江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

かっぱ神   「奥州ばなし」

2024-08-04 00:46:41 | カッパ

かっぱ神   奥州ばなし

          2024.8

在所(ざいしょ:田舎と言う意味)中新田(宮城県加美町か?)と言う所に、合羽神(かっぱがみ)と称する社があった。
そこに、手洗いのような、池のようなものがあった。
どんなに晴天がつづいても、枯れることはなかった。
そこから、用水の堀が続いていた。
ここ(中新田)の家の細産甚之丞という者がいた。

17、8歳の時分、下町の若いもの二人と一緒に、用水堀を泳ぎ競っていった。
三人一緒に潜ったが、いつのまにか、水のない所に出た。
綺麗な家があり、内からは、機を織る音が聞こえてきた。
不思議に思い、
「ここは、何処でしょうか?」と、内にいた人に聞くと、
「ここは、人の来る所ではない。早く帰れ。」と答えが帰ってきた。
驚いて、立ち去ろうとしたが、
「ここに来たことを、三年過ぎぬうちに、人に語ってはならぬ。
  さもないと、身に禍があるだろう。」と警告された。
大いに、恐れて、戻ると、また用水堀に出た。
その、行き来の間、現実とは思えず夢見心地であった。

その後、町の者の一人が、酒に酔って、見聞きした事をしゃべってしまった。
そして、程なく、死んでしまった。

このことを、見たのであろう、甚之丞は、このことについて、一生語らなかった。


『奥州波奈志』(奥州ばなし) 只野真葛 著 より


訳者注:表題には、「かっぱ神」とありますが、話の内容では、河童ではない。
    何か、別な神様のようなもの。

 


大蛇退治 「尾張名所図会前編五」

2024-07-27 23:29:01 | キツネ、タヌキ、ムジナ、その他動物、霊獣

大蛇退治 尾張名所図会前編五

                  2024.7

牛巻潭 うしまきのふち  

同じ村(高田村:愛知県名古屋市瑞穂区高田町か?)に有。

昔、この淵に巨蛇(うわばみ、蟒蛇)が棲んでいて人民を悩まし、牛馬をも水中に巻き込んだ。

弘治二年 、大原真人武継(おおはらまひとたけつぐ)という者が、熱田参宮から帰る途中で、東の方を見るに、一筋の黒雲が、下ってきて、淵のほとりに怪しい光が見えた。
これは、かねて聞き及んでいた巨蛇(うわばみ)であろう、と思って、
家に帰り、弓矢をたずさえて、再びここに戻ってきた。


案の如く巨蛇(うわばみ、蟒蛇)が現れて見えたので、もとより強い弓(つよゆみ)の達者であって、
身をかためて、矢を放った。

すると、手応えがして、何度も矢つぎばやに射って、遂に退治したことが、言い伝えられている。

傍らに、その蟒蛇を埋めた跡がある。蛇塚(じゃつか)と呼んでいる。

 

訳者注:名所図会は、各地の名所旧跡などを絵画とともに紹介した書物です。そのうちには、面白い話もあります。

江戸時代には、多くの地区の名所図会が刊行されましたが、これは「尾張名所図会 前編」より。


薩摩の役人の中国漂流記  「筆のすさび」

2024-07-22 20:25:37 | 江戸の人物像、世相

薩摩の役人の中国漂流記  「筆のすさび」

                      2024.7

原題は、「唐山漂流紀文」 

御医の福井近江介が、薩摩の人より得た漂流記を写した文章を、私は見せてもらった。
以下に、記す。

唐山(とうざん:中国のこと)に漂流するものは、多いが、このような事(風景や扁額の文字)に心を止める人は少ない。
この他にも、なお面白い興味深い事が多かったであろう。(原注:この文は、漢文であった。いま、和文になおして記す。訳文の拙いのを笑わないでいただきたい。)

本藩の士の税所子長(さいしょ しちょう、であろうか?)、古後士節(こご しせつ)、染川伊甫(そめかわ いすけ)、祇役(原ふりがな:きやく。役職名であろう)を琉球に派遣した。そして、乙亥(きのとい:1815年)の秋八月に薩摩に帰ろうとした。


しかし、航海中に台風に遭遇した。漂流する事数十日間で、冬の十月に、唐山(とうざん:中国のこと)の広東省の碣石鎮に着岸した。
その広東より江南を経て、おおよそ(琉球を出てから)六ヶ月にして浙江省の乍浦(ざっぽ)港に至った。そして、中国に留滞すること五ヶ月にして、遂に日本に帰る許可が出た。
広東の南雄州(今の広東州南雄市)より南安府(?)に赴いたが、途中で大庾嶺(たいゆれい)を通過した。
時に孟春(旧暦の一月)に属し、梅の花の盛りであった。
(訳者注:広東から大庾嶺に行くと、南安府に行くことは、ありえない。記憶違いか、地名の誤りかであろう。))
道の左に、唐時代の賢相である張九齢の墓があった。「芳流千古」の四字が碑に書かれていた。
又、そこから数歩の所に張公の祠堂があった。遺像は、りんとした様子であった。左の巌窟中に六祖大師の坐像が安置されていた。厳かで、生けるがごときであった。側に泉があり、六祖清泉と言った。
道を上って、一里余りで山頂に至る途中に門があった。門に扁額があり、「嶺南第一」の四字が書かれていた。門を通りかかると、左壁に「梅嶺」の二字が見えた。
一日中、登り下りしたが、眼に触れる所は、すべて奇観であった。
時に清国の嘉慶ニ十一年正月十一日であった。

実に本朝(日本)の文化十三(1816年)年丙子(ひのえ ね)正月十一日であった。

子長は、見た物を多くの図にして、持って帰り、人に見せた。士節や伊甫も又、中国の様子を、事細かに語っていた。

私は、その図を写しとり、かつまたその語った事を、記した。それを、峩山(がざん:お寺か?)の月江師の清翫(せいがん:多分坊さんの名)に贈った。

己卯(つちのと う:1819年)八月、
薩摩の梅隠有川貞熊(バイイン雅号、ありかわ姓、ていゆう名) 記す。

 

以上、「筆のすさび」より。

 

 

 


靺鞨(まっかつ)の医師 生死を移す  「黄華堂医話」

2024-06-26 22:42:54 | 奇談

靺鞨(まっかつ)の医師 生死を移す  「黄華堂医話」

                                  2024.6

奥州の秀衡(藤原三代のヒデヒラ)が、老後の病が重かった時に、南部の人である戸頭武国(へいかしらぶこく)と言う者が来て、こう言った。


最近、靺鞨国より名医が来たが、
その名を見底勢(ケンセテイ)と言った。医術は神妙であった。
この程、南部の五ノ戸の看頭(かんとう役職名であろう)が子供が出来ないのを歎き、神に祈ったところ、その妻が妊娠した。
しかし、胎児が体内で死んだので(死胎)、母子とも、死にそうになった。

見底勢(ケンセテイ)は、診察して、「これは、生かすことが出来るだろう」と言った。
鼻より薬を吹き入れ、暫くして鼻と口、又背中に二壮の灸をした。
又、臍を薫蒸しすると、妊婦は、少し眼をあけて生気を取り戻した。
五時斗(ごときばかり:十時間位)して、産気づいて、出産した。
そして、死胎の子を取りあげて、又、鼻より薬を吹き入れて口を開かせ、龍乳といんものを練って、口に含ませ、「けふ布(?)」という衣に包んだ。三時(さんとき:6時間以内)の間に産声を発して、生き返った。

又、カツホ(原注に、地名とある)に老人がいた。
その老人の頭は、白髪で雪のようであった。脛は鶴の足のようで、腰は弓のように曲がっており、陰嚢の大きいことこと、壺のようであった。痩せて常に腹が鳴っていたが、蝦幕の鳴くような音であった。

見底勢(ケンセテイ)は、こう言った。
「これは、キメシテの症である。この様に苦しくとも、あと三十年の寿命があるだろう。
しかし、この病気が、良くなることはないであろう。
そうであれば、あなたは、生きていても良いことはないだろう。
いかがですか?あなたの残りの寿命を、不運で死んだ人に譲ってみないか?」

老人が答えた。
「生きて苦しむよりは、若い人に命を譲りたい。」と。

見底勢(ケンセテイ)は、老人に、すぐに薬酒を飲ませると、ひどく酔って死んだようになった。そして、老人を暗い所に置いた。
さて、田名部(青森県むつ市)の金持ちの家に、二十歳ばかりで死んだ若者がいた。
その屍(しかばね)を前に置いて、老人の口と死人の鼻に管を渡して、老人の背中に薬を張り、死人の背中にお灸をした。
暫らくして老人は死んだ。すると、若い死人は、たちまちに生き返った。

このような不思議な治療効果が多く、数えられないくらいであった。

 

戸頭(へいかしら)は、秀衡に
「見底勢(ケンセテイ)の治療を受けてください。」と勧めた。

しかし、秀衡は、そのすすめを聞かず、
「我が国にも名医がいる。
当時、象潟(きさがた)の道龍黒川舎人助(ドウリュウ雅号、くろかわ姓、とねりのすけ名)は、天竺の人も治療した優秀な医者である。
これ等を差し置いて、何で異国の人を招こうか?」
と言って、ついに見底勢(ケンセテイ)を招かなかった。
         

「黄華堂医話」橘南谿(続日本随筆大成 10)より

                                 
訳者注:この文章の表題は、特にないので、「靺鞨の医師 生死を移す」としました。靺鞨(まっかつ)は、現在の沿海州や北満州に居住していた民族で、ツングース系とされています。しかし、藤原三代の頃には、靺鞨族は、消えて周囲の民族に吸収されたようです。
従って、この時代に靺鞨国から来たというのは、誤りでしょう。
おそらく、沿海州あたりから、日本に漂流、もしくは貿易のために来た、唐人・高麗人など以外の民族の出身者でしょう。名前からして、ツングース系か、モンゴル系でしょう。そして、彼は、医術の心得があったのでしょう。
   

 


大鷲に浚(さら)はるる小児 「土佐風俗と伝説」天狗怪禽

2024-06-26 22:28:48 | 天狗

大鷲に浚(さら)はるる小児  「土佐風俗と伝説」天狗怪禽

             2024.6

今は昔、天明(1781~1789年)の末、吉本虫夫(むしを:名は外市トイチ、谷垣守の高弟)が長岡郡本山(高知県長岡郡本山町)に住んでいた時の事である。

郷中の大石村の農家の子で三四歳ばかりなるを、一人の童女(小めろ:原注)が子守りをして遊ばせていた。
折しも、山村にはよくあることで、朝霧が立って遠近も分ち難く、ものが見えにくかった際であったが、たちまちその幼児の行方がわからなくなった。

父や里人は驚き悲しみ、四方八方捜しまわったが、何の手がかりも得られなかった。
ただ、林の中にて小さな草履の片足を拾い得たばかりであった。
本山の辺には大鷺が居たので、それに浚(さら)われたものであらうとの噂であった。
哀れな話である。

虫夫は、次の歌を詠じて、父母の心を慰めた。
 白銀に 黄金の玉に 換ぬ子を 物に取られし 親の心は
  立てば匍へ 匍へば歩めと 撫子の 常夏ならで 秋失せにけり
 
元亨釈書 (げんこうしゃくしょ)には、東大寺の良弁(ろうべん)が、鷲に浚(さら)われた児を、丹後にて発見した話がある。

昔は、世の開けぬ時には、このような例は沢山あつたと見える。