いた。。。
一切皆苦はわかります。無常も理解できますが、
キリスト教は洗脳・思い込みに感じます。仏教は科学的であり合理的であるそうですが、キリスト教は信徒を愛しながら服従させ教会を通じて宣教を命じる。絶対服従、行為より信仰。
結局自分がとるに足らない、愚かな人間であることを宗教を通じて示されたような。
ルカの弟子の条件は嫌いな聖句です。
どこまでも神のしもべになってください。
私の信ずる神は私が徹底的に搾取されることは望んではいない。これじゃまるで派遣切りのホームレスですよね。私はよく牧師に神の乞食になれと言われました。どこまでも偉大な神の栄光の為。
どこまでも偉大な地上の経営者の為。
隣人を愛せ、最高の愛は
友の為に命を捨てること
と書いてあるんだがなあ…