遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

詩「子鹿をめぐる眼の構文」

2010-04-08 | 現代詩作品
子鹿をめぐる眼の構文



森には森の、眼が
川には川の、眼があった頃の
膨大な関しにうんざりだったぼくら
あの眼は
いったい誰の手先だったかと、
知恵のみを拾い集める
膨大な死者の眼と競いあうように
たしかに、ぼくらの
大地は賄賂の宝庫だったか、見たこともない守護神の緑の火焔も、

黒部の谷で
ばったりでくわした子鹿の眼に
車の中のぼくらの眼はどのようにうつっていたか(散文の眼のさびしさ)
動物の目が
左右にあっても
眼眼、とも、眼ら、ともいわない
一瞬、子鹿のつぶらな眼が宙をきって
藪に逃げ込む
カメラが銃を超えて
世界に悲惨な遺体をばらまく、まなざしの力に
ぼくらの声はかき消されるだけだったか、
通じ合えない生命のむなしさ

子鹿、とよべば
子鹿があらあれる網膜のおくで
すでに僕の子鹿はきおくの宝庫をにげさっている
大地は実存のかくれ家であるか
存在のあいまいな川を下り
流れる水のなかでぼくを覗いている
眼眼、とも、眼ら、ともいわない
淋しい眼がある
向こう岸という岸の存在に関心はうすい、と関心を呼びもどし
ぼくのなかの核心が、淋しい水の眼を滑りおちる

(ひとは群れへ/
群れのある方へ/
葦のように靡いて行く/……)

岸辺にうちよせる不慮の眼は、
賄賂の水量をあらかじめ計り不慮にそなえるという人柱のような眼でるか、
(美しい姿しか映さない水の各務の眼であるか、古典的な、
(美しい文章鹿うつさない紙の鏡の眼であるか、あまりにも古典的な、
水の鏡から紙の鏡みまで(散文の眼のさみしさ))
昏い岸辺は葦の靡きにまかせて、露出オーバーの光の橋を
わたるべきかわたらざるべきか、と
あまりにも無惨な遺体をばらまいている

子鹿、とよばば
子鹿があらわれる望みは途絶え
すでにぼくの子鹿の実像は網膜をあざむいている

(ひとは群れへ/
群れのある方へ/
葦のように靡いて行く/……)

光の橋の存在の曖昧白湯揺れるぼくの優柔をあざけりながら
子鹿のちいさな陰嚢と白桃の種の、孤独を抱えた少年の目が
すばやくぼくの手をすりぬける岸辺で
カミソリのためらい傷のような孤独の眼の潔癖という
うっすら地を滲ませる泪の種の存在に関心はない、と関心を確かめながら
流れる水のなかでぼくを覗いている
もうひとつのぼくの眼がある
眼眼、とも、眼ら、ともいわない

その眼の
手先のひとは、
手先のまなざしは、
まなざしの不平等に
ひたつでひとつというが、
自然の構文の手の鳴る方へ
賄賂の愛のように靡きながら
寄る辺なき息に欺かれても
谷に消えた子鹿の消息に
ぼくをほっぽりだして
網膜の含意にとける
子鹿という眼は
眼の構文は
何処へ

深夜、河原におりたち
満天の星くずに襲われる、と、うかつにも
散文の眼に、その眼眼の眼ら、の構文の
究極のまなざしに
圧倒されるしらじらしさ


以上です。
いつもより少し長い詩になりました。

今、白い三日月の残月が空に漂っています。晴天のようです。

現代詩「片道切符」

2010-04-05 | 現代詩作品
片道切符



行く先の書いてない
切符をにぎり
火をくぐり
水をくぐって
あぶり出るあいまいな不安や恐怖に
乗り合わせた人の
命運ははかりしれない
だから
荒れ野にはじめてレールを引いた人のことを
思うと
手元の切符が
震える

震えながら
死んでなおその先の場面を
生きようとしている
詩の道ってどこにあるのか
行旅死亡人と名付けた
無縁な人々が
電車内での遺失物と
区別がつかない、ついの栖
他人が見ない、見えみないわけではない
手一杯の自己がいて
自己愛のツタが
民俗資料館のめぐりに蔓延している

金沢発上野行きの
夜行列車「北陸」「能登」が
ついに路線から消えてしまい
帰郷できなくなった
新生ふるさと喪失者たちは
純文学のように
消滅に向かう
過渡期さえみえないで
動画に夢中の
だれもが作家だと思いこむひとはいない
という特権的な傲慢が
消えたわけではない

それどころか
パッケージ旅行ではないから
個人の幸福感を
追求するにはわがままでなければ
うまくいかないのか
行く先のない
切符では
とりかえしできない、しようとも思わない
行旅死亡人の
生涯と変わらない
孤立化が
どこで断ち切ることが出来るか


*こちらは(北陸)今にも雨が降りそうな朝です。
さて、今日も頑張りましょう!

現代詩「犀星のしぐれ」

2010-04-02 | 現代詩作品
犀星のしぐれ



しぐれは
金沢の冬の暮れを
活気づけて
老女のしわを伸ばす
近江市場で
ふとよびとめる
冬の蟹
蟹の紅のなまめかしさ

脈絡もなく
母恋い泣き虫犀星の詩が
しぐれに混じってふりかかる
出口の向こうで
じっとこっちをみている
蟹の目がある

ひとはころされるたびに
つよくなっていきかえると、
いったひとのことばの
そらぞらしさ

山椒魚のように
失われた躰の部分を
再生する力が
われわれの幹細胞にあることを
みつけた米国の研究者の話を
熱心に語る店主に
さめた紅茶をすすり
うなずいていた

店主は一編の詩を指し示した
「あはあはしい時雨であった/さっと降って/またたく間に晴れあがって行った/
坂みちを上がりながら/空はと見れば/しぐれは街のなかばに行って/片町あたりに
降っていた/そうかと思ふともう寺町の高臺あたり/明らかに第二の時雨が訪れ/
その音は屋根と屋根の上をつたうて/蒼い犀川の上を覆ふのであった」(室生犀星
「しぐれ」愛の詩集より全行)

しぐれと
みぞれでは
実感として、重さも冷たさもちがう
わたしは「しぐれ」より
「みぞれ」の方が
金沢に降る雨としてぴったりだと
ずっとそう思っていた
すべては水に還る!

それは哀しいことではない
生きとし生きるものの
美しい逸脱を信じるささやかな身振り
犀星のしぐれ
しぐれを再生する磁力の川をまたぎ
記念館の角を曲がると
暮れなずむ板塀に
忍冬の白さが溶けはじめる

現代詩「兎の森」改訂

2010-04-01 | 現代詩作品
兎の森



わたしは恐竜になりそこねた
ウサギだった頃
人生の明暗や
美貌という濃淡の
属性からも自由になりたくて
中世の森をかけめぐる
ひとりの孤独が一番のなぐさめであった
今日も
「理性は小声でしゃべる」という
中世の森に来て
詩や小説は
私語りの花盛りだと
見知らぬ小鳥が教えてくれたことを思いだす
そんな夢からさめて
ベッドを転がり落ちる朝
窓から見下ろす
外は雪
いちめん悔恨の雪
恐竜になり損なった
ウサギの耳目という器質的な淋しさ
詩や小説の
私語りの寒さにふるえる
ふるえながら
わたしは多情なウサギと交尾を繰りかえす
こんな孤独がほかにあるだろうか
雪はため息の結晶
毀れた食器のかけら
遅延する社会の
勃興をねがうように
中世の森の向こうを流れる脳髄の川を
三月生まれの
夕月は
静かにただよう
桃色の胎児ではないか



*今日から4月ですね。こちらの町の桜はあと1週間で満開を迎えそうですが、
あなたの地区の桜は、いかがですか。