江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

新潟の石油村  「公益俗説弁」井沢蟠竜

2020-10-29 19:41:08 | その他

新潟の石油村
原題は、「越後の国臭水村」
                      2020.10   
編者注:これは、石油についての話です。日本では、石油がほんのわずかしか産しません。新潟などに産します。この話の場所が、越後(新潟)であるのも、うなづけます。

以下、本文。

俗説に云う。(世間の噂話では、といった感じ。)
越後の国臭水村(くさみずむら)という所の河の水は、油である。
これは、昔ある僧が土地の人のために、加持したことにより油となったという。

今、考察するに、中国にも同じようなのがある。
「漂粟手牘」に云う。
流波山中に、燃海千里がある。
住民は、これを汲んで、油の代わりにしている。
明るさは、油より数倍勝っている。
秦の始皇帝は、人を派遣して、千艘の舟で山中に行かせた。
船人は、水の性質を知らずに、夜に灯火を水中に投じた。
火が大いに起こり、海全体を焼き尽くした。
火は光は天に接すること千里、誰一人生きて帰らなかった。
それ以来、海辺に臨んで、汲んで用いるだけとなった。

昨夢録に云う。
「猛火、油は、高麗の東数千里に出ると聞いている。」

このようにあるので、臭水村の油だけの事では無いようだ。


以上、
「公益俗説弁」(井沢蟠竜、江戸中期)より

編者注:「漂粟手牘」には、「燃海千里」は、天帳汗国にあるらしいとのこと。
「燃海千里」という事から、原油が地上にでている場所であろう。
おそらく、モンゴル系のどこかの国であろう。帳は、テントのことで、遊牧民の国である。
キプチャク汗国の事かもしれない。キプチャク汗国は、漢字では、金帳汗国である。また、石油が豊富な、黒海も領土であった。


犬の伊勢参り  「一話一言補遺」太田蜀山人

2020-10-29 18:46:21 | 江戸の街の世相

犬の伊勢参り
                                                           2020.10

何年か前に、伊勢神宮に参拝したことがありました。
その時、大変面白いと思った事の一つに、犬の伊勢参りというのがありました。

伊勢の歴史館?には、伊勢参りについての展示がありましたが、首に何かをぶら下げている犬の像がありました。ガイドに聞くと、江戸時代には、犬を、たとえば病気の飼い主の代わりに、参拝(代参)させたことがしばしばあったそうです。
その後、何かを読んでいるおりに、犬の伊勢参りについて書かれているのを、いくつか見ました。

最近、太田蜀山人(しょくさんじん)の全集を見ていたら、犬の伊勢参りについての文章を見つけました。

「一話一言補遺」巻三より

犬の伊勢参宮
寛政二年の頃、安房の国にある村の庄屋が犬を飼っていた。
その犬が主人の夢に現れて、伊勢神宮へ、お参りしたい、と訴えた。
そこで、その犬を伊勢にお参りするよう、旅立たせた。
村から、人を付けて、送り出したが、この犬は、無事に伊勢神宮にお参りをして、帰ってきた。

伊勢で、その犬を見た人の話によると、こんな様子であった。
他の犬と違って、呼んで、何かを食べさせようとすると、やがて人家の板敷きに上がって、うずくまって食べる。
食べ終わって、その家の人が、「もう、行きなさい。」と言えば、そのまま飛び降りて行った。

旅の始めに、主人は、三百文のお金を、袋に入れ、犬の首にかけて、送り出した。
伊勢への道中で、五文、三位のお金を与える人がいて、帰り道には、三貫文(一貫は、1000文)以上になった。
これでは、重くて、犬の首にかけられないので、村の者が持って送って来たそうである


以上。
さて、上記は原文を現代文に訳したものです。

犬に、人がずっと付き添っていたのか、否かは、はっきりしません。
他の文献(どこにあるのかは、忘れたが)では、こんな感じでした。
犬を主人などの代わりに、伊勢まで行かせ、御利益のあるお札・お守りをもらって来させる。
その御陰で、病気が平癒した。
場所にもよるが、関東などから、伊勢に行って帰ってくるまでに、数十日が必要であるから、人を付けて、全行程を行くのは、経済的、物理的にも、困難であろう。
犬は、単独で、行って帰ってきているのが、一般的と思われます。
伊勢に行って、お参りし、お札をもらってくるのが目的であり、助けてくれるよう願う書状と路銀を入れた袋を、首からぶら下げてさせたのでしょう。
おそらく、伊勢か、伊勢方面に行く人に、託したのでしょう。
まず、始めに江戸に行く人に、犬を連れて行ってくれるように頼みます。
そこから、東海道を西に行くか、伊勢に行く人に託されたのでしょう。
食べ物は、旅の人からもらったり、道筋の家々からもらったのでしょう。
(伊勢参りでは、人間も道中で人から、食事を寝場所を提供されています。無料で。)
そうこうして、伊勢に着き、誰かに付き添われて参拝し、お札、お守りを買って貰ったのでしょう。



犬の首にかけた袋には、まあ、こんな感じの文章を入れておいたのでしょう。

「お伊勢参り

お願いがあります。
私の娘 何々は、重い病に苦しんでおります。
多くの人が、伊勢にお参りして、病気が治ったり、富くじに当たったり、商売繁盛などの、御利益を頂いているのを見聞きしております。
私も、伊勢神宮にお参りして、病気平癒を祈願し、ありがたいお札を頂きたいと願っております。
しかしながら、仕事もあり、娘の看病もしなければなりません。
当家で、可愛がっている犬のタロウに、伊勢まで行ってくれるか、と尋ねたところ、しっぽをふって、喜んで行く、と答えてくれました。

タロウを、伊勢まで連れて行き、参拝させ、お札を買ってきてくれるのを助けてください。
必要なお金は、この袋に入っています。
どうぞ、娘の病気が平癒するよう、お助けください。

安房の国(千葉県)何々村  何々」

こんな書状を持たせ、村から江戸に行く人に、犬を託して、江戸まで連れていってもらったのでしょう。
その人は、江戸に着いてから、伊勢に向かう人、または上方に向かう人、東海道を西に向かう人に、犬を伊勢に送り届けるよう頼んだことでしょう。
そうこうしている中に、伊勢に着き、伊勢では、人に連れられて、神宮を参拝し、お札も買ってもらったのでしょう。
帰りは、また別の人に託して、何人かの人に託されて、江戸についた事でしょう。
今度は、故郷の村まで、また誰かに送り届けてもらった事でしょう。
あるいは、村の者で、江戸まで、商用でいっていたものが、連れ帰ったのでしょう。

長い旅は、冒険、苦難の旅であったでしょう。
その間、多くの人に食べ物をもらい、助けられた事でしょう。

こうして、犬は、我が家に帰って、主人にお札を届けたのでしょう。
病気の娘も大喜びして、病気も吹き飛んだことでしょう。

「犬の伊勢参り」と書けば、数文字です。
しかし、多くのことが、心に浮かんできます。



青鷺の妖怪  「尾張名所図絵」玉滴陰見

2020-10-29 18:32:01 | キツネ、タヌキ、ムジナ、その他動物、霊獣

青鷺の妖怪
2020.10

先日、ネットを見ていたら、アオサギが出てきた。
それで、数年前、松江に旅行したときに、アオサギを見たのを、思い出しました。
松江城のお堀を巡る船に乗りましたが、その時に人生で初めて、野生のアオサギを見ました。
堀端に、じっとたたずんでいました。
初めて、見たときは、何か妖しい感じがし、またペリカンに似ているとも感じました。
調べてみると、アオサギは、ペリカン目サギ科の鳥なんですね。どおりで、ペリカンぽいわけですね。

鳥山石燕(とりやま せきえん)の「画図百鬼夜行」には、アオサギも妖怪の一つとして描かれています。

また、平秩東作(へっつ とうさく)など編の「狂歌 百鬼夜狂」という、狂歌集には、
山東京伝(さんとうきょうでん)先生のアオサギを詠んだ狂歌が収録されています。


青鷺(あおさぎ) 山東京伝(さんとうきょうでん)
「色かへぬ 松にたぐへん(比=タグえん) 青鷺の さもものすごぐ 塀を見こすは」
と、載っています。

アオサギが、なぜ妖怪扱いされたのかを考えて見ました。
始めて見た時の感じというのは、何か不気味な感じでした。

なぜか?
まず、アオサギは、ほかのサギ類に比べて、大きいこと。体形が、違うこと。
もし、薄暗い時に見たら、なにか怖そうです。
また、体色も、くすんだ灰青色で、ほかの鳥とは、違っています。
もし、同じような大きさで、白い体色でしたら、普通の鳥と感じたことでしょう。
また、見たときには、まるで銅像のように、動かなかったので、ほかの鳥とはちがう、奇妙な感じを受けました。
後で考えると、多くの鳥は、せわしなく動いています。
動き回る生き物が、静止しているのも、生の感じがしなかった、と印象を得たのでしょう。

そのようなことから、アオサギを夕暮れの暗い時に見た人が、怪異を感じて、化け物扱いをしたのだ、と推定されます。

それなら、妖怪や化け物の話を集めた百物語類に、アオサギの事が、記載されていないか、と当たってみましたが、見つかりませんでした。

わずかに、「尾張名所図絵 付録 三」に、一話あるのを見つけました。
紹介しましょう。

尾張   ・・・・

長良村と烏森(かすもり)村とのあいだにある佐屋海道の縄手(細い道)に、昔 妖物が出て、夜行く人を悩ましていた。
或いは、七尺余りの大坊主となり、後ろより見越して妖しい顔を見せ、又は婦人の姿になり怖れさせていた。
ある夜、名古屋の人が来て、高須賀川の橋のほとりで、待ちかまえて、この化け物を組み伏せ、刺し殺した。
すると、大変大きな青鷺であった。
そのことを、里の老人は、聞き伝えてる。
これは、百八九十年ばかりの昔の事である。

玉滴陰見(ぎょくてきいんけん)に、
延宝八年(1680年)、尾張(愛知県)にて、青鷺が変じて、七尺ばかりになった。その後、女に化けて人をたぶらかしたかした、との事を、黄門公が聞いた。何としても、足軽に捕まえさせよ、と責任者に命じた。そして、命じられたとおりに、青鷺を組留めたとのことである。


出歯包丁の語源  「本朝世事談綺正誤」山崎美成

2020-10-29 18:28:10 | その他

出歯包丁の語源
           2020.10

出刃包丁の語原について、面白い話があるので、紹介します。

「本朝世事談綺正誤」山崎美成著、文政2年(1819年)
より、

*****
包丁は、あちこちで、作られるが、泉州の堺のものが良品である。

勝れた包丁鍛冶の職人がいた。
世の人は、こぞって用いた。
その職人は、前歯が出っ歯であったので、出っ歯の包丁と呼ばれた。
それで、ついに、その包丁の名となった。

*****
面白い話ですね。


青い小鬼(心の病から見えた幻影)  「黄華堂医話」橘南谿

2020-10-24 20:15:18 | 奇談

青い小鬼(心の病から見えた幻影)
                                2020.10

「黄華堂医話」には、幻覚で、青い小鬼が見えたのを、漢方薬で治した話が、記載されています。
その治療に三黄湯を用いたとありますが、その成分は、大黄(だいおう)、黄連(おうれん)、黄芩(おうごん)の三つの黄という字の入った生薬です。ただし、他の処方もあります。
漢方薬が、心の病にも奏功した一例です。
「黄華堂医話」は、橘南谿(たちばな なんけい:1753年~1805年)の著

以下、本文。

尾州の武士の某は、藩主が江戸に行くのに従って旅立った。
その日の夕方、旅館にて厠に行ったが、きん隠しの板の先に、一尺ばかりの小さい青色の鬼がふとあらわれ出た。
大いに驚き、脇差しを抜いて切り付けたが、そのまま消え失せた。

殊にあやしく思ったが、その夜の夕食の時に、その青鬼が又膳の先にいた。
ただ、膳の前にうずくまっていて、他に害をするようでもなかった。
その人は、驚いて、傍の人に「鬼が見えるか」と問うたが、他の人には見えなかった。
その武士は、いよいよ怪しんで、そのままに食べ終えたが、鬼も何事もなく消え失せた。

その翌朝、厠に行ったが、又鬼のいる事は、昨日と同じようであった。

その後は、一日の間に二三度づつ、或は膳の先、厠の中、或は昼休みの時などに、必ずこの鬼が現れた。

その人も怪しい事なので、主人にも言わず、強いて旅の御供を続けた。
しかし、日々に目に見えて、ただこの事のみが、心にかかって、気が安まらなかった。
それで、道中三四日目に、他の病気にかこつけて、国で養生をしたいと、藩主に願い出た。

道中より引き返し、名古屋に帰り、医師に相談した。

医師は、これは心火の病である、と診断して、三黄湯を多く服用させた。、
飲み始めて、十日ばかりした後は、鬼の出る事がす少なくなった。
それより日々に、鬼の現れる回数が減って、一月ばかりの後には、鬼も見えなくなり、その病は平愈した。

この事は名古屋の儒者の奥田周之進が語った事である。

治療をした医者の名も語ったが、今は忘れてしまった。


底本  日本随筆大成 第二期第10巻