ポーランドからの報告

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ウッヂ 通りを見下ろす人々

2006年10月19日 | 観光ガイド

ピョートルコフスカ通り、アルトゥル・ルビンシュタインの生家の斜め向かいに建つこの白い建物。通り側のファサードは普通の建物となんら変わらないのですが、側壁の窓から、なにやら沢山の人が通りを見下ろしています。

実はこれ、近づいてよーく見てみると、窓も人も全部、壁に描かれた絵なんです。

    
   

窓から通りを見下ろしているのは、ウッヂやポーランドのほかの街にいたユダヤ人です。この壁画は20世紀の二度の世界大戦で犠牲になった、ポーランドのユダヤ人を象徴とした現代アートなんです。

ウッヂには、第二次世界大戦当時、ワルシャワに次ぐおよそ30万人弱の規模のユダヤ人コミュニティーがありました。しかし1939年9月ポーランドがナチス・ドイツ軍に侵攻されると、ウッヂの街もたちどころに占領され、ユダヤ人はゲットーに強制移住となり、そこから各地の強制収容所へ移送され、命を落としました。

現在彼ら(ユダヤ人)らはこの街にはいないけれど、かつて彼らがここにいて、このピョートルコフスカ通りを歩いていたのだということを、思い出してほしい…そんな思いが伝わってくるアートでした。

ウッヂは現在イスラエル・テルアビブ市と姉妹都市となっています。


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ポーランドで一番ポーランドらしい街

2006年10月18日 | 観光ガイド

去年の夏にバルト三国のラトビア共和国を旅行した際、「ラトビアで一番ラトビアらしい町」という評判のある、ツェースィスという街を訪れました。ツェースィス城址の美しいこの街は、「スターリンの棺」や「共産主義の墓」があったりと、「ラトビアで一番ラトビアらしい町」の評判にふさわしい、見所たっぷりの街でした。

では「ポーランドで一番ポーランドらしい街」はどこでしょうか?

何をもって「ポーランドらしい」とするかという話にもなりますが、例えば日本人の多くが「ポーランド」と聞いて抱くイメージ、つまり、元社会主義国家、東欧..そういうイメージに最もそぐう街ということであれば、文句なくこのウッヂを候補の筆頭に挙げたいと思います。

   

ウッヂの"何"がポーランドらしいかといえば...まずはウッヂ・ファブリチナ駅(写真上)に降り立った瞬間から、窓ガラスの割れた工場やら、薄汚いビルやらが目に入り、ちょっと尻込みしてしまうようなところ。「すごい所へ来てしまったなあ...」思わずそんな感想がもれます。そして通りを歩いていても、いかにも元社会主義国家といった灰色のアパート群を沢山見ることができます。

   

またカトリック教会やユダヤ教のシナゴーグと並び、ロシア正教会があるのも目に入ります。

   

第二次世界大戦前までは、ウッヂをはじめビヤウィストクなどポーランド東部都市の多くが、ユダヤ人、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人、ドイツ人など複数の民族が共存する多民族都市でした。

しかし戦後に国境線が100キロも西へ移動したため、それに伴い、東部のロシア正教徒が多い地域がポーランド国土から削られ、ドイツ人もドイツへと移住しました。またポーランドのユダヤ人はその多くが戦争で命を落とし、生き残った人も他国へ亡命したため、戦後はポーランドの人口のほとんどがポーランド人となりました。

現在ウッヂの街を歩いていても、ポーランド語しか聞こえてきません。しかしそれでも、ここウッヂでは、ポーランドが多民族国家だった時代の名残をいまだ数多く見ることができます。

   

街北部の、カトリック、プロテスタント、ロシア正教の共同墓地や、ヨーロッパ最大規模のユダヤ教墓地などを訪れれば、ポーランドにおける民族共存の歴史が自然と思い起こされます。今年5月にオープンした 総合アミューズメントモール・マヌファクトゥーラ の敷地内にも、正教会をイメージしたインフォメーションセンター(写真上)がお目見えしています。

   
   

留学生から伝え聞くポーランド情報も、ウッヂについての話が基準になることが多くなります。政府奨学金を利用した留学生の多くは、どの分野を学ぶのであっても、最初の一年間はポーランド語習得期間として、ウッジ外国語大学に配属となるため、ウッヂの街が、初めて見るポーランドの街となるからです。こういった外国人留学生を通じて、ウッジ発の数々のポーランド情報が、日本をはじめ諸外国に伝えられています。

以上のような理由から、日本人のイメージする「ポーランド」に一番近い街は?と聞かれたら、私は、ウッヂと答えたいと思います。もちろんこれまで述べた事柄の中には、首都ワルシャワについても当てはまるケースがありますが、「一番ポーランドらしい街」がワルシャワではひねりがありませんから、ここはウッヂに軍配(?)を上げたいと思います。

ところで、ポーランド人に「一番ポーランドらしい街」を聞くと、また違う答えが返ってくるんです。それについては、また今度。


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ウッヂ Manufaktura

2006年10月16日 | 観光ガイド

ウッヂの繁栄と栄光を象徴する場所の一つが、ポズナンスキ家邸宅と、ポズナンスキ工場です。

イスラエル・ポズナンスキは、1875~78年にポズナンスキ工場を建設し、紡績産業で大成功を収めた人物です。その繁栄の象徴であるバロック様式のポズナンスキ家邸宅(写真下)は、現在ではウッヂ市歴史博物館となっており、ポズナンスキ一族の写真や系図、豪華な家具など、一族の栄華が偲ばれる数々の調度品の数々や、ウッヂ市の歴史にまつわる品々が収蔵されています。

そして隣のポズナンスキ工場は、現在も稼動を続けている、現役の紡績工場です。

   

この工場の敷地一帯は、昨年年6月から大改装が行われ、今年5月に、複合アミューズメントパーク Manufaktura(マヌファクトゥーラ) として生まれ変わりました。

赤レンガの高いアーチの入り口をくぐると、あらら、びっくり。表通りからは想像つかないカラフルな風景が広がります。

   

おしゃれな噴水が続くプロメナードは、カップルのデートスポットとして、そして赤ちゃん連れのお母さんの散歩コースとして、はやくも大人気。夏場はビーチバレー大会など数々のイベントが行われ、市民の憩いの場として大活用されています。

    
   
   

そしてプロメナードの突き当たりにあるのが、一面ガラス張りの総合ショッピングセンター、その名もManufakturaです。大通りからショッピングセンターの入り口までは、プロメナードを歩いてもいいし、イエローグリーンの専用電気トラムで一っ跳びしてもOK。

   

人口の割りに娯楽施設の少ないウッヂの街ですが、このManufakturaのオープンで、少しは街の景気が活気づくのではと思います。

このManufakturaの場所ですが、ピョートルコフスカ通りを北へ進み、ヴォルノシチ広場を直進して最初の交差点を左折、ザホドニャ通りとの交差点角です。ガイドブックの地図には "ポズナンスキ工場"と出ているのですぐわかります。


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ウッヂ III

2006年10月15日 | 観光ガイド

ピョートルコフスカ通りを歩いていて頻繁に目にするもの、もうひとつ。

リクシャ(Ryksza)の名前で親しまれている、人力車です。銅像と並ぶウッヂのもう一つの名物で、ピョートルコフスカ通りを端から端まで走って、料金は2.5zl=約100円。とてもお手軽で便利なため、観光客だけでなく、地元の人にも愛用されています。

   

「リクシャ」の名前の起源は、もちろん日本語の人力車に由来します。日本では人力車など、実際に見たことも乗ったこともなかったのですが、こうして遠く離れた異国の地で目にすると、なにか感慨深いものがあります。

というわけで、今回ウッヂを訪れた記念に、私も早速このリクシャに乗ってみました。乗ってみると、思った以上のスピードで、トラム(市電)に乗っているのかと思うくらいの速さでした。かといって、ぐらぐらとゆれることもなく、とても快適でした。これだけがんばってもらって2.5zlでは悪いなと思い、4zl渡しておきました。

少し前までは、このリクシャといえばウッヂ名物でしたが、最近はクラクフの旧市街でも見かけます。人力車と人手さえあれば簡単に始められる商売なので、今後ほかの街でも増えてくると思います。


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ウッヂ II

2006年10月14日 | 観光ガイド

ウッヂは映画の街としても知られています。

国立ウッヂ映画テレビ演劇大学(Leon Schiller's National Higher School of Film, Television and Theatre in Łódź) は、『約束の地』『灰とダイヤモンド』のアンジェイ・ヴァイダ、『水の中のナイフ』『戦場のピアニスト』のロマン・ポランスキ、『トリコロール』『デカローグ』のクシシュトフ・キィエシロフスキなど、世界に名だたる名監督を輩出したことで知られる名門学校です。

現在も、世界中から大勢の留学生が、明日の名監督を目指して、この大学で学んでいます。

   
   
ピョートルコフスカ通りの、ホテルグランド前の路上には、これらの映画スターや監督の名前が刻まれています。またズヴィツゥスタ通りには、映画博物館(Muzeum Kinematografii)があります。ここでは、ヴァイダ監督が『約束の土地』の映画撮影につかった部屋や、『大地の男』での受賞盾などが見学できます。


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ウッヂ I

2006年10月13日 | 観光ガイド
ポーランド第二の都市、ウッヂ(Łodź)を訪れました。

ウッヂとは、ポーランド語で小舟という意味。街の名前の由来については、周囲に小川が流れていたから、などと言われていますが、はっきりとしたことはわかっていません。

ウッヂは地理的にポーランドの国土のちょうど中央に位置する街です。街としての歴史は比較的新しく、初めて文献に名前が登場したのは13世紀ですが、産業が発達したのは18世紀に入ってからです。その後、19世紀に繊維工業や織物工業で全盛期を迎え、ワルシャワに次ぐ国内第二の人口を抱える大都市に成長しました。

第二次世界大戦後は、首都ワルシャワの破壊の程度がすさまじかったため、1948年までウッヂが事実上ポーランドの首都として機能しており、そのまま首都をウッジに定めるという計画案もあったほどでした。

    

ウッヂへは、ワルシャワから電車またはバスで2時間です。電車で来る場合、ウッヂ・ファブリチナ駅(写真上)に到着する電車を選ぶと便利です。一方クラクフからの交通の便は悪く、電車・バスともに4-5時間かかりますので、ワルシャワから訪問するのがベターです。

工業都市らしく、ファブリチナ駅に降り立った瞬間から、窓ガラスの割れた工場やら、薄汚いビルやらが目に入ります。ウッヂは観光地ではなく、工業都市なのだと改めて気付かされます。それでもめげずになんとかピョートルコフスカ通りまで歩いてゆくと、目の前にきれいな街並みが広がります。

   
   

ピョートルコフスカ通りは、街の中心を南北に走る大通りで、おしゃれなブティックやレストランのオープンカフェなどが並ぶ、ウッヂのメインストリートです。

このピョートルコフスカ通りを歩いていると、面白い銅像がいくつも並んでいるのが目に入ります。ウッヂ名物のこの銅像は、ピョートルコフスカ通りの通りの両側に、等間隔で並んでいます。中でも一番有名なのが、ウッヂ出身のピアニスト、アルトゥル・ルビンシュタインの像。造りも凝っていて、コインをいれると楽曲が演奏されます。

   

他にも詩人のユリアン・トゥヴィムの像などがあり、ウッヂの街歩きの目玉となっています。

粋なことに、どの銅像も、像の隣に座ると、まるでモニュメントと一体になったかのような構図で記念撮影ができるデザインになっています。というわけで、ウッヂを訪れたら、まずはこの銅像と記念撮影をしてみましょう。


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ポーランドの 「移民問題」 

2006年10月10日 | 政治・経済

ポーランドは非常に移民の少ない国です。首都ワルシャワでさえ、道を歩いている人の95%以上がポーランド人で、残りがその他の白人とアジア人、黒人です。私の住むクラクフも、外国人が目につくほうですが、ほとんどが観光客で、3・4日滞在して帰る人たちです。

そんな移民の少ないポーランドでの生活に適応していただけに、先日旅行でイタリアに行ったときは、そのあまりの移民の多さにびっくりしました。西欧は移民が多いとは聞いていたものの、ミラノはお城裏手の公園が中華共和国でしたし、フィレンツェ・ヴェネチィアも中国系・東欧系・アラブ系・アフリカ系など、世界の全人種が集う、コスモポリタン・シティでした。(写真:フィレンツェ)

改めていかにポーランドに移民が少ないかを知る機会となったとともに、ここだけの話、ちょっとほっとしたのを覚えています。なにせ周囲の人からジロジロ見られることなく道を歩けるのは、やはりとても気が楽ですから。ポーランドでは、アジア人はどうしても目立ってしまうため、何をしていても周囲からの視線を感じ、自分でも気づかないうちに、ストレスが溜まっていたのだと思います。

   


さて、ポーランドに少数ながらいる移民は、だいたい以下に分けられます。

  ・ウクライナ国籍やベラルーシ国籍のポーランド系住民(労働移民)
  ・アメリカやイスラエルから帰国したポーランド系ユダヤ人
  ・ベトナム人(ワルシャワを中心に数万人。マフィアを組織しており、問題となっています)
  ・中国人(飲食店経営など)
  ・チェチェン難民や、その他カフカス系難民(人口比では極少数)
  ・諸外国から国費留学生として来て、そのまま定住した人(極少数)
  ・留学生・外国企業駐在員(ほとんどが数年で帰国)
  ・その他外国人(極少数、ポーランド人の配偶者含む)

そして、ポーランドになぜ移民が少ないかといえば、、

  ・ポーランド経済が魅力的でない(給料が低い)
  ・ポーランド語ができないと就職が厳しい(ポーランド人の失業率も高いので競争になる)
  ・3K(キツイ・汚い・危険)の仕事も、ポーランドではポーランド人がやっている
  ・ポーランドに行くぐらいなら、皆ドイツに行く...

というような理由が思いつきます。
要するに、移住する国としての魅力にかける、この一言に尽きます。

西欧諸国に多いイスラム系移民は、ポーランドではほとんど見かけません(留学生やチェチェン難民を除く)。ポーランドという国自体が、保守カトリックの色が濃いのに加え、クラクフ郊外のアウシュビッツ収容所や、ワルシャワのゲットー跡・戦没者記念碑などに代表されるように、ユダヤ・イスラエルとの結びつきも大変強く、それゆえイスラム教徒からは敬遠されるようです。
(イスラム教徒は観光客すら皆無です)。

また同様にアフリカ系黒人もほとんどいません。西欧各国に比べ、有色人種に対する偏見が根強く残っていることが理由にあるかもしれません。難解なポーランド語を必死で覚えても、仕事もない、居心地も悪い、ではペイしませんから。それでも最近は多少増えてきているようですが。


そんなポーランドで「移民」に関する問題といったら、目下深刻なのは、国内への「流入移民」ではなく、ポーランド国外に流出している「ポーランド人移民」の問題です。

というのもポーランドでは、20代・30代の働きざかりの若者、とりわけ、学歴が高くアンビションのある若者が、次から次へと他国へ移住しており、国内の空洞化が深刻な問題となっているからです。実際2004年5月のEU加盟以来、すでに人口が100万人減り、国民の平均年齢が一気に高齢化したことが確認されています。

追記:
「ポーランド人移民」の問題については、こちらの記事 もご覧ください。また こちらのブログ では、「ポーランド人移民」に関する問題を、イギリスからの視点でレポートしており、大変参考になります。


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お月さまを盗んだ二人

2006年10月09日 | 政治・経済

ポーランドでは、大統領と首相が一卵性双生児の兄弟なんです。

レフ・カチンスキ大統領が双子の弟、ヤロスワフ・カチンスキ首相が双子の兄。

大統領と首相が双子なんて全世界どこを見渡しても前代未聞の話ですが、実際この双子兄弟がポストに就任してからというものの、ポーランドの政治は歴史上かつてないほど暴走し始め、ヨーロッパ他国からは、「ポーランドにファシズム政権誕生」と厳しく非難されています。


実はこのカチンスキ兄弟、かつて子役として映画に出演したことがあります。

O dwóch takich co ukradli Księżyc~お月さまを盗んだ二人 という映画で、今から44年前、1962年の作品です。下のパッケージ写真は、左が現在のレフ大統領、右がヤロスワフ首相。まだあどけない顔で、とてもかわいらしいですね。ちなみにこの二人、去年の大統領選挙のころは、「親友でも見分けがつかない程そっくりな顔」 と報道されていましたが、半年間こう毎日もテレビで顔を見させられると(特にヤロスワフ首相の方)、いやがおうでも見分けが付くようになってきます。

   

このカチンスキ兄弟が大統領と首相に就任してからというもの、この映画 『お月さまを盗んだ二人』 が、にわかに注目され始めています。

映画自体は、双子のヤツェックとプラツェックが、大人になったら何をしようか、などと他愛のないことをしゃべる映画なのですが、よくみて見ていると、突っ込みどころ満載なんです。

例えば このシーン。ポーランド語ですが、ぜひ動画でご覧ください。

  「僕ら、大人になって金持ちになったら..」
  「金持ちになったら、何もしなくていいんだぜ!」
  「今だって僕ら、何もしていないじゃないか。」
  「何言ってるんだ。金持ちになったら、もっと全然何もしなくていいんだよ!」


このせりふが、演技とはいえ、あまりにも現状を言い当ててるだけに。。。

実際、まるで「何もやらないこと」が政策であるかのように、カチンスキ双子兄弟政権は、何一つ建設的なことを行っていません。医療制度改革、公務員の給料の改善、税制制度改革、失業率の改善、こういった山積みの国内問題にはちっとも目をむけず、やっていることといえば、過去の政治家の汚職の追及、政敵の追放、カトリック教会への頭下げ、アメリカやイスラエルへのゴマすり。

昔も今も役者です(=エージェントに言われた通りにしか動けません) なんでことじゃ、困ります!


映画のその他のシーンは こちら でみることができます。


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補足トリビア 「ハイ」 と 「イィエ」

2006年10月07日 | 雑学
下の記事 に対する補足トリビアです。

ドイツのスラブ系少数民族ソルブ人の言語、上ソルブ語では、肯定の返事「はい」が Haj(ハイ) で日本語とまったく発音が一緒なんです!

ソルブ語(Sorbian languages) とは、ドイツ南東部、エルベ川流域に住むスラブ系少数民族、ソルブ人の言語です。ポーランド語、チェコ語、スロヴァキア語とともに、インド・ヨーロッパ語族・スラブ語派・西スラブ語群に属する言語で、ソルブ語、ラウジッツ語、ヴェンド語などと呼ばれています。

6世紀、ゲルマン民族の大移動が起こると、無人となったエルベ川流域地帯にスラブ人民族が移入し、農業、酪農、狩猟、漁労などを行って定住しました。その現存する子孫がソルブ人で、ドイツ語を話すドイツ人に囲まれながらも、1500年もの間、独自の言語と文化を固持してきた民族です。

ソルブ語には大きく2つの方言があり、エルベ川上流域で話されている 上ソルブ語(Upper Sorbian) と、エルベ川下流域で話されている 下ソルブ語(Lower Sorbian) に分けられます。上ソルブ語はチェコ語に、下ソルブ語はポーランド語に近い言葉です。

ソルブ語の話者はおよそ2万人で、現在ではほぼ全員がドイツ語とのバイリンガルとなっており、日常会話ではドイツ語を使用する人も増えています。それでもソルブ語の新聞やラジオ、インターネットサイトなどを運営したりと、先祖代々の言語を消滅させなための努力に勤めています。またドイツ政府もソルブ語保護に積極的で、ソルブ人のためのソルブ語学校があるほか、ソルブ博物館、国立ソルブ語研究所の設立、ライプツィヒ大学言語研究所にソルブ語科を設置するなどしています。また南東部ブランデンブルグ州、ザクセン州では、案内板・道路標識などがドイツ語とソルブ語との二ヶ国語表示となってます。

ソルブ語は、古代スラブ語の特徴である双数を残していたりと、言語学的にも非常に興味深い言語です。上述したように、印欧語・西スラブ語族に属する言葉ですので、もちろんこの Haj(ハイ) 以外、語彙、文法などに日本語との共通点はまったくありませんが、面白い偶然ですよね!


もうひとつトリビアねた、今度は逆の例。

モロッコ語(アラビア語モロッコ方言 Moroccan Arabic) では肯定の「はい」にあたる単語が Iyeh (イィエ) だそうです!そのため日本人がモロッコ語を学ぶときや、逆にモロッコ人が日本語を学ぶとき、最初は慣れなくてすごく戸惑うのだとか・・ちなみに否定の「いいえ」は標準アラビア語と一緒で La(ラー) です。幸いこちらは覚えやすいですね。

それにしても、ところ変われば、こんなにも言語事情は変わるのですね!


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トリビアの泉 No が Yes!

2006年10月07日 | 雑学

ポーランド人にポーランド語で何か質問して、「No」との答えが返ってきたら、それは「いいえ」の意味ではなく、「はい」の意味なんです!

ポーランド語で肯定の返事「はい」は Tak(タック) 、否定の返事「いいえ」は Nie(ニィエ) です。

でもその他に No(ノ) という単語があり、日本語の「はい」に対する「うん」のような、くだけた意味の肯定のフレーズとなっています。つまりNo(ノ) は、「Yes」を意味する言葉なんです!

この No(ノ) は英語のような ノウ ではなく、スペイン語やイタリア語のように、音節を軽く切って、そしてやや高音気味に ノ(高) と発音します。もちろん英語・スペイン語・イタリア語の否定の返事 No とはまったく関係がなく、れっきとしたポーランド語です。チェコ語で肯定の返事「はい」を Ano(アノ) といいますが、むしろこちらに起源が近い言葉です。

そういうわけで、ポーランド人は頭をうんうん縦に振りながら No(ノ) って言ったりしますので、ポーランド語を知らない人には、肯定しているのか、否定しているのかさっぱりですが、 No(ノ)が「うん、そう」という意味だと知って、やっと頭のもやもやが晴れるわけです。

No(ノ) は、このように肯定の意味の返事として使われるほか、一般にフレーズ同士を円滑につなぐ接続語のような役割があります。例えば英会話でしょっちゅう You know というフレーズを挟む人がいますが、それと同じで、ポーランド人では、会話の途中にものすごくしょっちゅう No(ノ) をはさむ人がいます。

また、あとに続く単語の強調の意味もあります。

   No tak (ノ・タック) うん、そうそう 
   No nie (ノ・ニィエ)  違うよ~!!
   No więc (ノ・ヴィエンツ) そういうわけでぇ~
   No właśnie (ノ・ヴワシニィエ)  だよねぇ
   No to dobrze (ノ・ト・ドブジェ) それはよかった!


こんな風に使います。

このNo(ノ) は、ともするとポーランド語のお堅い教科書には載ってないのですが、知っておくと大変便利な言葉ですので、ぜひ練習して、ものにしましょう!


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