キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

エルサレムへ進め!

2011-10-16 17:05:35 | 聖書原典研究(共観福音書)
そして,自分は石を投げて届くほどの所に離れ,跪いてこう祈られた。
「父よ,御心なら,この杯をわたしから取り除けて下さい。
しかし,わたしの願いではなく,御心のままに行って下さい」
(ルカ伝22-41・42/新共同訳)



福音書を研究する際,重要なことは,福音書記者の意図を本文から読み取ることである。

これ,確かに難しいことではあるが,決して不可能なことではない。

ルカ伝であれば,ルカが資料として用いたマルコ伝の,どこを削除し,何を付加したか,

等々を考慮していけば,以外と著者の意図したメッセージが浮かび上がるのである。


ルカは,資料に反して,サタンに関する記事を多く挿入している。

以下に挙げる箇所が,ルカが付加した文言である。

「国々の一切の権力と繁栄は,わたし(サタン)に任されている」(4-6)

「わたし(イエス)はサタンが稲妻のように天から落ちるのを見た」(10-18)
(サタンが地に降って,力をふるい始めるという意である)

「サタンは,あなた方を小麦のように篩い分けることを,許された」(22-31)

「今はあなた方(ユダ・祭司長・律法学者・長老)の時,闇の時である」(22-53)

明らかにルカは,サタンのこの世における力の強さを主張している。


ならばルカは,何をもって,サタンの力の本質とみなしていたのか?

サタンの誘惑の本質を,ルカはその編集の痕跡によって,以下に見ていた。

「神の子なら,ここから飛び降りたらどうだ」(4-9)

※ルカは,マタイに記載されている三つの誘惑の第二と第三を入れ替え,
第一・第二の誘惑を退けたイエスの言葉をもって,
第三の誘惑こそサタンの誘惑の最大なるものと位置づけている。
(10月9日「イエスの時」を参照)

ルカは,資料の「聖なる都」を「エルサレム」に変えることによって,

それがエルサレムの神殿であることを強調し,

「あなたを守る」という文言の挿入によって,

「あなたは神を信じているから,神に守られる筈だ。それを証明せよ!」と,

敬虔という名の傲慢を誘い出そうとしているのである。


そして,ルカ伝のイエスは,弟子たちを引き連れ,神の国を宣べ伝えながら,

大なる歓呼と共に,エルサレムに入る(19-39・40/ルカの付加)。

マルコ伝やマタイ伝のような,これから十字架の死をむかえる,悲壮なる雰囲気は,

ルカ伝には一片もない。

エルサレムに入ってから,イエスは神殿で毎日教え(19-47/ルカの付加),

大勢の民がイエスの下に集まり(21-38/ルカの付加),

イエスを憎む祭司長・律法学者は何も手出しできなかった(22-2)。

これ,明らかに神殿占拠と呼ばれるにふさわしい光景である。

だが,この世を左右することを許されたサタンによって,

イエスの生涯の絶頂は,逆に転落へと変わる。


サタンがユダに入る(22-3/ルカの付加)。

歯車は,逆回転し始める。

ユダが祭司長・律法学者を動かし,祭司長・律法学者が民衆を動かし,

遂には,罪なきイエスを十字架につけるという,結末が起こる。

サタンは,第三の誘惑である「神に愛される者は守られる筈だ」,

「守られないということは,神に捨てられたのではないか?」との問いを,

この世の出来事の流れの裏に隠れて,イエスを試したのである。

故に,ルカ伝のゲッセマネの祈りは,

「神が,サタンをその欲するまま自由に行わせて,ご自身の計画を成就する」という,

人間の苦しみの声として読まねばならぬ。


イエスは,「石を投げて届くほどの所で祈った」。

「石を投げて届くほどの所」もルカの付加である。

それは,我々読者に,「イエスを見よ!」と言っているのである。

ルカにおける神の国はイエスその人であることを考え合わせれば,
(ルカ11-20,17-21,使徒行伝5-42,8-5,28-23等々)

それは,「イエスに従え」ということを意味している。

ルカは,「イエスのように」とは言わない。「イエスのために」と言う。

各人各様のエルサレムがある。

「自分は神に見捨てられているのではないか!?」と疑わざるを得ない場所である。

その時,「御心のままに」と言えるか否かということが,

問われることになるだろう。


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1 コメント

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こんばんわ (インギー改)
2011-10-29 21:05:00
これからも読ませていただきます。

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