ポーランドからの報告

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パリ症候群

2007年01月10日 | その他のヨーロッパ

若い日本人女性の間で 「パリ症候群」 にかかる人が多いのだそうです。

「パリ症候群」とは、パリ在住者やパリ旅行からの帰国者の一部が、鬱病に近い精神状態になる症状のことだそうです。「憧れのパリ」のイメージを抱いて渡仏したものの、理想と現実のギャップを目の当たりにし、さらには現地の習慣や文化などにうまく適応できずに精神的なバランスを崩す若い女性が多いのだとか。異文化における適応障害の一種であり、精神科医の太田博昭氏が20年前近くに提案したものだそうです。

太田氏によると、この「パリ症候群」の内面的な要因としては、発症者の多くは恵まれた環境で育ったために挫折経験が乏しく、自己中心的なパーソナリティをもっていること、自己実現に重点を置き過ぎる思考、挫折を自己責任とせず他者へ責任転嫁することなど、外的な要因としては、感情を敏感に察してくれる日本型のコミュニケーションと違い、自分の主張を明確に伝えることが要求されるフランス文化に適応できなくなっていることがある、などとされています。20年前に太田氏がこの症状を提唱したときは、発症者はパリ在住者に限られていたのですが、最近では、パリへの短期旅行者の間にも、この症状をあらわして、在仏日本大使館で急遽帰国させるケースも頻繁にあるのだそうです。

こんな話をしたのは、我が家がパリ旅行をすると言ったら、義母から「幸子は大丈夫か」と心配されてしまったからです。なぜ義母がそんなことまでに詳しいのか、とビックリして尋ねたら、「パリ症候群」についてポーランド語版ニューズウィークに取り上げられていたのだそうです。そんなに「有名」になっているとは知りませんでした!それほど事態は深刻ということなのでしょうか?

確かに私が小中学生のころは、藤本ひとみの「マリナシリーズ」が大ヒットしてた時期で、パリといえば、憧れのシャルルの街でした。また「ヴェルサイユのばら」シリーズも流行っていて、宝塚歌劇団の「ヴェルサイユのばら」の全シーンを暗誦している子にも出会いました。当時の女の子のほとんどが多かれ少なかれ「パリ=憧れの花の都」というイメージを持っていたのではないかと思います。しかし実際に行ってみたパリは、、確かにシャルルのイメージとはちょっと違ったかもしれませんね。治安はあまりよくないし、泊まったホテルはレストランが最悪だったし、ベルサイユ宮殿は工事中だし、地下鉄は汚いし..(ちなみに私の夫は、長い金髪に碧眼で、まさにシャルルっぽい外見なのですが、旅行二日目の夜にホテル周辺を歩いていたら、アラブ人のゲイにオシリを触られて、一発でパリが嫌いになっていました!)それと、確かにサン・マルタン運河ぞいのテントにはびっくりしました。(ホームレスの方の抗議運動だそうです。)でも全体的には、やっぱりセーヌ川湖岸やサン・ルイ島、シャンゼリゼ通りなんて、とても雰囲気があってよかったし、とても楽しい旅行になったと思ってます。

たしかにガイドブックや旅行会社のパンフレットはいいとこ取りですからね...実際に行って見て「イメージと全然違う!」ということは往々にしてあると思います。そしてパリといえば初めての海外旅行の方も多いでしょうし、初めて「ヨーロッパの現実」をみたショックは大きいのかもしれません。別にパリだけに限ったことではなくて、私の住むクラクフも、一昨年はフロリアンスカ通りと中央広場で大規模な舗装工事をしていて、観光名所のはずがただの工事現場だったし、その当時にクラクフ観光された方は、非常に気の毒でした。

じゃあ「パリ症候群」にかからないようにするためには、どうしたらいいのかを考えてみたんですが、、私が思うに、いいホテルを選び、観光名所はすべてツアーで、移動もすべてタクシーかハイヤーバス、、etc ある程度お金を使った贅沢な旅をすれば、それなりに防げるのではないでしょうか?全部込みのパックツアーを利用するのも良いかもしれません。逆に、貧乏旅行をしてしまうと、貧富の差のあるパリ社会の「貧」の部分を目の当たりにしてしまい、気分がすぐれなくなるということもあると思います。お金がすべてとはいいたくないですが、「階級社会のヨーロッパ」ですから、もしかしたら、お金で解決することも少しはあるかもしれません。

というわけで、パリ旅行記最終編でした。


ポーランドからの報告


フランス・アカデミック界のポーランド人

2007年01月09日 | その他のヨーロッパ

引き続きパリ旅行記ですが、当ブログ「ポーランドからの報告」はポーランド関連の話題がテーマということで、ポーランドにちなんだお話もご紹介します。

昨日の記事でも触れましたが、ポーランドでは、どの家庭でも、親戚のそのまた親戚の、、と辿っていくと、必ずフランスやアメリカ、カナダなどに亡命・移民した親戚や親類がいます。とりわけ18-19世紀、ポーランドがロシア・オーストリー・プロイセンの列強三国に分割されて完全に消滅してしまった時代には、インテリの多くが活躍の場を求めて、フランスやアメリカなどに渡りました。ミツキエヴィチ、ショパン、キュリー夫人は、この時代のポーランドに生まれ、フランスで活躍した代表的なポーランドの偉人です。

アダム・ミツキエヴィチ(Adam Bernard Mickiewicz) は、旧ポーランド領土東部のノヴォグルデク(現ベラルーシ領ナヴァグラダク)に生まれた、ポーランドを代表するロマン派詩人です。政治・地下活動も行っていたため、幾度の投獄生活などを経て、晩年はパリに移り住んで活躍しました。代表作『パン・タデウシュ』は、世界各国語に翻訳され、アンジェイ・ヴァイダ監督によって映画化もされています。このミツキエヴィチの足跡は、パリ・セーヌ川中洲のサン・ルイ島にあるアダム・ミツキエヴィチ記念館にて辿ることができます。またこの記念館からほど近いセーヌ川右岸に、ポーランド文学図書館もありますので、あわせての見学が可能です。

フレデリック・フランソワ・ショパン(Frédéric François Chopin) は、ワルシャワ郊外の小さな村、ジェラゾヴァ・ヴォラ(Żelazowa Wola)に生まれた、ヨーロッパを代表する作曲家・ピアニストです。1830年、ショパン20歳の時、演奏活動でワルシャワを離れウィーン、さらにはパリに向かった際、ポーランド国内で革命が起こったため(フランスの七月革命の影響を受けたワルシャワ十一月蜂起)、そのまま二度とポーランドの土を踏むことはありませんでした。

ショパンは何人かということで、ポーランド人とフランス人で議論になるそうです。ポーランド人は、「ショパンはポーランド人だ」といい、フランス人は「ショパンはフランス人である」と主張します。実際ショパンは、ポーランド人の母親とフランス人の父親の元にポーランド・ワルシャワ郊外で生まれ、ショパンという父方のフランス語の姓を名乗り、パリで活躍したものの、ポロネーズやマズルカなどその作品には絶えず祖国ポーランドへの思いが込められていました。したがってどちらも正しいのですが、双方譲りません。それだけ、どちらの国にとっても、国を代表する偉人の一人であったということだと思います。(私個人的にはショパンはポーランド人であると、学校で習ったように思います。それにショパンコンクールの開催地もポーランド・ワルシャワです。)

現在ショパンは、パリのペール・ラシェーズ墓地にてひっそりと眠っています。そしてその心臓だけは、故人のたっての希望により、ポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会に埋葬されています。

そしてキュリー夫人の名で知られる マリア・スクウォドフスカ=キュリー(Maria Skłodowska-Curie) も、フランスで活躍したポーランド人です。キュリー夫人は、ワルシャワに生まれ初等教育を受けたあと、パリに渡り、パリ大学にて物理学などを学びました。そしてフランス人の夫、ピエール・キュリーとともに、ラジウムとポロニウムを発見した功績で、ノーベル物理学賞とノーベル化学賞を受賞しています。現在でも放射能の単位「キューリー」としてその名が残っているほか(1キュリー=3.7×1010ベクレル)、セーヌ川沿いのパリ第六大学に、キュリー夫人の名前が冠されており、この時代を代表する女性科学者であった人物です。

現在のフランスでは、ポーランドというと、旧東欧の貧しい国というイメージがどうしても先行するようです。実際、『ポーランド人の配管工』という単語が政治の場面で利用され、あたかもポーランド人はみなブルーカラーの単純労働者であるかのような印象を与えると、物議をかもしたことがありました。しかしこうして歴史を振り返ってみると、このように世界的に有名なポーランドの偉人が、フランスのアカデミック界で活躍していたことがわかります。


ポーランドからの報告



冬のヴェルサイユ宮殿

2007年01月08日 | その他のヨーロッパ

ポーランドでは、どの家庭でも、親戚のそのまた親戚の、、と辿っていくと、必ずフランスやアメリカ、カナダなどに亡命・移民した人がいます。私の夫の家も例外ではなく、血はつながってはいませんが、叔父の弟一家(叔母の夫の弟の一家)が、共産主義の時代にフランスに亡命してヴェルサイユ近郊に住んでいます。そんなわけで叔父一家は、大のフランス贔屓。フランス語も堪能です。そんなエピソードを聞いて、なんだか私もヴェルサイユの町に勝手に親近感をいだいていました。

というわけで、パリ旅行4日目は、定番ですがヴェルサイユ宮殿を訪れました。ヴェルサイユ宮殿へは、RER・C線でヴェルサイユ・リヴ・ゴーシュ駅まで。そこから徒歩5分です。

   

入場待ち2時間ということで構えて出かけたのですが、やはり冬のオフシーズンだからか、大して列もなく、5分待っただけで切符を買うことができました。

ヴェルサイユ宮殿は、庭園や宮殿の外観、室内の装飾、そのどれもが、フィレンツェで見学したピッティ宮殿とよく似ているなという印象でした。でもピッティ宮殿裏のボボリ庭園が入場料8ユーロだったのに対し、こちらは無料と好意的でした。でも冬の庭園はやっぱり物寂しいですね。。

   

ただ宮殿ファサードをはじめ、メインの鏡の回廊までもが修復中でした。なんでも老朽化対策のため、2004年から170年ぶり、17年がかり(!)もの修復工事に入ったのだそうです。残念。それにしてもこういう現実を見ると、「パリ症候群」になるのもわかる気がします。

   

ヴェルサイユ宮殿内、鏡の回廊。奥行き75mと聞いていましたが、修復工事のせいで30mくらいしかありませんでしたが?... でもまあ感じはつかめたので文句はいいません!


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モンマントルのカフェでおしゃべり

2007年01月07日 | その他のヨーロッパ

滞在3日目は、モンマントルへ行ってきました。

メトロ2号線のアンヴェール(Anvers)駅で降りて2分も歩くと、サクレ・クール聖堂へと向かう階段の入り口に突き当たります。

   

サクレ・クール大聖堂は、パリ市民の活性化という目的で、当時のお金で4000万フランあまりの寄付金を元に、40年の歳月をかけ1919年に完成された、白亜のビザンチン様式の教会です。多くの画家によって描かれ、幾多の映画のシーンに登場したとあって、「最もパリらしいスポット」のうちの一つではないかと思います。

このサクレ・クール聖堂では、建築から百年弱たった現在、聖堂修復のための寄付金が再び集められています。聖堂内のチャペルに、各国語で寄付金募集のお願いが出ており、英語、フランス語、スペイン語、日本語、中国語などに並び、中欧一のカトリック国の言語、ポーランド語の文章も、もちろん並んでいました。

   

さて聖堂を見学後は、テルトル広場のカフェでおしゃべり。今回の旅のメインは家族との再会ということで、急ぎ足の観光はせずに、路地をのんびりと散歩したり、カフェに座ってゆっくりとしたティータイムを楽しんだりして過ごしました。

   

ところで、パリのカフェでは、同じ店でも座る席がテラス席か、店内の窓際席か、店の奥の方かによって、メニューの値段が変わってくる場合があります。今回私達は、テルトル広場に面するカフェのテラス席に座ったのですが、カプチーノ一杯6ユーロ、チョコクレープが5ユーロでした。店内席用のメニューは見ていないのでわかりませんが、これはテラス席の値段だったのでしょうか?クレープよりカプチーノの方が値段が高かったのが意外でした。


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パリあれこれ

2007年01月06日 | その他のヨーロッパ

今回の旅行期間中は、あいにく連日雨模様のお天気でした。

雨の中、小さい子供をつれてメトロで毎日外出するのは、正直ややおっくうでしたが、それでもせっかくパリに来たのだからと、それなりにあちこち出かけて見ました。

   

セーヌ川最古の橋、ポン・ヌフ。

   

ルーブル美術館にて。

   

パレ・ロワイヤル中庭。

   

サン・マルタン運河。レプブリック広場近郊

   

コンコルド広場の噴水。


ポーランドからの報告



パリ旅行に行ってきました。

2007年01月05日 | その他のヨーロッパ

皆様、新年あけましておめでとうございます。

昨年度中は、「ポーランドからの報告」をご愛読いただき、ありがとうございました。昨年6月から始まった当ブログも、早いもので、今月で、連載7ヶ月目に突入しました。今年も、昨年以上にジャンルを広げて、幅広く「旬のポーランド」をお伝えしていく予定です。どうかよろしくお付き合いくださいませ。

   

私事ですが、昨年の12月31日から今年の1月4日まで、パリ旅行に行ってきました。

今回の旅の目的は、観光もさることながら、日本に住んでいる家族と会うこと。これまで日本の家族には、いつもクラクフまで会いに来てもらっていたのですが、毎回毎回クラクフ旅行なのもね、ということで、今回は趣きを変えて、パリでの家族との再開となりました。夫、私、娘のクラクフ在住組は、クラクフから飛行機で2時間、スカイヨーロッパ航空で、パリ南部のオルリー空港に到着し、そこからジェットバスとメトロを乗り継いでホテルへ。一方日本の家族のほうは、シャルル・ド・ゴール空港まで、乗り換えも含め14時間あまりのフライトでした。

写真はヴェルサイユ宮殿にて。冬なのでやや閑散としていました。観光客も夏場のピーク時ほど多くなく、入場券は5分と並ばずに買えましたが、残念ながら、宮殿ファサードやメインの鏡の回廊などが修復中でした。


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ボローニャ旅行記 V

2006年09月27日 | その他のヨーロッパ

ボローニャは北中部イタリア各都市へのゲート都市としての役割も大きい街です。古代ローマやさらに昔の時代から交通の要所であったこの街は、21世紀の現代でも鉄道のジャンクション地点となっており、フィレンツェ、ラヴェンナ、モデナ、ピサなど中部都市をはじめ、ヴェネチア、ミラノ、ローマなどイタリア国内の主要都市へのアクセスが大変便利です。

空の便の場合も同様で、日本からイタリアへ来る場合はローマかミラノがゲート都市となりますが、ヨーロッパ内から北中イタリアへ飛行機で乗り入れる場合、ミラノと並びボローニャがゲート都市になることが多くなります。今回私もクラクフからミラノ路線、ベルガモ路線、ローマ路線、ボローニャ路線を調べましたが、ボローニャ路線がミラノ路線、ベルガモ路線、ローマ路線と比べ格段に値段が安く、予約も簡単でした。市内から8kmの所にあるボローニャ空港も非常に便利で、アエロバス(BLQ)という循環バスで、空港から市内各所まで5ユーロでアクセスできます。

  


次回は年末にパリ旅行の予定。今から楽しみです。


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ボローニャ旅行記 IV

2006年09月26日 | その他のヨーロッパ

ボローニャの街は、ポルティコと呼ばれる柱廊が連なる街並みが特徴です。このポルティコは中世の条例で設置が設けられたもので、強い日差しや雨風を防ぐアーケードとしての機能のほか、住居問題の解決にも役立ちました。

  
    

初期のポルティコは、張り出して建て増しされた2階部分を支える木造の足場のような様相をしていましたが、時代を下るにつれ、ルネッサンス様式の美しいアーケード回廊へと発展していきました。ボローニャの街を歩いていると、初期の木造のものから、ルネッサンス様式のもの、さらに現代風の鉄筋コンクリートビルに設けられたものまで、実にさまざまなポルティコを目にすることができます。

そして圧巻はボローニャ郊外のグァルダの丘。サラゴサ門からマドンナ・ディ・サンルカまで全長3.5kmにもわたってポルティコが続いており、絶景です。


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ボローニャ旅行記 III

2006年09月26日 | その他のヨーロッパ

今回泊まったのは Ramada Encore という新しいホテルです。ホテル予約サイトで予約したら 50ユーロという破格の値段で宿泊することができました。

このホテルは街の中心部からはやや遠く、Via Ferrareseという幹線道路沿いにあります。とはいえボローニア中央駅や旧市街までは25番のバス一本でいけますのでとても便利です。

  

ただ、ホテルのウェブサイトに、駅まで2kmと書いてあったのですが、どう見ても5km近くはありました。ですので駅から歩いては行かれません。このホテルに限らず、ホテルのサイトに書いてある○○まで○kmというのは2倍ぐらい見ておいたほうがよいことがあります。


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ボローニャ旅行記 II

2006年09月25日 | その他のヨーロッパ

ボローニャ中央駅からインディペンデンツィア通りを歩くこと20分で、マッジョーレ広場に到着します。このマッジョーレ広場は中世から街の中心だった場所で、周囲には、モランディ美術館や市立絵画コレクションなどが入る市庁舎、サン・ペトロニオ教会、市立考古学博物館、アルキジンナジオ宮殿などの見所が集中しています。

とりわけサン・ペトロニオ教会(写真右中)は14世紀に街の守護神である聖ペトロニオに捧げられて作られたもので、イタリア最大の規模を誇るものの、未だにファサード上部が未完成となっています。内部のジョヴァンニ・ダ・モデナの作品の数々や天文家カッシーニの日時計などは必見です。

そしてマッジョーレ広場に隣接して広がるのがネットゥーノ広場です。この広場の中央にはネットゥーノの噴水(写真左中)があり、市民にジガンテ(巨人)と呼ばれ親しまれています。

  
  
  

中世ボローニャは100以上の塔が林立する街でした。現在でも20本ほどの塔が残っています。そのうち並んでたつアッジネリの塔とガリゼンダの塔の2本の塔は、ボローニャのシンボル的存在です。高い塔がアッジネリの塔(写真の右側)、低い塔がガリゼンダの塔(写真の左側)です。このうちガリゼンダの塔のほうは傾いており、あまりに傾斜が激しいため、修復工事で上部が削られました。近くでみると、ピサの斜塔も真っ青の驚きの傾き加減です。前回のイタリア旅行ではフィレンツェに一週間滞在しながら、時間の都合でピサに行かれず残念な思いをしたのですが、今回このガリゼンダの塔を見てやや満足しました。

この2本の塔の前から通りを右に折れ、サント・ステファノ通りをやや歩くと、一段と歴史の古い教会が姿を現します。8~13世紀の4つの教会、2つの礼拝堂、2つの中庭が連なるサント・ステファノ教会群です。


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