江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  その2

2023-05-24 22:50:06 |  伝説

「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  その2

             2023.5

6.三把菅(さんばすげ?) 
猪苗代湖の釜子浜は、上戸浜(じょうこはま)より西の湖辺である。
ここより西北の方、沖に出れば三把菅と言って湖中第一の深い所がある。
三把の菅(すげ)を結んで下ろしても、水底に届かない。それで、この名があると言う。

訳者注:この三把のスゲの意味が解りません。
猪苗代湖には、何々浜というのがあちこちにあります。まるで、海の浜辺のような感じがする所もあります。しかし、潮のにおいがしないのが、海の浜との違いです。

 

7.苧紡(おつむぎ)坂 
長瀬村字(あざ)上内野(今は、猪苗代町の一部)の北一町(109m)にあり、十五間(一間ケンは、180cm)ばかりの小さい坂である。
道の傍に昔、松の樹があった。
山姥が住んでいたと言われていた。
昔は、夜毎に絲をひく紡ぎ車の音が、聞こえた、と言う。
今は、松も枯れてしまった。

 

8.天狗相撲取山 
吾妻村(今は、猪苗代町の一部)字(あざ)小田の東南方二里ばかりにある。
東は安達郡中山村と峰を境界としている高山であって、登る者は稀である。
何者のしわざか、はるか遙か山奥に木を伐採する音が、聞こえることがある。
村民は、天狗のしわざである、と言い伝えている。


9.岩弓 
吾妻村(猪苗代町)字(あざ)酸川野(すかわの)の東北方に二里ばかり(約4km余り)にある。
このようなことが、伝えられている。

昔、源義家(みなもとのよしいえ)が東征の時、この地に至って軍の勝利を祈って、矢を放った。
そして岩の上に立ったが、その弓より枝葉が生じたので、岩弓と名づけた、とのことである。

今に至っても、なお箭竹(やだけ)が多い。
里の人々は、は、八幡太郎箭竹と言っている。

 

10.鬼屋敷
磐梯村(今は磐梯町)字(あざ)渋谷の東南八町(一町チョウは、109m)にあり。
東西八町(870m)、南北十八町(約2km)の中に屋敷跡がある。
昔、桧木谷地(ひのきやち:ヤチとは湿地帯)に山賊が多くいて、人を悩ました。
それは、この地であると伝えられている。


「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  その1   猫魔嶽 など

2023-05-24 22:29:32 |  伝説

「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  その1   猫魔嶽 など

              2023.5

「福島県耶麻郡誌」には、耶麻郡口碑伝説の章があります。出版年は大正8年ですが、内容的には、江戸時代かそれ以前のものです。
各表題の前の数字は、原典にはありませんが、私が、便宜的に付けたものです。
福島県耶麻郡は、猪苗代湖の北部の、猪苗代町、磐梯町、北塩原村、西会津町、喜多方市などを含む地区でした。
このうちの、大部分が現在の猪苗代町のものです。

 

第十八章 口碑伝説

第一節 口碑(こうひ)  その1(1~10)

1.猫魔嶽(ねこまだけ:磐梯町から北塩原村にまたがっている。今は、スキー場がある。ネコマスキー場) 

昔、猫又がいて、人を食べたといわれており、この名がある。
北の方に猫石と言ってその表面が畳のような大石があった。
その下には草木が生えず、ゴミも無く、掃除をしたような感じであった。
猫又がそこに住んでいる故であろうと言う。
済み


2.みやませうびん(ミヤマショウビン)  
飯豊山(いいでさん:喜多方市北部)に「みやましょうびん」と言う鳥がいる。
頭背腹脇 共に赤く嘴と足とは最も赤い。
鳩の様な大きさで、其の声は大豆を転がすのに似ているといって、里の人々は、まめころばしとも名をつけている。
この鳥が嗚くときは、必ず雨が降るといって、雨乞い鳥とも言う。

3.猪苗代
いつの頃にか、磐椅(いわはし)明神の霊験により野猪(いのしし)が来て、ここを走って行った。
その跡が苗代(なえしろ)田になったことによって、穀物の種をまいた。
それ故に、この名がついた、と言う。

 

4.一円清水
土津(はにつ)墳墓の南に一町五十八間、墓道の西傍に在る。
干ばつの時でも涸れることがない。
これが涸れれば、凶事があると言って、畏れている。

また、新産婦で乳汁があまり出ない者は、この水で粥を炊(た)いて、食べれば、効験がある。
眼を患らっている者が、目を洗えば、治らないことは、無いそうである。

注:土津は、ハニツと読む。現地では、土の右上に点を打っている。地方文字、俗字です。
猪苗代町には、土津神社があるが、会津藩の歴代藩主を祀っている。
この、土津(はにつ)墳墓というのは、神社に付随した神道の墓地であろう。しかし、ここに言う「一円清水」というのは、今では、見あたらない。

注:一町チョウは、約109m。一間ケンは、約180㎝。


5.田子沼  
もと山潟村(今は、猪苗代町の一部)の山中にあったが、今はない。
永正(えいしょう:1504年~1521年)の頃、下野の浪人の関加賀と言う者が、安達郡玉井村より郎党を引き具し、ここに来た。
(猪苗代の領主の)三浦氏に請うて廃田を興したので、再び人の住む所となった。

その頃、山潟村(猪苗代町の一部)に斉多(サイタと読むのだろうか?)と言う娘がいた。
田子(たご)、商殿(あきんどどの)と言う二人の男が、この娘に心を寄せて、しかるべき人に頼んで、その娘の父に婚姻を頼んだ。
しかし、困った斉多は、この沼に身を投げて死んだ。(編者注:葛飾のママのテコナを思い起こさせる。ここに言う田子というのは、農民で、商殿と言うのは、商人と言うことであろう。個人名では無いだろう。)
二人の男は、彼女の死を聞き、嘆き悲しみ、また諸共に溺死したそうである。

その後、毎夜、沼の中から相い争う声が聞こえた。
常に悪い風を吹きおこし、農業を害した。
それで、関加賀は、三人を神として祀り、歳時の祭礼を怠りなくおこなってから、このような怪しいこともやんだとのことである。
しかし、その後も、この里にのみ風雨あることがある。
これを村民は、山潟のホマチ雨と言っている。

又、鮒(ふな)を産する。
これらを取ると、霖雨(リンウ:ながあめ)の変ありと言って、畏れて取らなかった。
済み

 

 

                  

 


新説百物語巻之四 12、釜を質に置きし老人の事

2023-05-08 21:37:46 | 怪談

新説百物語巻之四  12、釜を質に置きし老人の事

                       2023.5

大宮(京都市下京区)の西に、作兵衛と言う者がいた。
六十歳余りであったが、妻や子もなく、裏やをかりて一人で住んでいた。
醒井通りの「吉もんじや」と言う質屋へ、毎日釜をひとつ持って行き、鳥目百文(ちょうもくひゃくもん)を借りた。
そのお金で菜大根を買いもとめ、それを町中にうり歩いた。
その利益で、生活に必要な物を買いととのえ、夜に入って吉文字屋(きちもんじや)へ釜を受け取りに行った。
それで飯などをたいて、また次の朝は釜を持って行った。
また、鳥目百文借りて、商売のもとでとした。
一二年ばかりそのように暮していた。
吉文字屋の亭主が、ある時、作兵衛に向かってこう言った。
「最早、この釜も一二年の間、質に取って、私の方は、多めに利益を頂いております。
毎日毎日、ご苦労の事でしょう。
それで、この釜をあなた様に差し上げます。
安心して、商売をなさって下さい。」と。
しかし、作兵衛は、
「お心づかいは、大変有り難いことでございます。
私の持っている物は、この釜ひとつだけでございます。
他に何の蓄えもございません。
それで、朝出かかるにも、戸も閉めず、夜に寝るにも心やすいことです。
釜が一つでも家の内にあれば、心配になります。
やはり、毎日毎日、御面倒ながら質物に御取り下さい。」と頼みこんだ。

それより又一年ばかり、質屋に通い続けたが、そのうちに亡くなったとのことである。
吉文字屋(きちもんじや)の亭主は、死んだとの知らせを聞いて、従業員に鳥目五百文をもたせて様子を見に行かせた。
すると、成程釜ひとつの外に、何のたくわえもなかった。
近所の同じ借屋の住人たちが打ちより世話をして、葬った、との事であった。

枕もとに、反古紙(ほごがみ)のはしに、辞世(じせい)とおぼしい発句(ほっく)があった。
どんな、人生を送った人なのであろうか。

何とも、風雅なひとであったか、と噂された。
  身は終(つい)の 薪となりて 米はなし
と書かれていた。
名を無窮としたためていた。

普段は、物をかく事もなかったが、上手な字であった、との事である。

 

 


新説百物語巻之四 11、人形いきてはたらきし事

2023-05-08 21:35:55 | 怪談

新説百物語巻之四 11、人形いきてはたらきし事

                     2023.5
 
 ある旅の修行僧がいたが、東国に至って日がくれ、野はずれの家に宿をかりて一宿した。
その家のあるじは老女であって、むすめ一人と只二人でくらしていた。
僧に麦の飯など与えて寝させた。

夜がふけて、老女がこう言った。
「これ、むすめ。人形を持ってきなさい。湯あみさせよう。」と言った。
旅の僧は、ふしぎな事を言うものだなと、寝たふりをして、そっと見守っていると、納戸の内より六七寸ばかりのはだか人形を二つ、娘が持ち出して老女に渡した。
おおきな盥に湯を入れ、かの人形を湯あみさせると、その人形は人のように動き出し、水をおよぎ、自由に動き回った。

旅の僧は、あまりにふしぎに思って、起き出した。
そして、老女に、
「これはなんの人形ですか?さてさて面白いものですね。」と尋ねた。
老女は、
「これは、このばばが細工したもので、ふたつ持っております。
ほしければ、一つ差し上げましょう。」と言った。

修行僧は、これはよいみやげが手に入った、と思って、風呂敷包の内にいれて、あくる日、挨拶をして、その家を出ていった。

半里ばかりも行くと思えば、風呂敷包の内から、人形が声を出した。
「ととさま、ととさま」と呼んだ。
ふしぎながらも、「なんだい?」と答えた。
「あの向こうから来る旅の男は、つまづいてころぶよ。何でもいいから、薬をあげてね。お礼に、一分金をお礼にくれるよ。」
と言っている内に、向こうから旅の者が来た。

うつむきにこけて、鼻血を多く出した。
その僧は、あわてて介抱し、薬などをあたえた。
すると、気分が良くなり、お金を一分取り出して、坊さんにお礼としてあたえた。
坊さんは辞退したが、旅人が是非とも受け取って欲しい、と言うので、受け取った。

又、しばらくして、馬に乗った旅人が来たが、またまた風呂敷の内から、
「ととさま、ととさま、あの旅のものは馬から落ちるよ。薬でもあげてね。銀六七匁をくれるからね。」
と言う内に、はたして馬から落ちた。

なんとか介抱したら、成程、銀六七匁をくれた。

旅の坊さんは、何となく恐ろしく思って、人形を風呂敷から取り出し、道のはたに捨てた。
人形は、生きている人間のように立ちあがり、何度すてても、
「もう、ととさまの子なのだから、はなれないよ。」と追いかけて来た。
その足の速いこと飛ぶようであった。
終に追付き、懐の内に入りこんだ。

変なものを貰った事よ、と思って、その夜、又々次の宿に泊った。

夜に、そつと起き出して、宿の亭主に、これまでの事を詳しく話した。
「それでは、うまい方法があります。
明日、道の途中で笠の上に乗せ、川ばたに行って、はだかになり、腰だけばかりの深さの所で、水にづぶづぶとつかって、水におぼれた真似をして、菅笠をながしてください。」と教えた。

その翌日、教えられた通りに、深くない河で、水中にひざまづき笠をそっとぬいだ。
人形は笠にのったまま流れて行った。

その後は、何の変わった事もなかったそうである。


新説百物語巻之四 10、渋谷海道石碑の事  渋谷街道の石碑

2023-05-08 21:32:31 | 新説百物語

新説百物語巻之四 10、渋谷海道石碑の事   渋谷街道の石碑

                            2023.5

京の東山の渋谷街道(しぶたにかいどう)の側にひとつの石碑がある。
洛陽牡丹新吐蘂(らくようの ぼたん あらたに ずいを はく)と七文字が彫り付けられていた。
名もなければ、何の為に立てたのかも、判らなかった。
或いは、遊女の塚ともいい伝えられてもいたが、本当のことを知っている人はいなかった。

すこし前に、知恩院町古門前に黒川如船と言う人がいた。
風流の楽人であって、茶香あるいは鞠楊弓に日を送っていた。
八月の事であったが、湖水の月を見ようと友達をかれこれと誘い合って、石山寺にいった。

そして、一宿し、又あすの夜の月の出てくるのを見て、京のかたへ帰っていこうとした。

もと来た道を戻るのも、つまらないだろうと、渋谷街道をつたって帰って行った。
最早、夜も子の刻過ぎて、そろそろ丑の刻にもなろうかと思う時刻であったが、街道のはたに、石に腰かけている80代位の老翁が一人で、たばこをくゆらせていた。
その火をかりて、たばこに火をつけ、
「どちらの人でございますか?」と尋ると、
「私は、このあたりの者ですが、月のあまりに美しいので、このように眺めています。」と答えた。

「そらならば、尋ねたい事がございます。ここの石碑は、誰の石碑でございますか?」と尋ねた。
すると、老人はほほ笑んで、懐中より書いたものを取出して、如船に与えた。
「持ち帰って、これを見なさい。」と言って、たちまちに姿が見えなくなった。

持ち帰って見れば、詩と発句とであった。
  牡丹開尽帝城外 花下風流独倚欄    (牡丹 開き尽くす 帝城の外。 花下の風流 ひとり欄による)
  老去枝葉埋骨後 人間共是夢中看  (老い去りて 枝葉 埋骨の後。 人間 共に是 夢中に看る)
                
それと名を  いはぬ(言わぬ)や 花の  ふかみ草

詩のうらに牡丹花老人と書かれていた。
又、発句(俳句)にも、ふかみ草とあった。
それで、もしかしたら、その老人の石碑ではないのか、と如船は言った。

その詩句を書いたものを、まさしく黒川氏が所持している、とのことである。