私が初めて眉村卓さんのお名前を知ったのは、生まれて初めて買ったSFマガジン1967年9月号№98号の誌上であった。「EXPO‘87」の作者として眉村卓というSF作家を知った。連載の第2回であった。「EXPO‘87」連載終了後も眉村さんは同誌上で精力的に短編を発表された。私はそのすべてを読んでいるはず。当時はプロパーの専業SF作家は両手で足りるほどであった。眉村さんはその日本SFの貴重な戦力であった。
眉村さんと私の作家と読者という関係に大きく変革をもたらしたのはラジオだった。当時私は深夜ラジオをよく聞いていた。確たる記憶は失ったが、確か1970年ごろだったと記憶する。深夜、ABCの「ヤングリクエスト」が終わってMBSにチューニングを合わせると、とつとつとしたおしゃべりの番組をやっていた。お名前が眉村卓さんとおっしゃった。最初は眉村卓?という感じだった。すぐSFマガジンでお名前をよく存じ上げている眉村さんだと判った。
へー、あの眉村さんが。誠実な眉村さんらしいおしゃべりの放送であった。これが「チャチャヤング」だ。SF作家がパーソナリティをやっている番組である。SFファンである私は毎週聞くようになった。眉村さんは「消滅の光輪」や「引き潮の時」で代表される大長編の作者であると同時に、ショートショートの名人でもある。作品数は星新一よりも多い。そんな人がやっている番組である、ショートショートを投稿するリスナーが出てきた。それを眉村さんは紹介した。こうして自然発生的にショートショートコーナーができた。私も毎週投稿した。あのころは週に1本はショートショートを書いていた。毎週たくさんの投稿があった。これを眉村さんはていねいに論考され、ランク付けをして紹介された。Aランクは週に1本出るか出ないかだった。私も1度だけAをいただいたことがあった。
こうして集まった作品は、傑作選として毎日放送が2冊の小冊子にまとめ、さらには講談社から単行本として出版された。私はその両方に作品を掲載していただいた。
そして1972年に「チャチャヤング」が終了した。そして、常連投稿者たちは、このまま別れてしまうのは惜しいということで、集まることとなった。私も賛同した。
西秋生、深田亨、小野霧宥、南山鳥27、大熊宏俊、岡本俊弥といった人たちと会った。この人たちは40年以上たった今も親しくご厚誼をいただいている。この最初の集会に眉村さんも来られた。私が初めて眉村さんとお会いしたのは、この時だ。
このチャチャヤング卒業生たちは創作研究会を結成。私も末席に加えていただいた。その創作研究会の面々が、月に一度眉村さんの仕事場で、眉村さんを囲んで勉強会を行うようになった。その仕事場のマンションの名前から「銀座が丘集会」と呼ばれた。ある時の銀座が丘集会に星群の人たちがやってきた。第1回星群祭へ眉村さんゲスト招聘のお願いにきたのだ。眉村さんは快諾された。その場で私は星群の会に入会した。
銀座が丘集会は、創作研究会のメンバーに星群の同人たちも加わり、場所を眉村さんのご自宅に変えて、ずいぶん長い間続いた。
私は今、星群の会ホームページで「SFマガジン思い出帳」を連載しているが、最新のモノは1978年10月号を紹介している。この号で「消滅の光輪」は最終回だ。このころの銀座が丘集会で、ちょうど連載中であった「消滅の光輪」の今後の構想などを眉村さんは話された。それを次号のSFマガジンで読めるのだからたいへんに勉強になった。また、これに限らず眉村さんの話されることは示唆に富んでいた。私はこれほど眉村さんにいろいろ教えていただきながらさしたる作品も残していないことを申し訳なく思っている。この銀座が丘集会の出席者でプロの作家になったのは菅浩江だけである。
眉村さんは毎年、夏の星群祭に来ていただき、また、チャチャヤング関係では、ごく最近まで酒宴につきあっていただき、40年以上にわたってご厚誼を賜っていた。眉村卓さんは、私の人生に大きな収穫をもたらせていただいた。こうして眉村さんを喪うと、あまりに大きな喪失感を感じて、戸惑っている自分がいる。
眉村さんと私の作家と読者という関係に大きく変革をもたらしたのはラジオだった。当時私は深夜ラジオをよく聞いていた。確たる記憶は失ったが、確か1970年ごろだったと記憶する。深夜、ABCの「ヤングリクエスト」が終わってMBSにチューニングを合わせると、とつとつとしたおしゃべりの番組をやっていた。お名前が眉村卓さんとおっしゃった。最初は眉村卓?という感じだった。すぐSFマガジンでお名前をよく存じ上げている眉村さんだと判った。
へー、あの眉村さんが。誠実な眉村さんらしいおしゃべりの放送であった。これが「チャチャヤング」だ。SF作家がパーソナリティをやっている番組である。SFファンである私は毎週聞くようになった。眉村さんは「消滅の光輪」や「引き潮の時」で代表される大長編の作者であると同時に、ショートショートの名人でもある。作品数は星新一よりも多い。そんな人がやっている番組である、ショートショートを投稿するリスナーが出てきた。それを眉村さんは紹介した。こうして自然発生的にショートショートコーナーができた。私も毎週投稿した。あのころは週に1本はショートショートを書いていた。毎週たくさんの投稿があった。これを眉村さんはていねいに論考され、ランク付けをして紹介された。Aランクは週に1本出るか出ないかだった。私も1度だけAをいただいたことがあった。
こうして集まった作品は、傑作選として毎日放送が2冊の小冊子にまとめ、さらには講談社から単行本として出版された。私はその両方に作品を掲載していただいた。
そして1972年に「チャチャヤング」が終了した。そして、常連投稿者たちは、このまま別れてしまうのは惜しいということで、集まることとなった。私も賛同した。
西秋生、深田亨、小野霧宥、南山鳥27、大熊宏俊、岡本俊弥といった人たちと会った。この人たちは40年以上たった今も親しくご厚誼をいただいている。この最初の集会に眉村さんも来られた。私が初めて眉村さんとお会いしたのは、この時だ。
このチャチャヤング卒業生たちは創作研究会を結成。私も末席に加えていただいた。その創作研究会の面々が、月に一度眉村さんの仕事場で、眉村さんを囲んで勉強会を行うようになった。その仕事場のマンションの名前から「銀座が丘集会」と呼ばれた。ある時の銀座が丘集会に星群の人たちがやってきた。第1回星群祭へ眉村さんゲスト招聘のお願いにきたのだ。眉村さんは快諾された。その場で私は星群の会に入会した。
銀座が丘集会は、創作研究会のメンバーに星群の同人たちも加わり、場所を眉村さんのご自宅に変えて、ずいぶん長い間続いた。
私は今、星群の会ホームページで「SFマガジン思い出帳」を連載しているが、最新のモノは1978年10月号を紹介している。この号で「消滅の光輪」は最終回だ。このころの銀座が丘集会で、ちょうど連載中であった「消滅の光輪」の今後の構想などを眉村さんは話された。それを次号のSFマガジンで読めるのだからたいへんに勉強になった。また、これに限らず眉村さんの話されることは示唆に富んでいた。私はこれほど眉村さんにいろいろ教えていただきながらさしたる作品も残していないことを申し訳なく思っている。この銀座が丘集会の出席者でプロの作家になったのは菅浩江だけである。
眉村さんは毎年、夏の星群祭に来ていただき、また、チャチャヤング関係では、ごく最近まで酒宴につきあっていただき、40年以上にわたってご厚誼を賜っていた。眉村卓さんは、私の人生に大きな収穫をもたらせていただいた。こうして眉村さんを喪うと、あまりに大きな喪失感を感じて、戸惑っている自分がいる。