江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

新井白石の書に見られるミイラ  「五事略」

2023-02-16 00:15:51 | ミイラ薬

新井白石の書に見られるミイラ

                                                               2023.2

さて、先日、新井白石の「五事略」(明治十六年)という書籍を手に入れました。
すると、ミイラ(みいら)が、輸入された記述を見つけました。

新井白石の「五事略」
外国通信事略  オランダよりの輸入品の項に
「みいら」が、記されています。

これは、医薬品として輸入されたと思われます。
当時のヨーロッパは、ミイラを薬として用いており、エジプトから、大量に輸入されていました。
その、余波が、日本にも及んだのでしょう。

「八十翁昔話」新見正朝、享保十七年(1732年)には、
昔、「ミイラ薬」が、大いに流行った事が、記されています。


ミイラの採集方  及び「ミイラとりが、ミイラになる」の出典  「史籍収攬 渡辺幸庵対話」

2021-04-04 17:58:21 | ミイラ薬

ミイラの採集方

及び「ミイラとりが、ミイラになる」の出典


「ミイラとりが、ミイラになる」ということわざは、何となく、外国起源のような感じがするとは思います。
しかし、日本独自のことわざです。

「史籍収攬 渡辺幸庵対話」には、おそらく「ミイラとりが、ミイラになる」という言葉の起源になった伝聞が、記述されています。
(更に、その大元は、不明です。この渡辺幸庵対話以外にも、似たような記述があります。)
この、「ミイラとりが、ミイラになる」という言葉は、日本独特の言葉です。

外国語(私の場合は、英語、中国語)で、これに相当する言葉を見たことがありません。


ミイラの採集方

以下、「史籍収攬 渡辺幸庵対話」の本文

交趾(コウチ:今のベトナムと重なる)と暹羅(シャム:今のタイ)の間に、300里ばかりの砂原(砂漠)が有る。この場所の往来には、松の木の丸太船に乗り、6尺ばかりの、小さい帆をかけ、体には箕を着ける。なぜかというと、風が激しく、砂を吹きかけるからである。目だけを出して、その砂原を風の力で走るのである。
その時に砂原に人の死骸が年月を経て堅くなったのを見つけては、熊手のような物を用意しておいて、引っかけ引きずって帰ってくるのである。
肌は、乾燥して堅くなるが、着ていた木綿はそのまま腐らずにある。
これをミイラと云う。

これは偶然にしか得られないので、ミイラは至って貴重である。
向こうの国でも、秘蔵している。
その上、人は死ぬと小さくなる。
まして乾燥して固まったものであるので、毎年得られる物ではない。
往来の時に、偶然見つけて、手に入るものである。

時として、日本にもミイラが渡来するが、多くは作り物(=偽物)である。
これは、火葬場の柱に、年々たまった人の油を取り、松脂の古いのと練り合わせたものである。
人の油なので、薬効がある。

以上。
「史籍収攬 渡辺幸庵対話」広文庫 より

内容を見れば、この記述が、ミイラを運んできたオランダ人の知識とは、一致しないことがわかります。
交趾(コウチ:今のベトナムの一部)と暹羅(シャム:タイ国)の間は、カンボジアかラオスです。
乾燥した、灼熱の砂漠はありません。熱帯の林か草原です。
オランダ人は、ミイラがどこから来たかを、知っています。ミイラを、商品として運んできたのは、オランダ人ですから。この故事のもとは、オランダなどヨーロッパからのはずは、あり得ません。
中国人も、交趾(コウチ)と暹羅(シャム)の間に、砂漠が無いことは知っていたでしょうから、この故事を伝えることはあり得ません(そこら変には華僑が昔から大勢います。)
このコトワザは、日本国内で作られたものとしか、考えられません。
「ミイラとりが、ミイラになる。」は、日本独自のコトワザです。

さて、ベトナム(コウチ)とタイ(シャム)の間には、今では、南は、カンボジア、北にはラオスがあります。
しかし、少し前までは、ベトナムの南部は、カンボジア領でした。従って、この文章の書かれた時代の、両国の間とは、ラオスのことです。
このラオスの中部には、ジャール平原(Plaine des Jarres)があります。この、平原には、石壷(石のJarジャール)が、沢山点在しています。これは、骨壺であったと思われ、石壷の近辺には骨が発見されてもいます。

こういうことと、ミイラのこととが、混ざり合って、
「交趾(コウチ)と暹羅(シャム)の間に、300里ばかりの砂原(砂漠)が有る。・・・」
との説が成立した、と考えるのが、妥当でしょう。


ミイラ薬への批判  「醍醐随筆」

2021-04-04 17:54:58 | ミイラ薬

ミイラ薬への批判

江戸時代に、ミイラが、オランダ船によって、日本に医薬品として、持ち込まれました。
当然、人体を薬として用いるのに対しては、批判が起こります。
そのうちの一つを紹介します。

以下、本文。

ミイラ薬への批判

近年、南蛮より得たと言って、珍しく耳慣れない名前の薬をもてはやしている。
一つの薬で、多くの病気を治すように言って、高い価格で売り出した。すると、このような奇特なものがあると言って、起死回生し、寿命を延ばせると思い込まさせた。
実に馬鹿げたことではないか。
薬は、偏ったものであって、一つの薬では病を治すのは難しい。
治すことが出来ても、一薬では副作用の害が出る。
薬というものは、君臣佐使の法則に則って、五種類、三種類、あるいは十種類、二十種類ほど組み合わせて、始めて、多くの病気を治し、身を養うことができる。
(訳者注:この組み合わせるのは、漢方の理論に基づいています。何種類かの生薬を、ある法則=君臣佐使=によって、組み立てて、処方をつくります。そうすることによって、目的とする効果をあげようとするものです。一つの生薬を単独で用いるのは、例外的なことです。ミイラ薬単独では、十分な、効果を得られないだろう、と主張しています。)

なにか、一つの薬で、多くの病気を治せるものならば、医者の上手下手も無いであろう。
ウニコオル(一角獣の角:ユニコーン)と言うのは野底茄(ヤテイキャとルビがふってある)である。
アメンドウスとう言うのは巴旦杏(パタンキョウ)である。
ミイラと言うのは、木乃伊である。
これらの類は、たいして効果のあるものではない。
それのみならず、妙薬と言って、さまざまの合薬を売っている。

効果がないのは、こういうことからである。
害を受けることが多いであろう。
人身は、再び得られないものである。
大事にしなければならない。

以上
「醍醐随筆」(中山三柳、寛文10年 広文庫 より


「ミイラ取りがミイラとなる」の語源  「閑窓瑣談(かんそうさだん)」為永 春水

2020-07-15 15:16:16 | ミイラ薬

「ミイラ取りがミイラとなる」の語源

「閑窓瑣談(かんそうさだん)」(為永 春水、 1790-1843)には、

「ミイラ取りがミイラとなる」の語源が、記載されていますので、紹介します。

これには、ミイラの産出地を、赤道直下のどこかとしてあるが、別の資料では、インドシナ半島の、どこかとしている。

 

以下、本文

民間の諺に、ミイラ取りがミイラとなる、というのが広まっている。 その起源は、こういうことである。

木乃伊の出る国は赤道の下にあたる国であって、極熱の地方である。 (原注:赤道のことは、地球の図説にて、詳しく見ること)

その所に広々とした砂漠がある。 その辺を往来する人は、土で製造された車に乗って、通り過ぎる。

万一誤って地に落ちれば、たちまち焼け焦がれて、木乃伊(ミイラ)となる。

また、この木乃伊を取ろうとして土の車に乗って行くものがある。

その者も乗っている車が破れるか崩れて地に落ちれば、同じく木乃伊(ミイラ)となる、と云う。

これは、全く根拠の無い 佞言(ねいげん:この場合、うその言葉の意)である。


蜂蜜漬けの人体(密人、ミイラ)は、特効薬  広大和本草

2020-07-14 19:36:58 | ミイラ薬

蜂蜜漬けの人体(密人、ミイラ)は、特効薬


広大和本草
広大和本草(1759年)には、ミイラについて、このように記述されている。
江戸時代には、多くの本草書(薬学研究書)が出版されたが、これもその一つ。

以下、本文。

密人

外国語では、ミイラである。もと、西域の産である。
弥勒所問経(みろくしょもんぎょう)に言う。

崑崙(コンロン:中国にある山)の北九百里に、また小コンロンがあり、博ギ山とも云う。
ある人が、古い墓を暴いて、石の棺を得た。

石棺の中に、**が数枚あった。
形質は、すこぶる血竭(ケッケツ:別名は麒麟血キリンケツ)に似ていた。
それが何であるかを知っている者はいなかった。

すると、天帝が二人の童子を地上に降ろして、このように告げられた。
「これは、蜜人である。
昔、乾陀国(かんだこく:Gandhara ガンダーラ)に、不思議な人がいた。
性は仁愛で、衆生(しゅじょう:多くの人)の為に身を捨てようと、常に蜂蜜だけを食していた。
そうして、一万三千五百日にして、死んだ。
人々は、それを石棺に入れ、博がの山中に埋めた。
すでに五千有余年を経ている。
これが、その蜜人である。」

これば、仏教家の説である。


この他、陶九成の説く所の一つは、すでに大和本草の中に見える。
故に、ここには、記載しない。
また、質汗(しつかん)のミイラと云うものがある。
本草拾遺に云う質汗は、もと西方の国々に出るものである。
ていりゅうのヤニ、松ヤニ、甘草、地黄(じおう)並びに獣血を煎じて、これを作る。

番人(外国人:この場合は、ミイラの産出地の人)が、その薬を試すのには、小児の片足を切断し、その薬を傷口に塗り、足をつけて、良く走ることができたのなら、良品しとする。
これが、質汗の本物である。華人(中国人)であっても、手に入れるのは、難しい。まして、蜜人を手に入れるのは、更に難しい。

天正年間(1573年から1593年)、オランダのハヌリヌと云う者が、長崎に来て住んだ。通事の毛利貞右衛門(もうりさだえもん)と云う者に、質汗の処方を教え、乳香、没薬、霊條の三味を練り合わせたものであると。

考察するに、ミイラ、蜜人、質汗などの効能は、ほぼ等しい。
先に述べた処方も、質汗の数多くある処方の一つであろう。

聖済総録(せいさいそうろく)には、こういう記述がある。
女性が閉経(注:現在とは、多少、意味が違います。月経が、こないこと。)しこりがあって、腹部が痛む場合に、質汗、姜黄(キョウオウ)、大黄炒を各半両を粉にして、杯の一杯分を米飲(米の薄いお粥)で服用すれば、すぐに効果がある。