江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

佐渡の河童の妙薬「スジワタシ」  佐渡の昔話

2021-06-30 23:32:57 | カッパ

佐渡の河童の妙薬「スジワタシ」
                    2021.6.30

河童から、妙薬の製法を教わった、という話が、あちこちに、散見します。
所で、妙薬の意味は、不思議に良く薬というものです。
おそらく、商売上、薬の故事を作り上げたものでしょう。いまでも、そんなのがあります。
ただの薬よりは、河童に教わった処方の方が、ありがたいでしょう。
原文では、河童はすべて水神と表記なっていますが、河童に置き換えて、現代語に直しました。

「佐渡の昔話(1)」妙薬スヂワタシ の項より

以下、本文。

佐渡島の小木の港には、問屋が十二軒あった。
その主人たちは旦那衆と呼ばれていて、苗字帯刀を許されていた。
随分と戚張っていたそうだ。
その中でも下中町の鴻池屋は、藍玉問屋で、仲々盛大に商売をしていて、薬種商を兼ねていた。
その売薬中の「スヂワタシ」と称する、水神の絵が商標に付いていた薬は、よく効いたので売行きがよかったそうである。
これには面白い伝説があるから紹介して見よう。

何時の頃か時代は、わからないが、
或る日、鴻池屋の主人(旦那)が厠へ行って用を足していいたところに、河童(水神)が隠れていた。
そして、主人の胆を抜き取るべくねらって、肛門へ手を入れようとしたが、あいにく臭いものの出てくるところで、手が入れらず、ためらっていた。
鴻池屋の主人は、何となく下を見ると、水神が隠れているのに気が付いた。
大抵の人ならば大騒ぎで飛び出て逃げる所であるが、評判の沈着で胆のすわった人であったので、オヤッと思った。
しかし、知らぬふりをしていた。
河童は、用心しているとは知らずに、隙を見てヒョイと手を出した。
それを、鴻池屋の主人は、待ってましたとばかりにつかんで、河童をズルズル引き上げてしまった。


さすがの河童も意外の失敗に困って、逃げる事は出来ずに、縮み上ってしまった。
それを、鴻池屋の主人は、左手で水神の細首をつかみ、右手に小刀を持って、喉元に当てた。
「ニックイ河童め。なんで、このような悪戯をしたのか。
  サア覚悟せよ。」と、剌そうとした。

すると、河童は、痩せた手を上げて、
「すこしお待ちください。実は、私は、三味線堀の河童(水神)であります。
ご主人が沈着で胆が据わっていると。お聞きしていました。
その据わった胆を取って見たくて、ねらい始めてから、三年三月たっていますが、なかなか好機を得ませんでした。
それで、今日こそは、と手を出して、失敗してしまいました。
こうなっては殺されるのも仕方がないのですが、私は、これでも小木の河童(水神)社会の親分株です。
その親分ともいわれるものが、この失敗で殺されては、小木の河童(水神)としては、不名誉な事です。
それが残念であるますから、何卒成らぬ堪忍をして、今度だけは、特別の思し召しを以ってお許し下さい。
その代り御当家の七代の末迄、安楽に暮せる飯の種を差し上げます。」
と哀願した。

鴻池屋の主人は、これを聞いて好奇心にかられた。
これは面白いことを言うな、なんだか判らないが、騙されたと思って助けて見よう、と決心した。

「それなら、許してやるが、その飯の種とはどんな事なんだ?」
と詰問した。
河童は、「それは妙薬の秘法です。」
と、薬の処方から製造法、用法まで詳しく伝授したそうだ。

それが、かの河童(水神)の伝授したとの有名なる「スジワタシ妙薬」である。
筋違ひのことならば、治らぬこと無かった故、売れて売れて、鴻池屋は大いに利益を得たと言う。



狸の易者 百家奇行伝

2021-06-26 23:21:44 | キツネ、タヌキ、ムジナ、その他動物、霊獣

狸の易者        

これは、ごく最近の寛政年間(1789年から1801)の頃のことである。
江戸銀座二丁目の西側に、狸の易者というものがいた。
名は何といったかは、忘れた。

この者は、いささか学問があって、かって話をしたときは、大変面白かった。
大変な奇人であって、朝夕の行動も、普通の人とは、大いに異なる所があった。

常に狸を好んで、多く家に飼っておき、朝夕、狸を愛するのは、世の婦女子などが、猫を愛るのと同じ様であった。
寝室には狸の軸をかけ、壁には狸の絵をここかしこに貼り付け、夏の浴衣に狸の模様を染め、冬は狸の皮衣を身にまとていた。
占いの、小看板にも狸を絵を描いていた。

そういう事で、世人は、彼を狸の易者と呼んでいた。

「百家奇行伝」(古事類苑 動物7)より

訳者注:これは、怪談ではなく、奇談ですね。


新説百物語巻之二 8、坂口氏大江山へ行きし事

2021-06-26 22:29:59 | 新説百物語
新説百物語巻之二 8、坂口氏大江山へ行きし事  
          坂口氏が大江山の洞くつで怪異にあった事


丹州(丹後:京都)の福知山の辺に坂口なにがしと言う侍がいた。

その所の地頭よりの差配で栂井氏の娘をもらって、何の不自由もなく暮らしていた。

ある時、おなじ年頃の友達が四五人いて、折々は会っていた。
夜ばなしなどをしていたが、ふとその中のひとりの友がこう言った。
「大江山の洞穴は、今に至っても、入ればあやしい事がある、と言い伝えられている。ふしぎな事である。」
それを、彼の坂口なにがしが聞いて、
「それはおもしろい事を聞かせてもらった。
それがし近日に見て参ろう。」
と言った。
皆々、
「それは、いらぬ蛮勇である。絶対に行かない方が良い。」
と言ったので、その夜は、そのまま聞いておいた。

坂口が、つくづくと思ったのは、何ともふしぎなる事であるかなと。
こっそりと見て来ようと。
そして、女房にも外へ行くと偽って、大江山の洞穴におもむいた。
先づ洞の口を十間ばかり行く間は、殊の外せまかったが、その後次第次第に道も広くなり、およそ二町(一町チョウは60間ケン。二町は約218m)ばかり行くと思えば、十間弐拾間(ジュッケン、ジュウニケン:18m、36m)もの間を置いて石の燈台があった。
上からは、ただ水の雫がポタポタと落ちて薄暗く、冷や冷やした風が吹いて来た。
その臭いは、はなはだ生臭かった。
それを我慢して、更に四五町進んで行くと洞の内がかなり明るく、向こうから川音が聞こえてきた。

しばらく腰をかけて休んだ、そのかたわらに思いもよらぬ女のさしぐしが一つあった。
蒔絵が施されていたが、石の上にあった。
さしもの坂口もぞっとして、何とやら身の毛もよだち、それより帰ろうと思った。
何とも不思議なことであると、その櫛をふところにいれて帰ろうとした。
最前に来た時にはなかったが、あるいは笄(こうがい)または香箱などが落ちていた。
何となく見たことがある様に覚えて、ことごとく拾ってから戻って行った。

もうすこしで洞(ほら)の口へ出るかと思う頃に、今切ったと見える女の首が、道の真中にあった。
よくよく見れは我が女房の首であった。
坂口は大いに驚きながら、仕方なくこれも持って、我が家に帰った。

表より家の内を見れば、女房は、いつもの様に針仕事をしていた。
それで、手に下げた首を見れば、大きな自然生(じねんじょ)の山の芋であった。

洞窟での出来事を女房に語って、その櫛などを見せれば、女房の長持に入れておいた手道具であった。

最前の友だちを呼び集め、始終を語れば、皆皆きもをつぶした。

この坂口は、後に京都に来て住んだ。
そして、元文(1736から1741年)の始めに亡くなった。

わたしは、坂口から直接に、この話を聞いた。

新説百物語巻之二 7、光顕といふ僧度々変化に逢ひし事 

2021-06-26 22:21:54 | 新説百物語
新説百物語巻之二 7、光顕といふ僧度々変化に逢ひし事  
      光顕という坊さんが、何度も化物に出会った事

大和の夕崎と言う所に生れた三五郎と言う者があた。生まれつき器量もよく、肌も色白であった。
幼少より手習いを好み、本などを読む事を楽しみにしていたの。

そして、また、男の兄弟も二人いたので、その村の寺へたのみ、出家させた。
一生懸命勉強をし、十六歳の冬、剃髪して名を光顕と改めた。

殊の外の美僧であって、なかなか田舎そだちとは見えなかった。
又、その近在に庄屋の権九郎と言う者がいた。
一人の娘がいたが、生まれつきもきれいで、心だてもやさしい者であった。
権九郎は親の年忌にあたり、彼の夕崎の老僧を招待したが、光顕も一緒に仏事に来た、それを、この娘がふと見そめて、恋慕の心を生じた。
その後、何とやら心地が悪くて、寝込んでしまった。

たよりを求めて光顕の方へ手紙などを送ったが、一向に返事が来なかった。
彼のむすめは終に、亡くなってしまった。

ある夜、光顕が四つ(午後10時位)過ぎて机に向かって勉強をしていた、すると、向こうの行灯が、にわかにうごき出した。
パッと燃上ったのを、打ち消したので、火はたちまち消えたが、その行灯は、ありし娘の姿となり、ものをも言わず、つっくりと立っていた。
光顕は騒がず、火打ちを取り出し、行灯に火をつけようとすると、姿が消えて、もとの行燈は傷もつかずにあった。

それより、毎夜毎夜このようであった。

それで、さしもの光顕も大いに困り、師匠に暇乞いして京都の西山に登り、所化寮に暮らした。
当初の四五日は何事もなかった。
しかし、その後は、夜ふけて寝ようとすると、かの娘が枕もとに来て、殊の外に冷たい手で顔をなで、手をとってさめざめと泣いていた。
この寺にも長くいられず、京都へ出て西寺町の寺にしばし住んだが、又ここでも、夜分夜着の裾より手をいれて足などをなでられたりしたが、その冷たさは氷のようで、気味悪い事、たとえようがなかった。

その寺の住持は、その事を聞き、毎夜毎夜金剛経を十遍づつ枕もとにて唱えた。
すると、その夜は何のことも無かった。
もしもおこたれば、前のようであった。
ある夜、住持が留守であった夜、又例の変化(ばけもの)が来たのを、数珠でもって払い除こうとした。
すると、その顔は凄まじくなり、目が光って、
「この度は助けてやるが、最後には命を取ってやる。」
と言って帰って行った。

光顕もそれより浮世を思い切って、諸国行脚に出たが、ふしぎな事があって、もとの大和に帰った。
そして、良くない死にかたをした。

新説百物語巻之二 6、死人ての内の銀をはなさざりし事

2021-06-26 22:20:27 | 新説百物語
新説百物語巻之二 6、死人ての内の銀をはなさざりし事  
          死んでもお金を離さなかった話

 京の東山のある寺に伊六と言う下男がいたが、ふと病気になり、知り合いの家に行って、半年ばかり養生をした。ある時、かの伊六は、寺に来て、「もう、だいぶ良くなりました。また帰ってつとめたいのですが。」と言った。
住僧が言った、
「まだ、顔色も良くなく、力もついていないようなので、今しばらく養生してから、仕事に戻ればよい。その方も知る通り、給金の残りも五六拾匁あるので、これを持ち帰って、養生すればよい。又々、その上にも用事があれば、声をかけよう。」
と、銀子六十匁を渡した。
伊六は、受け取り、おしいただき、
「ありがとうございます。」
と言うかと思えば、そのまま倒れて息が絶えた。
寺中が驚き、水などのませ、薬よ針よと呼びあつめ、介抱したが、その甲斐もなく、そのままに死んでしまった。

これは仕方がないと、知人宅にも知らせた。
寺のことであったので、その夜すぐに寺の墓所へ葬った。
しかし、六十匁(もんめ)の銀子(ぎんす)を、いかにしても握りつめて放さなかった。
色々したが、なかなか動かなかった。
このお金に執着心が残ったものよと、そのままにして葬った。

そのとなりの寺に重助という下男がいた。
つくづくと思ったことは、無駄にお金を土中に埋めるのは、惜しい事だ。
その夜、かの墓所に行き、死人を掘り出して、お金を取ろうとしたが、一向に放さなかった。
どうせ乗りかかった事と思い、小刀で指を切ってそのお金を取ろう思い、帰って小刀を持ってこようとした。
すると、彼の死人はむっくと起き、目を大きくむき出して、食いつくような感じであった。
その勢いに、さしもの重助は胆(きも)をつぶし、そのまま気絶した。

あくる朝、住僧は、廻向のために墓所に至って彼を見つけた。
さまざまに手を尽くして介抱したので、重助は息を吹き返して、無事であった。