ポーランドからの報告

政治、経済からテレビのネタまで、詳細現地レポをお届けしています!

ポーランド人とカトリック I

2007年03月30日 | 文化

ポーランドはカトリックが国教の国。国民の95%以上がカトリックの幼児洗礼を受けています。日ごろ教会に行くかとか、お祈りをするかとかは、個人差が大分ありますが、それでもポーランド人の殆どが、カトリック教徒としての誇りを持っており、それゆえ日常生活はもとより、政治や教育の場にいたるまで、聖書やカトリックの教えの影響が非常につよく認められます。

   
   

最近の若者の間では、教会に足を運ぶ人の数がめっきり減ってきているようですが、それでも街のあちこちにある教会の中に一歩入ると、「こんなに大勢の人が中にいたのか!」とびっくりするほど、大勢の人が熱心にミサに参列している光景に出会います。同じ中央ヨーロッパでも、宗教色がだいぶ薄れてきているドイツやチェコとは異なりポーランドでは、カトリックは、今もなお、生活の隅々まで根付いています。


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国際女性デー

2007年03月08日 | 文化

今日3月8日は、国際女性デー(International Women's Day)でした。

国際女性デーとは、ドイツの社会主義者であるクララ・ツェトキンが、1910年にコペンハーゲンで行なわれた国際社会主義者会議で、「女性の政治的自由と平等のために戦う記念日を設けること」を提唱したことが始まりといわれています。

ポーランドでは、国際女性デーのこの日に、女性に花を贈る習慣があります。

中央広場のお花屋さんには、イースターの飾りとともに、バラの花が沢山売られていました。そしてこの日は、バラの花を1本もって歩いている男性を、街で沢山見かけます。写真の「3」「5」とあるのは、1本3zl、5zlということです。そう、1本から買えるので、とても経済的なのです!そんなわけで、家族やガールフレンド、職場の同僚など、本命から義理まで幅広く、ありとあらゆる女性にお花をプレゼントします。そして男性は、自分用にはウォッカを買うのだそうです。

   

ところで今日のテレビのニュースで、女性にうれしい知らせがありました。育児休暇に関する法律が改正されて、女性がより子供を産みやすくなるそうです。育児助成金の支給対象が、働く女性から学生までと以前より幅広くなるなど、経済的な理由から、子供を産むのをためらっている女性に、政府が後押しをした形です。

ポーランドでも、日本同様、少子化が深刻な問題になっています。というわけで、国際女性デーのこの日、ポーランド人女性にとっては、正直なところ花束よりも格段にうれしいプレゼントになったのではないかと思います。


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 『チビクロの冒険』

2007年02月28日 | 文化
ポーランドはかつて共産主義の国でした。当時のポーランドはまだ日本人には近寄りがたく、鉄のカーテンの向こう側の未知なる国という感じでした。

そんな社会主義時代にポーランドに滞在された方が出版された書籍は、当時のポーランドを知る貴重な資料といえます。

『チビクロの冒険』は、子犬の「チビクロ」が、小学1年のミコちゃんや幼稚園児のひろしくんとととも、社会主義の街ワルシャワで大活躍する物語です。著者の阿部氏は、1975年から1978年までの3年間、社会主義時代のポーランドに滞在し、ワルシャワの街のありのままの姿を見てきました。ポーランドに犬が多いということから、犬を主人公としたファンタジーになりました。お子さんのために当時を忘れないために書きためておいたものを、後日絵本として発表したものです。

   

社会主義の崩壊から今年でもう17年になります。体制も変わり、ポーランドはNATOやEUにも加盟しました。現在のポーランドでは、深刻な品物不足に悩まされたり、諜報行為におびえたりということは一切ありません。しかしこの本に書かれていることがすべて昔話になったのか、というとそうでもなく、社会主義時代の名残は、現在でも人々の暮らし方や考え方の中に残っています。体制は変わっても人は変わらず、とはポーランドについてよくも悪くも頻繁に言われるフレーズです。この本を読むことで、現在のポーランドがいっそう理解できるようになると思います。


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名前の日

2007年02月27日 | 文化

名前の日-聖命祝日(ポ語:Imieniny、英語:Name Days)とは、キリスト教の守護聖人を崇拝するための記念日のことで、一年365日にそれぞれキリスト教諸聖人の名前が振り当てられています。

ポーランドでは、この名前の日がとても重要視されています。たいていのカレンダーには、一年365日分の名前の日の聖人が書かれていますし、ネットのポータルサイトやバスやトラムの電光掲示板でも、今日は何さんの日です、という情報が流れています。

もちろん名前の日当日は、誕生日と同じように、ディナーなどのご馳走やプレゼントでお祝いをします。お店に行くと、名前の日を祝うようのきれいなカードが沢山売られていますし、とくに中年以降になって自分の年を数えなくなってくると、誕生日よりも、この名前の日の方を盛大に祝うことも多くなります。

名前の日は、新しく生まれた子供の命名の際にもとても重要になり、誕生日の日の聖人の名前を命名することもまれではありません。例えば私の夫の妹のベアタは、3月8日生まれで、その日がベアタの日だったので、ベアタと名づけられました。ほかにも、水泳選手のオティリア・ジェンジェイチェク選手も、誕生日がちょうどオティリアの日だったので、オティリアという名前になったそうです。

名前の日は通常一つですが、「マリア」のようにポピュラーな名前の場合は複数あり、その場合、通常、誕生日に一番近い日を名前の日とする慣わしになっています。例えばマリアさんの名前の日は、(1月1日)、1月23日、2月2日、2月11日、3月25日、4月14日、4月26日、4月28日、5月3日、5月24日、6月2日、7月2日、(7月5日)、7月29日、8月2日、8月4日、8月5日、8月15日、8月22日、8月26日、9月8日、9月12日、9月15日、9月24日、10月7日、10月11日、11月16日、11月21日、12月8日、12月10日、となっていて、このうち最も重要なのが、8月15日の聖母マリア昇天の日と、12月8日の聖母マリア生誕の日ですが、個々のマリアさんの名前の日をどれにしているかは、各家庭により異なります。


私はこの名前の日を祝う習慣をポーランドに来てから初めて知ったのですが、初めのうちは、一年に二度もプレゼントをもらえるなんて、なんてすばらしい慣わしなんだ~程度にしか思いませんでした。ところが困ったのは、周りのポーランド人に、「サチコの名前の日はいつ?」と聞かれることです。もちろん私の名前、サチコはキリスト教の聖人とは何も関係ありませんので、名前の日もありません。しかしそう説明しても、ポーランド人にはすんなりとわかってもらえないことが多いです。「サチコは名前の日がないなんて、なんてかわいそうなんだ」などと同情されたりするので、困ってしまいます。


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「脂の木曜日」

2007年02月15日 | 文化

今日2月15日は「脂の木曜日」(Tłusty Czwartek)、一年で一番美味しい年間行事の日でした。「脂の木曜日」はポンチキ(写真)を大量に食べる日だからです。

イースター前の日曜を除いた40日間を四旬節(ヴィエルキポストWielki Post)といい、カトリックの教えでは、この四旬節の間は、節制の日々を送るべしとされています。この間は肉食や酒を控えたり、パーティや結婚式も避けられます。そして「脂の木曜日」は、その四旬節を前に心ゆくまで食べて騒ごうというのがその由来です。行事の楽しみ方は国によって違うのですが、ポーランドでは、ポンチキ(写真)を大量に食べるのが、慣例の年中行事となっています。

  

ポンチキとはポーランド版の餡ドーナツのようなものですが、中には餡ではなくジャムが入っていて、さらに表面が砂糖コートされています。ラードで揚げてあるため1個が300キロカロリーもあり、紅茶と一緒に、一人で5個や10個と、食べられるだけ食べます。

ポーランド全国のパン屋さん・お菓子屋さんにとって、「脂の木曜日」は一年に一度のかきいれ時の日。一週間くらい前から予約を始め、当日はどの店でも臨時店員を動因して、大量のポンチキを売りさばきます。お客さんの方も、朝早くから行列を作り、一人60個、70個という単位で大量のポンチキを購入していきます。ポンチキは1個2zl(=70円)くらいですので、かなりの売り上げになります。路上にも普段は見かけない臨時のポンチキ屋さんが立ち並びます。もちろんテレビのニュースでも報道され、リポーターが町を行く人に「ポンチキいくつ食べましたか?」とインタビューしてまわります。

この「脂の木曜日」にはポンチキの他にもう一つ、ファボルキ(Faworki 「枯れ枝」の意味)と呼ばれる伝統的なお菓子が好んで食べられます。このファボルキはサクサクに揚げてあるクッキーで、ポンチキより低カロリーですが、皆ポンチキとファボルキの両方食べるので、ダイエットにはなりません。

今年我が家ではポンチキを5個購入しました。私は3個食べたところで満腹になりギブアップしました。ポンチキは確かに味がとてもあっさりしていて飽きが来なく、紅茶といただくととても美味しいのですが、やはり1個300キロカロリーですので、さすがに3個が限度でした。


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エロス像、結局中央広場に置くことで決定

2007年01月29日 | 文化

置き場所を巡ってずっと議論が続いていたクラクフ・中央広場のエロス像ですが、結局どうやら中央広場の今の場所にそのままずっとおかれることになりそうです。
(これまでのいきさつについては前回の記事をご覧ください。)

もちろん今でも反対意見は根強くあるのですが、最終的な決定権が市長にゆだねられ、11月の統一地方選挙でその市長を選んだのがクラクフ市民で、その市長がOKと言っているのだからしかたがありません。それにしても当初の4ヶ月限定が一年になり、結局ずっとそのままになってしまうのは、なんともポーランド的... 最初からミトライ氏の作戦勝ちだったような気もします。

 

ただ私個人的にはやはり非常に残念に思います。このエロス像のような奇抜な彫刻は、巨大なパンテオンやコロッセウムを持つローマやアテネのような街に似合う現代アート。ルネッサンスやバロック建築のきめ細かい彫刻が美しいクラクフの街には、およそ不似合いです。そもそもスケールが釣り合っていません。

スケールということで言えば、パリの象徴であるエッフェル塔も、できた当初は景観を壊すと避難轟々だったようですが、時間が経つにつれ街に馴染んでくるようになったといわれています。クラクフのエロス像も、時間がたてば見慣れてくるのでしょうか。。ただパリのような大きな街と違って、クラクフはとても小さな町。見所は旧市街がほとんどですし、その中でも中央広場はクラクフの顔ともいえる存在の場所です。だから何もクラクフに置くにしても、旧市街のど真ん中の中央広場である必要はまったくないはずです。その点も反対派の人々から厳しく指摘されていた点で、例えばポズナニで展示会を行ったときも、旧市街の真ん中ではなくすこし外れた場所に設置されたことを挙げ、もっとふさわしい場所があるはずだ、と今回の決定を非難しています。(ちなみにエッフェル塔のある場所は、街の中心からはかなり離れています。)

贈り物は本来もらってうれしいものですが、受け取り方法を強制されるのも... 困ったことです。


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クリスマス・イブの食卓

2006年12月24日 | 文化

カトリックが国教の国、ポーランド。
その伝統的なクリスマス・イブの食卓をご紹介します。

24日のクリスマス・イブと、25日のクリスマス当日は、親族で集まって、クリスマスの食事会をします。日本でいったら、正月に親族が一同集まって御節を食べるのと同じで、年末年始のとても大切な伝統的な行事です。

24日の日没、食卓の席に皆が揃うと、まずは家族の中で一番若い人が聖書の一節を朗読します。次に各自がオプワテック(Opłatek)と呼ばれる白いせんべいを手に持ち、割ってそのかけらを交換して、互いに幸福の挨拶を交わします。

   

食事は通常通り、まずスープから始まります。クリスマス・イブのスープは、バルシチ(赤バルシチ)、きのこのスープ(ズーパ・グジボーヴァ-Zupa Grzybowa)またはジューレックのどれかで、地域ごとに異なります。クリスマスをイメージしたテレビCMなどでは、かならずバルシチが出てくるので、全国的にはバルシチのようです。

   

我が家は、クラクフ郊外出身の義母の料理ということで、毎年ズーパ・グジボーヴァでしたが(写真)、義妹が婚約者とワルシャワで同棲し始めてからは、義妹からのリクエストか、バルシチも追加されました。地域によって味が異なるのは、日本のお雑煮みたいで、面白いですね。

   

次にメインディッシュです。イエスの12人の弟子にちなんで、料理は12皿用意します。にしんやサーモン、鱒の燻製など魚料理が中心となります。

クリスマス・イブは、あくまでも25日のクリスマスの前夜祭。なので復活祭の前の四旬節(Wielki Post)同様、肉料理は控え、ひっそりとした食事会になります。実は三年ほど前に、「クリスマス・イブに肉を食べてもよろしい」というバチカンからの許可(?)が出たらしいのですが、それでもポーランド人は、「クリスマス・イブの食事は伝統的な魚料理」のスタイルを貫いています。

そんなクリスマス・イブの食卓の一番のごちそうは、鯉のフライです。普段肉料理が中心で、あまり魚を食べないポーランド人ですが、クリスマス・イブのご馳走は、鯉のフライときまっています。そんなわけで、毎年クリスマスの時期になると、毎年スーパーの食料品売り場に鯉の量り売りの特設水槽ができたり、鯉売りのトラックが住宅地を巡回したりするようになったりと、「ポーランドの冬の名物詩」となっています。

   

この鯉のフライ、私もポーランドにきて初めて食べたのですが、とてもおいしくてびっくりしました。なんというか、魚なのに肉のような食感で、非常に食べ応えがあります。ポーランド語で、ご馳走のことを、「スーペル-Super」というのですが、まさに「超」美味しいので、私も毎年とても楽しみにしているお料理です。

さて食事がひと段落すると、プレゼント交換です。皆が持ち寄ったプレゼントはまとめてツリーの下に高く積み上げられており、子供だけでなく大人も一人一人順番に包みを受け取ります。プレゼントは天使からの贈り物ということになっています。そしてクリスマスキャロルを皆で歌い、盛り上がります。

そして食事が終わると、深夜0時のキリスト降誕のミサに参列するため、皆で教会に向かいます。最近の若い人は、信者であっても普段教会のミサに行く人はそれほど多くはないのですが、それでもクリスマス・イブはやはり特別な日ですので、若者を含め多くの人が、イブのキャンドルサービスに参列します。(もっとも寒くて外に出たくない人や、家から教会が遠い人は、ミサのテレビ中継があるのでそれで済ませられます)ポーランドのクリスマスは、ポーランド人が、カトリック教徒であるというアイデンティティをあらたにする、とても大切な行事なのです。


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クリスマス・イブ・イブ

2006年12月23日 | 文化

困ったことに、明日のクリスマス・イブ、12月24日は日曜日です。
そう言われても「はて?」という感じですが、敬虔なカトリック教徒の国、ポーランドでは、これがちょっとした問題となりました。

よく知られているように、クリスマス(Boże Narodzenie)とは、12月25日のキリストの生誕を祝うお祭りです。そして24日のクリスマス・イブ(Wigilia Bożego Narodzenia)のお祭りは、クリスマスという祝日を前にしての前夜祭とされています。この日はあくまでも前夜祭なので、復活祭の前の四旬節(Wielki Post)の時期のように、肉食を控え、騒がずにひっそりと過ごす日とされています。

   

しかし、一方で日曜日というのは、カトリックの祝日で、お祝いをする日です。なので、前夜祭であるクリスマス・イブが、祝日である日曜日にあたるのは、カトリックの教えの解釈によっては、矛盾するということになるのです。そんなことをいったって、カレンダーの都合上、何年かに一度、24日が日曜日になってしまうのは避けようがないのだし、カトリック教会の方でも、気にせずに24日にクリスマス・イブを祝うように説明しているのですが、それでも、厳格に聖書の教えを守っている家庭では、「これは困った!」と大問題となりました。

どうしたかというと、そういうお家では、今年は、今日23日に、一足早くクリスマス・イブの食事会を行ったそうです。先ほどの夕方のテレビのニュースで、今日クリスマスパーティを開いている家庭が紹介されていて、「あれ、クリスマス・イブにはまだ一日早いのにおかしいな」と思っていたら、そういうことでした。

ポーランドは国民の90%以上が敬虔なカトリック教徒といわれていますが、実際に日常生活に宗教の教えをどれだけ実践しているかは、人によってだいぶ異なります。首都ワルシャワなどの大都市では、若い人であれば、めったに教会に足を運びません。ですので、今回23日の土曜日にクリスマス・イブ・イブを祝った人は、国民全体からしたらそれほど多くはないと思います。しかし今でも地方の農村部の方にいけば、毎週日曜日に必ずミサに行き罪を告白し、金曜日は肉食を控えて、と聖書の教えを忠実に守っている人が沢山いて、宗教というものが、いかに日常生活に密接に関わるものであるのかに気づかされます。それにしても、「24日にクリスマス・イブ・パーティを開いても構いません」との教会からのお墨付きが出ているのに、自分たち独自の解釈で、クリスマス・イブを24日の日曜日から、23日の土曜日にずらす、という発想には、少なからず驚かされました。


一方で、ユーラシア大陸のはるか向こうの日本では、すっかり24日のクリスマス・イブがクリスマスの本番みたいになってしまって、23日のことをクリスマス・イブ・イブといって盛り上げたり、25日のクリスマス当日は軽んじられたり、はたまた24日に時間が取れない人が、23日にクリスマス・イブを祝ったりと、なんでもありの状況になってしまっています。それなもんで、「クリスマス・イブ・イブなんて、商業主義もいいとこ、馬鹿げている」なんて批判が出たりもしますよね。しかしそんな批判をしている人も、「敬虔なカトリック教徒も、23日にクリスマス・イブ・イブを祝っている」なんて知ったら、逆カルチャーショックを受けるのでしょうか!?


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ザメンホフの足跡を辿る III  カウナス・ドルスキニンカイ

2006年12月15日 | 文化

ザメンホフの足跡は、ポーランドのお隣の国、リトアニア共和国にても辿ることができます。

リトアニア第二の都市カウナスは、ザメンホフの妻、クララの出身地で、カウナスには、クララ一家がかつて住んでいた家が現在も保存されており、「エスペラントの家」として、ザメンホフ関係の資料館になっています。昨年2005年にリトアニアで第90回世界エスペラント大会が開かれた際には、多数のエスペランティストが、この「エスペラントの家」を訪れました。(写真)

   

ザメンホフの妻クララはリトアニア系ユダヤ人で、とりわけクララの父は、ザメンホフのエスペラント運動に非常に理解を示したことで知られている人物です。エスペラントを考案した当時、まだ若くてお金のなかったザメンホフは、クララの父からの経済的支援を得て、ついに1887年に、Doktoro Esperanto. Lingvo internacia. Antaŭparolo kaj plena lernolibro-『エスペラント博士. 国際語. 序文と完全な学習書』を出版することができたのです。

   
   

カウナスには、そのほか、多数のユダヤ人を救ったことで知られる杉原千畝の記念館もあり、あわせての見学が可能です。カウナスは、ヴィリニュスからバスで2時間ほどですので、ヴィリニュスから日帰りで訪れることができます。

ところで「エスペラント発祥の地はどこか?」ということも、エスペランティストの間で議論されることがあります。ユダヤ人のザメンホフは、当時帝政ロシア領であった現在のポーランドのビャウィストクで生まれ育ち、ワルシャワにて書籍を発表しました。ですので、「現在のポーランドがエスペラント発祥の地である」ということで、議論の余地はあまりないように思えるのですが、リトアニアのエスペランティストに言わせると、「リトアニアこそがエスペラント発祥の地」なのだそうです。なんとなれば、ザメンホフはリトアニア南部ドルスキニンカイ近郊の保養地にしばし滞在していた時期があり、その後ワルシャワに戻って、最初のエスペラントの本を執筆したのですが、リトアニア人に言わせると、「この保養地にいたときに、エスペラントのアイディアが修練されたのだ」ということだそうで、かの地には、ザメンホフの銅像まで立っています。そして彼らは「ザメンホフはリトアニア人である」と、さも当然だという感じで主張しています。

   

リトアニアといえば、歴史上もっともユダヤ人迫害がひどかった地域の一つです。かつて幾度となく、ポグロムの嵐が当地のユダヤ人を襲い、第二次世界大戦中は、ナチス軍に率先して自警団を組み、ユダヤ人を虐殺したことで知られています。ザメンホフ妻クララの父がエスペラント運動を全面的に支援したのも、このような土地時代背景があったことでしょう。体制が変り2004年に欧州連合(EU)に加盟した現在でも、リトアニアでの対ユダヤ人感情は、ポーランド以上に悪いのが通常です。しかしユダヤ人として迫害の対象となる人物も、偉人であれば、リトアニア人として尊敬し、このように銅像まで立ててしまいます。

ところで、ビャウィストクやカウナスなど、ポーランド・ロシア・リトアニア隣接地域、つまり帝政ロシア時代のユダヤ教徒居住区であったグロドノ県一帯は、ザメンホフのほかにも、マックス・ヴァインライヒ、ウリエル・ヴァインライヒ、エリエゼル・ベン・イェフダーなど、言語に関係する人物を数多く排出しており、この地域と言語学との関係を結びつけて考える学者もいます。実際のところ、これらの言語学者が言語学に入れ組んだ、その動機と背景を学ぶことで、少なくとも、この地域の、複雑に入り組んだ民族史の、理解の一助となるのではないかと思います。


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ザメンホフの足跡を辿る II ザメンホフ通り~ワルシャワ・ゲットー跡~ウムシュラークプラッツ

2006年12月15日 | 文化

ザメンホフは、その半生をワルシャワの街ですごしました。ワルシャワ旧市街北のユダヤ人共同墓地には、ザメンホフやその妻クララ、父マルコや兄弟らのお墓があります。この墓地の最寄のバス停は、ザメンホフにちなんで「エスペラント」という名前になっており、「エスペラント」行きのバスに乗れば、この墓地に簡単にアクセスできます。

   

旧市街の北東、ムラヌフ地区のザメンホフ通りには、ザメンホフの住居跡があり、建物側面の記念パネルに、ここがザメンホフの住居跡であった事が、ポーランド語とエスペラントで記されています。

このムラヌフ地区というのは、ワルシャワのユダヤ人居住地区で、歴史的にユダヤ人が多数住んでいた地域です。そのため、1939年に第二次世界大戦が始まり、ワルシャワがナチス・ドイツ軍に占領されると、このムラヌフ地区を中心に、ワルシャワ・ゲットー(ghetto)が設けられました。

ザメンホフ自身は1917年に亡くなっていますので、第二次世界大戦の悲劇は経験していませんが、息子アダムと、二人の娘リディアとゾフィアは、ワルシャワに住んでいた他のユダヤ人同様、ホロコーストの犠牲者となりました。たった一人、お孫さんが、この戦争を生き延びており、自らの戦争体験を、『ザメンホフ通り-エスペラントとホロコースト』という本にまとめています。

   

ザメンホフの直系の孫、つまり息子アダムの一人息子であるザレスキ=ザメンホフ氏は、ワルシャワゲットーからウムシュラークプラッツ、つまりゲットーから強制収容所へと運ぶ貨物列車の「死の待合室」へ送られましたが、危機一髪というところで、死体のふりをして難を逃れ、奇跡の生還を果たしました。

ウムシュラークプラッツ(UMSCHLAGPLATZ)は、もともとはグダニスク方面へ向かう貨物列車の荷物詰め替え場所でした。しかしゲットーのユダヤ人の収容所への輸送が開始されると、この広場が、絶滅収容所行き列車の「死の待合室」となりました。ザメンホフ通りをまっすぐ行った付き辺りの広場です。ウムシュラークプラッツへ行ったら最後、もはや生きて帰ることは出来ず、列車に乗せられ、行く先にはトレブリンカ絶滅収容所が待っていました。 このトレブリンカ収容所とは、ワルシャワとビヤリストックの中間に建設された、悪名高い絶滅収容所で、孤児院の院長をしていた教育学者のヤヌシュ・コルチャック先生、映画「戦場のピアニスト」で有名なピアニストのシュピルマン一家 をはじめ、ワルシャワ・ウッヂ地方の30万人を越えるユダヤ人が、トレブリンカ絶滅収容所に運ばれたきり、戻ってきませんでした。

   

ユダヤ人、ポーランド人、ドイツ人、ロシア人など、互いに言語や宗教が異なる民族の、相互理解、そして平和共存を願ってやまなかったザメンホフですが、皮肉なことに、自らの子孫がホロコーストの犠牲になり、またその名を冠したザメンホフ通りこそが、同胞のユダヤ人を、ウムシュラークプラッツから絶滅収容所へと導く道となってしまったのでした。

本書『ザメンホフ通り-エスペラントとホロコースト』では、ザメンホフの孫であるが為に氏がたどった数奇な半生と、氏の語る世界観を、ジャーナリスト、ロマン・ドブジンスキー氏によるインタビュー形式で掲載しており、大変読み応えのある一冊です。また、日本のエスペランティスト67 名が、メーリングリストで連絡をとり合いながら、エスペラント語版から共訳したことでも話題となっています。


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