江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

名妓 首信(くび のぶ)の伝記 羈旅漫録

2024-04-24 23:02:12 | 江戸の人物像、世相

名妓 首信(くび のぶ)の伝記  羈旅漫録

                 2024.4

 

(118)首信(くびのぶ)が伝   羈旅漫録  滝沢馬琴

 大坂の島の内に「信(のぶ)」と言う芸子(げいこ)がいる。
人々は、あだ名して「首のぶ」と言っている。
その言わんとする心は、こうである。
大変に容色がすぐれていて、その首が、色っぽかったからである。
今、婦人の品定めに首がよい首がわるいと言うのも、こののぶより始まったのだそうだ。
 
 現在は、四拾余歳。
(原注:大坂の雨柳の話に、のぶは宝暦十一年=1761年=に生まれ、今の享和二年壬戊=みずのえ いぬ:1802年=に至って、四十三歳であろうと言う。)
しかしながら、なお二十五六歳に見える。
実に人妖(美人で若く見えるだけでなく、どこか妖しい魅力があるのでしょう)である。
朝起きて、おしろいを使っていないのに、顔色は却て(かえって)美しい。
(普通は、朝に化粧をするが、彼女は化粧もしないのに美しい。)

 父は、御所桜長兵衛と言う名の角力(すもう)とりであった。後に角力年寄になった。

 のぶは、安永の始め頃、芸子(げい子)となって、京の祗園にいた。
実に、人気があり、全盛であった。
富豪の人で、「のぶ」の為に、大金をなげうつ者が多かった。

 富豪の三井氏が、秘かに「のぶ」に懸想(けそう)して、数万両の金を浪費した。
(原注:一説には、のぶに十万両の金を費したと言う。)
ここに至って、三井の親戚及び番頭(幹部の従業員)等は、大いに驚き、すぐに主人を伊勢松坂の店に押し込めた。
年間の生活費などを、わずかに百両に限って渡した。
そして、親戚はすべて、彼と交際を絶った。 この時、のぶは、京に留まっても良かったのだが、こう考えた。
お金があるときは、楽を共にし、お金がなくなって貧乏な時には、別れるのは、人として、義ではない。
そうして、強いて松坂に行き、情郎(ほれたおとこ)に仕えること十三年であった。

 のぶは、よく仕え、かつまた松坂にいる間、本居宣長の弟子となって、おりおり源氏物語などを学んだ。また機を織ることを学び得た。
ある日、番頭たちは、協議して、内密にのぶにこう言った。
「あなた様の十三年にわたる御苦労は、普通の婦人の及ぶ所ではないでしょう。
しかし、あなた様が、主人(三井の)と一緒にいて、生活する限りは、親戚たちの憤りが解けないことでしょう。
このままでは、主人が、再び世に出て、才覚を働かせて、事業を拡大することは、出来ないことでしょう。
しかし、我らが主人は、あなたさまに、愛着をもっています。あなた様から、主人を嫌いにならないかぎり、あなた様を手放さない事でしょう。
もし、あなた様が、我れらが主人を本当に、愛しているのでしたら、あなた様が、自発的に京にお帰りください。」

 このように、請願されて、のぶは、その言葉に逆らわなかった。
のぶは、三井の主人に、「京に帰りたい。」と言った。
親戚たちは、よろこんで、のぶに種々の手道具を与えた。そして、京への交通費を用意して京都へ帰らせた。

 のぶは、京に帰って、道具類を売払い、七十両余りの金で櫛笄(くし・こうがい)などをととのえた。また別に衣服を製して、ふたたび祇園に出て、歌妓となった。そして、昔に勝る売れっ子になった。

 その後、俳優の嵐雛助(あらしひなすけ。原註:後に嵐小六と名を改めた。江戸で死んだ雛助の父である。)は、密かにのぶに通じて情交が厚かった。
世間では、大いに話題になった。

 さて、ここに御所桜の五六人の弟子が、協議して、
御所桜の家に到って、こう言った。
「うわさで聞いたことですが、師匠の娘さんが、雛助の妾となったそうですね。
師匠、どうして 娘さんを俳優(やくしゃ)の妾にしたのですか?お金のために、身を汚(けが)さしたのでしょうか?
もし、本当でしたら、我々は師弟の約束を、返上したい。」
と。
御所桜は、これを聞いて大いに困惑した。
そして、この事をのぶに語って、雛助と別れるように、と言った。
のぶは、そのことを雛助に告げた。
雛助は、こう言った。
「角力(すもう)とりと俳優と、どちらが尊くて、どちらが卑しいのだろうか?彼らは、みづから浪人になって、相撲取りになったとはいえ、お金をいただいて、人の見物(みもの)となるに至ったのは、俳優と同じだろう。又、俳優も昔は禁裏(宮中)に召され、天覧にあずかったこともある。それで、由緒を論ずるに至っては、どちらが上とか下とかはない。
私は、我が身にかへても、のぶを返さない。」
と言った。
ここに於いて争論は止まった。

 のぶは、こう考えた。
結局、父が角力の世界にいるからこそ、このような嫌な目に遭うのだ、と。
父は、年をとったのだから、隠居をさせようとして、京都にてしかるべき家を求め、豊かに老後を過ごせるように世話をした。
そこで、御所桜は、角力(すもう)をやめて隠居した。
それによって、御所桜と弟子たちの争いは、直ちに止んだ。

 その後、雛助が病死して、のぶは寡婦となった。
そして、また、元の歌妓となった。

 程へて、俳優の文七(原注:吉男)に思われ、ついに文七の妻となった。
しかし、少しして、文七は病にかかり、様々な治療をしたが、甲斐なく死亡した。
のぶは、夫のために願をかけて、髪を切り、讃岐の国(香川県)の金比羅様に参詣した。のぶが、お参りから帰る前に、文七は家で死亡した。

 その頃、浪速人(なにわびと:大坂の人)のことわざに、
「家に千金を積むとも、首になることなかれ。
もし、産を破らざれば、必ず、命を落とす。」
(首が美しい女と男女の仲になると、破産はしなくとも、命を失う。また、首のぶの首と、首にするの首をかけている。)
と言うのがあった。

 この後からは、のぶは、結婚しなかった。
大坂の島の内に出て、また歌妓となった。
今も、全盛の売れっ子である。
のぶは、すこし和歌をよみ、又、俳諧の連歌もたしなんでいた。

 私は、大坂に遊んた折り、あるタべに、この道頓堀の竹亭にのぶと会した。
のぶは、ここに来て、席に着いた。
そして、そのまま、
「馬琴先生、滝沢馬琴先生」
と私の名を呼んで、話しかけてきたが、まるで旧知(昔からの知人)のようであった。
先に来ていた他の歌妓や幇間(たいこ持ち)等には、私の事を知らない者もいた。
驚いたことに、のぶは、誰も私のことを、知らしめなかったのに、すぐに私の事を、察知した。
不思議なことである。
(馬琴先生は、高名な小説家ではあったが、無学な人たちは、その名を知らなかったことでしょう。また、江戸での有名人は、大坂では、あまり知られていなかったのかも知れません。)

 同じ席にいた嫖客(ひょうかく:あそび人)が、のぶに発句を求めた。
(訳者注:江戸時代は、宴席でも連歌などを行った。妓女などでも、たしなむものもいた。当然、それなりに尊重された。)
のぶは、三回ほど断った後に、
  わらは(笑わ)れて 夜をひた啼(なく)や きりぎりす                  
 と、書いて出した。
(訳者注:江戸時代には、コオロギのことを、キリギリスと呼ぶこともあった。この場合は、コオロギを指す。)
字も、上手であった。
のぶは、私に、扇に何か書いて欲しい、と強く乞うた。
それで、すぐに、狂文一篇と狂歌一首を記して渡した。
客たちは、興に入って、席中の歌妓、幇間(たいこもち)も皆、即興の発句を作った。
又、私に文を乞い歌を請う者が多かった。

 宴席は、四更(しこう:午前1時位から午前三時位まで)まで続いた。

ひらく手の おくやゆかしき 女郎花(おみなえし)                 歌妓  ふさ
聞(きき)たまへ 鶴井かめゐ(つるい かめい)も 千々(ちぢ)の秋                  歌妓  しげ
一ふしに 虫の音(ね)しんと ふけ(更け)にける  牽頭(けんとう:たいこ持ちのこと)  音八
この外、席上の嫖客、雨窓(1813~1875、新井雨窓ではないだろう)、国瑞(くにあきら:桂川甫周1751~1809か?)、慮橘等の即興の発句があったが省略する。

 


訳者注、と言うよりは感想: 「むかしの人は、かくいちはやくみやびをなんしける!」・・・伊勢物語の一文。感嘆せざるを得ない。
市民(今風にいえば)の宴席で、即興の詩歌のやりとりが行われたのは、大変なことです。
この「のぶ」と言う女性は、大変な美人であっただけでなく、頭も良く、気がきいて、実に魅力的だったのでしょう。
また、もし、三井の主人に対して、身を引かなかったら、今の三井財閥、三井グループは、無かったでしょう。

「羈旅漫録」について
馬琴先生の著作としては、八犬伝などの小説がよく知られていますが、「兎園小説」類(ここに言う小説は、今の小説Novelとは違って、随筆、雑文)や旅行記(騎旅漫録)などの、著作があります。
中には、なかなかおもしろい内容のものがあります。
「羈旅漫録」1803年 は、江戸から上方への旅行の紀行文です。
(「日本随筆大成第一期第一巻」収載の「羈旅漫録」より)

 


蛙が美女に化けて和歌を詠む  雑話集 

2024-04-23 21:57:35 | キツネ、タヌキ、ムジナ、その他動物、霊獣

蛙が美女に化けて和歌を詠む


              2024.4

蛙が美女に化けて詠んだと云う和歌があります

 

日本紀に云う。
紀ノ貫之の4代前の先祖に壱岐守紀良貞という人がいた。
わすれぐさを探して、住吉の浜に行った。
思いもかけず美しい女性に会った。
様々な話をして、また会うことを約束した。
「まことに私に気があるのならば、必ずこの浜に来てください。また、お会いしましょう。」と、約束して別れた。

その後、彼女に会おうと約束した頃に、また住吉の浜を訪ねて、会った場所を見ると、思いもかけずに大きな蛙が、その女性のいた所の前を這って通って行った。
その足跡を見ると、文字のようであった。
「住吉の 浜の見るめも 忘れねば かりにも人に またと(訪)はれぬる」という、歌であった。
これを見て、彼の女は、蛙の化身であったことを知った。
この歌も同じく万葉集に「かわず」の歌として入っている。

 

「雑話集 上27」広文庫 より


訳者注:この歌は、万葉には、入ってなさそうです。

 


賢いフナの行動  耳袋初編

2024-04-22 15:54:59 | キツネ、タヌキ、ムジナ、その他動物、霊獣

賢いフナの行動

              2024.4

耳袋初編二、一(広文庫)には、このような話が、収載されています。


日下部丹後守 話すには、同人の庭には秋の頃、トンボが多く集まって飛び回った。その時池のフナ数十匹が、そのトンボを見たのであろうか、クルクルと池の中をトンボについて、しきりに回った。すると、トンボもそれに連れて、同じように廻った。そのうちに水中に落ちたのがいて、多くのフナが集まって食べてしまった。
曲淵甲斐守の話である。
・・・・・


訳者注:
さて、この話を読んで、この池のフナたちは、偶然にトンボをつかめる技術を発見したのではないかと思う。
トンボを素手で捕まえる法があるのを、今の若い人は、知っているのでしょうか?
私の子供の頃は、多分 一般的に行われたことです。
こんな様です。
草とか枝などに止まっているトンボを見つけると、人差し指をトンボの目の前に差しだし、それをくるくると回します。
すると、それに気を取られて、じっと見つめて、逃げないで、枝先などに留まっています。
そこで、さっとその手で捕まえます。
これは、トンボは、動く虫を見定めて、捕まえて食べる習性があることを利用しています。
この話では、池とトンボ、水中でフナがクルクル廻っているのが、注目点です。
トンボは、水中に卵を産みつけます。それで、池に集まって来たと思われます。
群れていることから、赤トンボのたぐいと思われます。
ある秋の日に、トンボの群が、池に集まってきて、飛んでいました。
池のフナのあるものが、池を回遊していたののでしょう。すると、それにつられて他のフナも回遊したのでしょう。
今度は、沢山のトンボの内には、それを上から見ていたものもいたでしょう。トンボは、廻るものに注目して、つられて同じように池の上を廻ったのでしょう。そのうち、多くのトンボが池の真上近くで廻り、だんだんと水面の近くを飛んで、誤って水に次々と落ちてきたのだ、と思われます。

こういうことが、何回か起こって、フナは学習したのではないか、と推察されます。
その池のフナのあるものは、次の秋になっても、そのことを覚えていて、トンボが池の上に群で来たら、また、去年と同じことをして、トンボを食べることができたのでしょう。
こうして、日下部丹後守の庭の池では、フナによるトンボの補食が、続いたのではないか、と推察します。

この池のフナたちは、人間がトンボの目の前で、指をぐるぐる回すのと、同じ事をして、気を引いて、そのうちに捕まえたのと、全く同じです。

まあ、フナも結構 知能が高いのではないか、と思います。
もし、こういった行動が本能であったら、他の池でも、似たようなこと(トンボの群舞と、いけのフナの回遊、それに次いで、トンボの池への落下)が起こるはずです。
しかし、この池でしか起こらなかったということは、フナのある個体が、この狩猟法に気がつき、その池の中だけで伝承されたということでしょう。

高等な動物である猿の仲間では、道具を使うことが、時々発見されています。しかし、それは、本能ではなく、その群の特定の個体が偶然に使い、それを、群の他の個体がまねしたり、伝承された場合だけ、ほかの個体も道具を使うようになったのと、同じ事です。


遊女「よし野」の伝記 「羈旅漫録」

2024-04-21 22:55:38 | 江戸の人物像、世相

遊女「よし野」の伝記   「羈旅漫録」滝沢馬琴

               2024.4 
遊女「よし野」の伝記   「羈旅漫録」〔四十六〕

 

(原注:よし野の伝記は、雨談に出ているが、漏れた所もあるので、ここに録した。蟹の盃の図説の事は、雨談に詳しいので、それを見ると良い。)
  

 吉野の享年は、寛永八年、六月二十二日であった。
よし野は佐野紹益(1610~1691年)に請け出された。
紹益は灰屋と号する富豪であった。
吉野は紹益に先だって死んだ。

 都をば 花なき里と なしにけり 吉野を死出の 山にうつして        紹益

この歌は、その時の述懐の歌である。

或る人はこう言った。吉野の屍(しかばね)を火葬して、紹益みづからその遺骨を喰い尽した。
紹益がよし野に愛着すること、このようであった。

これから後に、灰屋の家は衰えたと言う。(原註:経亮の話)

 七月十七日、橋本経享(はしもとつねすけ)(割注:橋本肥後守経享は、香果園と号していた。京都の梅の宮の神官である。皇朝の典故にくわしく、文化二乙丑六月五十余歳にて没した。著すところ、梅窓筆記二巻が世に刊布している。)とともに、栄庵(えいあん)を訪ねて面会し、吉野の伝を問うた。
栄庵は、姓は、佐野氏、京都両替町二条下ル所に住居し、医を業としている。
この栄庵は、よし野の夫・紹益の孫である。
今は衰えて、貧しい家となった。
栄庵は言う。
「祖父の灰屋紹益の家は、知恵ノ小路上立売(かみたちうり)にあった。
紹益は和歌をたしなみ、蹴鞠、茶の湯などをした。
尾州、紀州の両公より召されて、度々出かけたことを、聞き伝えている。
古野が没してはるか後、浪速(なにわ)の小堀氏より妻を迎えた。
これにも子がなく、七十三歳の時、妾が男子を生んだ。今の栄庵の父 紹円(しょうあん)がそれである。紹円が五十余歳の時、栄庵が出生した。」
栄庵も六十歳ばかりに見える。
紹円も鞠を好んだと言う。

 この家によしの川の裂(きれ)、山中の色紙、(原注:崎人伝に、或る殿様が、何のついであったか、よし野に会った。吉野が、よろこぶべきものを、あたえようと、考えた。
小倉色紙のうちの藤原俊成卿の歌に、
「世の中に道こそなけれ」
と言う歌の句があったが、
「山の中に」と誤って書いたのがあったが、それがかえって評判になり、「山中の色紙」と言い伝えられて名物になっていたのがあった。それを贈った。
(訳者注:百人一首 世の中に道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる ・・・藤原俊成)

はたして、吉野は、大いに喜んだ・・・と云々。

 栄庵の家に蟹の盃があった。いづれも吉野より伝来の器物である。
栄庵の代に至ってますます窮したので、
よしの?は(原註:よしの截よしの漢東これである。?意味不明)人に売り与えた。
山中の色紙は雲州侯(出雲藩主)へたてまつり、今、家にあるものは、蟹の盃のみであるそうだ。
又、よし野や紹益が書いたものがいろいろあったが、度々の類焼に失い、又は人にのぞまれて与えて、今はないと言う。
よし野が書いた文があったが、それを見せてくれた。
紋所の印は、一ッ巴のうちにさくらの花がある。
手跡(筆使い)も又見事であった。
山中の色紙、広東の横(よぎ)、蟹の盃は、よし野が花街にあった時に、薩州侯(薩摩の殿様)より賜ったものだそうだ。

 栄庵は、又、こうとも言う。
紹益の菩提寺(ぼだいでら)は、内野新地立本寺(うちのしんち りゅうほんじ)にある。(原註:日蓮宗)
この寺は、その頃は、今出川町にあったが、その後、御用地(公用地)となり、今の場所に移転したが、墓も建て変えたのかは、はっきりしない。
石面には、紹益と吉野の戒名が二行に刻まれている。
紹益は八十一歳で没した。
古継院紹益(こけいいん しょうえき)   元禄四年(1691年)十一月十二日     
本融院妙供(ほんゆういん みょうきょう)   寛永八年(1631年)六月二十二日
これをもって考えるに、古野の没年は、紹益が二十歳の夏であった。そうであれば、よし野が紹益の妻となって程なく、大変若くて死んだのであろう。
なるほど、紹益が大事な宝物を失なった恨前(うらみ)の歌を吟じたのも、うなずける。

 栄庵に紹益の歌の事を問うたが、その通りで相違なかった。紹益は貞徳を友としていたそうだ。

 画工成瀬正胤(なるせまさたね)の話に、紹益がよし野をうけ出した時、父に勘当された。そして、しばらく下京にすみ家を求めて夫婦で住んだ。
その父が、他へ行って帰る途中で、雨がふり出したので、かたわらの家に入って雨舎(あまやど)りをした。
その家の内には、炉に釜をかけてあった。
主人は留守と見えて、大変美しい女房が、こちらへどうぞと招いて、うす茶をたてて出した。
その立ち居振る舞い、茶の手前まで、このような場所では見られないであろう位に優雅であったので、大変ふしぎに思いながら立ち帰った。

 次の日、こんなことがあったと知人に語ったが、彼は、
「それこそ御子息の紹益の妾ですよ。その家は、紹益のかくれ家ですよ。」
と告げた。
父は、始めて合点がいった。
その奇遇を感じて悟り、遂に紹益への勘当をゆるして、よし野を引きとり、妻とさせたそうである。

 自宅から、程遠からぬ下京に、その子が忍び住んでいたのも知らなかったのは、大富豪であったからであろう、と言われた。

 我が友人の慮橘(ろきつ)は京都の人である。近曾(ちかごろ)よし野の墓を図にして送ってくれた。
古野塚は洛北の鷹が峰、日連宗檀上学堂(だんじょうがくどう)の後(うしろ)にある。                  
 吉野は、京都の大仏馬町の松田氏と言う浪士の娘である。元和四年戌午(1618年)の年に出生、享年三十六。畸人伝(きじんでん)と言う書物にあるのもこれに同じである。
いまだ、どれが正しいのかはわからない。

 又、京都の立入氏である賀楽老人より、こう告げられた。吉野が没する時、紹益は三十歳であった。
(寛永)八年では、二十歳である。そうすると、十七八歳でよし野を身請けしたのであろうか?
法名(戒名)は、前文の通りである。
檀上の三門は吉野が建てた。
後に火災にあって、改め建てたことを、寺の僧は語った。栄庵の説は、思い違いであろう・・・云々。
(原註:追記、私・馬琴が、考察するに、紹益が「にぎはへ草」に載せた轍書記の、
「なかなかに 見ぬもろこしの 鳥もこし、
 なかなかに なき魂ならば 云々{うんぬん}」と言う二つの歌に、異同があるが、その事に言い及んだ者はいない。このことについては、考察するのが良い。)
 
追考:鳥原の郭(くるわ:遊郭)は、寛永十八年六条柳の馬場より、今の三筋町へ、移転した。よし野は寛永八年に没した。
そうであれば、そのころはなお、六条の郭にいたのであろう。
箕山(原著注:箕山は通称を藤木了因と言い、貞徳の門人であって両巴梔言好色大鑑などを著した人である)の著した「色道大鏡」に、よし野の伝記があると、大坂の慮橘が語った。

 私の大坂逗留の日数が少なかったので、寛文式(かんぶんしき)二巻を閲覧しただけである。
もし序(ついで)があれば、あわせて考察しようと思う。
   
「羈旅漫録」滝沢馬琴 より


「羈旅漫録」について


滝沢馬琴先生の著作としては、八犬伝などの小説がよく知られていますが、「兎園小説」類(ここに言う小説は、今の小説Novelとは違って、随筆、雑文)や旅行記(騎旅漫録)などの、著作があります。
中には、なかなかおもしろい内容のものがあります。
「羈旅漫録」1803年 は、江戸から上方への旅行の紀行文です。
(「日本随筆大成第一期第一巻」収載の「羈旅漫録」より)


大坂の女侠客  奴の小万(やっこのこまん) 羈旅漫録

2024-04-20 22:47:59 | 江戸の人物像、世相

大坂の女侠客  奴の小万(やっこのこまん) 羈旅漫録

             2024.4

大坂の女侠客  奴の小万(やっこのこまん)

「羈旅漫録」滝沢馬琴  より
〔八十九〕 奴の小万(やっこのこまん)が伝

「奴の小まん」は、本名をゆきと言う。三好氏。
今は、尼となって正慶と号し、難波村に隠居している。
大阪の長堀木津屋と言う豪家の娘であった。
今、長堀の銅吹処(どうふきどころ:銅製品製作所)いづみやの隣に大きい明家敷(あきやしき)がある。
ここは正慶(小まん)の家であったと言う。

難波人の話であるが、ゆきは、十七八歳の時より、みづから誓って結婚しないことにした。
そのころの世間の話に、ゆきは、本当は男を嫌っているのではない。
これには、理由があって、自分が思いを寄せている男には沿(そ)われないので、男嫌いである、と言ったのだそうだ。
 
ゆきには、侠気があって、又、書を読み、字も上手であった。
つねに大阪中を往来するのに、顔に墨を塗り、その上に白粉(おしろい)を施こし、異様な姿形に扮装していたそうだ。

(原註:これは、彼女が男子にまみえない志{ココロザシ}を示している。)
それで、そのあざは或る日は頬にあり、又或る日は額にあった。
こういう事から、世の人は、彼女を「やっこ」「やっこ」と呼んだ。

少しして、京都堂上家の家臣だった者が浪人(失業)して、大阪に来たのを、援助してやった。
彼女は、これを男めかけにして、難波新地の辺(あたい)に住まわせた。そして、折々通って楽しんだ。
後に、かの男が義に違うこと(注:多分、浮気でしょう)があったので、ゆきは怒って、追出した。
彼女は、これより又ふたたび男には、なじまなかった。

その頃、悪党無頼の某(なにがし)と言う者が、法を犯した事があった。
この者は、大阪にかくれ住んでいたが、その場所がわからなかった。
柳里恭(原注;柳権大夫:りゅうりきょう)(訳者注:柳沢淇園のこと。1703~1758年。文人画で名高い。)は、ひそかにゆきに語って、かの悪党を探させた。
ゆきは、程なく かの悪党を捕らえて役所にさし出した。
このような事から芝居・狂言に、「奴の小まん」として創作された。

上田秋成(あきなり:1734~1809年)が書いたものに、ゆきの隠れた男を柳里恭であると記したのは、大変な間違いであると言う。
私(馬琴)が考察するに、柳里恭(りゅう りきょう)の事は、年代が相当しない。これは、元禄年間(1688~1704年)に、大阪に「奴の小まん」と言う女の侠客がいた。それと、今の「奴の小まん=ゆき=正慶尼」と混じり合って、誤ってそう書いたのであろう。
(馬琴先生の生没年1767~1848年、この旅行記は1802年のことである。)
 
正慶は、享保七年(1722年)に生まれ、享和二年(1802年)に至って74歳だそうだ。
(注:これも数字が合わない。享保14年あたりの生まれであろう)

8月2日、私は、難波村に、正慶尼を訪ねた。(原注:正慶尼は、奴の小まんの法名である。)
この日、廬橘(ろきつ:大阪の戯作者、文筆家)が一緒に行った。
その村の医師鎌田氏に、正慶尼に会えるように頼んだ。
正慶は、木津に家を持っていたが、定まった家があっては、人の往来がわずらわしい、と言って、その家を木津の菩提所に寄附した。

そして、難波村に来て、人の家に寄寓した。しかし、常には、その居所を定めなかった。
鎌田氏は、人を走らせて、あちこち訪ねさせて見つけた。
正慶尼は、自ら年は七十四と言う。年老いたとはいえ、なお若いころの容色をとどめている。
歩くのも、しっかりしている。
彼女は、世を厭う心があるので、人が書を欲しいと望んでも、みだりに書いて与えなかった。
しかし、私が対話して扇面に何か書いてほしいと望んだところ、快く引き受けてくれた。
詩一篇と連歌の発句とを書いた。
筆跡は、大変に美事(みごと)であった。
     金城春色映丹霞 (金城の春色、丹霞に映ず)  
     活気和風到万家 (活気の和風、万家に至る)     
     潰笑宴然楼上興 (笑いを潰して 宴然たり。楼上の興)  
     捲簾先見園中花 (スダレを巻いて まず見る園中の花)       
                      三好氏婆   正慶 草(三好氏のババ 正慶 したためる)


     又、
     月落て 松かぜ寒き 野寺かな                   丁女丁  正慶
 
詩も正慶草(書く)、とあったので、自作の詩であろう。
言葉にも、侠気(キョウキ:おとこぎ)があるのがうかがえる。
自ら言う、老婆(正慶尼)が忌み嫌うものは、酔っ払いと猫である、と。

好事のものは、彼女を敬愛している。
前年、蒹葭堂(けんかどう:木村蒹葭堂=大坂の文人)が、墨を与えた代わりに、正慶に絵をかかせた。
そして、蒹葭堂は、みづからこれに題書した。
蒹葭堂の墨と言って、今なお大阪にある。

正慶は画も出来た。
しかし、画は、なかなか人の求めには、応じなかった。

大坂の人も、彼女の本名(ゆき、又は正慶)を呼ばないで、只「奴の小まん」とのみ呼んだ。

(原注:考察すると、「奴の小まん」という、女侠が、元禄の頃にいた。それに、彼女が似ていたので、正慶のあだ名となったのであろう。)

 

「羈旅漫録」について
馬琴先生の著作としては、八犬伝などの小説がよく知られていますが、「兎園小説」類(ここに言う小説は、今の小説Novelとは違って、随筆、雑文)や旅行記(騎旅漫録)などの、著作があります。
中には、なかなかおもしろい内容のものがあります。
「羈旅漫録」1803年 は、江戸から上方への旅行の紀行文です。
(「日本随筆大成第一期第一巻」収載の「羈旅漫録」より)