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遊女「よし野」の伝記 「羈旅漫録」

2024-04-21 22:55:38 | 江戸の人物像、世相

遊女「よし野」の伝記   「羈旅漫録」滝沢馬琴

               2024.4 
遊女「よし野」の伝記   「羈旅漫録」〔四十六〕

 

(原注:よし野の伝記は、雨談に出ているが、漏れた所もあるので、ここに録した。蟹の盃の図説の事は、雨談に詳しいので、それを見ると良い。)
  

 吉野の享年は、寛永八年、六月二十二日であった。
よし野は佐野紹益(1610~1691年)に請け出された。
紹益は灰屋と号する富豪であった。
吉野は紹益に先だって死んだ。

 都をば 花なき里と なしにけり 吉野を死出の 山にうつして        紹益

この歌は、その時の述懐の歌である。

或る人はこう言った。吉野の屍(しかばね)を火葬して、紹益みづからその遺骨を喰い尽した。
紹益がよし野に愛着すること、このようであった。

これから後に、灰屋の家は衰えたと言う。(原註:経亮の話)

 七月十七日、橋本経享(はしもとつねすけ)(割注:橋本肥後守経享は、香果園と号していた。京都の梅の宮の神官である。皇朝の典故にくわしく、文化二乙丑六月五十余歳にて没した。著すところ、梅窓筆記二巻が世に刊布している。)とともに、栄庵(えいあん)を訪ねて面会し、吉野の伝を問うた。
栄庵は、姓は、佐野氏、京都両替町二条下ル所に住居し、医を業としている。
この栄庵は、よし野の夫・紹益の孫である。
今は衰えて、貧しい家となった。
栄庵は言う。
「祖父の灰屋紹益の家は、知恵ノ小路上立売(かみたちうり)にあった。
紹益は和歌をたしなみ、蹴鞠、茶の湯などをした。
尾州、紀州の両公より召されて、度々出かけたことを、聞き伝えている。
古野が没してはるか後、浪速(なにわ)の小堀氏より妻を迎えた。
これにも子がなく、七十三歳の時、妾が男子を生んだ。今の栄庵の父 紹円(しょうあん)がそれである。紹円が五十余歳の時、栄庵が出生した。」
栄庵も六十歳ばかりに見える。
紹円も鞠を好んだと言う。

 この家によしの川の裂(きれ)、山中の色紙、(原注:崎人伝に、或る殿様が、何のついであったか、よし野に会った。吉野が、よろこぶべきものを、あたえようと、考えた。
小倉色紙のうちの藤原俊成卿の歌に、
「世の中に道こそなけれ」
と言う歌の句があったが、
「山の中に」と誤って書いたのがあったが、それがかえって評判になり、「山中の色紙」と言い伝えられて名物になっていたのがあった。それを贈った。
(訳者注:百人一首 世の中に道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる ・・・藤原俊成)

はたして、吉野は、大いに喜んだ・・・と云々。

 栄庵の家に蟹の盃があった。いづれも吉野より伝来の器物である。
栄庵の代に至ってますます窮したので、
よしの?は(原註:よしの截よしの漢東これである。?意味不明)人に売り与えた。
山中の色紙は雲州侯(出雲藩主)へたてまつり、今、家にあるものは、蟹の盃のみであるそうだ。
又、よし野や紹益が書いたものがいろいろあったが、度々の類焼に失い、又は人にのぞまれて与えて、今はないと言う。
よし野が書いた文があったが、それを見せてくれた。
紋所の印は、一ッ巴のうちにさくらの花がある。
手跡(筆使い)も又見事であった。
山中の色紙、広東の横(よぎ)、蟹の盃は、よし野が花街にあった時に、薩州侯(薩摩の殿様)より賜ったものだそうだ。

 栄庵は、又、こうとも言う。
紹益の菩提寺(ぼだいでら)は、内野新地立本寺(うちのしんち りゅうほんじ)にある。(原註:日蓮宗)
この寺は、その頃は、今出川町にあったが、その後、御用地(公用地)となり、今の場所に移転したが、墓も建て変えたのかは、はっきりしない。
石面には、紹益と吉野の戒名が二行に刻まれている。
紹益は八十一歳で没した。
古継院紹益(こけいいん しょうえき)   元禄四年(1691年)十一月十二日     
本融院妙供(ほんゆういん みょうきょう)   寛永八年(1631年)六月二十二日
これをもって考えるに、古野の没年は、紹益が二十歳の夏であった。そうであれば、よし野が紹益の妻となって程なく、大変若くて死んだのであろう。
なるほど、紹益が大事な宝物を失なった恨前(うらみ)の歌を吟じたのも、うなずける。

 栄庵に紹益の歌の事を問うたが、その通りで相違なかった。紹益は貞徳を友としていたそうだ。

 画工成瀬正胤(なるせまさたね)の話に、紹益がよし野をうけ出した時、父に勘当された。そして、しばらく下京にすみ家を求めて夫婦で住んだ。
その父が、他へ行って帰る途中で、雨がふり出したので、かたわらの家に入って雨舎(あまやど)りをした。
その家の内には、炉に釜をかけてあった。
主人は留守と見えて、大変美しい女房が、こちらへどうぞと招いて、うす茶をたてて出した。
その立ち居振る舞い、茶の手前まで、このような場所では見られないであろう位に優雅であったので、大変ふしぎに思いながら立ち帰った。

 次の日、こんなことがあったと知人に語ったが、彼は、
「それこそ御子息の紹益の妾ですよ。その家は、紹益のかくれ家ですよ。」
と告げた。
父は、始めて合点がいった。
その奇遇を感じて悟り、遂に紹益への勘当をゆるして、よし野を引きとり、妻とさせたそうである。

 自宅から、程遠からぬ下京に、その子が忍び住んでいたのも知らなかったのは、大富豪であったからであろう、と言われた。

 我が友人の慮橘(ろきつ)は京都の人である。近曾(ちかごろ)よし野の墓を図にして送ってくれた。
古野塚は洛北の鷹が峰、日連宗檀上学堂(だんじょうがくどう)の後(うしろ)にある。                  
 吉野は、京都の大仏馬町の松田氏と言う浪士の娘である。元和四年戌午(1618年)の年に出生、享年三十六。畸人伝(きじんでん)と言う書物にあるのもこれに同じである。
いまだ、どれが正しいのかはわからない。

 又、京都の立入氏である賀楽老人より、こう告げられた。吉野が没する時、紹益は三十歳であった。
(寛永)八年では、二十歳である。そうすると、十七八歳でよし野を身請けしたのであろうか?
法名(戒名)は、前文の通りである。
檀上の三門は吉野が建てた。
後に火災にあって、改め建てたことを、寺の僧は語った。栄庵の説は、思い違いであろう・・・云々。
(原註:追記、私・馬琴が、考察するに、紹益が「にぎはへ草」に載せた轍書記の、
「なかなかに 見ぬもろこしの 鳥もこし、
 なかなかに なき魂ならば 云々{うんぬん}」と言う二つの歌に、異同があるが、その事に言い及んだ者はいない。このことについては、考察するのが良い。)
 
追考:鳥原の郭(くるわ:遊郭)は、寛永十八年六条柳の馬場より、今の三筋町へ、移転した。よし野は寛永八年に没した。
そうであれば、そのころはなお、六条の郭にいたのであろう。
箕山(原著注:箕山は通称を藤木了因と言い、貞徳の門人であって両巴梔言好色大鑑などを著した人である)の著した「色道大鏡」に、よし野の伝記があると、大坂の慮橘が語った。

 私の大坂逗留の日数が少なかったので、寛文式(かんぶんしき)二巻を閲覧しただけである。
もし序(ついで)があれば、あわせて考察しようと思う。
   
「羈旅漫録」滝沢馬琴 より


「羈旅漫録」について


滝沢馬琴先生の著作としては、八犬伝などの小説がよく知られていますが、「兎園小説」類(ここに言う小説は、今の小説Novelとは違って、随筆、雑文)や旅行記(騎旅漫録)などの、著作があります。
中には、なかなかおもしろい内容のものがあります。
「羈旅漫録」1803年 は、江戸から上方への旅行の紀行文です。
(「日本随筆大成第一期第一巻」収載の「羈旅漫録」より)