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江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

狼に殺されし山伏父子三人の霊 「土佐風俗と伝説」 幽霊と物の怪(もののけ)3        

2025-04-26 22:42:25 | 怪談

狼に殺されし山伏父子三人の霊    「土佐風俗と伝説」 幽霊と物の怪(もののけ)3        

                2025.4

今は昔。
香美郡(かすみぐん)槇山(まきやま)郷の庄谷合(しゃたにあい)と言う村に、熊が瀬の森と言って一里以上の高い山があった。

ある時、どこの者ともわからないが、夫婦連れの山伏がこの深山を通り越した。その時、妻は妊娠していて臨月であって、産気を催おし子を産んだ。
水を欲しがったので、夫は谷間に下りて法螺貝に水をいれて、妻子のもとへ返って来たが、驚いたことにに妻は、今生まれた赤子と共に、群がる狼に喰い殺され、ただ骨が残っているだけであった。
山伏は悲憤の余り、狂ったように大刀を引き抜き、狼の群に斬り入ったが、多勢に無勢で、どうししようもなく、これ又無惨にも狼の餌食となってしまった。

その持っていた剣が下方の谷に残っていたのを、里人が知らずに取って、所持していた。
そして、山伏の祟りを受け、色々と怪しい事がおこった。

それで、今は、在所の明神として、その剣を神体とし祭っている。

又、山伏の所持していた数珠や袈裟などが散乱していた所は、数珠(じゅず)が谷、袈裟(けさ)が谷の地名となっている。
又、山伏の親子三人の遺恨の魂塊は、こり固まり野牛となって、さまよっている。
今なおこの深山中で数十匹の野牛が集まって、その声は、山河を震動することがある、と申し伝えられている。

以上
「土佐風俗と伝説」 幽霊と物の怪(もののけ) より


称名寺前の幽霊  「土佐風俗と伝説」 幽霊と物の怪(もののけ)2

2025-04-25 20:39:07 | 怪談

称名寺前の幽霊  「土佐風俗と伝説」 幽霊と物の怪(もののけ)2

                    2025.4

今は昔、潮江(うしほえ)なる天満宮(高知市天神町)の裏手に、称名寺と言う寺があった(今は報徳学校となっている)。この辺は墓所が多く、人通りが少なく、夜は更に寂しかった。昼間でもなお寂びしい場所であった。

ひと頃、その寺の前に、夜な夜な幽霊が出る、と言う噂があった。
それで、山田某と言う大胆の士は、友人の二人と試しに見に行こう、と出で立った。

夕方、寺の前に至り小川にかかっている橋に腰掛けている内に、時刻も移り夜も森々(しんしん)と更け渡った。何やら橋の下の暗い所に怪しい物が来て化粧する様に見えた。二人は恐しくて、気が動転した。山田は二人に向い、
「先程より、何やらん冷ややかなる手にて、橋の下よりワシの足を捕らえているものがある。」
と言った。
二人は、びっくりして、何も言わずに、先を争そって逃げて行った。

後に山田が唯一人残り、彼の足を捕へたる手を取り川より引上げ見た。すると、白い衣を着ていた女で、髪は打ち乱れて、大変にやつれていた姿であった。
それで、
「その方は。如何なる人で、如何なる故があって来たのか?」と問うた。
 怪しい女は、答えて、
「この近き辺りの豆腐屋の何某(なにがし)の妻でして、以前に死んだものです。夫の某(なにがし)が私の死んだ後に、後妻を迎えました。しかし、心根が悪く、私が残した子供をひどく苦しめるので、一言怨み事を言いたいと、度々家に帰りました。しかし、門口に神仏の守り札があるので、入ることが叶いませんでした。それで、往来の人に頼んで、その守り札を取除いて貰おうと思うのですが、あう人は皆、逃げ去って、どうしようもありませんでした。
どうぞ、私を憐れんで、私の願いをかなえて、その守り札を取り除いてください。」
といった。
山田は、「それは、たやすい事だ。」と言った。

共に同行し、彼の豆腐屋に至って、門口の守り札を引き剥がしたが、彼の女は、世に嬉れし気な顔色をしてその門を入ったと見えた。
入るや否や女の叫び声が聞こえた。

後で、そのことを聞くと、かの後妻は前の妻の死霊に取り殺された、と伝えられたそうである。

以上
「土佐風俗と伝説」 幽霊と物の怪(もののけ) より


七人御先(みさき)  七人の幽霊 「土佐風俗と伝説」 幽霊と物の怪(もののけ)1

2025-04-24 17:35:53 | 怪談

七人御先(みさき)  七人の幽霊 「土佐風俗と伝説」 幽霊と物の怪(もののけ)1

                   2025.4

今は昔、天正十六年、
長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)が全盛の頃であった。
家督相続の問題に異論を唱えたことがあって、高岡郡の蓮池城主の吉良 左京進 親実が切腹することとなった。
その同輩や従臣の七人が、皆殺された。その人々は、宗安寺 真西堂、氷吉 飛騨守、勝賀野 次郎兵衛、吉良 彦太夫、城内太守坊、日和 与三左衛門、小島 甚四郎であった。

この時より、夜な夜なこの七人の亡魂が、白装束で生前のように刀槍を携え、仁淀川の渡を声を出しながら渡り、岡豊(おかう:元親居城)に赴くとの噂が立った。
世にこれを七人御先(みさき)と言い、彼らに逢えば、たちまちに大熱を発し、あるいは大病となって死ぬと伝えられ、人々は大いに恐怖した。
その後、お宮を建てて神として祭った。その禍(わざわい)がやんだ。
しかし、今でも人が突然に熱病にかかると、陰陽師は御先(みさき)の行逢(イキアイか?)と称して祈祷し、除霊する習慣がある。

又、高知の旧天神橋通りを、まっすぐに少しも曲らず北に行くと、首無しの馬に乗った人に出逢う、と言い伝えられている。
これも長曾我部時代の幽鬼であると見られる。
そこで大抵の人は、この道を行く時、どこかで道を曲がる。

以上
「土佐風俗と伝説」 幽霊と物の怪(もののけ)より


河猿=河童  近世文芸叢書 「三河雀」

2025-04-11 00:13:54 | 怪談

河猿=河童  近世文芸叢書 「三河雀」

             2025.4

遠州(静岡県)榛原郡に、河猿と言う、不思議のけだもがいる。この猿は、河のほとりへ出でくる。
馬がこの河猿に出会うと、たちまちに倒れて死ぬ。
どこの河筋でも出あえば、馬は悉(ことごと)く死ぬ。
そうであるとすると、この河猿は、馬にとっては、疫病神であろう。

「近世文芸叢書」にある 「三河雀」 広文庫 より

 


貧乏神 「窮鬼」 兎園小説

2025-04-02 18:42:10 | 怪談

貧乏神  「窮鬼」  兎園小説

               2025.4

滝沢馬琴先生の書いたものでは、「南総里見八犬伝」が、有名ですが、様々な文章も書いたり、まとめたりしています。
 「兎園小説」もその一つで、面白い話がいくつもあります。
これは、そのうちの一つで、「窮鬼」というのが原題です。しかし、わかりにくいので、「貧乏神」としました。

以下

文政四年辛巳の夏の頃のことである。
番町の四五百石ばかりの武家の用人が、主人の大事な用むきで、下総の片田舎の知行所へ赴いた事があった。

江戸を発って、草加の宿場のあたりで、一人の法師に出会った。
見るに、年の頃は四十あまりであった。顔は青く又黒く、眼はくぼんでいて、世にいう鉄壷めいて(意味不明)いたが、顔は尖って大変痩せていた。
体には、どぶ鼠染とかいう栲(たく)の単衣(ひとえ)の古びたのをまとい(ねずみ男を想像してください)、頭には白菅の笠を戴き、項には頭陀袋(づだぶくろ)を掛けていた。
前になり後ろになりして行くうちに、烟草の火などを借りられてから、話を何回かするようになった。

用人が、
「さて、お坊さんは、何処(どこ)より何所(どこ)へ行かれるのですか?」と問うた。
すると、法師は、
「私は、番町なる某(なにがし)の屋敷より越谷へ行くのだ。」と答えた。
用人は、聞いて深く怪しみ、
「お坊さんは、そうおっしゃっていますが、私は、その屋敷の用人ですよ。
私が、もとより見しらぬ人が、わが屋敷にいるはずがありませんよ。
出家には、ふさわしくない嘘を言われますね。」
と、爪弾きをしてあざ笑うと、法師も亦あざ笑って、「何で、貴殿に、嘘を言おうものか。
貴殿が、わしを見知らないであるぞ。
そもそも、わしを何と見えるかな?
わしは、世にいう貧乏神なるぞ。
貴殿は譜代のものでないので、昔のことは知らないのであろう。
わしは、三代以前より、貴殿の主の屋敷にいるぞよ。
貧乏神のわしがいるので、彼の家には、病み患うものが、常に絶えないのだよ。
先代の主、先々代の主は、短命であった。
ただ、是のみならず、万事について不幸で、貧乏で窮迫し、代々、禄はあれども、なきが如しであったのだよ。
それでも家が亡ばなかったのは、先祖の遺徳によるものであるぞよ。」

そして、更に、
昔、貴殿の主の家には、これこれの事があった。
近ごろは、又あんな事、こんな事があった、と人にはいえない秘密の事を、見てきた様に説き示した。
用人は、非常に驚き畏れて、嘆息(ためいき)をつくだけで、言葉も出なかった。

窮鬼(貧乏神)は、これを見て、
「さのみ畏れる事にはないぞよ。
貴殿の主(あるじ)の世(世代)に至って、いよいよ貧窮は極まったが、
その年数がようやく終わったので、われは他所(よそ)へ移るぞよ。
今よりして貴殿の主人は、これからは栄える家となるぞよ。
今まで重ねた借財なども、皆返せるすべが出てくるぞよ。
ゆめゆめ、疑ふべからず。」
と言ったが、用人は、心配して、
「それなら、あなた様は、どちらへ移られるのございますか?」と問うた。
貧乏神は、答えて、
「そのことだが、わしが行くところは遠くもないぞよ。
貴殿の主の近隣なる何がしの屋敷に行くぞよ。
その移るまでの間に、一両日 すこしの暇がある故(ゆえ)に、越谷あたりに、知人を訪ねようと出て来たぞよ。
しかし、明日は彼の家に移るぞよ。
見よ、見よ、今より彼の屋敷は、よろづの事に幸いが無くなり、遂に貧窮の極まることを。
貴殿の主の今まで頭を擡(もたげ)られなかった様になるぞよ。」
このことは、決して誰にも話さぬことぞよ。
とささやきつつ越谷まで来たが、あやしい法師はどこにいったのであろうか?
たちまち見えなくなった、とのことである。

その、言われたことの証であろうか。
かくて、件(くだん)の用人は、旗本の領地に赴いて、村役人等と相談をした。
たびたびの借金の申し込みをしていたので、簡単には借りられないだろうと危ぶんでいた。
しかし、話がまとまって、思ったより多くを借りる事ができて、屋敷へ帰ったとのことである。

この一条は、おなじ年の六月の下旬、蠣崎波響(松前藩の家老。1764~1826年)の話である。

 


彼の用人と親しいものと、波響は親しかったので、その知人から伝へ聞いたものだ、と言う。
かの武家や用人の姓名もはっきりとわかっている。
まさしく、不思議な話ではあるが、世にはばかりような事である。
それで、その武家や用人の名は、記さなかった。
それほど、昔の話でないので、知っている人もあろうから。
                  文政八年(1825年)長月朔(9月1日)   琴嶺典継(滝沢馬琴の長男) 識す

この図は、「やしなひ(養い)草 (小児の教育書)」にある図

福神(ふくじん)は  をのが
家業ぞ せい出せば
利生(りしょう)
あらたな
日々の商ひ (ひびの あきなひ) 

福神は、己が 家業ぞ。 精 出せば。 利生(利益) あらたな(あらたかな) 日々の商い(商売)。

自分の家業に励めば、利益がえられる。自分の仕事そのものが福の神である。 


びんぼう神

どん欲に 色と酒とに
あさねせば (朝寝せば)
いのらずとても(祈らず とても)
神やまもらん(守らん)

貪欲、色と酒にふけり、朝寝すれば(なまければ)、貧乏神に、お願いして祈らなくてもよい。貧乏神が守ってくれる(貧乏になる)。 

 


編者注:この後、「窮鬼」についての考察が記載されています。真面目な馬琴先生らしく、中国の古典などを引いて、説いています。
この部分は、長いし、あまり面白くもないので、省きます。

だた、これだけは紹介しておきます。
・・・福の神があるのなら、貧乏神があっても、不思議ではないだろう。・・・
                                                  


編者余談
現代中国語では、Mascot マスコットの訳は福神である。福神の対義語は、何でしょうね?