江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

猫ばけて女となる  「新著聞集」

2022-07-07 19:41:44 | 化け猫

猫ばけて女となる
                          2022.7
ある旗本が、娘の世話をする女性を探した。
そして、谷中の法恩寺の内にある教蔵坊のあっせんで、年増の局(つぼね)を、召し抱えた。
文字もきれいに書き、和歌も少し心得ていた。
物腰も、上品であったので、長年、仕えさせていた。


ある夜、主人が、娘の部屋をのぞいたが、娘は寝ていた。
その局は、独りお歯黒(鉄漿)をつけていたが、口は耳の根まできれて、耳は尖っていた。

これはどうしようか?とは思った。
しかし、もし打ち仕そんじては、まずいことになると思った。

そこで、夜が、明けるのを待って、かの局(つぼね)を呼び出した。
「思う子細があるので、暇をとらせる。」と話した。
すると、
「これは、思いがけないことでございますね。
なんで、このような事を、おっしゃるので、ございますか?」
と大変な恐ろしい顔で答えた。

それで、刀で、いきなり抜き打ちにした。
はたして、その死体は、大きな年ふりた猫であった。

その猫の書いた伊勢物語、その外、草紙なども多く、今に残っているとのことである。

新著聞集より


編者注:
この法恩寺は、1695年(元禄8年)に、墨田区に移った、とある。
すると、この話の成立時期は、江戸幕府の成立した1603年から1695年(元禄8年)の間の、出来事であることになる。
これも、化け猫の物語の一つ。


果心居士の幻術・魔術・手品  原典、典拠  「義残後覚 巻之四」

2022-07-07 19:26:00 | 奇談

果心居士の幻術・魔術・手品
            2022年7月


果心居士(かしんこじ)は、戦国末期の人で、数々の不思議を行った人である、とされている。
道士でも、行者でもなさそうである。宗教的な背景がないので。
実在の人物ではなく、いつくかの話をつないで、仕立て上げられたのかも知れないが、面白い人物である。
果心居士が行ったのは、手品のたぐいであろう。

「義残後覚 巻之四」に果心居士の事が収載されている。

果心居士が事

中頃(なかごろ:すこし昔という程度)に、果心居士(かしんこじ)という幻術を行なう者があった。
筑紫(福岡県)より、上方(かみがた)へと上ってきたが、日をかけて伏見(京都)に来た。
その時、日能大夫が勧進能を行っていたが、
見物客が多く、芝居小屋の内外に、あふれていた。
い見聊で
果心居士も見物しようと思って、中に入ってみた。しかし、多くの見物人がいて、足の踏み場もないくらいであった。
果心居士も芝居を見ることが出来ないので、人々をどけてみようと、こんな事をした。

見物人の後に立って、あごをそろそろと、ひねった。
すると、見る見るうちに、おおきな顔になった。
人々は、これを見て驚き、不思議がったり、恐ろしがったりした。
人々が、顔の変わっていくのを見るに従い、果心居士は、少し傍らに退いていった。
芝居の見物人たちは、上へ下への大騒ぎとなって、入れ替わり立ち替わり見ているうちに、果心居士(かしんこじ)の顔が二尺ばかりの長さとなった。
人々は、これが魔法と言うものだ、後の世にも話の種としよう、と押し合いへし合いしている内に、能の役者も、楽屋をあけて、見物に来た。
果心居士は、これは良いと、かき消すように、失せて行った。
見ていた人々は、これは珍しい不思議な化け物であると、驚いた。
さて、果心居士(かしんこじ)は、場所が空いたので、舞台のそばの良い場所に、編み笠を敷いて座り、芝居を思うままに見物し楽しんだ。

また、中国地方の広島という所に長く住んでいた。
その間に、ある商人から、お金を借りた。
しかし、京都に上るにあたり、一銭も返さずに、密かに出て行った。

貸した商人は、
「にくい果心居士め、何処に逃げたのか?」と悔しがったが、どうにもならず、時間だけが経っていった。

ある時、彼は、商売のために、京へ上った。
すると、鳥羽のあたりで、この果心居士と出会った。
商人は、そのまま果心居士を捕まえて、
「さても、久しぶりだな。果心居士よ。
それにつけても、御身には、ずいぶんと親切にした甲斐もなく、夜逃げするとは。
人の、好意を裏切るとは、ひどい人だな。」
と、ののしった。
果心居士は、これはまずいと思ったのか、この人に捕まってから、また、顎をそろりそろりとなで始めた。
すると、顔が丸く広がり、目も丸くなり、鼻は極めて高くなり、歯も大きくなった。
商人は、これは?と思った。
果心居士は、
「なんのことかな?
それがしは、御身を存ぜぬが。
そのような事を言われるのは、不思議でござる。」と言った。
商人は、初めは果心居士だと思った。
しかし、見ると、彼とは別の人であった。
それで、見間違えたと思って、
「まことに、はや合点して、申し訳ない。
見知った人と間違えました。
お許し下さい。」と謝った。

後に、人々はこの話を聞いて、「これは、何よりも知りたい術である。」と笑った。


また、ある時、戸田の出羽と言う兵法者が、天下で最も強い、との評判があった。
果心居士は、そのもとに行って、近づきになった。
いろいろと話をしたが、果心居士は、
「それがしも、兵法に少し心がけがござる。
それほど、深い事は、存ぜぬが、世の常の人には、負けませんぞ。」と、ふと漏らした。
戸田は、これを聞いて、
「それは、立派なことでござる。
さらば、御身の太刀筋を見たいものでござる。」と言った。
果心居士は、それならと、木刀を取って立ち会い、「やっ!」と小鬢(こびん:頭の側面の髪)をちょうと打った。
出羽は、まるで夢を中のようで、太刀筋も見えなかった。
「今一度」と言うと、
「心得た」と、また同じように打った。

戸田は、
「さりとは、御身の太刀筋は、兵法の上の方術を行うことによる、格別の法でござろう。」と打ち笑った。
その後、戸田は、こう問いかけた。
「御身には、八方から打ちかかっても、身にはあたらぬのでござるか?」と。
果心居士は、
「打たれるとは、思いも寄らぬことでござる。」

それならと、十二畳敷の座敷に、弟子を七人、自分を入れて計八人で、果心居士を中に置いて座敷の四方の戸を閉ざした。
そして、皆で打ちかかったが、果心居士は、
「やっ!」と言って、見えなくなった。
皆は、驚いて、
「果心居士、果心居士」と呼びかければ、「やっ!」と言う。
「何処にいるのか?」というと、「ここにいる。」と答えた。
座敷には、ちり一つ無いので、それなら、「縁の下に隠れているぞ。」と誰かが言った。
それで、畳を上げて、縁の下をみたが、何も無かった。
「果心居士」と呼べば、返事をする。
これは、まことに不思議な事である、と人々は驚いた。
しかし、突然に部屋の真ん中に現れた。
果心居士(かしんこじ)は、
「我が名を呼ぶのは、何事でござるかな?」と言った。

人々は、驚き、果心居士の顔をのぞき込んだ。
「このようであれば、百人,千人でかかっても、かなわないであろう。」と言って、うらやんだ。

 


座臥記における漂流民の記述

2022-07-05 19:07:01 | 奇談
座臥記における漂流民の記述

                              2022.7

江戸時代は、鎖国をしていたので、外国との交渉は、少なかったとされています。
しかし、漂流をして、帰って来たものが、少数いました。

「座臥記(ざがき)」桃西河(もも にしかわ)著、という随筆に記載されているのを、紹介します。


筑前の国の唐泊浦に、孫太郎と言う者がいた。
十二、三歳のとき、大船の炊事係りとして、乗船した。
風波に遭って、天竺のあたり、「バンヤルマアジン」と言う国の中の、「バンヤルマッサン」と言うところに漂着した。
21人の舟子(かこ)の内、死ななかった残りの10数人がいた。
それを「バンヤルマッサン」の人が、奴隷として売った。
1人当たり銀銭6、7枚から10枚位、あるいは金銭1枚などで、売られたものもいた。
孫太郎は、銀銭8枚で買われて、民間人の奴隷となった。

バンヤルマッサンに大きな川があった。
幅が4km位であった。
その川にボハヤ(ワニ)という、大きな動物がいた
。長さは、2、3間から6、7間まで、大小のがいた。
背は黒く、腹は黄白赤であった。
トカゲやイモリに似ていて、四つの足がある。
川の中で、人を襲い、或いは陸上まで走り出て、人を追いかける。

それで、年に一度、ボハヤ狩りが行われる。
もし、数人の人が襲われれば、年に2度3度も、狩りが行われる。
狩りには、必ず銅製の武器が使われる。武器の形は、さまざまであるが、大抵はとびぐち、長柄の鎌のたぐいである。
役所より、狩りの時に支給されるようである。
この動物が、はなはだ銅を恐れる。少しばかりであっても、銅を身につけていれば、その人は、ボハヤ(ワニ)には、襲われない。

それで、この国の人は、銅を貴んでいる。
嫁取りの時にも、銅を持っている家の娘を、争って娶る。
しかしながら、銅は、この国には産出しない。
日本より産出したものを、オランダ人が持って来て、大いに利益を得るとのことである。

孫太郎は、この国で、年月を経て、その後転売されて、ジャガタラ(ジャカルタ)に至った。
ジャガタラは商船の多く集まる所で、甚だ繁華の場所である。
オランダ人もここで商品を買って、日本に持ってきて売るのである。
孫太郎はオランダ船に乗って、帰ってきた。

おおよそ、異国にあること十三年にして、帰って来た。
時に、二十四、五歳であった。

この話は、石州の松村喬(字は子堰)世策と通称する人より聞いた。



編者注:孫太郎の流れ着いたのは、インドネシアのどこかであろう。
転売されて、邪ガタラ(ジャカルタ)に至ったとあり。
また、ワニ鰐をボハヤ(Bohaya)と言っている。
現代インドネシア語で、ワニはBuayaであることから、このボハヤ(Bohaya)は、インドネシア、マレー系の単語と思われる。

「座臥記 」は、「続日本随筆大成第一巻」にあるのを元に、現代語訳をした。