江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

「天草島民俗誌」河童記事  その37から42

2022-04-30 22:56:41 | カッパ
「天草島民俗誌」河童記事  その37から42

                                 2022.4.30
河童は、川の神祭りの日には尻をとらない   「天草島民俗誌」河童記事  その37

八月、川の神祭りの日は、河童共は、みな打ち連れて、山の庄屋の所に御馳走に行く。
それで、この日だけは、どんなに泳いでも、尻をとられないと言う。

河童が人を引きこむ時は、足の「あど」の所を摘んで行く。
(小谷典次君の報告)


左甚五郎が河童を作った   「天草島民俗誌」河童記事  その38

左甚五郎が家を建てる時、一人の怠け者の弟子がいたので、
「お前の様な者は、人の尻でもくらえ」と言って、金槌をその頭にくらわせて、
海の中に投り込み、
藁人形をつくって地に埋めたのが、今の河童になった。
(御所浦、徳田鉄男君の報告)
         


ある強い男がいた。  「天草島民俗誌」河童記事  その39
河童と角力をとる時、河童のことをよく知っていたので、河童のことをずらりと並べ、
「角力をとる前には、必ず頭をさげておじぎをすること。又河童は人間の脇の下、或は臍等にさわらぬこと、その代りに、人間は河童の頭にはさわらぬ。」と言い渡した。
それから相撲をとったから、容易に河童をまかしてしまった。
そこで河童はついに降參して、それから「これはいくら吸っても減らないものだ」と言って、一本の巻煙草をやろうとしたが、とらなかった。
後、この人は罰があたって、死んだという話である。
(徳田鉄男君の報告)
      
   
河童と猿は仇敵   「天草島民俗誌」河童記事  その40
河童は、昔から、猿と仇であった。
或る時、海辺で出会ったので、水の中にすみぐら(潜り競そう)をやったら、猿の方が息が長くて、勝ったという。
(山路孝男君の報告)
         


むかし、御領村浜田の海岸に、胡瓜畑があった。  「天草島民俗誌」河童記事  その41
その畑近くに家があった。
或る夜、胡瓜畑で大そう生臭いにおいがするので、家の人達が不思議がり、その夜はよく眠れなかった。
その翌朝、早く起きて見ると、胡瓜は、みな噛んだ噛跡がついていた。

そこで、今夜は捕えてやろう、と待ちかまえていた。

夜になったら、又非常に生臭いにおいがして来たので、来たなと思って待ちかまえた。
やがて雨戸をがさがさと掻く音がし、それが段々ひどくなったので、戸をあけて、棒をもって出て見た。
すると、猫の様な、小さなものが沢山いて、頭の上が一様に平たくなっていた。
そして畑の中で盛んにあばれ廻っていた。
これが河童だと思うと恐ろしくて、持っていた棒を投げつけたり、水を俗びせかけたりしたら、みな海の中に逃げこんでしまった。
(原田正雄君の報告)

 
赤子のように鳴く河童   「天草島民俗誌」河童記事  その42

或る、雨の降りしきる夜のことである。
一人の男が、城河原村でも、特に昔から気味の悪く寂しいという所を歩いていた。
右側も山、左側も山、その間に狭い水田があって、その間を通つている道を、我家へと向かっていた。
そして自分の家の灯が見える時分になったと思う時に、ふと深田の中から「オギヤーオギャー」と赤子の泣く様な声が聞えた。
男はひやりとした。
けれども人間の子供ならそのまま捨ててもおけないと思ったので、持っていた提灯の光を差し出して見ると、一人の女の子かと思はれるのが立っていた。
男はびっくりして、全く無我無中で馳けもどった。
翌日、行って見ると、下駄も傘も、そこに投げ捨てたままあった。
これは、河童がまだ人間の尻をとる時節でないので、腹が減ったので、蛙を食べに、田の中に来ていのであった。
(猪口篤志君の報告)

「天草島民俗誌」河童記事  その31から36

2022-04-30 22:49:58 | カッパ

天草島民俗誌」河童記事  その31から35
 

                              2022.4.30

河童が化ける   「天草島民俗誌」河童記事  その31
河童は、花ぞうりなど美しいものに化けて、小さい子供が海などで遊んでいると、その目の前を流れて見せる。
すると、子供はだまされて追って行く。
ぞうりは段々と沖の深いところへ行って、最後に河童になって尻をとる。
(堤田馨君の報告)
         


むかし、或る漁師が一人海に漁に出ていた。  「天草島民俗誌」河童記事  その32
しばらく釣をしていると、急に舟の片方が重くなって傾いた。
それで、のぞいて見ると、大きな河童が舟の横腹にしがみついていた。
びっくりして、漁師は、此奴(こやつ)が、とばかり包丁で河童の腕を切りつけると、片手は舟のなかに転げ込み、河童は奇声を残して海の中に没し去った。
漁夫は、これは珍らしい物だ、土産に持って帰ろうと、やがて漁をやめた。
そして、舟を陸の方へ漕ごうとすると、おかしなことに、舟は進まなかった。
しかも、段々重くなって、今にも沈んでしまいそうになった。
そこで、河童の悪戯だな、よしも一度姿を現はして見ろ、今度はいよいよ生してはおかぬからと、舟の廻りを見たが、姿は見えない。
けれども舟は益々沈んでしまいそうである。
その中にだんだん沈んでしまった。
それから漁夫は、やっと岸に游ぎ着いた。
その後何とも判らぬ高熱を発して、狂い死にをした。
(有江美津夫君の報告)
     

海で河童に尻をとられた   「天草島民俗誌」河童記事  その33
四五年前、或る子供が海に泳いでいると、突然河童がやって来た。
河童は、その子供を取り、二三度海の上に持ち上げて笑わせてから、水中へ引込んだ。
人が助けに行った時には、すでに「ぢご」を取られていた。
(有江美津君の報告)
         


河童は、蕎麦が好き    「天草島民俗誌」河童記事  その34

河童は蕎麦が好きである。
秋の彼岸頃から、寒いので山の谷川のほとりに住む様になる。
そしてその附近の木に蕎麦を掛けて置くと、河童がよくそれを盗みに来る。
(下浦村 池田カメ氏[六十四歳]横山宮君の報告)
         


河童は、冬は「きろきそ」の木の根にいる  「天草島民俗誌」河童記事  その35

なごしの節句の時は、山に素麺を食いに行くから、この日は、人の尻をとらない。
冬は山の「きろきそ」の木の根にかがまっている。
背中は、亀の甲のようで、口のそばに毛が生えている。
(本渡町。野上弘氏談 鶴田一郎君報)


河童は光りモノを嫌う    「天草島民俗誌」河童記事  その36

河童は、非常に光るものが嫌いで、泳ぐ時には佛様の御飯をいただいて行くと、眼が光るので、尻をとることが出来ない。鎌なども嫌いである。


績古事談に見える安倍晴明

2022-04-30 22:38:24 | 安倍晴明、役行者
績古事談に見える安倍晴明
2022.4


丹波守貞嗣(たんばのかみただつぐ)は、北山に詣でて百寺の金鼓を打ったが、
洞照(とうしょう:または登照)と言う人相見がこう言った。
「あなたの顔色はよくない、恐らくは、鬼神のために犯されたのであろう。」
貞嗣は、
「心地が悪いことは無い。いつもと変わりない。」
と答えた。
洞照が、「早く、お帰りなさい。」
と言っているうちに、貞嗣は、急に、気絶した。
それから、回復してから家に帰った。

するとモノノケが現れて、
「つまらないことだが、我らが遊んでいる前を通ったので、おまえの胸を踏みつけたのだよ。」
と言った。
これは、天狗のしわざであった。
それから、三日すぎて死んだのだ。

洞照の人相見のあらたかさは、大変勝れたものであった。


睛明は大舎人(おおとねり=官職)であったが、笠をかぶって勢田橋を通りかかった。
滋光(じこう)は彼を見て、
「あの人は、一道の達人であることを、看破した。」
そのことを、睛明に告げた。

それを聞いて、晴明は、陰陽師の具?(口+廣)(ぐこう)の家に行ったが、相手にされなかった。

また、賀茂保憲(かものやすのり)のもとに行った。すると、保憲は睛明の人相をみて、大事にもてなしてくれた。
睛明は、陰陽の術の達人ではあったが、世渡りの才覚は、さほど優れてはいなかった。

睛明は賀茂光栄(かものよしみつ)と言い争った事があった。
睛明は、保憲のもとにいた時、「光栄に遅れをとったことはない。」と言った。
光栄は、「そんなことはない。」と反論した。

睛明は、「保憲様は、百家集を私にくれた。」と言った。
すると、光栄(よしみつ)は、「私も百家集を持っている。」と、これだ、と見せた。
また、「歴道も伝えられた。」と言った。

睛明の母は狐  「燕石雑志」

2022-04-30 22:29:05 | 安倍晴明、役行者

睛明の母は狐
                                                                              2022.4

睛明の出自、母については、面白い説がある。
本人が自身の神格化を計ったのか、後生の人が神格化したものであろう。
母は、狐だが、ただの狐ではなく稲荷大明神である、だから神通力があるのだろう、と。

「燕石雑志」(滝沢馬琴先生著)には、こうある。 

ホキ抄というものに、睛明の母は、人ではなく物の怪であった、とある。あちこちさまよい歩く遊女となったが、猫島(茨城県筑西市)で、ある人に引き留められ、三年ほどとどまったが、その間に今の睛明が生まれた。
童子(睛明)が三歳の暮に、
歌の一首を、
恋いしくば たづね来て見よ 和泉なる 志の田の森の うらみ葛の葉
と詠んで、かき消すように消え失せた。
睛明が、上洛したおりに、まず母が詠んでいた歌は、本当なのであろうかと思った。
そこで、和泉の国(大阪府和泉市)へ行き、しの田の森を訪ねて入ってみると、社(やしろ:今の信太森神社)があった。
伏し拝んで、母の様子を教えてくれるよう祈った。
すると、年老いた狐が一匹、睛明の前に出てきた。
「我こそ、汝の母なり。」と言って、消えて行った。

これが、すなわち、しの田の明神であった、と云々。

 


新説百物語巻三 6 狐笙を借りし事

2022-04-30 22:15:43 | 新説百物語

新説百物語巻三 6

                                                                  2022.4

     

6.狐笙を借りし事


下京に何之介とか言う人がいた。
根っからの、好奇人(すきびと)で音楽に詳しく、殊更に笙(しょう)をよく吹いていた。
ある時、彼と同じような年齢の若い男が来て、
「私も、笙を吹きますが、あなた様の笙の音色があまりにすばらしいので、毎日、表にただずんで聞いておりました。これからは、心安くおつきあいさせて下さい。」と言った。
彼も音楽が好きであったので、
「それでは、今後は、心やすくおいで下さい。」と答えた。
それから、毎日毎日来た。
彼も笙を持って来て、だがいに吹いた。

「私は、九条辺(あたり)のもので、宮野左近と申します。」と言った。

その後に、一両日も過ぎて、
「あなた様の御笛は、殊の外よい御笛でございますね。なにとぞ、一両日御かし下さい。その替りに、私の所持している笛を置いて帰るます。」と所望した。
彼の男は、
「それでは、御かしいたしましょう。」と答えて、たがいに取りかえて、貸した。

その後、四五日たったが左近は来なかった。
一月たっても来なかったので、さては病気でもなったのだろうか?心配なことだ。
いざ行って尋ねてみようと思って、九条に到った。

近辺の百姓の家に行って、宮野左近の家を尋ねたところ、
「その様な人は聞いたことがありません。この野のはづれに宮野左近狐という祠(ほこら)ならあります。おかしな事を尋ねる人だな。」と笑われた。

彼の男は、不思議に思いながらその祠(ほこら)に到って、様子をくわしく近所のものにたづねた。

すると、
「前の月の末より、夜がふけると、この神社の近所から、何やら笛の音が毎夜聞こえて来ました。しかし、最近は其の音も止んで、ほこらの前に笙の笛というのが置かれていて、一匹の狐が死んでいました。
それで、近所の寺に葬りました。その笙というのも、その其寺へ納めました。」と語った。

彼の男も思わず涙をながし、泣く泣く、その寺へ到った。
そして、これまでのいきさつを語って、その笙を見せてもらった。
すると、成程、先日かした笙(しょう)であった。
それで、その笙を寺へ上げて、取りかえた我が手元にある笙を小狐と名づけて、秘蔵した、とのことである。

延享(1744~1748)の頃の話であるそうだ。