江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

江戸の三大怪盗  その2 稲葉小僧  兎園小説余録

2020-07-19 21:04:06 | 江戸の街の世相

江戸の三大怪盗  その2

稲葉小僧 兎園小説余録

 天明のはじめの頃、あだ名を稲葉小僧と言う盗賊がいた。
親が稲葉殿(山城の国の淀藩主)の家臣であったが、幼少より盗み癖があったので、ついに親に勘当されて、夜盗になった。
そういうことから、悪党仲間では、稲葉小僧と呼ぶと言う巷説(こうせつ:ちまたの話)がある。
本当かどうかは、わからない。

この稲葉小僧は、谷中のそばで、町方定廻り同心に搦め捕られて、もよりの自身番へ預けらた。
町役人等は、小僧を縄をかけたままつれて、町本行所へ行こうとした。
が、不忍の池のほとりで、大便がしたいと訴えた。
それで、そばの茶店の雪隠(せっちん)に入れた。
しかし、水際にあったので、ひそかに縄を解きはずして、走って池の中に飛びこんだ。
泳ぎがうまかったのか、逃げ切ってしまった。
その時は薄暮の事であったので、役人たちは、ただ騒いだだけで、捕まえられなかった。

そのウワサが、人々の口に広まった。

この頃、葺屋町(ふきやちょう)の歌舞伎座で、この事が狂言にとり組まれて、大いに当たった。
舞台は、お染久松の世話狂言(芝居)であった。市川門之助はお染の兄の悪党何がしとお染と、一人で二役を演じた。その早がわりが、大当りした。
(原注:久松の役は、市川高麗蔵が演じた。これは今の松本幸四郎((訳者注:多分、四代目))である。久
松の親の野崎の久作を演じたのは、大谷広次((訳者注:歌舞伎役者:年代からすると三代目であろうか))であって、浄瑠璃も演じている。)
お染の兄が縛られて引かれて行く折、縄を解いて池の中へ飛び入ってから、やがてお染になって、花道の切幕より飛び入った早変わりを演じた。
悪党と美女子の二役を、あざやかに演じた新車(原注:門之助の俳句での筆名)を、観客たちは、皆うれしがったのである。

この狂言を、私(筆者)は五回も観た。

今の世ならば、このような狂言(芝居)は、必ず禁ぜられたであろうが、この頃までは、特に幕府からの弾圧も受けなかった。

さて、その稲葉小僧は、逃げて上毛(群馬県)の方に行ったが、痢病を患って病死したそうである。

これは、それから少しして同類の盗人が搦め捕られた折に、自白したが、稲葉小僧が病死した事も白状した。

その当時、そのことがウワサとなって流れてきた。

そもそも、件の稲葉小僧は、前に記した鼠小僧と相似た夜盗であって、しばしば大名がたの屋敷へしのび入って、金銀衣類器物を盗みとったとのことである。
この様な泥棒が、逮捕されずに病死したことは、残念なことである。

その時期に悪名が最も高かったのは、この両小僧であった。

但し、稲葉小僧は、逃げたことにより、その名が世に聞えた。
鼠小僧は搦め捕られてから、その名が、急に有名になった。

特に有意義なことではないが、記録して、もって戒めとするだけである。
(編者注:戒め=教訓としたのは、幕府の弾圧・言論統制をのがれるため。
     本当は、単純に面白いから記録した、ということでしょう。)

 

「兎園小説余録」 滝沢馬琴先生

 


江戸の三大盗賊 その1 鼠小僧次郎吉  「兎園小説余録」

2020-07-19 21:04:06 | 江戸の街の世相

戸の三大盗賊 その1 鼠小僧次郎吉

                 2020.7

江戸時代の泥棒、盗賊で最も有名なのは、鼠小僧次郎吉でしょう。

それに次ぐのは、稲葉小僧。日本左衛門です。
この3人について、「兎園小説余録」に記載がありますので、紹介します。

「兎園小説余録」(天保三年、1832年)は、大変面白い内容です。滝沢馬琴先生の編集です。


以下の文は、「兎園小説余録」の中にある文書の、現代語訳です。


鼠小僧次郎吉略記

このものは、元来は、木挽町の船宿某(なにがし)の子であった、と言う。
小さい時から放蕩無頼であったそうである。
家を追われて、武家の足軽として仕えたという。
文化中、箱崎奉行より町奉行に転役して、程なく死去された荒尾但馬守の家来であった。
その後、荒尾家を退職して、あちこちの武家に渡り奉公をっした。
これによって、武家の案内をよく知るようになった、とか言う説がある。

ついに、前代未聞の夜盗になった。この十五ヶ年の間、大名屋敷へのみ忍び込んで、或いは長局、或いは納戸金を盗んだと言う。

その夜盗に入った大名屋敷は、おおよそ七十六軒、忍び込んで盗めなかった大名屋敷は十二軒であった。
盗み取った金子は合計三千百八十三両二分余であった。
(軒数、金額は、「聞くままの記」にある。:原文の注)
これは、白状したままの数字であるとの事である。

かくて、今ここの(原典の注:天保三壬辰年)五月(原木脱字)の夜、浜町なる松平宮内少輔屋敷へしのび込んだ。
そして、納戸金を盗みトランと盗ろうと、主人の寝ている部屋の襖戸をあけた時、宮内殿は、目を覚した。
しきりに宿直の近習をび呼覚した。
「これこれの事がある。そこらをよく見よ。」と言った。
それで、みなは受け承わって、周囲を見ると、戸を引あけた所があった。
さては盗人が入ったのだ、と、これより家中迄さわぎ立て、残す限なく探すたので、
鼠小僧は、庭に走り出て、屏に乗って屋敷の外へ飛びおりた。
ちょうどその時、町方定廻り役(原典注:榊原組の同心の大谷木七兵衛)が夜廻りのため、はからずもその所へ通りがかた。
深夜に武家の塀に乗って、飛び降りたものであったので、有無を言わせず、立ちどころに搦め捕った。
さて、松平宮内殿の屋敷へ忍び込んだことを白状した。
留守居に届けてやりとりをし、夜廻りの途中で捕まえたことを説明し、最寄りの町役人に預けた。
明朝、町奉行所へ報告したが、直ちに、入牢させられた。

何度も取り調べた上、八月十九日、市中を引き廻しの上、鈴ヶ森において、梟首された。
このものは悪党ながら、人の難儀を救った事が、しばしばであった。
それで、恩をうけた悪党が、それぞれが牢見舞を贈ったが、大変多かった。

処刑された日は、紺の越後縮の帷子(かたびら)を着て、下には白練の単衣(ひとえ)をかさね、襟に長総(ながふさ)の珠数をかけていた。
年は三十六、丸顔にて小ぶとりであった。

馬にの乗せられた時にも、役人達へ丁寧におじぎをして、悪びれる事はなかった、と見た者の話であった。
この日、見物の群衆が大変多く集まり、伝馬町より日本橋、京橋辺は、爪も立たない程であったそうである。

鼠小僧の妹は三味線の師匠をしており、中橋辺に住んでいた。
次郎吉が召捕られた折まで、妹と同居していたと言う。
嘘か誠かは、わからないが、聞いたままを記した。


「ミイラ取りがミイラとなる」の語源  「閑窓瑣談(かんそうさだん)」為永 春水

2020-07-15 15:16:16 | ミイラ薬

「ミイラ取りがミイラとなる」の語源

「閑窓瑣談(かんそうさだん)」(為永 春水、 1790-1843)には、

「ミイラ取りがミイラとなる」の語源が、記載されていますので、紹介します。

これには、ミイラの産出地を、赤道直下のどこかとしてあるが、別の資料では、インドシナ半島の、どこかとしている。

 

以下、本文

民間の諺に、ミイラ取りがミイラとなる、というのが広まっている。 その起源は、こういうことである。

木乃伊の出る国は赤道の下にあたる国であって、極熱の地方である。 (原注:赤道のことは、地球の図説にて、詳しく見ること)

その所に広々とした砂漠がある。 その辺を往来する人は、土で製造された車に乗って、通り過ぎる。

万一誤って地に落ちれば、たちまち焼け焦がれて、木乃伊(ミイラ)となる。

また、この木乃伊を取ろうとして土の車に乗って行くものがある。

その者も乗っている車が破れるか崩れて地に落ちれば、同じく木乃伊(ミイラ)となる、と云う。

これは、全く根拠の無い 佞言(ねいげん:この場合、うその言葉の意)である。


広益本草のミイラ薬

2020-07-14 19:36:58 | ミイラ薬

広益本草のミイラ薬

江戸時代には、大変多くの本草書(生薬の研究書、解説書)が、刊行されました。「広益本草」は、特に大部の書で、ミイラについても述べられています。
中東やヨーロッパでは、大量のミイラが薬としてもちいられました。その影響は、江戸時代の長崎の出島から、日本に及んだのでしょう。しかし、あまり長くは、用いられなかったようです。

公益本草
第19巻 人部(人部とは、恐い分類である。人体に由来する薬の項目である。まあ、現在でも、生身の人体から臓器を取り出したりしているようですから、国によっては、普通のことかも知れませんね。妖怪より恐いのは、人間。)

以下、本文。

木乃伊 もくないい ミイラ
別名 密人
肢体の折傷を治す。少しばかり服用すれば、たちどころに治癒する。

陶九成の「輟耕録(てっこうろく)」に言う。
「天方国に、7・80歳で、身を捨てて衆を救おうとする人がいた。
飲食をせず、ただ身を洗う。
蜜だけを食べて月を経ると、便も尿も、皆蜜となる。
それから、死亡する。
死後、その国の人は、石棺に蜜を満たして、その死体を浸す。その棺に、葬った年月を刻んで、安置する。
百年を待った後、封を開くと、蜜剤となっている。
骨折した人に、少しばかり服用させると、たちまちに、治癒する。その国の人であっても、手にいれるのは、難しい。また、これを蜜人とも謂う。」


今、外国から来た薬に、「蜜伊辣(ミイラ)」というのがある。
伝え聞く所では、彼の国の土中に、力ある者が死ぬと、石の棺に隠し、諸々の香木の液を用いて、カメを岡原に埋める。永い年月を経て、香液が肉に入り、腐らない。
塚を掘り、屍(しかばね)を取り、薬とする。
瘀血(おけつ)を消し、折傷を治す。

近頃、完全な形の屍体が、輸入される事がある。
白い布をもって、たたみ包み、三重に巻かれている(ミイラは布でぐるぐる巻きにされている様子)。

この屍(しかばね)を、七〇〇余年後に掘り出すと、黒光色であって、形は全く損じていない。
その肉を削って手の掌でこすると、潤い軟らかである。
これを焼けば、乳香や、松脂の香りがする。

これらは、陶九成の謂うミイラの類である。

今、毎年渡って来る物は、多くは人肉、あるいは馬牛の肉を加熱して焦がし、諸木の樹脂液に浸したものである。
湿っていて臭い。

これは、唐の陳蔵器の謂う、質汗(しつかん)の類(たぐい)である。
陳蔵器が言うには、「質汗」は、西方より出る。
檉乳(注:樹脂の一種であろう。檉ていは、和名ギョリュウ))、松涙(注:松脂か?)、甘草、地黄を煎じて、加熱した血を併せて、製したものである。
悪血を消し、血気を下し、金瘡、折傷、瘀血(おけつ)、肉損には、酒と一緒に服用する。
また、患部につける、と。

また、古様(ふるで)と云うのがある。
布の中に人肉がある。
用いて良い効果がある。
あの湿って臭く、布に巻かれていないのは、獣の肉であるかどうかは、はっきり分からない。
用いるには耐えない。

かつ、今の人は、ミイラは、死を起こし(起死回生)、危(あやうき)を救い、万病を治し、気血を養い、諸虚を補う、と謂っている。
しかし、これは、誤りである。

ただ、内出血を散らし、疼痛を止め、打撲、骨折、傷を治す効果があるだけである。
他の効能はない。

以上


蜂蜜漬けの人体(密人、ミイラ)は、特効薬  広大和本草

2020-07-14 19:36:58 | ミイラ薬

蜂蜜漬けの人体(密人、ミイラ)は、特効薬


広大和本草
広大和本草(1759年)には、ミイラについて、このように記述されている。
江戸時代には、多くの本草書(薬学研究書)が出版されたが、これもその一つ。

以下、本文。

密人

外国語では、ミイラである。もと、西域の産である。
弥勒所問経(みろくしょもんぎょう)に言う。

崑崙(コンロン:中国にある山)の北九百里に、また小コンロンがあり、博ギ山とも云う。
ある人が、古い墓を暴いて、石の棺を得た。

石棺の中に、**が数枚あった。
形質は、すこぶる血竭(ケッケツ:別名は麒麟血キリンケツ)に似ていた。
それが何であるかを知っている者はいなかった。

すると、天帝が二人の童子を地上に降ろして、このように告げられた。
「これは、蜜人である。
昔、乾陀国(かんだこく:Gandhara ガンダーラ)に、不思議な人がいた。
性は仁愛で、衆生(しゅじょう:多くの人)の為に身を捨てようと、常に蜂蜜だけを食していた。
そうして、一万三千五百日にして、死んだ。
人々は、それを石棺に入れ、博がの山中に埋めた。
すでに五千有余年を経ている。
これが、その蜜人である。」

これば、仏教家の説である。


この他、陶九成の説く所の一つは、すでに大和本草の中に見える。
故に、ここには、記載しない。
また、質汗(しつかん)のミイラと云うものがある。
本草拾遺に云う質汗は、もと西方の国々に出るものである。
ていりゅうのヤニ、松ヤニ、甘草、地黄(じおう)並びに獣血を煎じて、これを作る。

番人(外国人:この場合は、ミイラの産出地の人)が、その薬を試すのには、小児の片足を切断し、その薬を傷口に塗り、足をつけて、良く走ることができたのなら、良品しとする。
これが、質汗の本物である。華人(中国人)であっても、手に入れるのは、難しい。まして、蜜人を手に入れるのは、更に難しい。

天正年間(1573年から1593年)、オランダのハヌリヌと云う者が、長崎に来て住んだ。通事の毛利貞右衛門(もうりさだえもん)と云う者に、質汗の処方を教え、乳香、没薬、霊條の三味を練り合わせたものであると。

考察するに、ミイラ、蜜人、質汗などの効能は、ほぼ等しい。
先に述べた処方も、質汗の数多くある処方の一つであろう。

聖済総録(せいさいそうろく)には、こういう記述がある。
女性が閉経(注:現在とは、多少、意味が違います。月経が、こないこと。)しこりがあって、腹部が痛む場合に、質汗、姜黄(キョウオウ)、大黄炒を各半両を粉にして、杯の一杯分を米飲(米の薄いお粥)で服用すれば、すぐに効果がある。