江戸のバブル(元題 奇樹) 「筆のすさび」
2025.4
バブルというものは、時々起こっては、消えていきます。
最近では、日経平均が、約30年ぶりに、バブル越えをしたとの記事がありました。(1989年12月38、975円を2024年2月)
当時は、不動産も株もバブルであったということです。
また、バブルで、よく引き合いに出されるのが、オランダのチューリップバブルです。1637年頃のことです。
すぐに、消えてしまったそうです。
さて、日本の江戸時代にも、何度か、チューリップバブルに似たようなつまらない物のバブルがありました。
「筆のすさび」という随筆の「奇樹」の項に、その事が記されています。
以下本文。
奇樹
寛政(1789~1801年)の中頃、私は、京に住んでいた。
その時、美濃よりからたち花(原注:平地木地金牛の類。)の十盆を持って、売りに来た。数日の中に、買い手が集まって来た。売りに来た者は、百余金(両)を得て帰っていった。そのころ、この「カラタチの花」がはやって、高いものは、三百金(両)余であった。たった数寸の盆栽であった。
その後、紀州(和歌山県)では、蘭を植えることがはやった。これも大金で売買されたので、役所より、取引が禁止された。しかし、民間では、その禁令をきかなかった。ついには、官吏が家々に踏み込んで、蘭の根株を断じた。
その後は、石菖蒲(原ルビ:いわあやめ)がはやって、京のある医者が一盆を十六金(両)で買ったのを、私は見た。
近頃、文化亥子丑(1804、1805)の頃、牽牛花(あさがお)の奇を競い、佳種百品が七十金にあたった。備中の人が一方金(原ルビ:いちぶ)にて一種を求めた。他の名種はこれ以外には、買うべきはなしと言って、こぼれ種と言う名もなき数種を買って帰った。
その後、江戸にもこの事(あさがお)がはやった。、岡花亭は、その記をつくって私に見せた。
文政(1818~1829年)のはじめのことである。
享和(1801~1804年)のころ、備中備前に文鳥を飼う事がはやった。これも一羽数十金であった。岡山藩より、強く禁じられて、ついにやんだ。
「芥川」と言う書に、その時の事を記した文章があった。
芸州広島の上流にて、一人の僧が仏具を川岸で洗っていたが、一つの花の流れて来た。見ると。椿の奇種であった。それを取って、挿しておいたが、三四年たって、奇花が咲いた。城下の人が、日々に見に来た。ある人が、川上にその椿の原木がないかと尋ね探したが、見つからなかった。さては、奇異の花であると、言い広められて、いよいよ来客が多くなった。
ある人が、たわむれに、貴僧の椿は名花であると、国の殿様より欲しいとの事をはなした。
すると、その日のうちにその花を鉢植にして、その夜亡命(かけおち)した次第が、「芥川」に記載されている。
毛利家が広島に在った時の事である。
このような事は、しばしばあるであろう。
以上、「筆のすさび」より
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追記:
「カラタチの花」バブル
「蘭」バブル
「石菖蒲」バブル
「アサガオ」バブル
「文鳥」バブル
ここには、記されていないが、「ハツカネズミ」バブルもありました。
八十翁昔語には、「ミイラ薬」の他に、
「なかみ」、「黄精 おうせい:ナルコユリのこと」、「なたまめ」等が流行った、とも述べられています。
この「なたまめ」も、近年(平成年間)誰かが流行らせようとしたようです。