江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

大蛇退治 「尾張名所図会前編五」

2024-07-27 23:29:01 | キツネ、タヌキ、ムジナ、その他動物、霊獣

大蛇退治 尾張名所図会前編五

                  2024.7

牛巻潭 うしまきのふち  

同じ村(高田村:愛知県名古屋市瑞穂区高田町か?)に有。

昔、この淵に巨蛇(うわばみ、蟒蛇)が棲んでいて人民を悩まし、牛馬をも水中に巻き込んだ。

弘治二年 、大原真人武継(おおはらまひとたけつぐ)という者が、熱田参宮から帰る途中で、東の方を見るに、一筋の黒雲が、下ってきて、淵のほとりに怪しい光が見えた。
これは、かねて聞き及んでいた巨蛇(うわばみ)であろう、と思って、
家に帰り、弓矢をたずさえて、再びここに戻ってきた。


案の如く巨蛇(うわばみ、蟒蛇)が現れて見えたので、もとより強い弓(つよゆみ)の達者であって、
身をかためて、矢を放った。

すると、手応えがして、何度も矢つぎばやに射って、遂に退治したことが、言い伝えられている。

傍らに、その蟒蛇を埋めた跡がある。蛇塚(じゃつか)と呼んでいる。

 

訳者注:名所図会は、各地の名所旧跡などを絵画とともに紹介した書物です。そのうちには、面白い話もあります。

江戸時代には、多くの地区の名所図会が刊行されましたが、これは「尾張名所図会 前編」より。


薩摩の役人の中国漂流記  「筆のすさび」

2024-07-22 20:25:37 | 江戸の人物像、世相

薩摩の役人の中国漂流記  「筆のすさび」

                      2024.7

原題は、「唐山漂流紀文」 

御医の福井近江介が、薩摩の人より得た漂流記を写した文章を、私は見せてもらった。
以下に、記す。

唐山(とうざん:中国のこと)に漂流するものは、多いが、このような事(風景や扁額の文字)に心を止める人は少ない。
この他にも、なお面白い興味深い事が多かったであろう。(原注:この文は、漢文であった。いま、和文になおして記す。訳文の拙いのを笑わないでいただきたい。)

本藩の士の税所子長(さいしょ しちょう、であろうか?)、古後士節(こご しせつ)、染川伊甫(そめかわ いすけ)、祇役(原ふりがな:きやく。役職名であろう)を琉球に派遣した。そして、乙亥(きのとい:1815年)の秋八月に薩摩に帰ろうとした。


しかし、航海中に台風に遭遇した。漂流する事数十日間で、冬の十月に、唐山(とうざん:中国のこと)の広東省の碣石鎮に着岸した。
その広東より江南を経て、おおよそ(琉球を出てから)六ヶ月にして浙江省の乍浦(ざっぽ)港に至った。そして、中国に留滞すること五ヶ月にして、遂に日本に帰る許可が出た。
広東の南雄州(今の広東州南雄市)より南安府(?)に赴いたが、途中で大庾嶺(たいゆれい)を通過した。
時に孟春(旧暦の一月)に属し、梅の花の盛りであった。
(訳者注:広東から大庾嶺に行くと、南安府に行くことは、ありえない。記憶違いか、地名の誤りかであろう。))
道の左に、唐時代の賢相である張九齢の墓があった。「芳流千古」の四字が碑に書かれていた。
又、そこから数歩の所に張公の祠堂があった。遺像は、りんとした様子であった。左の巌窟中に六祖大師の坐像が安置されていた。厳かで、生けるがごときであった。側に泉があり、六祖清泉と言った。
道を上って、一里余りで山頂に至る途中に門があった。門に扁額があり、「嶺南第一」の四字が書かれていた。門を通りかかると、左壁に「梅嶺」の二字が見えた。
一日中、登り下りしたが、眼に触れる所は、すべて奇観であった。
時に清国の嘉慶ニ十一年正月十一日であった。

実に本朝(日本)の文化十三(1816年)年丙子(ひのえ ね)正月十一日であった。

子長は、見た物を多くの図にして、持って帰り、人に見せた。士節や伊甫も又、中国の様子を、事細かに語っていた。

私は、その図を写しとり、かつまたその語った事を、記した。それを、峩山(がざん:お寺か?)の月江師の清翫(せいがん:多分坊さんの名)に贈った。

己卯(つちのと う:1819年)八月、
薩摩の梅隠有川貞熊(バイイン雅号、ありかわ姓、ていゆう名) 記す。

 

以上、「筆のすさび」より。