江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

会津の諏方神社の、朱の盤(しゅのばん)と言うばけ物の事  諸国百物語

2020-02-27 19:06:51 | 怪談
会津の諏方神社の、朱の盤(しゅのばん)と言うばけ物の事
                   2020.2

「会津須波(あいづすわ)の宮 首番(しゅのばん)と云ふばけ物の事」が、「諸国百物語」での題名です。
 
 
奥州の会津(福島県会津若松市)の須波(すわ)の宮に、首の番(しゅのばん)と言う恐ろしい化物がいた。

ある夕ぐれに、年の頃二十五・六歳なる若侍が一人で須波(すわ)の前を通った。
以前から、この宮には化物が出でるとのうわさを聞いていたので、心の中で、恐ろしいなと思っているその折ふしに、又二十六・七歳位のなる若侍が一人で現れた。

良い連れが出来たと思い、一緒に歩きながら、
「ここには、首番と言って有名な化け物が出るそうですが、貴君も聞いたことがありますか?」と尋ねた。

あとから来た若侍が、
「その化け物は、こんな者かい?」と言った。
急に、顔が変わり、眼は皿のようであって、額に角が一つあって、顔は朱のように赤く、頭の髪は針がねのようで、口は耳のわきまで切れ、歯をガキガチさせる様子は、雷のなる音のようであった。

侍は、これを見て気を取り失ない、半時ばかり気絶していた。
しばらくしてから気が付いて、あたりを見れば須波(すわ)の前であった。

それからやっと歩き出し、ある家に入り、水を一口ほしいと、声をかけて、頼んだ。
すると、その家の主婦が出てきて、
「どうして、水がほしいのですか?」と言った。

若侍は、首番(しゅのばん)に出会った話をした。
主婦が聞いて、
「さてさて、それは恐ろしい者に、出会いましたね。
首番(しゅのばん)とは、こんなものかい?」
と、言った。
そして、又前のような顔となって、見せた。
すると、かの若侍は、又気を取り失った。

しばらくして気がついて、そののち三日目に亡くなったそうである。

編者注:この話は、「諸国百物語」(1677年)にあります。
これに良く似たのがいくつかあります。
小泉八雲の「怪談」にも、似た話があります。
江戸時代の会津地方の怪談などを集めた「老媼茶話」にも、ほとんど同じ話があります。
それには、「首の番(しゅのばん)」が、「(しゅのぼん)」となっています。
会津須波(あいづすわ)の宮は、会津若松市の諏訪神社(諏方神社)のことです。
成書年代は、「諸国百物語」の方が古いのですが、神社名は、「老媼茶話」が正しい。
また、化物の名前も、「朱の盤」の方が、恐らく正しいでしょう。
これから見ると、オリジナルは、どこかにあって、それを、「老媼茶話」の作者は、そのまま引き写し、「諸国百物語」の作者は、神社名と化物の名前の漢字を変えて写したのでしょう。





ろくろ首  128歳の老翁が語った話  渡辺幸庵対話 

2020-02-20 13:48:19 | 怪談
ろくろ首  128歳の老翁が語った話
                                                           2020.2

この話は、「渡辺幸庵対話」にあります。
前書きによると、宝永6年の時点で、128歳だと記されています。
天正10年(1852年)に出生、宝永8年(1711年)に卒す、となっています。
この書は、その人に古事を聞いた、と言う事になっています。
真偽のほどは、わかりませんが、
いつくかの、面白い話があります。


宝永6年八月十五日対話

ろくろ首
駿州(駿河の国今の静岡県)のどこかの山の麓に、山伏が住んでいた。
一人の娘がいたが、ろくろ首であった。
一人娘であったので、婿を取って、家を継がせようとした。
婿を迎えてから、一夜二夜、かの娘に添ったが、着の身着のまま逃げて、二度と戻ってこなかった。
この事で、娘がろくろ首であることが露見してしまった。

その後、かの娘は、流浪して江戸へ下って来て、十七歳にして死んだそうである。

私(渡辺幸庵)は、かの娘が、茶を持運んでいるのを見たことがあった。
その時は、十四歳であったそうである。容儀すぐれたる娘であった。
しかし、首のぬけたのは、見たことがない、
    と渡辺翁は、語った。


                        
同年八月十五日対話

吉野の山奥のロクロ首村

吉野の山奥に、轆轤(ろくろ)首村というのがあった。
その在所の人は、残らず皆ろくろ首であると言う。
いずれも幼少より首巻をしている。
市に売買に出るのにも、そのようであった。

その中の一人の中年の者をなだめすかしてあの首巻を取って見るに、首の廻りに筋が有った。
その筋を指で押してみると、ふわふわとして動いて、ロをあける様であった。

私自身(渡辺幸庵)もそれを見た。

イワナの坊主、毒揉みを戒む  奇蹟ものがたり

2020-02-10 21:20:58 | 怪談
イワナの坊主、毒揉みを戒む
                       2020.2      
信州(長野県)と美濃(みの:岐阜県)の国の境にある御嶽山の麓に、川上・付知・加子母と言う三つの村があった。

五穀不毛の地であるので、川に下りては魚を取り、山に入っては、禽獣などをとって、食料の補いとしていた。
その魚を取るには、毒揉み(どくもみ)と言う方法を用いる。
毒揉とは、辛皮に石灰(あく)と灰汁(あく)とを混ぜ、煎じ詰めて団子のように丸くして、これを淵瀬に投げ込むことである。
すると、見事に魚や虫は、ことごとく死ぬ。
しかし、その水中に小便を流すことがあれば、毒に当たった魚類はたちまちに生き返って逃げ行く、と言う。

ある時、村の若者たちが、山へ仕事に行くと、その所に淵があった。
大変、魚が多かったので、昼休みに毒揉みをして魚を取り、今宵のおかずにしようと、朝よりその用意をした。

やがて昼になったので、皆一ヶ所に打ち寄り。昼飯を食べている所へ、どこからともなく、一人の坊主が来た。
『そち達は、魚を取るのに毒揉みと言うことをしているが、これは良くない事である。
他の方法で、魚を捕るならばともかく、毒揉みは決してしてはいけない。』と言った。
こう言われて、皆は薄気味悪くなったので、
「なるほど、毒を流すのは良くない事でしょう。今後は、慎みます。」
と言って食事をした。
すると、その坊主は、なおも立去らずに、側にたたづんでいた。
この時、ちょうどダンゴの食べ残しがあったので、これを坊主に与えた。
坊主は喜んでこれを食べた。
その他に飯の残りがあったので、これも与へたが、又々喜んで食べた。
見れば汁の残りもあったので、これをも差し上げましょうと、飯にかけてやったが、今度はとても食べ憎くそうな様子をしつつ、ようやく食べ終わった。
間もなく、どこかへ立ち去った。

その後、人々は顔を見合わせて、
「あの坊さんは、どこの坊さんだろうか?
この山奥は、出家の来るような所ではないのに、とても不審はことだ。
日頃、我等が悪事(毒流しの事)をしているのを山の神様が来て、止めようとしたものであろうか?
又は、弘法大師等が来て、我々を戒めようとの事であろうか?」
「今後は、もう毒揉みは、止めたほうが良いぞ。」と言う者もいた。
又、勝ち気の者は、坊主の言葉も聞きいれずに、
こう言った。
「この深い山へ、毎日毎日入って仕事をしている者が
山の神や天狗が恐ろしいのなら、山稼ぎはやめた方がよい。
気の弱い者は、とても哀れなものだな。
イザヤ、我々は毒揉みをしよう。」
と言って、屈強なる者の三人で、ついにその日も毒揉みをした。
獲物が多かったが、中でも岩魚(谷川の岩穴に棲む魚形鱒に似て少くして白し:原文にある注)の体長が六尺(180cm位)程の大魚を得た。
皆々悦んで、
「先の坊主の言葉に従っていたのなら、
この魚は、手に入れられなかったろう。」
などと言って、口々に騒いだ。

やがて村に持ち帰り、若い者が大勢寄りあつまって、かの大魚を料理した。
すると、驚いたことに、昼に坊主に与へた団子を始め、飯などもそのまま腹の中に残っていた。
ココに至っては、あの勝ち気の者達も気遅れして、その岩魚(イワナ)を食べることは、出来なかった、と言うことであった。


昔より、岩魚は坊主に化ける、と言い伝えられているが、これは事実である。
私は、先年その村に行ったが、確かに聞いて来た話である。
信州御嶽山の周囲には、四尺五尺位の岩魚のいることは、珍しくない、と言う。

以上、「奇蹟ものがたり」物集高見先生著。大正11年
より

訳者注:これ良く似た話が、諸書に散見する。例えば、   
「想山著聞奇集」には、イワナの代わりにウナギとなっている。
「飛騨の伝説と民謡」には、「岩魚の怪」という話が述べられていますが、これとほぼ同じ内容です。 

踊が岩の古狸 土佐風俗と伝説

2020-02-08 00:02:18 | キツネ、タヌキ、ムジナ、その他動物、霊獣
踊が岩の古狸 土佐の狸の怪 1.              
                              2020.2
今は昔、天保(1831~1845年)の頃、長岡郡本山(高知県長岡郡)の葛原に色々と怪しい事があった。

ある里人が夕暮れにそこを通りかかると、大入道が木の葉の衣をつけ、一本歯の高下駄を履いて、人をにらみ付けていた。
里人は恐れて帰り、大熱を病気になった。

又、或旅人が通ると美人が病いに苦しんでいた。
介抱してやると、よくなった。
しかし、一緒に山を下りている途中で、たちまちに美人は鼻が欠け目が消え、姿が一変し、のっぺり坊主となった。
そして、噛み付いてきた。
旅人はきやっと驚いて、気絶して倒れた。
が、夜明の冷気に目が覚めて見ると、葛原の墓場の中に、泥まみれとなって寝ていた。
このような噂が、ぱっと弘まり、誰もこの葛原を通る者がなくなった。

さて、ここに本山の隣りの田井の伊勢川に、白助と言う勇敢な猟師がいた。
葛原の怪異は古狸の仕業であろうと察して、鉄砲を提げて、夜な夜な葛原に通ったが、そのことを察知したのか、怪物は一向に姿を見せなかった。

さて、時節も過ぎて、その年の大晦日の夜も、白助はあいも変らず九刻頃(夜十二時ころ)に銃を提げ、葛原へ行った。

すると、岩陰に妙な歌の声で、
「今晩は晦日(みそか)、晦日の夜には、如何(いか)な白助さんも、よも来まい」
と歌ひ澄ましていた。

白助は、暗い夜であったが、星の光に透かして見ると、白綾の衣(ころも)、緋の袴(はかま)、官女の姿そのままの美人が、扇をあおぎながら踊り舞っていた。
おのれ古狸め、と一発鉄砲の弾を打ち放てば、弾丸美事に命中した。
あの美しい官女は、たちまちに姿を消した。

翌朝、草を分けてその怪物を探したが、身長約五尺もあろうと言う大狸であった。
身体一面に、木の葉や川藻を付着させて居た。
この後、葛原には何も怪しい事が起こらなかった。

今に至っても、里人は、その岩を踊り岩と言っている。

「土佐風俗と伝説」より