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江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

江戸のバブル(元題 奇樹) 「筆のすさび」

2025-04-19 22:31:04 | 江戸の人物像、世相

江戸のバブル(元題 奇樹) 「筆のすさび」

                 2025.4

バブルというものは、時々起こっては、消えていきます。
最近では、日経平均が、約30年ぶりに、バブル越えをしたとの記事がありました。(1989年12月38、975円を2024年2月)
当時は、不動産も株もバブルであったということです。

また、バブルで、よく引き合いに出されるのが、オランダのチューリップバブルです。1637年頃のことです。
すぐに、消えてしまったそうです。

さて、日本の江戸時代にも、何度か、チューリップバブルに似たようなつまらない物のバブルがありました。

「筆のすさび」という随筆の「奇樹」の項に、その事が記されています。

以下本文。

奇樹

寛政(1789~1801年)の中頃、私は、京に住んでいた。

その時、美濃よりからたち花(原注:平地木地金牛の類。)の十盆を持って、売りに来た。数日の中に、買い手が集まって来た。売りに来た者は、百余金(両)を得て帰っていった。そのころ、この「カラタチの花」がはやって、高いものは、三百金(両)余であった。たった数寸の盆栽であった。

その後、紀州(和歌山県)では、蘭を植えることがはやった。これも大金で売買されたので、役所より、取引が禁止された。しかし、民間では、その禁令をきかなかった。ついには、官吏が家々に踏み込んで、蘭の根株を断じた。

その後は、石菖蒲(原ルビ:いわあやめ)がはやって、京のある医者が一盆を十六金(両)で買ったのを、私は見た。

近頃、文化亥子丑(1804、1805)の頃、牽牛花(あさがお)の奇を競い、佳種百品が七十金にあたった。備中の人が一方金(原ルビ:いちぶ)にて一種を求めた。他の名種はこれ以外には、買うべきはなしと言って、こぼれ種と言う名もなき数種を買って帰った。
その後、江戸にもこの事(あさがお)がはやった。、岡花亭は、その記をつくって私に見せた。
文政(1818~1829年)のはじめのことである。

享和(1801~1804年)のころ、備中備前に文鳥を飼う事がはやった。これも一羽数十金であった。岡山藩より、強く禁じられて、ついにやんだ。

「芥川」と言う書に、その時の事を記した文章があった。
芸州広島の上流にて、一人の僧が仏具を川岸で洗っていたが、一つの花の流れて来た。見ると。椿の奇種であった。それを取って、挿しておいたが、三四年たって、奇花が咲いた。城下の人が、日々に見に来た。ある人が、川上にその椿の原木がないかと尋ね探したが、見つからなかった。さては、奇異の花であると、言い広められて、いよいよ来客が多くなった。
ある人が、たわむれに、貴僧の椿は名花であると、国の殿様より欲しいとの事をはなした。
すると、その日のうちにその花を鉢植にして、その夜亡命(かけおち)した次第が、「芥川」に記載されている。
毛利家が広島に在った時の事である。

このような事は、しばしばあるであろう。


以上、「筆のすさび」より


*****
追記:
「カラタチの花」バブル
「蘭」バブル
「石菖蒲」バブル
「アサガオ」バブル
「文鳥」バブル
ここには、記されていないが、「ハツカネズミ」バブルもありました。

八十翁昔語には、「ミイラ薬」の他に、
「なかみ」、「黄精 おうせい:ナルコユリのこと」、「なたまめ」等が流行った、とも述べられています。
この「なたまめ」も、近年(平成年間)誰かが流行らせようとしたようです。


ふざけた霊宝  蜀山人「半日閑話」

2025-02-28 19:56:15 | 江戸の人物像、世相

ふざけた霊宝  蜀山人「半日閑話」

                                             2025.2

訳者注:江戸時代には、本当に珍しい物から、つまらない物、サギっぽい物まで、さまざまな物が見世物に供されたが、これもその一つであろう。

原題は、「とんだ霊宝」  蜀山人「半日閑話」より
以下、本文。

先月頃より、両国橋広小路にて、「とんだ(おかしな、ふざけたとの意であろう)霊宝」の見せ物が、大いに流行した。


細工物宝物目録
細工人 鯰橋源三郎
    古橋甚平

三尊仏 
その中央の主尊は、飛び魚、頭は、くしがい(串に刺したアワビ)、後光は、ひだち(?乾燥させた太刀魚か?)、後光仏とこぶしの中にごまめのあたま、台座は吸い物椀。

不動明王  
頭は、サザエ、顔はサケの頭、手足体ともサケの塩引き、御衣は、 ひだこ(干蛸、つまり乾燥させたタコだえあろう)、袈裟(けさ)は昆布、剣はさしみ包丁、ぼくの縄(?)は、つるし縄、火炎は鎌倉えび(イセエビ)、御台座はサザエ(殻)とアワビ(殻)。 

役の行者(えんのぎょうじゃ:修験道の始祖)  
頭手足とも干し大根、御衣はワカメ、髪は、ところの毛(山芋の根のひげ根)、御袈裟被り物(おけさ かぶりもの)は、干瓢。錫杖は、スルメの足。足駄は氷蒟蒻。岩は、から鮭。

後鬼 
頭より腹まで、カナガシラ(魚の一種)。手足は、キス。腰巻きは椎茸。台は寒天。

前鬼 
鎌倉エビ、腰巻きは、椎茸。よきは、かいじゃくし。台はから鮭。

以上の他は、数が多いので、略した。


目録 見せ物場にて、これを見た。
開帳 とんだ霊宝縁起であった。

上記のは、両国に三カ所、山下に二カ所に見せ物として出品している。

狂詩に云う
昔聞く    四国を巡り  左次 猿を作りて 帰る。
今看(み)る 両国を巡り  霊像 魚となりて 飛ぶ。


蜀山人「半日閑話」より

 

 


江戸時代の入れ墨の刑  図示(風俗画報)

2024-09-16 12:44:23 | 江戸の人物像、世相

江戸時代の入れ墨の刑    図示

                                                    2024.9

「風俗画報」明治二十五年十二月十日(東京、東陽堂)には、江戸時代の軽い刑罰と、それに伴う入れ墨についての記述と図が示されている。
「風俗画報」は、明治時代に発行された雑誌です。
江戸時代の様子を記録する、というのがこの雑誌の主旨の一つです。

以下、本文。

徳川時代のお仕置き  蓬軒(この文の作者らしいが、どんな人かは不明)

徳川幕府の定めた法令としては、百箇条(百ヶ条)が、知られている。当時、実に重要なる法令であって、主に刑事上の事を規定したものである。
この規定は徳川祖宗の始めたものであった。
昔は、罪人の処刑があるごとに、将軍みずから筆をとって、百箇条中に訂正追加をした、と言う。
これは、官吏の執法の当否を検証するの意であろう。
しかし、八代将軍吉宗公が、紀州より入って将軍位を継ぎ、政務を励むに及び、(享保、寛保、延享の頃)寺社奉行 牧野越中守、石河土佐守 等に命じて百箇条を増補した。
世に寛保律と言うものが即ちこれである。

その後、十一代将軍家斉(いえなり)公の治世に至り、老中松平越中守(白川楽翁公)更に、法令を増補した。
これを寛政律と名付けた。

以上の二回の改革は、思うに、
人間社会が日に日に進んで、人々の行動が次第に煩雑となり、
百箇条にては、事にあたって、不都合を感じることが多かった故であろう。
しかし、幕府は、最後まで祖宗の範を脱しえなかった。
当時の増補は、もとより百箇条の精神を失わぬ事につとめ、かつまた、従来の不文律であった物を百ヶ条中に記入したのに過ぎない事である。

よって、今これを古老に聞きただし、列記して当時の実況を知るの便に供する。


入墨 入墨は附加刑であって追放・敲(たたき)等の正式な刑に属している。
ただし、江戸は伝馬の牢屋敷にて執行し、入れ墨が乾くまで、入牢を申し渡す。

江戸 京都 大坂 長崎は、享保五庚子年(1720 かのえね)二月十七日制定
増入墨は        安永六丁酉年((1777 ひのととり)一月三十一日
人足寄場は       寛政五癸丑(1793 みずのとうし)年十一月五日
伏見 奈良 駿府 甲府は寛政三辛亥年(1791 かのとい)七月二十九日
山田 堺は       寛延四辛未年(1751 かのとひつじ)四月十九日
佐渡は         賓暦十庚辰年(1760 かのえたつ)二月十四日
日光 関東郡代は    寛政三辛亥年(1791 かのとい)三月八日

敲(たたき) 敲は正式な刑罰であって軽重がある。
軽い罪には、五十回、重い罪には百回をたたく。


刑は、江戸では、伝馬町の牢屋敷の表門外にて、執行する。
検使は御徒目付御小人目付、立合は町奉行与力同心。
 

刑罰の対象(百箇条の一部)
〇商品の代金を請け取ったが、品物を渡さない者
○品物を二重に売った者
○取次品を質入れ、又は売り払った者
○金銭物品を横取りした者
○奉行人、手元にある品を持ち逃げした者
○奉行人が、取引先から金銭物品を持ち逃げした者
○巧み候儀も無之軽く取除け致し候者
○給金を請け取ったが、主人の方へ引き移らない者
○軽い盗みをした者
〇風呂屋にて、衣類、着替を盗んだ者
○盗んだ物と知りながら、それを預った者
○隠した物と知りながら買った者
○辻番人の巡回地区内で拾った品物を、届け出なかった者
以上、金額として十両以下(品物は、代金として十両以下)の場合は、入墨の上、軽く敲く。

(未完)(以上は、条文の一部)

以上。


「風俗画報」明治二十五年十二月十日(東京、東陽堂)には、図があるので、それを示した。

 


薩摩の役人の中国漂流記  「筆のすさび」

2024-07-22 20:25:37 | 江戸の人物像、世相

薩摩の役人の中国漂流記  「筆のすさび」

                      2024.7

原題は、「唐山漂流紀文」 

御医の福井近江介が、薩摩の人より得た漂流記を写した文章を、私は見せてもらった。
以下に、記す。

唐山(とうざん:中国のこと)に漂流するものは、多いが、このような事(風景や扁額の文字)に心を止める人は少ない。
この他にも、なお面白い興味深い事が多かったであろう。(原注:この文は、漢文であった。いま、和文になおして記す。訳文の拙いのを笑わないでいただきたい。)

本藩の士の税所子長(さいしょ しちょう、であろうか?)、古後士節(こご しせつ)、染川伊甫(そめかわ いすけ)、祇役(原ふりがな:きやく。役職名であろう)を琉球に派遣した。そして、乙亥(きのとい:1815年)の秋八月に薩摩に帰ろうとした。


しかし、航海中に台風に遭遇した。漂流する事数十日間で、冬の十月に、唐山(とうざん:中国のこと)の広東省の碣石鎮に着岸した。
その広東より江南を経て、おおよそ(琉球を出てから)六ヶ月にして浙江省の乍浦(ざっぽ)港に至った。そして、中国に留滞すること五ヶ月にして、遂に日本に帰る許可が出た。
広東の南雄州(今の広東州南雄市)より南安府(?)に赴いたが、途中で大庾嶺(たいゆれい)を通過した。
時に孟春(旧暦の一月)に属し、梅の花の盛りであった。
(訳者注:広東から大庾嶺に行くと、南安府に行くことは、ありえない。記憶違いか、地名の誤りかであろう。))
道の左に、唐時代の賢相である張九齢の墓があった。「芳流千古」の四字が碑に書かれていた。
又、そこから数歩の所に張公の祠堂があった。遺像は、りんとした様子であった。左の巌窟中に六祖大師の坐像が安置されていた。厳かで、生けるがごときであった。側に泉があり、六祖清泉と言った。
道を上って、一里余りで山頂に至る途中に門があった。門に扁額があり、「嶺南第一」の四字が書かれていた。門を通りかかると、左壁に「梅嶺」の二字が見えた。
一日中、登り下りしたが、眼に触れる所は、すべて奇観であった。
時に清国の嘉慶ニ十一年正月十一日であった。

実に本朝(日本)の文化十三(1816年)年丙子(ひのえ ね)正月十一日であった。

子長は、見た物を多くの図にして、持って帰り、人に見せた。士節や伊甫も又、中国の様子を、事細かに語っていた。

私は、その図を写しとり、かつまたその語った事を、記した。それを、峩山(がざん:お寺か?)の月江師の清翫(せいがん:多分坊さんの名)に贈った。

己卯(つちのと う:1819年)八月、
薩摩の梅隠有川貞熊(バイイン雅号、ありかわ姓、ていゆう名) 記す。

 

以上、「筆のすさび」より。

 

 

 


名妓 首信(くび のぶ)の伝記 羈旅漫録

2024-04-24 23:02:12 | 江戸の人物像、世相

名妓 首信(くび のぶ)の伝記  羈旅漫録

                 2024.4

 

(118)首信(くびのぶ)が伝   羈旅漫録  滝沢馬琴

 大坂の島の内に「信(のぶ)」と言う芸子(げいこ)がいる。
人々は、あだ名して「首のぶ」と言っている。
その言わんとする心は、こうである。
大変に容色がすぐれていて、その首が、色っぽかったからである。
今、婦人の品定めに首がよい首がわるいと言うのも、こののぶより始まったのだそうだ。
 
 現在は、四拾余歳。
(原注:大坂の雨柳の話に、のぶは宝暦十一年=1761年=に生まれ、今の享和二年壬戊=みずのえ いぬ:1802年=に至って、四十三歳であろうと言う。)
しかしながら、なお二十五六歳に見える。
実に人妖(美人で若く見えるだけでなく、どこか妖しい魅力があるのでしょう)である。
朝起きて、おしろいを使っていないのに、顔色は却て(かえって)美しい。
(普通は、朝に化粧をするが、彼女は化粧もしないのに美しい。)

 父は、御所桜長兵衛と言う名の角力(すもう)とりであった。後に角力年寄になった。

 のぶは、安永の始め頃、芸子(げい子)となって、京の祗園にいた。
実に、人気があり、全盛であった。
富豪の人で、「のぶ」の為に、大金をなげうつ者が多かった。

 富豪の三井氏が、秘かに「のぶ」に懸想(けそう)して、数万両の金を浪費した。
(原注:一説には、のぶに十万両の金を費したと言う。)
ここに至って、三井の親戚及び番頭(幹部の従業員)等は、大いに驚き、すぐに主人を伊勢松坂の店に押し込めた。
年間の生活費などを、わずかに百両に限って渡した。
そして、親戚はすべて、彼と交際を絶った。 この時、のぶは、京に留まっても良かったのだが、こう考えた。
お金があるときは、楽を共にし、お金がなくなって貧乏な時には、別れるのは、人として、義ではない。
そうして、強いて松坂に行き、情郎(ほれたおとこ)に仕えること十三年であった。

 のぶは、よく仕え、かつまた松坂にいる間、本居宣長の弟子となって、おりおり源氏物語などを学んだ。また機を織ることを学び得た。
ある日、番頭たちは、協議して、内密にのぶにこう言った。
「あなた様の十三年にわたる御苦労は、普通の婦人の及ぶ所ではないでしょう。
しかし、あなた様が、主人(三井の)と一緒にいて、生活する限りは、親戚たちの憤りが解けないことでしょう。
このままでは、主人が、再び世に出て、才覚を働かせて、事業を拡大することは、出来ないことでしょう。
しかし、我らが主人は、あなたさまに、愛着をもっています。あなた様から、主人を嫌いにならないかぎり、あなた様を手放さない事でしょう。
もし、あなた様が、我れらが主人を本当に、愛しているのでしたら、あなた様が、自発的に京にお帰りください。」

 このように、請願されて、のぶは、その言葉に逆らわなかった。
のぶは、三井の主人に、「京に帰りたい。」と言った。
親戚たちは、よろこんで、のぶに種々の手道具を与えた。そして、京への交通費を用意して京都へ帰らせた。

 のぶは、京に帰って、道具類を売払い、七十両余りの金で櫛笄(くし・こうがい)などをととのえた。また別に衣服を製して、ふたたび祇園に出て、歌妓となった。そして、昔に勝る売れっ子になった。

 その後、俳優の嵐雛助(あらしひなすけ。原註:後に嵐小六と名を改めた。江戸で死んだ雛助の父である。)は、密かにのぶに通じて情交が厚かった。
世間では、大いに話題になった。

 さて、ここに御所桜の五六人の弟子が、協議して、
御所桜の家に到って、こう言った。
「うわさで聞いたことですが、師匠の娘さんが、雛助の妾となったそうですね。
師匠、どうして 娘さんを俳優(やくしゃ)の妾にしたのですか?お金のために、身を汚(けが)さしたのでしょうか?
もし、本当でしたら、我々は師弟の約束を、返上したい。」
と。
御所桜は、これを聞いて大いに困惑した。
そして、この事をのぶに語って、雛助と別れるように、と言った。
のぶは、そのことを雛助に告げた。
雛助は、こう言った。
「角力(すもう)とりと俳優と、どちらが尊くて、どちらが卑しいのだろうか?彼らは、みづから浪人になって、相撲取りになったとはいえ、お金をいただいて、人の見物(みもの)となるに至ったのは、俳優と同じだろう。又、俳優も昔は禁裏(宮中)に召され、天覧にあずかったこともある。それで、由緒を論ずるに至っては、どちらが上とか下とかはない。
私は、我が身にかへても、のぶを返さない。」
と言った。
ここに於いて争論は止まった。

 のぶは、こう考えた。
結局、父が角力の世界にいるからこそ、このような嫌な目に遭うのだ、と。
父は、年をとったのだから、隠居をさせようとして、京都にてしかるべき家を求め、豊かに老後を過ごせるように世話をした。
そこで、御所桜は、角力(すもう)をやめて隠居した。
それによって、御所桜と弟子たちの争いは、直ちに止んだ。

 その後、雛助が病死して、のぶは寡婦となった。
そして、また、元の歌妓となった。

 程へて、俳優の文七(原注:吉男)に思われ、ついに文七の妻となった。
しかし、少しして、文七は病にかかり、様々な治療をしたが、甲斐なく死亡した。
のぶは、夫のために願をかけて、髪を切り、讃岐の国(香川県)の金比羅様に参詣した。のぶが、お参りから帰る前に、文七は家で死亡した。

 その頃、浪速人(なにわびと:大坂の人)のことわざに、
「家に千金を積むとも、首になることなかれ。
もし、産を破らざれば、必ず、命を落とす。」
(首が美しい女と男女の仲になると、破産はしなくとも、命を失う。また、首のぶの首と、首にするの首をかけている。)
と言うのがあった。

 この後からは、のぶは、結婚しなかった。
大坂の島の内に出て、また歌妓となった。
今も、全盛の売れっ子である。
のぶは、すこし和歌をよみ、又、俳諧の連歌もたしなんでいた。

 私は、大坂に遊んた折り、あるタべに、この道頓堀の竹亭にのぶと会した。
のぶは、ここに来て、席に着いた。
そして、そのまま、
「馬琴先生、滝沢馬琴先生」
と私の名を呼んで、話しかけてきたが、まるで旧知(昔からの知人)のようであった。
先に来ていた他の歌妓や幇間(たいこ持ち)等には、私の事を知らない者もいた。
驚いたことに、のぶは、誰も私のことを、知らしめなかったのに、すぐに私の事を、察知した。
不思議なことである。
(馬琴先生は、高名な小説家ではあったが、無学な人たちは、その名を知らなかったことでしょう。また、江戸での有名人は、大坂では、あまり知られていなかったのかも知れません。)

 同じ席にいた嫖客(ひょうかく:あそび人)が、のぶに発句を求めた。
(訳者注:江戸時代は、宴席でも連歌などを行った。妓女などでも、たしなむものもいた。当然、それなりに尊重された。)
のぶは、三回ほど断った後に、
  わらは(笑わ)れて 夜をひた啼(なく)や きりぎりす                  
 と、書いて出した。
(訳者注:江戸時代には、コオロギのことを、キリギリスと呼ぶこともあった。この場合は、コオロギを指す。)
字も、上手であった。
のぶは、私に、扇に何か書いて欲しい、と強く乞うた。
それで、すぐに、狂文一篇と狂歌一首を記して渡した。
客たちは、興に入って、席中の歌妓、幇間(たいこもち)も皆、即興の発句を作った。
又、私に文を乞い歌を請う者が多かった。

 宴席は、四更(しこう:午前1時位から午前三時位まで)まで続いた。

ひらく手の おくやゆかしき 女郎花(おみなえし)                 歌妓  ふさ
聞(きき)たまへ 鶴井かめゐ(つるい かめい)も 千々(ちぢ)の秋                  歌妓  しげ
一ふしに 虫の音(ね)しんと ふけ(更け)にける  牽頭(けんとう:たいこ持ちのこと)  音八
この外、席上の嫖客、雨窓(1813~1875、新井雨窓ではないだろう)、国瑞(くにあきら:桂川甫周1751~1809か?)、慮橘等の即興の発句があったが省略する。

 


訳者注、と言うよりは感想: 「むかしの人は、かくいちはやくみやびをなんしける!」・・・伊勢物語の一文。感嘆せざるを得ない。
市民(今風にいえば)の宴席で、即興の詩歌のやりとりが行われたのは、大変なことです。
この「のぶ」と言う女性は、大変な美人であっただけでなく、頭も良く、気がきいて、実に魅力的だったのでしょう。
また、もし、三井の主人に対して、身を引かなかったら、今の三井財閥、三井グループは、無かったでしょう。

「羈旅漫録」について
馬琴先生の著作としては、八犬伝などの小説がよく知られていますが、「兎園小説」類(ここに言う小説は、今の小説Novelとは違って、随筆、雑文)や旅行記(騎旅漫録)などの、著作があります。
中には、なかなかおもしろい内容のものがあります。
「羈旅漫録」1803年 は、江戸から上方への旅行の紀行文です。
(「日本随筆大成第一期第一巻」収載の「羈旅漫録」より)