ごろりんブログ

雫石鉄也のブログ

眉村卓さんを偲ぶ

2019年11月04日 | いろいろ
私が初めて眉村卓さんのお名前を知ったのは、生まれて初めて買ったSFマガジン1967年9月号№98号の誌上であった。「EXPO‘87」の作者として眉村卓というSF作家を知った。連載の第2回であった。「EXPO‘87」連載終了後も眉村さんは同誌上で精力的に短編を発表された。私はそのすべてを読んでいるはず。当時はプロパーの専業SF作家は両手で足りるほどであった。眉村さんはその日本SFの貴重な戦力であった。
 眉村さんと私の作家と読者という関係に大きく変革をもたらしたのはラジオだった。当時私は深夜ラジオをよく聞いていた。確たる記憶は失ったが、確か1970年ごろだったと記憶する。深夜、ABCの「ヤングリクエスト」が終わってMBSにチューニングを合わせると、とつとつとしたおしゃべりの番組をやっていた。お名前が眉村卓さんとおっしゃった。最初は眉村卓?という感じだった。すぐSFマガジンでお名前をよく存じ上げている眉村さんだと判った。
 へー、あの眉村さんが。誠実な眉村さんらしいおしゃべりの放送であった。これが「チャチャヤング」だ。SF作家がパーソナリティをやっている番組である。SFファンである私は毎週聞くようになった。眉村さんは「消滅の光輪」や「引き潮の時」で代表される大長編の作者であると同時に、ショートショートの名人でもある。作品数は星新一よりも多い。そんな人がやっている番組である、ショートショートを投稿するリスナーが出てきた。それを眉村さんは紹介した。こうして自然発生的にショートショートコーナーができた。私も毎週投稿した。あのころは週に1本はショートショートを書いていた。毎週たくさんの投稿があった。これを眉村さんはていねいに論考され、ランク付けをして紹介された。Aランクは週に1本出るか出ないかだった。私も1度だけAをいただいたことがあった。
 こうして集まった作品は、傑作選として毎日放送が2冊の小冊子にまとめ、さらには講談社から単行本として出版された。私はその両方に作品を掲載していただいた。
 そして1972年に「チャチャヤング」が終了した。そして、常連投稿者たちは、このまま別れてしまうのは惜しいということで、集まることとなった。私も賛同した。
 西秋生、深田亨、小野霧宥、南山鳥27、大熊宏俊、岡本俊弥といった人たちと会った。この人たちは40年以上たった今も親しくご厚誼をいただいている。この最初の集会に眉村さんも来られた。私が初めて眉村さんとお会いしたのは、この時だ。
 このチャチャヤング卒業生たちは創作研究会を結成。私も末席に加えていただいた。その創作研究会の面々が、月に一度眉村さんの仕事場で、眉村さんを囲んで勉強会を行うようになった。その仕事場のマンションの名前から「銀座が丘集会」と呼ばれた。ある時の銀座が丘集会に星群の人たちがやってきた。第1回星群祭へ眉村さんゲスト招聘のお願いにきたのだ。眉村さんは快諾された。その場で私は星群の会に入会した。
 銀座が丘集会は、創作研究会のメンバーに星群の同人たちも加わり、場所を眉村さんのご自宅に変えて、ずいぶん長い間続いた。
 私は今、星群の会ホームページで「SFマガジン思い出帳」を連載しているが、最新のモノは1978年10月号を紹介している。この号で「消滅の光輪」は最終回だ。このころの銀座が丘集会で、ちょうど連載中であった「消滅の光輪」の今後の構想などを眉村さんは話された。それを次号のSFマガジンで読めるのだからたいへんに勉強になった。また、これに限らず眉村さんの話されることは示唆に富んでいた。私はこれほど眉村さんにいろいろ教えていただきながらさしたる作品も残していないことを申し訳なく思っている。この銀座が丘集会の出席者でプロの作家になったのは菅浩江だけである。
 眉村さんは毎年、夏の星群祭に来ていただき、また、チャチャヤング関係では、ごく最近まで酒宴につきあっていただき、40年以上にわたってご厚誼を賜っていた。眉村卓さんは、私の人生に大きな収穫をもたらせていただいた。こうして眉村さんを喪うと、あまりに大きな喪失感を感じて、戸惑っている自分がいる。
 

料理はむつかしい

2019年10月08日 | いろいろ

 小生、料理が趣味である。料理歴はけっこう長く、もう20年以上になる。プロの料理人なら、花板とか料理長とかになっているであろう。しかし、小生はアマチュアであり、趣味の料理である。土日しか料理しないし、何年やろうと素人料理は素人料理である。
 趣味の素人料理ではあるが、プロに勝っていると思うときがある。ラーメンが大好きでよく外でも食べるが、小生の作るラーメンに勝っていると思うラーメンにはあまりお目にかかれない。
 小生の料理を食べる食べ手は、小生と家族だけ。だから、小生は自分の口と家族の口にあう料理をする。ところがプロの料理人は不特定多数の客の口を満足させなくてはならない。最大公約数的な味になってしまう。100人の客はおいしいといっても101人目の客はまずいというかも知れない。その101人目が小生かもしれない。だから、小生自身と家族にとって最もおいしいのは小生の料理かも知れない。
 播半。いまはもうないが関西を代表する名料亭である。その播半で食事をしたことがあったが、口に入れた瞬間、ミスター味っ子のごとく稲光は光らなかったし口から破壊光線は出なかった。正直、播半の料理より、漁労実習の時、漁船の上で食べたイカの方がおいしかった。とはいうものの播半の料理をおいしいという人が数多くいたわけだから、名料亭として名前が残っているのだろう。料理というモノは難しいのである。

そごうがなくなった

2019年10月01日 | いろいろ

 西宮生まれで、三つの時から神戸市民であるワシが、こんな景色を見るとは思いもせなんだ。ご覧のように写真に写っているデパートは「阪急」や。なんともおかしげな感覚や。ここにはワシがものごころついたときから、ず~と「そごう」があった。デパートの「阪急」は大震災以前は、いま、工事中の阪急三宮駅の駅ビルにあったんや。
 阪神沿線在住のワシにとって、デパートといえば「そごう」や。阪神電車の三宮で降りると、すぐそこに「そごう」がある。これはワシが子供のころからつい先月までのことや。
 むかしむかし、大むかしは「そごう」へ行くというのんは一大イベントであった。阪神電車で御影をすぎるあたりからワクワク。で、三宮について改札を出るとそこがワンダーランドそごう。親が買い物してる間は子供のワシは屋上の熱帯魚売り場にいた。おもちゃより魚の方が好きな子供であった。ネオンテトラやグーラミィを見ていると時間が経つのを忘れる。用事がすんだ親が呼びに来る。8階の大食堂でごちそうを食べて帰るのである。もし、なんか買ってもらったら、がまんの限界は新在家あたりかな。石屋川を過ぎれば、包み紙を開けて中を見ている。
 そういう想い出がつまった「そごう」がなくなった。さみしい。

フォークリフトのこういう使い方

2019年09月20日 | いろいろ
 フォークリフトは荷役機械である。荷物を持ち上げて移動する機械だ。荷物はパレットに乗っている。フォークリフトには2本のつめがついている。そのつめをパレットのすきまに刺して荷物を持ち上げるのだ。
 フォークリフトはこういう使い方以外にも使えるのだ。小生は購買担当である。当然、納品も小生の仕事場に来る。空になった段ボールがたくさん貯まる。段ボール置き場がすぐいっぱいになる。ときどき、フォークリフトのつめでたまった段ボールを押しつぶす。フォークリフトはプレス機としても使えるのだ。
 納品される荷物は、行儀良くパレットに乗っているモノばかりではない。トラックの荷台にじか置きされているモノもある。そんなモノはつめですくえない。どうするか。荷物にシャックルをつけて、つめにスリングベルトをかけて、吊り上げるのだ。フォークリフトはクレーンとしても使えるのだ。

秋の空

2019年09月19日 | いろいろ

 今朝の神戸の空です。もう空はすっかり秋ですね。朝夕はずいぶんと涼しくなりました。とはいいつつも昼間はまだまだ暑いです。桂枝雀師匠の夏の芸「おひいさんが、カー」状態です。でも、日陰にはいると風の中に秋を感じます。
 日が短くなったのを実感します。駅と自宅のあいだは自転車に乗っております。私の自転車は自動点灯のランプですが、夕方は少し前はランプが灯りませんでしたが、いまはランプが灯ります。季節は確実に移ろっていくのですね。

ブログはじめました。

2019年09月01日 | いろいろ
 ブログ始めました。この「ごろりんブログ」はいっさい決め事をしないで運営していこうと思います。
 連日更新することもあるし、なん日も更新しないかも知れません。ブログを更新するために記事を書くのではなく、記事ができれば更新します。きがるに、のんびり、怠けながら、ごろりんと寝ころびながら運営していこうと思います。なお、このブログはコメントを受けつけておりません。
どうか、この「ごろりんブログ」をよろしくお願い申し上げます。