晴明桜
2022.5.21
安倍晴明の伝説が、各地にあるようですが、長野県の伊那地方にも、あります。
「伊那の伝説」(昭和8年、岩崎清美著、山村書院)という本にあります。
市川村(昔、長野県下高井郡にあった村)の字出原(あざ いずるはら)に樹齢千年の晴明桜と言うのがある。
俗に、安倍睛明が植えた木とされていて、この名がある。
この附近の農家では、睛明桜の樹の花の開き加減によって、籾播きの時期を決めている。
それで、苗代桜との別名で呼びならわされている。
睛明淵、晴明ころがし(睛明こかし)、晴明の社(やしろ)、睛明腰掛岩、睛明の井、木偶茶屋(でくちゃや)、晴明の手植の樹、安倍睛明庚申大明神、睛明田 その2
2022.5.17
「南紀土俗資料」(森彦太編、大正3年3)より
又、上山路村の西面松翠氏の報告に曰く、
昔、上山路村殿原の字(あざ)谷口の庄司新九郎と言うものの所へ、安倍睛明が訪ねて来た。
そこで、新九郎は、「この里の山中に、妖怪が出没して、通行者を悩ますことがある。」と告げた。
それでは、護摩を焚いて、それを調伏しよう、と言って、睛明は山に登って行った。
その祈祷の最中に、にわか雨が降って来たので、供の者が傘を晴明にさし掛けた。
笠塔山の名は、それから起こったと言う。
又、護摩を焚いた場所は、笠塔山の行いの壇と言って、その山頂に、跡地ががある。
この事があってからは、妖怪の出現は止んだ。
祈祷が終わって、晴明は谷ロの里へ帰って来た。
新九郎は更に、この附近に、猪や鹿が出て作物を害し、又、田地に蛭が多く、人に吸いついて困る、と言うことを話した。
晴明の言うには、「毎年霜月二十三日を拙者の忌日と定め、当日、白紛餅で祭ってくれよ。そうすれば、その害を除いてやろう」、と言うや否や、睛明の姿は惣然として消え失せた。
その後、今に至るまで、谷口の蛭は人に吸いつかぬと言う。
或いはこのようにも言われてる。
睛明がここの蛭に血を吸われ、怒ってその口をねじった。
それから一切血を吸わなくなったと。
姿を消した睛明は、やがて殿原の小字(こあざ)恩行寺という所に現われ、一若と言うものの家に泊った。
睛明が大金を持っている事を知って、一若は悪心を起こした。
鶏の止り木が竹なのを幸いに、夜中にこれに湯を通した。
驚ろかされた鶏は、一声高く時を告げた。
一若は、夜明も近いと偽って、睛明を連れ出した。
そして日高川の支流の丹生ノ川に沿って上り、穂手心場(ほてのやすば)の上手である「まいまい崖」と言う絶壁の下に到った。
すると突然、睛明を突き落した。
そして細い径をたどって淵の辺に下りて行って見ると、溺死した筈の晴明は、淵に臨んで突き出た大巌(おおいわ)の上に悠然として坐っていた。
ここを「晴明こかし」と言い、淵を晴明淵と言い、巌(いわ)を睛明腰掛岩と呼ぶ。
睛明は、おもむろに口を開いて、一若に向い
「おまえは愚かで悪心を起こし、大金を奪おうとして我を殺そうとしたのだろう。
そんなに欲しいのならば、すっかりくれてやろう。」
と財布を投げ出した。
一若は恐しくもあり、きまり悪くもあり嬉しくもあり、且つ謝し且つ喜び、その財布を貰って家路を急いだ。
ふと後方を顧みれば、晴明は指をかみ切り、血を出して、壁のような巌に文字を書きつけていた。
一若は家に帰って早速財布をあけて見ると、予期した金は一文もなく、金と見えたのはすべて木の葉であった。
その後、一若の一族は、挙げて癩病に罹り死に絶えた。
その後、恩行寺の前の川中に、夜な夜な異光を放ち人々を驚かすものがあった。
ある人がこれを拾い上げて見ると、玉石であった。
これぞ一若の家に崇りをなすものであるとして、晴明の神体として、土地を選んで祠を建てて祀った。
称して、安倍睛明こうしん(原文通りで、かな。庚申)大明神と言う。
略して睛明様とも呼んでいる。
今も参拝する人はあるが、昔から道無し宮とも言って参道を開かない慣例になっている。
この祠の下の田を睛明田と言っている。(上山路村大字殿原字谷口千二十番地、田拾七歩)
この田は古来、下肥は勿論、灰をも肥料として用いず、ただ草肥のみを施す例になっている。
これも睛明を畏敬しての亊だと言う。
2022.4
丹波守貞嗣(たんばのかみただつぐ)は、北山に詣でて百寺の金鼓を打ったが、
洞照(とうしょう:または登照)と言う人相見がこう言った。
「あなたの顔色はよくない、恐らくは、鬼神のために犯されたのであろう。」
貞嗣は、
「心地が悪いことは無い。いつもと変わりない。」
と答えた。
洞照が、「早く、お帰りなさい。」
と言っているうちに、貞嗣は、急に、気絶した。
それから、回復してから家に帰った。
するとモノノケが現れて、
「つまらないことだが、我らが遊んでいる前を通ったので、おまえの胸を踏みつけたのだよ。」
と言った。
これは、天狗のしわざであった。
それから、三日すぎて死んだのだ。
洞照の人相見のあらたかさは、大変勝れたものであった。
睛明は大舎人(おおとねり=官職)であったが、笠をかぶって勢田橋を通りかかった。
滋光(じこう)は彼を見て、
「あの人は、一道の達人であることを、看破した。」
そのことを、睛明に告げた。
それを聞いて、晴明は、陰陽師の具?(口+廣)(ぐこう)の家に行ったが、相手にされなかった。
また、賀茂保憲(かものやすのり)のもとに行った。すると、保憲は睛明の人相をみて、大事にもてなしてくれた。
睛明は、陰陽の術の達人ではあったが、世渡りの才覚は、さほど優れてはいなかった。
睛明は賀茂光栄(かものよしみつ)と言い争った事があった。
睛明は、保憲のもとにいた時、「光栄に遅れをとったことはない。」と言った。
光栄は、「そんなことはない。」と反論した。
睛明は、「保憲様は、百家集を私にくれた。」と言った。
すると、光栄(よしみつ)は、「私も百家集を持っている。」と、これだ、と見せた。
また、「歴道も伝えられた。」と言った。
睛明の母は狐
2022.4
睛明の出自、母については、面白い説がある。
本人が自身の神格化を計ったのか、後生の人が神格化したものであろう。
母は、狐だが、ただの狐ではなく稲荷大明神である、だから神通力があるのだろう、と。
「燕石雑志」(滝沢馬琴先生著)には、こうある。
ホキ抄というものに、睛明の母は、人ではなく物の怪であった、とある。あちこちさまよい歩く遊女となったが、猫島(茨城県筑西市)で、ある人に引き留められ、三年ほどとどまったが、その間に今の睛明が生まれた。
童子(睛明)が三歳の暮に、
歌の一首を、
恋いしくば たづね来て見よ 和泉なる 志の田の森の うらみ葛の葉
と詠んで、かき消すように消え失せた。
睛明が、上洛したおりに、まず母が詠んでいた歌は、本当なのであろうかと思った。
そこで、和泉の国(大阪府和泉市)へ行き、しの田の森を訪ねて入ってみると、社(やしろ:今の信太森神社)があった。
伏し拝んで、母の様子を教えてくれるよう祈った。
すると、年老いた狐が一匹、睛明の前に出てきた。
「我こそ、汝の母なり。」と言って、消えて行った。
これが、すなわち、しの田の明神であった、と云々。
2021.5
安倍睛明が、藤原道長の御前で、術くらべをした話
訳者注:この話は、江戸時代に流行した「百物語」の一つである、「諸国百物語」にある。睛明は、平安時代の人であるが、睛明についての逸話は、江戸時代にも広まった。
元の話とは、少し違っている。
以下
道長の御前にて三人の術くらべの事
長徳年中(995年から999年)の相国 藤原道長の前に、比叡山の僧の欽朱(きんしゅ)と安倍睛明と医師の重正(しげまさ)と、三人が同座していたことがあった。
お茶受けに瓜が出された。
睛明が見て、「この瓜のうちに、毒がある瓜がございます。」と占った。
それを道長が聞いて、「それでは、この沢山ある瓜のうちのどれに毒があるのか?」と質問した。
欽朱が、瓜に向かって、印を結んで、呪文を唱え、すぐに一つの瓜を取り出した。
すると重正は、ふところから針を取り出して、その瓜を刺すと、この瓜は動くのをやめた。
道長がこの瓜を割って見ると、そのなかに蛇が一匹いた。
見ると、蛇の目に針が刺さって死んでいた。
三人が同じように優れた術に通じていた事に、道長は、大いに感心したとの事である。