江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

「動物界霊異誌」中の蝦蟇(ガマがえる)  その3 

2022-12-19 20:29:42 | キツネ、タヌキ、ムジナ、その他動物、霊獣

「動物界霊異誌」中の蝦蟇(ガマがえる)   その3 

猫を溶液にする 猫を溶かす
猫を溶かす蝦蟇の妖力

石見国(島根県)大田町の南接地たる久利村に屋号を「柿の木」と言う農家がある。

或る日、主人は家人と談話中、庭前の柿の老木に隣家の方より一匹の猫が出てきて駆け上り、枝の上に立って、背を高くして下方をにらんでいた。
その様子は、敵を待つものの如くであった。

しかし、下には何物も追尾して来ないが、猫は依然として樹上で背を曲げ、四足は伸ばし得るだけ伸ばして、力み返っていた。
やがて猫の身から、灰色をした液汁が出てきて、際限なく滴下して地面へたまり、たまったのが蝋の如くに固まった。
その大きさは、大皿を伏せたようであった。
その中に猫は次第に姿勢が緩み出し、終にはグタンと力がぬけて体も目に立ちて痩せ細り、最後には樹上より地面に墜ちてしまって、動かぬこと死んだようであった。
しばらく経つと、何所からか大きい蝦蟇墓が一匹はい出して来た。

かの蝋様のものの周囲をまわりながら、土砂を掻きよせてこれを埋め、その傍にうづくまっていた。
やがて不潔な土団子のようなものが、ムクムクと生え出して来た。
その物には臭気があると見へ、四方から蒼蝿がよって来るのを、蝦蟇は巧みに一匹ずつ捉え、四五十匹にも及んでから、悠々として立去った。
後に人々は出て見るに、猫は骨と皮ばかりになっていたと言う。

猫は気の強い動物であるのに、それを気負けさす蝦蟇の精神力には驚くの外はない。
蝦蟇が猫を殺したのは便宜的な事であって、目的は蝿を捕へて喰うのにあったのである。
猫の肉脂が液状になるのは化学的作用であるが、蝦蟇は唯その一念を射出しただけで希望を遂げたのである。

このことを実際に見た者は、美濃嘉七と云う、今は故人の刄物鍛冶である。

 


「動物界霊異誌」中の蝦蟇(ガマがえる) その2 

2022-12-18 17:31:51 | キツネ、タヌキ、ムジナ、その他動物、霊獣

「動物界霊異誌」中の蝦蟇(ガマがえる) その2

蝦蟇が、怪しい光を吐く  その1   

明治二十八年のこと。
会津若松の上市町の本屋の龍田屋(今は無い)の主人が、夏の或る夜に外出先から帰ると、納屋と倉庫の間の狭い路次の地面から、照明燈を差向けた用に、淡い一道の光の筋が見えた。
倉庫の白壁を照らしていたので、怪しみながら路次戸を開けて、内へ入って見た。
怪光は、地面の一点から発していたので、鍬を入れて掘って見ると、一疋の大型の蝦蟇がいた。あの怪光は、そのロから吐き出されているのであった。そして、蝦蟇は子供の悪さらしく、背中から五寸釘が串差しに剌してあった。
ところが、この時、家では八九歳の息子が高熱に悩まされて、治療されている最中であった。
病因はこの蝦蟇の一念であろうと、主人は畏れて、ただちに釘を抜いて、蝦蟇にわびを言った。
傷のところへは、蝦蟇の油を塗ってやって、庭内の安全な場所へ放った。すると、かの怪光も止み、また息子の病気も快癒したと言う。(実見者のH氏談)

蝦蟇の口中から光線を放射する、と言うようなことは、実際に見た者でないと信じられぬ事実ではある。しかし、人間や高等動物の心霊は発光体であることが、近年科学者の実験によって、確認されたことであることを思えば、この話もウソ偽りでないことは明白である。


蝦蟇が、怪しい光を吐く   その2
上記の話(蝦蟇が、怪しい光を吐く)と酷似した事実が、寛政(1789~1801年)頃に、岡山藩の牧村某(なにがし)方にもあった。
それは、或る夜、七歳の小児が夕方から熱病に罹り、昏睡中に数回ワッと泣出した。
泣き止んでは又泣出す。
何の病か一向に解らぬが、とにかく医者を迎えにやってから、便所へ行くと、土蔵の土台の所から青い火が燃えていた。
そうして、それと同時に、子供がワッと泣出した。
青い火は一旦消えたが、また燃えると、同時に子供が泣き出した。

それで、怪しんで便所から出て土蔵の際へ行って見ると、子供の戯れらしく、石を積み草を挿して墓場がまねてある。
それを取りのけて下を見ると、大きな蝦蟇が釘に貫かれたままで埋められてあった。
が、墓は死にもせず片息で苦んでいる。
すぐにその釘を抜き取り、薬をつけて放ってやったら、子供の熱が引き去り、泣くのも止った、
 と言う話がある。


「動物界霊異誌」中の蝦蟇(ガマがえる) その1

2022-12-18 17:26:52 | キツネ、タヌキ、ムジナ、その他動物、霊獣

「動物界霊異誌」中の蝦蟇(ガマがえる) その1

蝦蟇の魂で遊ぶ

蝦蟇がえるの魂で遊ぶ、ということが「動物界霊異誌」の蝦蟇の項にあります。
本ブログは、江戸時代の物を扱ってはいるのですが、大変面白いので、紹介します。
なるほど、面白いやり方ですね。

ガマの体から蒸発してくる気体を受けて、袋にためる。それの温度が下がると、気体と個体の混じった状態、つまり煙状になったのを、小出しにする。
その煙の一塊をガマの魂に見立てる、という遊びですね。


以下、本文。
数年前、奇術師の天一(松旭斉天一:1853~1912年)が、洋行(実際には上海に行ったことがあるだけ)の土産話として、奇妙なことを雑誌に書いている。

これは、いかにも奇術師らしい話で、一寸聞くと眉唾ものらしい話である。しかし、天一はこれぱかりは、ウソや手品ではない、疑う人は、検証実験をすると良い。ウソであったら、百円進呈する、とまで附け加えての発表であった。
そうであるから、満更(まんざら)ウソではあるまい、と言うことと思われる。

その話と言うのは、こうである。
蝦蟇を宙づりにして、下から火を焚いて焙(あ)ぶると、熱くなってもがき出す。
(ゆでがえるでなく、焼き蛙。日本の一部の識者が、ウクライナ侵攻でも、その他の異常な諸国の振る舞い・嘘、自国民他国民への圧迫・虐殺もに対しても、ゆで蛙状態でいるのは、恐ろしいことである。:編者の意見)
すると、蝦蟇の魂が気体になって、体から脱け出てゆく。
この時、ゴムの袋、又は豚の膀胱(袋状)などを蝦蟇の頭の上にかぶせるようにして、気体を吹い込ませる。
この後に、ゴムの袋、または、豚の膀胱の口を強く締めて閉じる。こうすると蝦蟇の魂を保存する事ができて、夜の楽しみの用意が出来る。

先づ障子を二三枚、裏を出して列(なら)べ立てるか、又は活動写真用の映写幕(スクリーン)を張るかして、その前面にあの袋を持ってくる。
その袋の口には、細い竹の管を挿込んで置いて、蝦蟇の気体化した魂の漏れ出る道をつけて置く。
さて、袋のロを障子又は映写幕(スクリーン)の方に向けて、サッとその下部を握ると、管の先から、シャボン玉が出るように、煙細工(けむりざいく)のような蝦蟇が一個飛ぴ出して行く影が映る。
ニ度握れぱ二個出で五度握れぱ五個出る。
大小濃淡、握りかたに応じて、蝦蟇の魂の気のある限り、何十個の煙の蝦蟇が飛ぴ出してくる。・・・

蝦蟇の油や小便は、古来我国や中国で、種々なことに使用される、と言われている。
しかし、西洋のように、その魂を使う、という考えには及ぱない。
天一の土産話が、果して実際に西洋に行はれているならば、西洋人も案外話せる人たちである。
丹念に捜せば、西洋にも何所(どこ)かに、蝦蟇仙人がいるかもしれない。

 

 


新説百物語巻三 10、先妻後妻に喰ひ付きし事

2022-12-14 09:12:15 | 新説百物語

新説百物語巻三 10、先妻後妻に喰ひ付きし事

江戸の何町と言う所に一人の荒物屋がいた。
妻を迎えて二三年にもなったが、又外に妾をかこって半年ばかりも過ぎて、本妻をうるさく思った。

何とか離縁したく思ったが、いい出すべき折りもなく、本妻に落ち度も無かったので、つくづくと思案をめぐらせた。

そして、家の中の金銀を次第に減らして、諸道具なども売り払って、次第に貧乏になったふりをした。

あるとき妻に向かって、「この様に、仕事はまじめにしているが、商売がうまく行かなくなった。
店をやめて、どこかに奉公でもしようかと思っている。

お前も、しばらく屋敷勤めでもしてくれないか。

なんとか、しばらくしたら又々一緒に暮らそう。」と、まことしやかに語った。

女房は、つくづくこれを聞いて、仕方の無いことだ、と思った。

人に頼んで、ある屋敷に物縫い奉公に出た。

そして、後で夫も、手代奉公にでも出るのであろう、と思いながら、暮らしていた。

しかし、一月たっても便りもなく、二月たっても来ることもなかった。

ある時、御供に加えられて、湯島の天神へお参りしたが、前に住んでいた町を通った。
先に住みなれし家は、今はどんな人が住んでいるのか、又何の店に変わったのであろうか、と見た。

しかし、やはり前の通りの暖簾をかけ、我が夫は、店にいて、帳面をつけていた。
店の内から若い女が、茶わんを持ち出でてきて、夫へさし出した。
夫は、つとうけ取って飲んだ。
これは何とも不思議な事だな、と思ってから心が乱れた。

参拝の帰りの御ともにも物をも言わなく、深刻な顔をしていた。
それで、同僚 傍輩(ほうばい)もどうしたのかと、
「気持ちが悪いのですか?」と尋ねるた。
「ええ、本当に気持ちがわるいのです。」と言って、帰って、すぐに打ち伏していた。

それから、毎夜、毎夜、襲われるようにうめいたが、夜があければ何の変わった事もなかった。
四五日にもすぎていよいよ夜の内は騒がしくうめき、昼は物をも言わず伏していた。

ある夜、夜中過ぎに殊の外騒がしくうめいていたので、皆々打ちよって部屋に行って見ると、正気を失って右の手に女の髪を百筋ばかり握って気絶していた。水などを飲ませて介抱したら、息を吹き返して、蘇った。

又その次の夜は、宵のうちより狂い走ったが、かん病の傍輩もくたびれて、寝てしまった。
八つ頃に至って身の毛もよだって騒がしかったのでに、皆々目をさまして見た。
すると、この度は口のふちは血まみれになり、恐ろしい顔をして気絶していた。
いろいろと介抱すると、蘇ってきた。

そして、そのまま、夜中であったが、町名主のかたへ送りかえされた。

その後、聞けば、あら物やの後妻は、夜分寝ている所に、あやしい女が来て、喰い殺された、との噂であった。

その女の同僚が、京へ帰ってきて、この様な事を語った。


河童の伝えた、家伝通風薬  「伊那の伝説」

2022-12-12 20:40:53 | カッパ

河童の伝えた、家伝通風薬

 

「伊那の伝説」(昭和8年、岩崎清美著、山村書院)には、河童の伝えた薬の話が、収載されている。


伊那郡高遠(いなぐんたかとお:長野県伊那市高遠町:高遠藩の城下町)の殿様の内藤様は三萬三千石であった。
その領分内の川を預かる川奉行の中村新六は、中沢村の大久保に宏大な屋敷を構えて居た。

近い所を天龍川が流れていて、その深い淵の中には河童(カワランベ)が住んでいた。
時々通行人を水の中へ引つ張り込んで、しんの子 を抜くと云ふうわさであった。
この河童は、全身が真っ青で、長い頭髪を生やかしていた、と云う話であった。

或る日、川奉行の新六殿の馬が、その淵のほとりを通りかかった所、水の中から河童が手を出して馬の尻尾をつかみ、力一ぱいに水の中へ引き込もうとした。
河童は水の中に居る時は非常に力の出るものだそうである。
馬はびっくりして、これも一生懸命に引っ込まれまいと足を踏ん張り、ここに河童と馬との力比べが始った。

ややしばらくもみ合った未、河童の方が負けて、河から外へ引きあげられてしまった。
急いで、手をはなそうとしても、馬のしっぽをあまり固く手にぐるぐると巻きつけていたために、早速離す事も出来ず、もがいている間に、馬はどんどんと駈けだした。
河童は、そのままするずるずると曳きずられて、とうとう新六殿の家敷の厩(うまや)の中まで連れ込まれた。
そこで河童もようやく手をはなした。
水はないかと捜して見ると、丁度 馬槽(うまぶね)の中に水が一ぱいあったので、早速その中へ入って隠れていた。

やがて下男が、馬に餌をやろうと厩へ来て見ると、馬槽(うまぶね)の中に河童がいた。
「不届な奴」とすぐに捕まえられて、主人新六殿の前へ引きだされた。

河童は両手を合わせて拝みながら
『命だけはお助け下さい、そうしたらそのお礼に、妙薬の作り方を御伝授致しましょう。』
と頼んだので、新六殿も、殺して見た所が無益の殺生だから、と助けてやった。

河童は、大いに喜び、新六殿に妙薬の製法を教えてやり、自分は再び河の中へ帰って行った。

それからして、その薬は家伝の妙薬として子々孫々まで伝わっている。
『家伝通風薬』と言う名前で、今でも盛んに売れている。

大変に良く利く薬だそうであるが、
河童に伝授されたその部屋で製作されたものでないと、利き目ががない、と言う話である。

編者注:
~~より伝えられた秘薬とか妙薬、と言うのが、あちこちにあります。このように、権威付けて、売ったのでしょう。
このような話を、ばかばかしいと言うのは簡単です。しかし、今も、このような話で満ちあふれています。

現在でも、マーケティングの世界では、「物を売るな」、「物語を売れ」などと言う者がいる。
何も大したことが無いものでも、物語をつければ、高く売れると言うことです。
具体的にあげると、苦情がきそうです。
何かは、想像してみて下さい。あまりにも、多すぎますね。
また、物だけではなく、世の中、そういう人たちものさばっていますね。