貧乏神 「窮鬼」 兎園小説
2025.4
滝沢馬琴先生の書いたものでは、「南総里見八犬伝」が、有名ですが、様々な文章も書いたり、まとめたりしています。
「兎園小説」もその一つで、面白い話がいくつもあります。
これは、そのうちの一つで、「窮鬼」というのが原題です。しかし、わかりにくいので、「貧乏神」としました。
以下
文政四年辛巳の夏の頃のことである。
番町の四五百石ばかりの武家の用人が、主人の大事な用むきで、下総の片田舎の知行所へ赴いた事があった。
江戸を発って、草加の宿場のあたりで、一人の法師に出会った。
見るに、年の頃は四十あまりであった。顔は青く又黒く、眼はくぼんでいて、世にいう鉄壷めいて(意味不明)いたが、顔は尖って大変痩せていた。
体には、どぶ鼠染とかいう栲(たく)の単衣(ひとえ)の古びたのをまとい(ねずみ男を想像してください)、頭には白菅の笠を戴き、項には頭陀袋(づだぶくろ)を掛けていた。
前になり後ろになりして行くうちに、烟草の火などを借りられてから、話を何回かするようになった。
用人が、
「さて、お坊さんは、何処(どこ)より何所(どこ)へ行かれるのですか?」と問うた。
すると、法師は、
「私は、番町なる某(なにがし)の屋敷より越谷へ行くのだ。」と答えた。
用人は、聞いて深く怪しみ、
「お坊さんは、そうおっしゃっていますが、私は、その屋敷の用人ですよ。
私が、もとより見しらぬ人が、わが屋敷にいるはずがありませんよ。
出家には、ふさわしくない嘘を言われますね。」
と、爪弾きをしてあざ笑うと、法師も亦あざ笑って、「何で、貴殿に、嘘を言おうものか。
貴殿が、わしを見知らないであるぞ。
そもそも、わしを何と見えるかな?
わしは、世にいう貧乏神なるぞ。
貴殿は譜代のものでないので、昔のことは知らないのであろう。
わしは、三代以前より、貴殿の主の屋敷にいるぞよ。
貧乏神のわしがいるので、彼の家には、病み患うものが、常に絶えないのだよ。
先代の主、先々代の主は、短命であった。
ただ、是のみならず、万事について不幸で、貧乏で窮迫し、代々、禄はあれども、なきが如しであったのだよ。
それでも家が亡ばなかったのは、先祖の遺徳によるものであるぞよ。」
そして、更に、
昔、貴殿の主の家には、これこれの事があった。
近ごろは、又あんな事、こんな事があった、と人にはいえない秘密の事を、見てきた様に説き示した。
用人は、非常に驚き畏れて、嘆息(ためいき)をつくだけで、言葉も出なかった。
窮鬼(貧乏神)は、これを見て、
「さのみ畏れる事にはないぞよ。
貴殿の主(あるじ)の世(世代)に至って、いよいよ貧窮は極まったが、
その年数がようやく終わったので、われは他所(よそ)へ移るぞよ。
今よりして貴殿の主人は、これからは栄える家となるぞよ。
今まで重ねた借財なども、皆返せるすべが出てくるぞよ。
ゆめゆめ、疑ふべからず。」
と言ったが、用人は、心配して、
「それなら、あなた様は、どちらへ移られるのございますか?」と問うた。
貧乏神は、答えて、
「そのことだが、わしが行くところは遠くもないぞよ。
貴殿の主の近隣なる何がしの屋敷に行くぞよ。
その移るまでの間に、一両日 すこしの暇がある故(ゆえ)に、越谷あたりに、知人を訪ねようと出て来たぞよ。
しかし、明日は彼の家に移るぞよ。
見よ、見よ、今より彼の屋敷は、よろづの事に幸いが無くなり、遂に貧窮の極まることを。
貴殿の主の今まで頭を擡(もたげ)られなかった様になるぞよ。」
このことは、決して誰にも話さぬことぞよ。
とささやきつつ越谷まで来たが、あやしい法師はどこにいったのであろうか?
たちまち見えなくなった、とのことである。
その、言われたことの証であろうか。
かくて、件(くだん)の用人は、旗本の領地に赴いて、村役人等と相談をした。
たびたびの借金の申し込みをしていたので、簡単には借りられないだろうと危ぶんでいた。
しかし、話がまとまって、思ったより多くを借りる事ができて、屋敷へ帰ったとのことである。
この一条は、おなじ年の六月の下旬、蠣崎波響(松前藩の家老。1764~1826年)の話である。
彼の用人と親しいものと、波響は親しかったので、その知人から伝へ聞いたものだ、と言う。
かの武家や用人の姓名もはっきりとわかっている。
まさしく、不思議な話ではあるが、世にはばかりような事である。
それで、その武家や用人の名は、記さなかった。
それほど、昔の話でないので、知っている人もあろうから。
文政八年(1825年)長月朔(9月1日) 琴嶺典継(滝沢馬琴の長男) 識す

この図は、「やしなひ(養い)草 (小児の教育書)」にある図
福神(ふくじん)は をのが
家業ぞ せい出せば
利生(りしょう)
あらたな
日々の商ひ (ひびの あきなひ)
福神は、己が 家業ぞ。 精 出せば。 利生(利益) あらたな(あらたかな) 日々の商い(商売)。
自分の家業に励めば、利益がえられる。自分の仕事そのものが福の神である。
びんぼう神
どん欲に 色と酒とに
あさねせば (朝寝せば)
いのらずとても(祈らず とても)
神やまもらん(守らん)
貪欲、色と酒にふけり、朝寝すれば(なまければ)、貧乏神に、お願いして祈らなくてもよい。貧乏神が守ってくれる(貧乏になる)。
編者注:この後、「窮鬼」についての考察が記載されています。真面目な馬琴先生らしく、中国の古典などを引いて、説いています。
この部分は、長いし、あまり面白くもないので、省きます。
だた、これだけは紹介しておきます。
・・・福の神があるのなら、貧乏神があっても、不思議ではないだろう。・・・
編者余談
現代中国語では、Mascot マスコットの訳は福神である。福神の対義語は、何でしょうね?