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江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

「こおろぎの草子」  「虫の三十六歌仙」  1から6

2025-07-10 22:06:25 | こおろぎ草子・虫の三十六歌仙

「こおろぎの草子」  「虫の三十六歌仙」  1から6

(以下、虫の詠んだ和歌。番号は、仮に付けました。)

1、こほろぎ(コオロギ:蟋蟀)
此(ここ)のすみ 彼所(かしこ)の壁に すがりつき 身は数ならで 君をこほろぎ
ココノスミ カシコノカベニ スガリツキ ミワ カズナラデ キミオ コオロギ

解釈:ここかしこ、あちこちの隅に隠れたり、壁にすがりついています。我が身は卑しいものですが、あなたを恋い慕っています。
考察:「君をこふ(恋う)」とすべきを、「こほろぎ」の語を使うために「君をこほろぎ」としている。


2、はたおり(機織り:キリギリス)
かた絲の はるばる野辺に繰返し はたおりかけて 啼きあかすかな
カタイトノ ハルバル ノベニ クリカエシ ハタ オリカケテ ナキ アカスカナ

解釈:野原で、機織りをしながら、鳴いて暮らしています。
解説:はたおりは、キリギリスの古名であり、現代でも別名です。この後にキリギリスが登場して来ますが、昔の「キリギリス」は、現在の「コオロギ」と言う事のですが、和歌の内容から、キリギリス(機織り)のようです。また、1にコオロギの和歌があることや、
大変混乱しています。4に、キリギリスがありますが、4のは、コオロギの一種でしょう。

3、すずむし(鈴虫)
君にかく ふりすてられし 鈴虫の 我が身の果てや いかがなるらむ
キミニ カク フリステラレシ スズムシノ ワガミノハテヤ イカガ ナルラム

解釈:人に飼われていた鈴虫である私は、野原に捨てられてしまった。私の将来は、どうなるのであろうか?(野垂れ死にしてしまうのだろう。)

4、きりぎりす(キリギリス:エンマコオロギであろうか?)
けふよりは 深き思ひを きりぎりす なけど哀れと とふ人もなし
キョウヨリワ フカキオモイオ キリギリス ナケド アワレト トウヒトモナシ

解釈:今日からは、深い思いを切ろう(恋をあきらめよう)。キリギリスが鳴くように、私も泣いているが、同情して、可哀想にと言ってくれる人もいない。
考察;「深き思ひを切り」とすべきを、「きりぎりす」の文字をいれるために、「深き思いを きりぎりす」としてある。
さて、先に「はたおり」が、現在のキリギリスであると、説明しました。すると、この「きりぎりす」は、何であるか、という問題が出てきます。古語のキリギリスは、現代でいうコオロギのことです。所で、「こほろぎ」は、すでに出ています。では、古語でいう、「こほろぎ コオロギ」と「きりぎりす キリギリス」の違いは、どう解釈するか、と言うことになります。現代語のキリギリスは、大型のバッタであることから、私は、ここに言うキリギリスは、大型のコオロギである、と解釈しました。おそらく、古語のキリギリスは、特定の種のコオロギを指すのではなく、単に少し大きいコオロギ全般を指しているのでしょう。エンマコオロギは、大型のコオロギですので、ここでは、エンマコオロギとしました。

5、ほたる(蛍)
草の露 水の泡とも 消えやらで たへぬ思ひに もゆるほたる火
クサノツユ ミズノアワトモ キエヤラデ タエヌオモイニ モユルホタルビ

解釈:草の露も、水の泡も消えないでいる。耐えきれない(恋の)思いが蛍の火のように燃えている。

6、蚊
夕ぐれの 軒の煙に立ちまよひ 忍びかねたる 身こそつらけれ
ユウグレノ ノキノ ケムリニ タチマヨイ シノビカネタル ミコソ ツラケレ

解釈:夕暮れには、炊事の煙が人家より立ちのぼってきます。蚊である私は、飛んでいる時に煙に巻き込まれると、息が苦しくつらいものです。
考察;これは、苦心の作。「蚊」の字は、詠みこんんでいないが、「忍びかねたる」の語句中に、「か」の文字をいれている。


「こおろぎの草子」  「虫の三十六歌仙」  序文

2025-07-10 00:01:08 | こおろぎ草子・虫の三十六歌仙

「こおろぎの草子」  「虫の三十六歌仙」


「こおろぎ草子(そうし)」または、「虫の三十六歌仙」について

「こほろぎ草子」は、「御伽草子(おとぎぞうし)」の一つです
。「御伽草子」は、鎌倉時代末期より、江戸時代初期にかけて流行した、通俗小説、物語です。

多くの虫が、和歌を詠んだという構成になっていますので、優れた36人の歌人を三十六歌仙と言うのに倣って、「こうろぎ草子(虫の)三十六歌仙」との題名の写本も、あります。


この草子の作者は、楽しみながら、虫を名を詠み込むのに苦労しながら、この文を作ったのでしょう。三十六歌仙を意識していたかもしれませんが、数えると歌の数が36首ではなく、37首でした。


「こおろぎ草子(そうし)」は、御伽草子であって、取るに足らない内容ではありますが、なにか、平安朝の文学の残り香も、生き物のもののあわれも、少し感じられます。

日本文学大系 - 校註. 第19巻(国会図書館デジタルコレクション)の「こほろぎ草子」を底本とした。

(本文の、前書き)

「私は、世を捨てて、ひとり寂しく、粗末な小さな仮の家に、一時的に住まっています。憂いの多い世の中を、つくずくと、思い続けて、日を過ごしています。秋の末で、庭のススキも枯れかけ、木の葉が色づいて来て、木の葉が風に吹かれて乱れて、
そこはかとなくもの哀れな夕暮れに、一人寂しく、月影を見て、心を澄ましていました。その時に、家の傍らにある萩の下の方の葉の陰に、小さな虫が、数多く集まって、他愛のない物語をしているのが聞こえて来ました。とても、哀れで、またおかしくもありました。

その中から、コオロギという虫が出てきて、このように言いました。
「皆さん、どうかお聞きください。まことに、私たちの身の上は、みすぼらしく、命も短く、儚いことは、限りがありません。」

「春が過ぎると、夏草が、緑深く茂ります。五月六月の頃は、朝な夕な、草の上の露が、玉を乱すようであって、心も浮き立ちます。ある時は、菜種の黄色い色に隠れ、ある時は、清い水の流れに、我が身の影を映し、ここ、あそこと飛び遊ぶ時は、虫に生まれた罪も、報いも忘れてはててしまいます。心も浮かれつつ、世の中のいやなことも、思わず、誠に、一時の楽しみに、寿命が千年も延びるような気がします。しかし、早くも七月(文月)から九月(菊月)に移り、月は冴えて美しいのですが、吹いてくる風は冷たく身にしみて、なんとはなしに物悲しくなりました。夜も九月(長月)になれば、寒さで足も思うように動かなくなり、声もかれはてて、隠れ家と頼る、草木は、露も結ばなくなりました。いつしか、初霜がおりて、ねぐらも、丸見えになりました。」

「木の枝に小鳥が止まって鳴く声を聞く時は、身も消えるような思いに心を痛めます。ある時は、人家の垣根に取り付き、又は縁の下に身を隠そうとすると、小賢しいネズミに探しだされて、食べられてしまうような、悔しいこともあります。あちらこちらと迷い出たのを、いたずらな子供に捕まえられて、悲しいことに糸につながれ、大地に引き回され、恥をさらすこともありました。
竹にさし通され、たちまちに気を失い、まさに死にそうになった時に、水をのまされて、いたわるようにされて、ようやく心を取り直すこともあります。
思えば浅ましいことです。踏み殺されて、ぺちゃんこになったミミズのようになる、いやな目にもあいました。
これでは、火の中に飛びこんで死のうとは思っても、身を押さえられて、死ぬこともできずに、悲しく空しいものです。
これは、前世の行いの報い(注:当時の仏教思想。虫として生まれたのは、前世に何か悪いことをした報いである、といった感じでしょう。)であるので、悲しいことです。
このように、嘆きたくなることは、沢山あります。明日にも命が消えてしまうような、儚い身の上です。せめて、今宵の月明かりのうちに、我々が、心に思うことを語って、慰めあうのは、楽しいことです。さあ、三十一文字の歌にして、我々の亡き後の、形見ともしましょう。
さてさて。」
と、語りました。

多くの虫たちは、肌寒く、衣の袖を顔にあて、涙を流し、
「さてさて、日頃思っていたのは、コオロギ殿は、色も黒く、背中も曲がっていると。しかし、生まれつきのやさしさをお持ちです。その上、花の下、月の影にも心をよせず、ここの壁にとりつき、また流しの下に身を隠し、物の哀れをわきまえて、夕暮れより夜半の頃まで、啼いていらっしゃる。
声だけは、遠くに聴いたことはありましたが、今日のお話は、哀れも哀れに思えます。
こころざしの程も、有り難く感じます。」
と、涙にくれました。

そのうちから、ヒキガエルが、出てきて言うには、「まことに、今宵は月も冴え渡り、心も引かれます。それならば、夜も更けないうちに、早く歌を詠みましょう。」と言えば、各々落ち葉の上に座り、思い思いに、歌を詠みました。その、心の内は、虫ながらすばらしいものでした。