江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

新説百物語巻之一の2  狐鼠の毒にあたりし事

2019-10-27 18:28:03 | 新説百物語
新説百物語巻之一の2  狐鼠の毒にあたりし事
                          2019.10
狐鼠の毒にあたりし事  現代語訳


九条あたりの村に、九郎右衛門(くろうえもん)と言う百姓がいた。
毎日、京へ小便を取り(肥料にするために)に出できていたが、ある時、しばらく得意先の家に来ないことがあった。
「どうしたのであろうか」、と噂をしていた。
三月ほどすぎて、前と同じように小便をとりに来た。
家の主が、
「しばらく見えなかったが、瘧(おこり)にでも、かかったのかね?顔色も良くないし、やせた感じがするね。」
と尋ねた。
すると、九郎右衛門は、
「それにつき、不思議な話が御座います。
御聞き下さい。
ある時、あまりに家で鼠が悪さをするので、こまってしまいました。
京の町には、鼠取り薬という物を、売り歩いていますので、それを買いました。
それを飯の中にいれ、棚に上げておきました。
あくる日、鼠が五疋、その飯の側に死んでいました。
何の気もなく、裏の薮へ捨てました。
又、長年、そのうらに穴をほって住んでいた狐がいました。
子ぎつねが五疋いました。子ぎつね達が、その鼠を一疋づつ喰べて、これも毒にあたって、五疋とも皆死んでしまいました。
かわいそうだと思いましたが、どうにもできずに、そのままにしておきました。

その二三日後、我が家の三歳になる九郎一と言う子供が、見えなくなりました。
近所のものも雇って方々たづねましたが、見つかりませんでした。
そのあくる日、裏の井戸の側に死んでいました。
私たち夫婦(九郎右衛門夫婦)は、大いに嘆いて、かつまた腹を立てて、その狐の穴の傍らに行き、泣く泣く、こう言いました。
『鼠を捕って、何心なく藪に捨てたが、お前の子どもたちが、毒とは知らずに喰べたのは、ワシラに悪意があってしたことではない。
又、長年、わしら夫婦も、お前ら夫婦も、毎日毎日、怠ることなく子供に食事を喰わせるのは、人も狐も同じではないか。』と、かきくどきいて、わめき悲しみました。

その翌朝、私ども夫婦ともに、いつもの様に、早く起きて、背戸口の井戸に行きました。
そして水を汲もうとして、つるべを上げようとしましたが、重くて上がりませんでした。
立ち寄って、よくよく見れば、親の狐の二疋が、井戸へ身を投げて死んでいました。
五日のうちに、狐七疋、鼠五疋、我が子一人、合計十三の命が無くなりました。
その日、すぐに出家になろうとしましたが、近所の人たちに止められて、出家するのを止めました。
しかし、ここちもすぐれなくて、やっと今日はじめて、ここまで来ました。」
と語った。
 




新説百物語巻之一の1   天笠へ漂着せし事

2019-10-26 22:53:46 | 新説百物語
新説百物語巻之一の1   天笠へ漂着せし事
                                  2019.10

天笠へ漂着せし事(漂流して、王になった)

これが、怪談ではなく、漂流奇談とも言うべき話です。山田長政を連想させる話です。

江戸時代には、「百物語」を冠した怪談集が流行りましたが、「新説百物語巻之一」に、漂流奇談である物語「天笠へ漂着せし事」というのが、収載されています。
漂着した場所が南天竺とあります。文字通りでしたら南インドということになりますが、状況からみて、そうではないでしょう。
フィリッピン、マレー、インドネシアあたりの、何処かの島でしょう。

当時の貿易船は、海賊に襲われる事もあるので、武装していたのは、当然でしょう。
また、話がまとまらなければ、武力で解決する事も、普通にあったでしょう。
乗組員は、もともと荒っぽい者であったでしょうし、ある時は、貿易商、ある時は和冦ともなったことでしょう。
戦国の日本の世を生きて、海外では和冦活動をしていたら、それはそれは、大変武力が強いことでしょう。
中国では、数十人の和冦が、中国の軍隊と戦いつつ、逃げ回り、数千人を倒して末に、やっと鎮圧されたということがありました。



新説百物語巻之一   天笠へ漂着せし事


中頃(室町時代位)に、京都に伊藤某という人がいた。
毎年、安南交趾(アンナンコウチ)の方面へ交易するために渡海していた。
その頃は、いまだ日本も戦国の世で物騒がしい時代であった。
それで、船中に武具など用意して、海賊に襲われれた時の用心としていた。
そうして、海上を渡海していた。
ある年、又いつものように、種々の商品を船につみ、中国へ向かっていった。
しかし、航海中に突然風向きが変わり、空は、真っ暗になり、舟を避難させるべき陸地も見えなくなった。
大いに風は激しく、雨も大いに降って、船も転覆しそうになったので、帆柱も切り倒した。
また、イカリも波にさらわれて、夜となく昼となく、風にまかせて漂流して行った。

ようやく五日目の朝かと思う頃、何の国とも知れない山際に、船は、打ち上げられた。
船中には、21人乗り合わせていた。
始めは、顔を見合せるばかりであった。
この五日の間、食事もせず、湯水も全く呑むことも出来なかった。
それで、始めにその山の岩根に船をつなぎ、湯をわかし、飯をたき、皆皆すこしづつ食べて、ようやく落ち着いた。
乗組員の中に新三郎というのがいたが、豪気な男であった。
彼一人が、船より上陸して、陸の様子や木立などを見たが、まったく見慣れない樹木ばかりであった。
今まで通った国々とは、一向に違っていた。
山のいただきに上って、山の向こうを見渡すと、大きい城があった。

その城を、外から攻めている様子であった。
人種は、常に聞いていた天笠人の様であった。
新三郎は、それから船へ帰り、残った二十人に、こう切り出した。
「こんな風に吹き流され、とても日本へ帰る事は出来ないだろう。
こうなったら、どちらかの味方になって、敵に打ち勝とうではないか。
そうなったら、その後、日本へ送り返してもらおうではないか?」と。
皆で相談して、すぐに一致賛同を得た。

船より用意の武器などを取だし、武装した。
又 先ほどの山に至って、戦争の様子を見ると、城の方が、負けている様に見えた。
どちらの味方をしたらよいかと迷ったので、太神宮の御はらいを取り出し、おみくじをひいた。
すると、城の味方との託宣であった。
それで、山を下り、一気に城を攻めている側に切り込んだ。当たるを幸に、切りまくったので、寄手は大いに驚きおそれた。
その所のならひにて、いくさにも人を切るといふ事なく、ただ棒にて勝負をいたしけるよし。


勇猛な日本人は、よく切れる刃物を持って、ここをせんどと切りまくったので、寄手は皆々逃げ失せた。
城方の軍勢は、大いに喜び、天の兵士が空から降りてきた、と城中に迎え入れた。
大いに喜ぶ事 限りなかった。
新三郎は、城主に向かい、通詞をもって吹きながされた様子を詳しく語った。
城主が言うには、
「私こそ、南天竺の大王である。
近年、北天竺と戦争をしていたが、少しずつ負け続けて、今ではやっとこの舎麗迦(シャリカ)城だけが残りました。そこへ、あなた達が来られて、命を拾いました。」と。
新三郎は、
「それなら、今まで切り取られた領土を取り返しましょう。」と言って、毎日毎日先手に進み、一月余りで、難なく南天笠を取り返した。
「最早、日本へ帰りたい。」と申しあげた。
すると、王は、
「これまでの御恩には、感謝してもしきれません。
願わくは、この国に長く留まって下さい。
そうすれば、あの舎麗迦(シャリカ)城を、与えましょう。」と答えた。

そこで、二拾二人は、相談して、
「ただいま日本へ帰っても、戦国乱世の時代であろう。それなら、ここに住もうではないか。」と決めた。
そして、新三郎を舎麗迦(シャリカ)王とし、他の者は、その臣下となった。
その後も、外国との通交も難しく、今はさらに便もなくなった。
その時分は、故郷へ、天笠の品物などを、度々送って来ていた。
それで、今でも故郷の家には、種々の珍しい物が保存されている、とのことである。
おおよそ、今からは、七代目位の昔の事であろう。

彼らの内の一人に、宮城氏なる人がいた。
これは、その子孫に直に聞いた物語である。



新説百物語 現代語訳   ・・・初めに・・・

2019-10-26 22:38:33 | 新説百物語

新説百物語  現代語訳   ・・・初めに・・・
                                  2019.10         
始めに

江戸時代には、多くの怪談集が刊行されました。
また、百物語とか諸国物語と名付けられた怪談集も
多く版行されています。
この、新説百物語(1767年・明和4年)も、その一つです。
見たところ、現代語訳がまだ成されていないようです。
それで、ここに現代語に訳して紹介します。

新説百物語は、全4巻、一巻10話、二巻10話、三巻10話、四巻12話、五巻11話、合計53話となっています。


これから、順次、現代語に訳して紹介します。(ただし、多分、飛び飛びにでです。)

総目次

新説百物語巻之一 目録
1.天笠へ漂着せし事
2.狐鼠の毒にあたりし事
3.丸屋何某化物に逢ふ事
4.甲州郡内ほのをとなりし女の事
5.津田何某真珠を得し事
6.但州の僧あやしき人にあふ事
7.修験者妙定あやしき庵に出づる事
8.夢に見たる龍の事
9.見せふ見せふといふ化物の事
10.狐亭主となり江戸よりのぼりし事


新説百物語巻之二 目録
1.相撲取荒碇魔に出合ひし事
2.奈良長者屋敷怪異の事
3.天井の亀の事
4.江州の洞へ這ひ入りし事
5.僧人の妻を盗みし事
6.死人手の内の銀をはなさゞりし事
7.光顕といふ僧度々変化に逢ひし事
8.坂口氏大江山へ行きし事
9.幽霊昼出でし事
10.脇の下に小紫という文字ありし事


新説百物語巻之三 目録
1.深見幸之丞化物屋敷へ移る事
2.棋田惣七鷹の子を取りし事
3.縄簾といふ化物の事
4.猿蛸を取りし事
5.僧天狗となりし事
6.狐笙を借りし事
7.あやしき焼物喰ひし事
8.猿子の敵を取りし事
9.親の夢を子の代に思ひあたりし事
10.先妻後妻に喰ひ付きし事


新説百物語巻之四 目録
1.沢田源四郎幽霊をとぶらふ事
2.疱瘡の神の事
3.何国よりとも知らぬ鳥追ひ来る事
4.鼠金子を喰ひし事
5.牛渡馬渡といふ名字の事
6.長命の女の事
7.火災婆々といふ亡者の事
8.仁王三郎脇指の事
9.碁盤座印可の天神の事
10.渋谷海道石碑の事
11.人形いきてはたらきし事
12.釜を質に置きし老人の事


新説百物語巻之五 目録
1.高野山にてよみがへりし子どもの事
2.女をたすけ神の利生ありし事
3.神木を切りてふしぎの事
4.定より出てふたたび世に交はりし事
5.肥州元蔵主あやしき事に逢ひし事
6.ふしぎの縁にて夫婦と成りし事
7.針を喰ふむしの事
8.桑田屋惣九郎屋敷の事
9.薪の木こけあるきし事
10.鼻より龍出でし事
11.ざつくわといふ化物の事


序文

今までに多くの百物語集が、刊行されている。
雨夜の退屈しのぎにもなり、子供たちにも、怖がらさせている。
さてまた、ここに一つの書物がある。妖怪のみに限らず、神や仏の霊験までも、残さず、目の当たりにした人々の語ったのを、書き留めて、一まとめにした。
人からは、書物の題名をつけよ、と言われた。
それで、だたありのままに「新百物語」と名づけた。


                                 高古堂主人


 




蛙の国の夢  「井蛙館游宴(せいあかんゆうえん)」 御伽厚化粧

2019-10-22 14:02:56 | 怪談
蛙の国の夢

原題「井蛙館游宴(せいあかんゆうえん)」


                         2019.10

これは、江戸時代の「御伽厚化粧」享保十九年(1718年)にある話です。蛙の恩返しとも言うべき物語です。
蛙の国王の娘・姫が、蛇にのまれそうになったのを救い、そのお礼に、蛙の王国に招かれと、と言う話です。

おそらく、これは、中国の志怪小説にしばしば見られる、ストーリイの翻案でもありましょう。
また、「邯鄲の夢」、「金々先生栄華の夢」とも似通っています。
「聊斉志異」には、この手の話がいくつかあり、動物は、蛙ではなく、蜂などとなっており、また、主人公は、秀才と成っています。
現代でも、この手の話は、面白いとするようで、スタジオジブリの「猫の恩返し」では、主人公は女子高生となっています。これも、これらの話の流れにあります。


以下、本文の現代語訳

(蛙の国の夢)
井蛙館游宴(せいあかんゆうえん)
中世の頃、津の国(三重県)の「こや野」と言う所に、豊田小才次と言う百姓がいた。

ある日、こや野の池の堤を通った所に、大きい蛇が、蛙を捕まえて、呑み込もうとする所を、見つけた。
小才次は、持っていた杖でもって蛇を追いやったが、蛙は危い命を助かり、水に飛び込み泳いで逃去った。
その後、小才次は、田の草とりをしようと、男達と共に田に行った。

しばらく田の畦に昼寝して居た所に、高い冠に萌黄色の衣を着た人が、多くの従者を召つれて、巍々堂々として出て来た。
そして、小才次の前にかしこまって言上した。
「私は、沢辺国(たくへんこく)の主、井蛙(せいあ)大王よりの使者であります。
わが王は、久しくあなた様にお会いする事を願っております。
それゆえ、我々は仰せを承って、あなた様を迎へ奉るためにまいりました。願くは、お出でください。」
と申しあげた。

それで、小才次は驚き、
「私は、卑しい土百姓の身分でございます。外国の國王さまより勅使を受ける覚えは御座いません。
まして日本は、海にかこまれ、外国ははるかな遠くに御座いますので、どのようにして、行くことが出来ましょうか?」

使者が、申しあげるには、
「沢辺国(たくへんこく)は外国ではありません。即ち、此の近き辺りにあります。お出で下さい。」と言った。

小才次は、不思議に思いながら、彼の使者とつれ立って歩けば、程なく一つの門に至った。
井蛙館と云う額が掲げられていた。

彼の使者が申し上げるには、
「これ即ち、わが大王の城門でございます。」と。
その門より内に行って、一つの宮殿に至った。
「客人をお招き致しました。」と奏上すると、国王は、急いで出迎かえ、敬意を払った。
これは、わが大事なお客様であると、自ら立ち上がり、小才次の手をとり、玉の椅子の前に招いた。

すると、小才次は、大いに恐れいり、
「私は、日本の卑しい土民で御座います。
 大王様は、なんでこのように、鄭重に、私を、お迎えくださったのでしょうか。」と言うと、

王は答えた。「あなた様は、扶桑(日本)の神孫であります。私たちは、あなた様を尊敬するのは、当然の事です。」
そして、強いて椅子に座らせ、再び拝して、言った。
「先日、私の娘が池の堤に遊んでいた所に、敵が急に追せまり、命をとられそうになった所に、あなた様が、幸いに来て頂きまして、命を救って頂きました。
この大恩は、誠に感謝しても感謝仕切れません。それで、今日、我が屋敷にお招きいたしました。」

小才次は、不審に思って、
「私は、そのようなことを致したことは御座いません。」と答えた。

「このようなことは、あなた様は、なぜ覚えていらしゃらないのですか?」

そこへ、数十人の臣下大臣が、各々威儀を正して、両側に列座し、酒宴を催し始めた。

小才次が、つくづく宮室の様子を見れば、いづれもかけ作り(水上にせり出した建築)であって、その美しさは、すばらしく、水は宮殿の下にさし入り、向うを見れば漫々たる湖水であった。

その時に、大王は、こうおっしゃった。
「さて、我国の開基の大祖は、蝦蟇仙人であります。
 それから始って、子孫は多くにわかれ、池や湖などによって、それぞれ国を打ち建てました。
 我が一族は、元より武に長じ、太公子房の兵書を受け継ぎ、
  諸葛武侠の八陣、韓信の嚢沙背水の陣法を、我が一族は、ものにしました。
 この故に、ややもすれぱ隣池分沢の諸侯と国境の境界争いをし、合戦に及ぶ事は、度々でありました。
 このために、人間にもたまたま我々の合戦を見られる事が有ります。
 私たちは、特に水国に育って、水練が、得意であります。
 願くは、あなた様の御慰みに、この湖水に入り、肴をとらせて御目にかけましょう。」と言った。
そして、臣下大臣に向って、
「早く水練をして御覧に入れよ。」と命令した。

小才次は、大王とともに、高欄によって下を見れば、臣下十余人が、衣冠をつけたまま湖水に飛び入った。
ある者は、水底を潜り、或る者は、波をきつておよぎ行いった。
その有様は、普通ではなく、あたかも鵜に似ていた。或る者は、大きい鯉を抱きかかえて上るものも有り、又は鱸(すずき)をくわえて上って来た者もあった。
様々な魚類を取って来て、調理して、小才次に勧めた。

国王がこう言った。
「我が娘は、いまだあなた様にお目見えしておりません。
 願わくば、後堂にて、又一献をおすすめ奉りましょう。」と、小才次をまねき入れた。

後堂も、又かけ作りであって、大変美しかった。
高欄の下には 菖蒲や杜若が、面白く咲乱れていた。
さらに、今日は暑い夏の日であるが、気持ちの良い涼しさであった。

小才次は、興に乗って、
 舞台子(ぶたいし)の 水に游ぶや 杜若(かきつばた)
と詠んだ。

すると、大王この句を聞いて大きに感じ、
「本当にすばらしい。誠に秀逸の句ですね。私も一首をつらね申しましょう。
 私どもが和歌を詠ずる事は、すでに紀貫之(きにつらゆき)も古今の序に記されています。
 (古今和歌集には、紀貫之が、その序文に、蛙も歌を詠む、と記しています。)
 そうではありますが、三十一(みそひと)文字は珍しくはありません。
 願くは七言の唐詩をもって、あなた様の発句に和しましょう。」と。

すぐに、七言絶句の狂詩を、つぎの様に吟じました。
 菖蒲杜若映波間(しょうぶ かきつばた はかんにえいず)
 游水野州見立哉(ゆうすいやしゅう みごとかな)
 葉似艶姿花紫帽(はワ あですがたににて はなワ むらさきをかぶる)
 肴斯又勧ニ三盃(さかなを かく また すすめる にさんばい)
と笑えば、小才次をはじめ満座の者達は興に入って、又、杯を廻(めぐ)らして飲んだ。

しばらくして姫君は、多くの侍女を引き連れて、お出でになった。
年は、十五位で、花の様な顔はあでやかで、白衣の上に緑色の天衣をはおり、薫風にひるがえっていた。
付き随っている侍女たち迄も、何れも美しかったが、アゴが少し尖っていた。

小才次には、それが可笑しくて、
 花の顔 かつらのまゆに ひきかへて
      腹あしげなる 妹(いも)がくちもと
と、和歌を詠んだ。

これを聞いて、姫君を始め侍女どもまで、とても恥ずかしげに見えたが、
 顔に水をかけられたように、きょろきょろとしていた。

大王は、このように言われた。
「これは、先日あなた様に命を助けていただいたわが姫でございます。
 今日は、たまたまあなた様にお会いできました。
 お酒をすすめてさせて、感謝の気持ちを表させましょう。」

多くのの侍女が打ち混じって、酒宴たけなわの頃に、姫君は、琴をひいて、声美しく歌った。
そして、年の頃十二三の女の童(めのわらわ)が、錦の袖をひるがえして舞い歌う様子は、まことに梁の塵も飛ぶばかりであった。

このように面白い宴の最中に、宮中がにわかに物さわがしくなってきた。
「敵が来た。」と、上を下へと騒ぎだした。姫君も大王も驚きあわてて逃げまわった。

小才次 これは何事だろうと、妻戸をあけて出てみると、蛙の声が騒がしく乱れ鳴いていた。


すると、夢はたちまちにさめた。小才次が驚きおき上れば、こやの池の堤にいた。
その時に、水際の蛙が、ことの外さわぎ飛びはねているが、見えた。
先日の蛇が来て、蛙を追廻していた。

小才次は、これを見て、垣の竹を引ぬき蛇を追いやったが、ここにおいて夢の訳をさとった。

さてはこの池の蛙が、先日の恩を思って、夢に私を招待したのであろう。

誠にかように妖しいことを成したとは言え、陰徳の報いであるから、害には成らない。

しばらく、不思議な感覚を覚えたのも、面白いことであった。







本朝食鑑に見る河太郎(カッパ)  

2019-10-21 23:05:31 | カッパ
本朝食鑑に見る河太郎(カッパ)  
                   2019.10
 「本朝食鑑」より

最近、水辺に河童なる者がいて、能く人を惑わす。

或いは、大鼈(おおすっぽん)の化けたものとも云う。
それ故、顔は醜くく、体は、童児のようである。

皮膚は、青黄色である。
頭上には、凹んだ処があり、常に水を蓄えている。
水があれば、則ちが力が強く、制しがたい。
水が無ければ、力が弱く、捕まえることができる。

それで、もし人がカッパに出会ったら、必ず先に腕を持ち上げ、拳で、頭の水を取ってしまえば、カッパを倒すことができる。

伝え聞くところによれば、海西諸国には、このカッパが、人をだますことが多く、人を妖力で害する。

土地の人は、大鼈(おおすっぽん)ではなく、老いた川獺(かわうそ)の化したものである、と言っている。

その物のたぐいは、変化(へんげ)して、どのようになるのかは、測りがたい。

海国には、この族(やから)が最も多い。


編者注:「本朝食鑑」は、文字通り解釈すれば、本朝すなわち日本の食品についての書である。
    しかし、カッパを食品とみなしてはいないし、食べたとの逸話もない。
    この場合の「食鑑」は、食品を中心とした博物誌と解釈した方が、妥当でしょう。