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江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

小山の天狗 「南紀土俗資料」

2025-04-09 19:36:52 | 天狗

小山の天狗 「南紀土俗資料」

             2025.4.8

和佐笹山(日高川町和佐か?)の城主である玉置権守(たまおきごんのかみ)は戦國時代の勇将の一人である。


ある時、所用があって有田(和歌山県有田市:ありだし)に赴き、帰途の津水より早蘇(和歌山県日高川町)への山道に件も連れず、独り峠に来かかった。師走二十日過の、日もはや暮れて隨分寒い淋しい晩であった。

と見れば路の真中に、一人の山伏が立塞って、「ここを通すことが出来ない」と言った。
気の短い権守は、ここぞ手並の見せどころと、帯びていた刀を、抜く手も見せず、彼の山伏の肩先へ切りつけた。
はっと言う声が、谷に入って行って、山伏の姿は見えなくなった。
跡には、長さ八尺ばかりの鳶色の片羽が残っていた。
さては天狗であったわい、とその羽を引きかたげ、笹山木城へと立帰った。

その後、小山で片羽の天狗が時々見られたそうである。
権守は帰えって来てから七日間物忌をして城にこもっていた。

そうこうするうちに、由良の開山からだと言って一人の僧が訪ねて来て、
「住持が彼(か)の片羽を所望すること切である」との旨を話した。
住持は、権守(ごんのかみ)の伯父なので、
「御坊の御所望とあらば差上げたいは山々だが、この羽だけは、我が身代りとして家宝として子々孫々に伝えたい。
 どうか此の儀だけは」と固く辞退した。
使いの僧は、突然に大天狗に成って、
「我は開山上人の使憎ではない。実の所、この間その方のために片羽を失った小山の天狗の親類である。
この場合、命だけはゆるすが、以後心を改め高慢の気を去らねば、汝の家は遠からず滅びるであろう。
まずこの片羽は、我が部下のものだから持帰ろう。」
と引き奪って高く高く飛び去った。

権守は刀の柄に手を懸け、一打ち にしてやろうと思ったが、体がしびれて動けず、物言うことも出来ず、口惜気ににらんでいるばかりであった、と言う。

 


以上、「南紀土俗資料」土俗編、呪詛伝説 より


開山の天狗(二) 「南紀土俗資料」

2025-04-07 19:30:50 | 天狗

開山の天狗(二) 「南紀土俗資料」

             2025.4

ある時、五右衛門五右衛門と言う気の強い男がイノシシ狩りに出かけたが、影も見えないが、木の上で笑う声がした。
それで、五右衛門は、「何を小癪な」とすぐに鉄砲を一発、その方へ向けて、ずどんと打った。

その夜更けて、皆の寝静った頃、
「五右衛門 五右衛門 これこの足を治せ。」と言いつつ戸をたたく音がした。
五右衛門は直ぐさま起きて、
「どれ治してやろう。」と鉄砲片手に戸を開けたが、影も形も見えない。

その翌夜も、翌々夜も、そんなことがあった。

後に五右衛門は、ふと足が痛くなり、湯崎(和歌山県白浜温泉)へ入湯に出かけた。
そこに、一人の眉目(みめ)よき僧が来ていたので、
「どこから」と尋ねてみると、
「由良の開山で去年中、村の五右衛門と言う者に足を撃たれた。」
とのことであった。
さすが五右衛門も、にわかに心地が悪くなって、ほうほうの体(てい)で帰村したと言う。


以上、「南紀土俗資料」土俗編、呪詛伝説 より

 


開山の天駒(一) 「南紀土俗資料」

2025-04-06 19:27:30 | 天狗

開山の天駒(一) 「南紀土俗資料」

              20205.4.6

由良の開山興国寺(和歌山県日高郡由良町)の森には、昔から元狗がいると伝えられている。

安政元年(1855年)の大地震及び大津波は、                                                                 丁度闇夜の子の刻(ねのこく:午前0時位)で、何も見えないという暗さであった。
しかし、この山におおよそ畳一枚ほどの燈火が二つ点(とも)って山陰(やまかげ)の所までも明かりが晃々(こうこう)照らされて、人々の避難には、まことに好都合であった。
これは全く天狗の所為(しわざ)であったのだ、と言われている。

以上、「南紀土俗資料」土俗編、呪詛伝説 より

 


大鷲に浚(さら)はるる小児 「土佐風俗と伝説」天狗怪禽

2024-06-26 22:28:48 | 天狗

大鷲に浚(さら)はるる小児  「土佐風俗と伝説」天狗怪禽

             2024.6

今は昔、天明(1781~1789年)の末、吉本虫夫(むしを:名は外市トイチ、谷垣守の高弟)が長岡郡本山(高知県長岡郡本山町)に住んでいた時の事である。

郷中の大石村の農家の子で三四歳ばかりなるを、一人の童女(小めろ:原注)が子守りをして遊ばせていた。
折しも、山村にはよくあることで、朝霧が立って遠近も分ち難く、ものが見えにくかった際であったが、たちまちその幼児の行方がわからなくなった。

父や里人は驚き悲しみ、四方八方捜しまわったが、何の手がかりも得られなかった。
ただ、林の中にて小さな草履の片足を拾い得たばかりであった。
本山の辺には大鷺が居たので、それに浚(さら)われたものであらうとの噂であった。
哀れな話である。

虫夫は、次の歌を詠じて、父母の心を慰めた。
 白銀に 黄金の玉に 換ぬ子を 物に取られし 親の心は
  立てば匍へ 匍へば歩めと 撫子の 常夏ならで 秋失せにけり
 
元亨釈書 (げんこうしゃくしょ)には、東大寺の良弁(ろうべん)が、鷲に浚(さら)われた児を、丹後にて発見した話がある。

昔は、世の開けぬ時には、このような例は沢山あつたと見える。


重松本立(人名)怪鳥に擢(つか)まる 「土佐風俗と伝説」天狗怪禽

2024-06-25 22:15:37 | 天狗

重松本立(人名)怪鳥に擢(つか)まる  「土佐風俗と伝説」天狗怪禽

                       2024.6

今は昔、賓暦(1751~1764年)の末の事である。
城下水道町(すいどうちょう:高知市)の医師に重松本立と言うものがあった。
ある夜、街上でふと怪物に攫(つか)まれ、空中に釣り上げられ、新越戸堀詰を過ぎ、潮江に落とされた。

雑喉場(ざこば)の下に居た谷三右衛門(小沼流馬術家)は、ちょうどその時、新越戸(しんこえと)の師の大山氏の宅よりの帰途であった。
空近くに、人の叫ぶ声がして、東南の方に飛んで行くのに気が付き、怪しみながら帰宅した。

そして、門前に繋いである小舟に乗って、川尻へ探しにに行ったが、そのツカまれていた人は、潮江へ墜とされた、とかであった。
海老をとっていた漁師に助け上げられていた所であった。
漁師と谷とが共に介抱して堤へ引き上げた。少し物に正気でない様子であった。
すぐに彼の家に知らせに、人を走らせ、彼(重松)を駕籠に乗せて帰らせた。

本立は、この事を恥じて癇(かん)症となり、逐に自殺した、と言う。

谷三右衛門より直接に話を聞いた、と楠瀬大技の筆記に見えている。
その筆記には、大鳥(鷲)に捕われてここに来たのであろう、と記してある。