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江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

八百比丘尼(はっぴゃくびくに) 笈埃随筆 に見える

2025-07-23 21:51:54 | 奇談

八百比丘尼(はっぴゃくびくに) 笈埃随筆 に見える

八百比丘尼(はっぴゃくびくに)については、様々な説がありますが、「笈埃随筆(きゅうあいずいひつ)百井塘雨 著」、にあるのを、紹介します。
八百比丘尼の父は「秦道満(はたのどうまん)」という人物であるという事がのべられていますが、「芦屋道満」を連想されます。「芦屋道満」は、かの安倍晴明と対決した人物とされています。興味深いことです。


以下、本文

『万葉集』に「坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)」が家持に贈る歌に、このようなのがある。、
人者雖云、若狭道乃後瀬乃山乃、後毛将会君
(かにかくに 人は言ふとも 若狭道の 後瀬の山の 後も逢はむ君:
かにかくに ひとはいうとも わかさぢの のちせのやまの のちもあはむきみ)
(人はとやかく言うけれども、若狭道の後瀬の山で、あなたにまたお会いしましょう。」)

『枕草子』にも「山といえば、三笠山、後瀬山、小倉山、これらは特に名が知られている・・・」と記されている。

その後瀬山の麓(ふもと)には、八百比丘尼(はっぴゃくびくに:比丘尼とは女性の僧=尼)の洞窟がある。空印寺(くういんじ)という寺には、また、社(やしろ)がある。八百比丘尼の尊像が常に帳(とばり)を開いて安置され、公開されている。

その像は、花の帽子をかぶり、手には玉と蓮の花ような物を持った座像である。また、この社家(神主さんの家)には、八百比丘尼が所持していたという鏡、正宗作の鉾太刀、駒角(?)、天狗の爪が重宝(たいせつな宝物)がある。

八百比丘尼の父は「秦道満(はたのどうまん)」という人物であるという事が、(八百姫明神の)縁起(由来書)に見えている。彼女はもともと「千代姫(ちよひめ)」と呼ばれていたが、今では「八百姫明神(やおひめみょうじん)」として崇拝されている。

越後の柏崎町(新潟県柏崎市)の十字街には、大きな石仏があり、その半分は地中に埋まっている。大同二年(807年)に八百比丘尼がこれを建てたと刻まれており、今でも、その文字は鮮明である。

『隠岐のすさび』(日置風水 著、1705年)によると、岩井津(?)という所に、七抱え(七人で両手を開いて回すほどの太さ)の大杉がある。

昔、若狭国(福井県)で人魚を食べたという尼がここにやってきて、この杉を植えたという。植えてから八百年を経て、その尼がまたこの地を見たいといって来て、去ったと言う。それゆえにこの杉は「八百比丘尼の杉」と呼ばれている。

昔の年寄りの語ったのは、こうである。
この国(隠岐)にある今浜の洲崎村に、どこからともなく漁師のような人が来て、住みついた。
人を招いて、もてなした。ある時、彼が料理をしている所を見ると、人の頭をした魚(人魚)をさばいていた。
見た人々はそれを怪しみ、同じく招かれて者同士で、ささやき合いようにして帰った。

そのうちの一人が、その魚の料理を袖に隠して持ち帰り、棚の端に置いたまま忘れていた。
その妻が、それを見つけて、いつもの魚であろうと思って食べてしまった。

二、三日経ったある日、夫が、持ち帰った物がなくなっていたので、妻に問いただしたところ、こう語った。
「最初にそれを食べたとき、味はまるで甘露のようにおいしかったです。しかし食べ終わったあと、体がとろけていくようになり、死んだようになり、まるで夢の中にいるようでした。長く時間がたってから、目が覚めると、体は健やかで、目は遠くのものもよく見え、耳は小さな音まで聞こえ、心は鏡のように澄んでいました。顔色も、特に美しくなっていたのです。」

その後、時が経ち、夫を始め彼女の一族は皆、次々と死に絶えていった。七代後の孫さえも老いて死に去った。

しかし、その妻一人だけが「海仙(かいせん)」となった。心の欲するままに、山や川を遊び歩き、最後に若狭の小浜にたどり着いたそうである。

 

 


「こおろぎの草子」  「虫の三十六歌仙」   31~末

2025-07-22 22:48:47 | こおろぎ草子・虫の三十六歌仙

「こおろぎの草子」  「虫の三十六歌仙」   31~末

31、飛虫(トビムシ)
羽もなく 行くへもしらぬ 飛虫の おもはぬ淵に 身をなげにけり
ハネモナク ユクエモ シラヌ トビムシノ オモワヌ フチニ ミオ ナゲニケリ

解釈:羽も無くて、だたピョンピョンと飛び跳ねていたら、水をたたえた淵に間違って、飛び込んでしまった。
考察:飛虫は、トビムシで、昆虫の近縁種で、羽がなく、よく跳ぶので、この名がある。
 

32、ゐもり(イモリ)
苔深き 水の底にて もろともに かねふる里の ゐもりをぞする
コケフカキ ミズノ ソコニテ モロトモニ カネフル サトノ イモリ オゾ スル

解釈:水苔の多い水の底にいて、じっと留守番(または、門番)をしています(井守)。
考察:ゐもりは、イモリ、井守。ヤモリやトカゲににているが、蛙の仲間で両生類。井守は、井戸の守り(門番、ガードマン)をするの意。

33、かへる
古里に 立ちかへるとは 知りながら 土かきわけて とふ人もなし
フルサトニ タチ カエル トワ シリナガラ ツチ カキワケテ トウ ヒトモナシ

解釈:私が、故郷に立ち帰ると知っていながら、土をかきわけて、話しかけてくれる人は、いません。寂しいものです。
考察:「かへる(かえる)」を、「蛙」と「帰る」と二つの意味に掛けている。 


34、やすで
雨ふれば かや○○○目際に集まりて 心やすでと 遊びぬるかな
アメフレバ カヤ○○○メギワニ アツマリテ ココロ ヤスデト アソビヌルカナ

解釈:雨が降れば、何々がドコソコに集まって、心やすく、遊びましたよ。
考察:「かや○○○目際に」は、七音以上に成るので、おかしいが、底本には、そうあるので、そのままとしました。
「心やすで」は、本来は「心やすく」である。しかし、ヤスデを詠み込むために、強引に「心やすで」とした。

35、蝉
はかなしや 身はうつ蝉の から衣 なほうらめしき 秋風ぞ吹く
ハナカシヤ ミハ ウツセミノ カラコロモ ナオ ウラメシキ アキカゼゾ フク

解釈:はかないものだ。我が身は、中身が無くて(蝉の幼虫の抜け殻)秋風が吹いてきて、飛ばされそうです。
考察:蝉とあるが、歌を詠んだのは、成虫の蝉で、歌の主題は、幼虫の抜け殻のことになる。
「から衣」は、「唐衣」と「空衣」の両方に懸けている。古歌にある「から衣」は「唐衣」で、輸入品の立派な衣服をさす。しかし、ここでは、中身のない「空衣」である。蝉の幼虫の抜け殻が、中身のない外表だけ、つまり衣だけ、という意味です。 


 さて、このたびの虫の歌合わせの、判者(審査員)は、藪小路(やぶこうじ)の中納言 在原の蟾(ありわらのひきがえる)の朝臣(あそん)信行卿(のぶゆききょう)であった。その席上、虫たちの詠んだ歌を、批判しながら、このように言いました。
「さあ、皆さん。
日が暮れてから、コオロギ殿の設けた歌の会は、時間もたってしまいました。
秋の夜長とはいえ、もう夜が明けそうです。
ここに長居は無用のことでしょう。
明け方に鳴くカラスの声も恐ろしいものです。
速く、住家住家に お帰えり下さい。」

 

(36 いもり)
すると、イモリは、この言葉を聞いて、差しでがましいことだと、妬(ねた)んで、

立ちもせず 下にもをらず さわがしく
かへるかへると いふぞをかしき
タチモセズ シタニモオラズ サワガシク カエル カエルト イウゾ オカシキ

解釈:立ちもしないし、腹ばいにもならないで、(蛙の静止した姿勢を表現している)、帰る、帰ると騒わいでいるのは、おかしなことである。黙りなさい?

と、詠んだ。

 

(37 ヒキガエル)
蟾(ヒキガエル)は、大いに怒って、

浅ましや すみ(墨)の衣に 身をそ(染)めて などかいろ(色)には 深きゐもり(井守)ぞ
アサマシヤ スミノ コロモニ ミオ ソメテ ナドカ イロニワ フカキ イモリゾ
解釈:浅ましいことだ。墨の衣を着た出家の身であるのに、なんで、人を批判するような世俗的な物言いをするのか?
考察:墨の衣は、坊さんや、出家した信心深い仏教徒の着るもの。イモリの色が黒いので、墨の衣になぞらえた。
ただし、黒以外のイモリもいます。

と、互いに、言い争いました。
またまた、コオロギが出てきて、お互いにつまらないことでケンカしないように、と鎮めました。
そして、虫たちは、それぞれ別れの挨拶をして、藪の中に帰って行きました。

 

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以上で、「こおろぎの草子」  「虫の三十六歌仙」 は、終わりです。

 

 

 


「こおろぎの草子」  「虫の三十六歌仙」    25~30

2025-07-21 22:39:38 | こおろぎ草子・虫の三十六歌仙

「こおろぎの草子」  「虫の三十六歌仙」    25~30

25、毛虫
いかにせむ 我が身の毛虫 なかなかに 人の見る目も さぞやはづかし
イカニセン ワガミノケムシ ナカナカニ ヒトノ ミルメモ サゾヤ ハヅカシ

解釈:どうしようか?毛だらけの我が身が、人に見られるのも恥ずかしい。
考察:「我が身の毛」とすべきを、「我が身の 毛虫}としています。


26、とかげ
世を捨てて 柴のとかげ(戸陰)に 引きこもり いかでや人の 毒と成るべき
ヨオステテ シバノ トカゲニ ヒキコモリ イカデヤ ヒトノ ドクト ナルベキ

解釈:俗世間を捨てて、柴の戸(の)陰に引きこもっているので、(姿は醜いが)人の害には成りませんよ。
考察:「柴のとかげ」は、「柴の戸かげ」ですが、あえて、「戸」を「と」にして、とかげ(トカゲ、蜥蜴)とかけています。

 

27、蛇
いたづらに 身はくちなはと 成り果てて 結ぶえにしの 便りだになし
イタヅラニ ミワ クチナワト ナリハテテ ムスブ エニシノ タヨリダニ ナク

解釈:無為に過ごしていて、我が身は、朽ちた縄(くち なは)に成ってしまった。腐った縄は結ぶ事が出来ない。そのように、世の中と結ぶことが出来ずに、どこからも便りが来ないで、孤独です。
また、私は、無用の長物になってしまった。
考察:蛇の古語は「くちなは=くちなわ=朽ち縄」です。

 

28、しらみ
思ふ事 かきくどくまに 長月の 夜はほとほとと しらみこそすれ」
オモウコト カキクドクマニ ナガツキノ ヨワ ホトホトト シラミコソスレ

解釈:秋の九月(長月)に、夜に、悶々として、思い悩んでいたら、空が白んできてしまった。
考察:「しらみこそすれ」は、「白みこそすれ」だが、虱(シラミ)と白み(しらみ)を懸けている。

 

29、のみ
ひとりのみ 思ふ心の かひもなく とび立つばかり 物ぞ悲しき
ヒトリ ノミ オモウ ココロノ カイモナク トビタツバカリ モノゾ カナシキ

解釈:一人だけで、物を思っても何にもならない。飛び立ちたい程に、もの悲しい。
考察:「ひとりのみ」で「一人ノミ」と懸けて、ノミという語句を入れた。

 

30、百足(ムカデ、この場合は蜈蚣)
とにかくに 世をはてむかで 渡るべし 数多の足も 頼まれぬ身は
トニカクニ ヨオ ハテ ムカデ ワタルベシ アマタノ アシモ タノマレヌ ミワ

解釈:歌の全体の意は、足がたくさん有っても、頼りない弱い身で有るので、死のうとは思うのだが、死にきれないので、生きていこう(世を渡る)。
考察:「世を果てむかど」で死のうとは思うのだけれど、の意であるが、「むかど」を「むかで」とした洒落である。


「こおろぎの草子」  「虫の三十六歌仙」    19~24

2025-07-20 22:29:51 | こおろぎ草子・虫の三十六歌仙

「こおろぎの草子」  「虫の三十六歌仙」    19~24

19、くも(蜘蛛)
あやしくも かかるはかなき住ひ(すまい)せば 問ひ来る風の 便りだになし
アヤシクモ カカル ハカナキ スマイ セバ トイクル カゼノ タヨリ ダニナシ

解釈:蜘蛛の巣のような、卑しく、簡単に壊れる住居に棲んでいる私には、誰も便りをくれない。
考察:あやしくも=奇しくも=奇し くも、で、クモの語句を入れています。


20、けら
下つかに 身は埋もれて 過ぎけらし いづくも宿と 定めざりけり
シモツカニ ミワ ウズモレテ スギケラシ イヅクモ ヤドト サダメザリケリ

解釈:土の中に、体を隠して、日を過ごして来ました。どこも、決まったねぐらと定めていませんでした。
考察;「過ぎけらし」の「けら」を「オケラ 螻蛄」にかけている。

21、蟻(アリであるが、シロアリであるかもしれない)
山深き 朽木の中に ありながら 峯のあらしを よそに聞くかな
ヤマフカキ クチキノ ナカニ アリナガラ ミネノ アラシオ ヨソニ キクカナ

解釈:深山の、朽木の中に巣を作ってすんでいるので、峰の嵐(山の大風)が、遠くに感じる。
考察:「ありながら」は、「在りながら」であるが、「在り=あり=アリ」とするために、仮名表記としています。
この「蟻」は、朽ち木に棲んでいることから、シロアリの可能性があります。しかし、昔の人は、蟻(蜂の仲間)とシロアリ(ゴキブリの仲間)の差異は知らなかったでしょうから、普通の蟻を、念頭に置いて、和歌を作った、と思われます。


22、けらけら(不明)
よしなくも 人のけらを請ひもせず 世に悪まる 身を悔ゆるかな
ヨシナクモ ヒトノ ケラオ コイモセズ ヨニニクマル ミオ クユルカナ
解釈:理由もなく、人から、嫌われているのを、気にもしないでいました。しかし、世間から嫌われている我が身のことを、今では後悔しています。
考察:「けら(螻蛄)=オケラ」は、前にあるので、この「けらけら」は、何であるかは、不明です。
ここに言う「けら」は、「虫けら」の「けら」でしょう」。なにか、ひとから嫌われる虫のあるものを、指しているのでしょうが、それが何であるかは、わかりません。


23、いもむし
わが住みし 芋の畑は あ(荒)れにけり ことし(今年)の夏は ひとり(一人)のみして
ワガスミシ イモノハタケワ アレニケリ コトシノ ナツワ ヒトリ ノミシテ

解釈:私の棲んでいる芋の畑は、(私が食い荒らして)荒れてしまった。今年の夏は、私は、孤独であった。
考察:この歌には、虫の名称の一部(芋=いも)しかない。作者が、思いつかなかったのでしょう。


24、みみず
浅ましや 頭も見えず 尾もしれず 土の中には 音(ね)をのみぞかし
アサマシヤ アタマモ ミエズ オモ シレズ ツチノナカニワ ネオ ノミゾカシ

解釈:浅ましいものだ、蚯蚓である私には、頭もなければ、尾もない。ただ、土の中にいて、鳴いているだけです。
考察:作者は、ミミズという言葉を、詠み込むことが出来なかったようです。蚯蚓は、鳴きません。土の中から聞こえてくるジージーという音を、蚯蚓の声であると、昔は解釈されていました。この鳴き声は、オケラ(螻蛄)の鳴き声だということです。

 


「こおろぎの草子」  「虫の三十六歌仙」 13~18

2025-07-19 22:23:30 | こおろぎ草子・虫の三十六歌仙

「こおろぎの草子」  「虫の三十六歌仙」 13~18

13、小がねむし(コガネムシ)
山吹の 色をあらそ(争)ふ こ金虫 くさ木もなびく 光なりけり
ヤマブキノ イロオ アラソウ コガネムシ クサキモ ナビク ヒカリナリケリ

解釈:金色に輝くコガネムシの美しい金属的な光沢は、草や木も引きつけられるであろう。
考察:コガネムシには多くの種類があるが、山吹色のコガネムシはいない。ここでは、山吹色=金色=金属的光沢色との意であろう。


14、松虫(マツムシ)
夜もすがら 恋しき人を 松虫の 音をなきわぶる 野べぞ露けき
ヨモスガラ コイシキヒトオ マツ ムシノ ネオ ナキワブル ノベゾ ツユケキ

解釈:夜の間中、恋しい人を待っていても、来ないので、泣いています。野には、露が下りていて、寂しさを増すようです。
考察:「恋しき人を待つ」とすべきを「恋しき人を松」として、「松」に「虫」を続けて「松虫」としています。
松虫は、その鳴き声で知られていますので、泣くにもかけています。


15、蝿
玉だれの 錦の床の上までも は(這)ひあがるこそ くわはう(果報)成りけれ
タマダレノ ニシキノ トコノ ウエマデモ ハイアガルコソ クワハウナリケレ

解釈:玉の様に美しい立派な床の上にも、止まって這い回れるのは、前世に良いことをした結果でありましょう。
考察:「はひあがる」で、「蠅」と「這い」をかけている。

16、くつわむし
ものおもふ 心の内ぞ くつわむし 人の情(なさけ)を かけぬ身なれば
モノ オモウ ココロノウチゾ クツワムシ ヒトノ ナサケオ カケヌ ミ ナレバ

解釈:物を思う、心の内は、苦痛です。クツワムシである私は、人からの情けをかけてはもらえない身です。(人ではなく、虫けらですから。
考察:「苦痛」と「くつわむし」とを、かけています。

17、日暮(ひぐらし)
何となく けふ(今日)は日暮し あす(明日)は又 いか(如何)なる方に 身をや隠さむ
ナントナク キョウハ ヒグラシ アスワ マタ イカナル カタニ ミオヤ カクサン

解釈:何となく、今日は行き当たりばったりのその日暮らしであった。明日は、どこに我が身を隠そうか?
考察:「ヒグラシ(蝉の一種)」と「その日暮らし」とを懸けています。

 

18、かまきり
草の葉を かま切り立てて かる野べの 露のうき身は おき所なし
クサノハオ カマ キリタテテ カル ノベノ ツユノ ウキミワ オキドコロナシ

解釈:草の葉を、鎌で切りたてて、刈っている野原では、露のようにはかない身であるカマキリである私の、身を隠す草が無くなってしまった。
考察:「鎌 切りたてて」を「かまきり たてて」とすれば、「かまきり」となります。