江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

亀卜(きぼく)  「筆のすさび」菅茶山

2023-04-26 22:59:05 | 奇談

亀卜(きぼく)

                                                                            2023.4
亀卜(きぼく)は対州(対馬)に残っている。
(注:古代の占いの方法である。古代中国から伝わったものであろう。)
その法は、このようである。
亀甲(べっこう:原典のルビ)の裏から小刀で穴をあける。そして、一寸程を薄くするのを鑚亀(さん)と言う。
対馬で、クフと言う木は刺のある木である。
それを箸のようにして、その先に火をつけ、あの薄くした所を裏より焼く。
表に割れた紋が出て来るが、それを灼亀(しゃくき)という。
その紋の裂けようを見て、古凶を占う。
その亀卜の方法を、或る峙 古田家より、教えてくれるように望まれたが、教えなかった。

甲は乾燥したのを用いる。生きている亀の甲羅ではない。

「筆のすさび」菅茶山、安政三年 より

 


裸形の国  筆のすさび

2023-04-26 22:56:00 | 奇談

裸形の国

                                                                       2023.4
数年前、芸州(安芸の国:今の岡山県)の人が漂流して、どこかに国に流れ着いた。
その国の人は、皆裸であった。
その国の酋(おさ)が、時々、国を巡視するのを見たが、国王も王妃も裸であった。
芋がおおく生じ、土中に入れて蒸し焼きにして食べる。
芋の葉をとって、植えておけば、また芋が出来る。
穀類はなくて、食べることはない。

この裸の国付近に、安芸の人が難船して漂流していたのをオランダ船が助けた。
彼を、その裸の国に預けておき、翌年日本につれてきた。
というのは、漂流者を連れ帰ると、褒美の金が得られるからである。

武元景文は、その漂流者にあって、そのことを詩に書いたが、私は、それを失念した。

「筆のすさび」菅茶山、安政三年 より

 

 


大酒の害  「筆のすさび」菅茶山

2023-04-26 22:53:40 | 江戸の街の世相

大酒の害

                                                                            2023.4
備後中条村に三蔵と言う人がいた。
その家僕に酒を好むものがいた。

ある日、三蔵は、そのものを見て、
「お前は、酒をどれほど飲めるだろうか?」と質問した。
彼は、「もともと貧乏なので、欲しいだけ飲んだことは、ございません。多分、一升では、足りませんでしょう。」と答えた。
それならと 一升飲ましたが、すぐに飲み干した。


こは珍しい位の上戸だなと思い、「もっと飲めるだろうか?」と聞いた。
すると、ますます悦ぶのを見て、又一升を与えた。
これも苦もなく飲んだが、やがて横になって寝こんだ。
その、夜半に死んだそうである。

他にも、似たような事を、三四度も聞いた。

これは三蔵から聞いた通りの話である。

すべて、酒は小いさな杯にて一日も半日も飲むと、自覚しないまま、量をすごしてしまい、つもりつもっては病を引き起こす。
大きな杯で、自分の通常の無理のない量だけ一度に飲む場合は、酒の力が一時に出つくすので害はない。
このことは、私が数十年にわたって見聞きした人達は、皆そうである。
しかい、量を過ごせば、大きな杯で、一度にの飲むこと(一気のみ)の害は、小さな杯で、長く飲むのよりも、大きいようだ。

「筆のすさび」菅茶山、安政三年 より

 


江戸の大食会  「筆のすさび」菅茶山

2023-04-26 22:49:13 | 江戸の街の世相

江戸の大食会

                                                                                                                   2023.4

いつのころか、備後の福山で、大食会と言うことをはじめた人たちがいた。

その社(なかま)の人は、皆早死にした。

しかし、ただひとり陶三秀(すえ さんしゅう)といふ医者がいたが、これは、大食の害をはやくさとって、その社(なかま)を辞(や)めて六十歳余りまで生きた。
私は、若い頃、三秀に会って、彼が甚だ小食なるを見た。
そして、その理由を問うたが、その社中(なかまたち)は、皆、変な病で死んだ。
彼自身は、減食して、不幸を免れたと言う。

その後、近村の平野村にまたこの事が流行って、人が多く変な病気をやんだ。
その社中(なかまうち)に清右衛門と言う若者がいた。
智力も人にすぐれ、無病であったが、ふと尿を漏らした。
それから、より頻繁になって、ついに、坐りながら、尿をもらしても、自覚がなかった。
そして、発狂して死んだ。

大食しても、すぐには害にはならないが、つもりつもって、不治の病となるのだ。
一日に五合の食(めし)は、吾邦(わがくに)の通制である。
その量で、飛脚をもつとめ、軍にもつとまるものである。そうであるから、人々は、心得るべき事である。
行軍の時には、1日に一升の食事、戦の日は二升の食事と言う事は、その時々の情勢によってであって、通常の時の食事量ではない。

「筆のすさび」菅茶山、安政三年 より

 


大旅淵の蛇神 「土佐風俗と伝説」より

2023-04-17 23:37:12 | キツネ、タヌキ、ムジナ、その他動物、霊獣

大旅淵の蛇神  「土佐風俗と伝説」より

                2023.4

今は昔、長岡郡本山郷天坪(あまつぼ)の字(あざ)穴内赤割(あなないあかわた)川と称する川上に、大旅(おおたび)の淵と言う、底の知れない深い淵があった。

昔より蛇神が棲んでいて、金物などを淵に入れると、怒って大暴れした。
たちまち、暴風雨などを起こす、と言って、人々は皆恐れていた。

ところが、ここの村に一人の男がいた。
物好きの人であって、ある日ここに魚釣に出掛けて、釣糸を垂れた。
さて、魚の釣れることは、たとえようもなく、多かった。
丸で引っ切り無しであったが、最早や籠一杯になったので、急いで家路を指して帰った。

家で、ふたをあけて見れば、これはどうしたことか、ただの木の葉のみと変っていた。
流石の大胆なる男もこれに懲りて、その淵では、二度と釣りはしなかった。

しかし、ある無頼の者が、又この淵には魚が豊富にいるので、鵜飼いをしようと、ある日、一羽の鵜を放った。
しかし鵜は、水中にもぐったまま、再び出て来なかった。
これは不思議、と衣服を脱いで水底にもぐって行くと、珍らしい殿閣があって、丸で浦島太郎の龍宮の話のようであった。
一人の美しい女神が、殿中で機(はた)を織っていた。
機(はた)の上に彼の鵜を止まらしてあった。

女神は、
「ここは人間の来る所では無い。早く帰れ。」
と言った。
その男は鵜を放ったことを詫びて、ゆるしてもらい、命からがら這うように逃げ帰った。

それより、再びこの淵に近付かなかった。

また、この村に国見山と言う、強力無双の力士があった。
ある日、外出して帰宅途中の夜半の丑満(うしみつ:午前二時位)の刻(とき)に、この淵の傍を通った。
すると話にもきいたことが無いような大蛇が、悠然と横たわっているのを見た。
彼は、流石に強気の男であって、大蛇に「通れないからどうぞ通してくれ」と言った。
しかし、蛇は中々動かなかった。
この男は乱暴にも、手頃な松を引き抜き、それで大蛇を打ち叩き、大蛇が去っていくのを見て、家に帰った。

それから、毎夜、大蛇の神が枕神に立って、うたれた
苦しみを訴へた。
力士は大熱を病み、遂に煩悶しながら死んだ。
そしてその最後には、身体には鱗のようなものがあらわれた。