江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

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大坂の女侠客  奴の小万(やっこのこまん) 羈旅漫録

2024-04-20 22:47:59 | 江戸の人物像、世相

大坂の女侠客  奴の小万(やっこのこまん) 羈旅漫録

             2024.4

大坂の女侠客  奴の小万(やっこのこまん)

「羈旅漫録」滝沢馬琴  より
〔八十九〕 奴の小万(やっこのこまん)が伝

「奴の小まん」は、本名をゆきと言う。三好氏。
今は、尼となって正慶と号し、難波村に隠居している。
大阪の長堀木津屋と言う豪家の娘であった。
今、長堀の銅吹処(どうふきどころ:銅製品製作所)いづみやの隣に大きい明家敷(あきやしき)がある。
ここは正慶(小まん)の家であったと言う。

難波人の話であるが、ゆきは、十七八歳の時より、みづから誓って結婚しないことにした。
そのころの世間の話に、ゆきは、本当は男を嫌っているのではない。
これには、理由があって、自分が思いを寄せている男には沿(そ)われないので、男嫌いである、と言ったのだそうだ。
 
ゆきには、侠気があって、又、書を読み、字も上手であった。
つねに大阪中を往来するのに、顔に墨を塗り、その上に白粉(おしろい)を施こし、異様な姿形に扮装していたそうだ。

(原註:これは、彼女が男子にまみえない志{ココロザシ}を示している。)
それで、そのあざは或る日は頬にあり、又或る日は額にあった。
こういう事から、世の人は、彼女を「やっこ」「やっこ」と呼んだ。

少しして、京都堂上家の家臣だった者が浪人(失業)して、大阪に来たのを、援助してやった。
彼女は、これを男めかけにして、難波新地の辺(あたい)に住まわせた。そして、折々通って楽しんだ。
後に、かの男が義に違うこと(注:多分、浮気でしょう)があったので、ゆきは怒って、追出した。
彼女は、これより又ふたたび男には、なじまなかった。

その頃、悪党無頼の某(なにがし)と言う者が、法を犯した事があった。
この者は、大阪にかくれ住んでいたが、その場所がわからなかった。
柳里恭(原注;柳権大夫:りゅうりきょう)(訳者注:柳沢淇園のこと。1703~1758年。文人画で名高い。)は、ひそかにゆきに語って、かの悪党を探させた。
ゆきは、程なく かの悪党を捕らえて役所にさし出した。
このような事から芝居・狂言に、「奴の小まん」として創作された。

上田秋成(あきなり:1734~1809年)が書いたものに、ゆきの隠れた男を柳里恭であると記したのは、大変な間違いであると言う。
私(馬琴)が考察するに、柳里恭(りゅう りきょう)の事は、年代が相当しない。これは、元禄年間(1688~1704年)に、大阪に「奴の小まん」と言う女の侠客がいた。それと、今の「奴の小まん=ゆき=正慶尼」と混じり合って、誤ってそう書いたのであろう。
(馬琴先生の生没年1767~1848年、この旅行記は1802年のことである。)
 
正慶は、享保七年(1722年)に生まれ、享和二年(1802年)に至って74歳だそうだ。
(注:これも数字が合わない。享保14年あたりの生まれであろう)

8月2日、私は、難波村に、正慶尼を訪ねた。(原注:正慶尼は、奴の小まんの法名である。)
この日、廬橘(ろきつ:大阪の戯作者、文筆家)が一緒に行った。
その村の医師鎌田氏に、正慶尼に会えるように頼んだ。
正慶は、木津に家を持っていたが、定まった家があっては、人の往来がわずらわしい、と言って、その家を木津の菩提所に寄附した。

そして、難波村に来て、人の家に寄寓した。しかし、常には、その居所を定めなかった。
鎌田氏は、人を走らせて、あちこち訪ねさせて見つけた。
正慶尼は、自ら年は七十四と言う。年老いたとはいえ、なお若いころの容色をとどめている。
歩くのも、しっかりしている。
彼女は、世を厭う心があるので、人が書を欲しいと望んでも、みだりに書いて与えなかった。
しかし、私が対話して扇面に何か書いてほしいと望んだところ、快く引き受けてくれた。
詩一篇と連歌の発句とを書いた。
筆跡は、大変に美事(みごと)であった。
     金城春色映丹霞 (金城の春色、丹霞に映ず)  
     活気和風到万家 (活気の和風、万家に至る)     
     潰笑宴然楼上興 (笑いを潰して 宴然たり。楼上の興)  
     捲簾先見園中花 (スダレを巻いて まず見る園中の花)       
                      三好氏婆   正慶 草(三好氏のババ 正慶 したためる)


     又、
     月落て 松かぜ寒き 野寺かな                   丁女丁  正慶
 
詩も正慶草(書く)、とあったので、自作の詩であろう。
言葉にも、侠気(キョウキ:おとこぎ)があるのがうかがえる。
自ら言う、老婆(正慶尼)が忌み嫌うものは、酔っ払いと猫である、と。

好事のものは、彼女を敬愛している。
前年、蒹葭堂(けんかどう:木村蒹葭堂=大坂の文人)が、墨を与えた代わりに、正慶に絵をかかせた。
そして、蒹葭堂は、みづからこれに題書した。
蒹葭堂の墨と言って、今なお大阪にある。

正慶は画も出来た。
しかし、画は、なかなか人の求めには、応じなかった。

大坂の人も、彼女の本名(ゆき、又は正慶)を呼ばないで、只「奴の小まん」とのみ呼んだ。

(原注:考察すると、「奴の小まん」という、女侠が、元禄の頃にいた。それに、彼女が似ていたので、正慶のあだ名となったのであろう。)

 

「羈旅漫録」について
馬琴先生の著作としては、八犬伝などの小説がよく知られていますが、「兎園小説」類(ここに言う小説は、今の小説Novelとは違って、随筆、雑文)や旅行記(騎旅漫録)などの、著作があります。
中には、なかなかおもしろい内容のものがあります。
「羈旅漫録」1803年 は、江戸から上方への旅行の紀行文です。
(「日本随筆大成第一期第一巻」収載の「羈旅漫録」より)