ポーランドからの報告

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ヨハネ・パウロ二世の世代 - Pokolenie JP2

2007年04月03日 | ヨハネ・パウロ2世

ヨハネ・パウロ二世逝去以降、Pokolenie JPII, Pokolenie JP2-ポコレーニェ JP2 という言葉が流行しています。「ヨハネ・パウロ2世の世代」-もしくは 「ヨハネ・パウロ2世のジェネレーション」とでも訳すべきでしょうか?その定義はややあいまいなのですが、「新しい法王ベネディクト16世を敬いつつも、ヨハネ・パウロ二世に精神的に帰属していると感じている世代」、「ヨハネ・パウロ二世に影響を受けた世代」くらいの意味のようです。
 
昨日の記事でも触れましたが、最近の世論調査では、「ヨハネ・パウロ2世世代-Pokolenie JPII, Pokolenie JP2に属しているか」との質問に、回答者の73%が「そう思う」と回答したとの報告がありました。もっともこれには反論もあり、「私はJP2世代に属しているとは感じない。むしろMP3世代!?」なんていう冷やかしのコメントが寄せられ、それに対する賛同意見が相次いだりと、「流行している」というより「流行させている」感じがしなくもありませんが。

なにはともあれ、ヨハネ・パウロ二世が逝去されてからというもの、この「Pokolenie JP2-ポコレーニェ JP2」という言葉をかなり頻繁に耳にするようになりました。Pokolenie JP2 というロゴのTシャツやトレーナー、マグカップなどが売れ行きを伸ばしたり、それに気をよくした会社側がPokolenie JP2 というロゴを商標登録に出したものの却下されたりと、何かと世間の話題を呼んでいています。皆さんもポーランドを訪れたら、この Pokolenie JP2 グッズを探してみてください。


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ヨハネ・パウロ二世逝去から二年

2007年04月02日 | ヨハネ・パウロ2世

ヨハネ・パウロ二世逝去から今日で丸二年を迎えました。

二年前の法王の逝去では、多くのポーランド国民が深い悲しみに包まれました。とりわけ印象的だったのは、信心深い中高年世代だけでなく、若い世代の人にも、涙を流し悲しむ姿が多数みられたことです。考えてみれば、ヨハネ・パウロ2世の在位期間は26年と長く、 それゆえ若い世代は、ヨハネ・パウロ2世以外の法王を知らずに育っています。 これまで教会や学校で教わり、空気の様にその存在を当たり前のように感じていた法王との突然の別れ、まさに文字通り「ヨハネ・パウロ2世のいない世界なんて考えられない」とのショックが大きかったようです。テレビのインタビューでも、「大切な家族を失った」と悲しむ声が多く聞かれました。

  

二回忌の今日は、サン・ピエトロ大聖堂地下の墓所にてスタニスワフ・ジーヴィシュ枢機卿・クラクフ大司教によるミサが行われたほか、午後からは、サン・ピエトロ大聖堂広場にて、ベネディクト16世による盛大な追悼ミサが行われました。ポーランド国営放送(TVP)でも特別の番組編成になり、アナウンサーも黒服に白リボンをつけて報道していました。

ところでテレビのニュースによると、最近行ったアンケートで、回答者の93%が、「我々の法王」という言葉で、(現在のベネディクト16世ではなく)、ヨハネ・パウロ二世を思い浮かべる、という結果がでたそうです。また別のアンケートでは、回答者の73%が「ヨハネ・パウロ2世世代-Pokolenie JPII, Pokolenie JP2に属していると感じる」との報告がありました。

最近のポーランドでは、ワルシャワ大司教の辞任をはじめとするカトリック教会に関するスキャンダルが相次ぎ、カトリック離れ・教会離れが加速しています。ただポーランドでは、伝統的にカトリック教会や、イエス・キリスト、ヨハネ・パウロ二世等のことを悪くいうのは、「教養がない」、「育ちが知れる」と見る向きがあり、表立っては批判はされない傾向にあります。なので上の数字(93%・73%)は一概に鵜呑みにはできないのですが、それでもいまだに多くのポーランド人が、ヨハネ・パウロ二世のことを敬い慕っていることがうかがい知れます。


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ヨハネ・パウロ二世の列福調査 I

2007年03月31日 | ヨハネ・パウロ2世

先代ローマ教皇であるヨハネ・パウロ二世の二回忌を4月2日に控え、今ポーランドでは、ヨハネ・パウロ二世の列福調査についての話題で連日もちきりです。とくにヨハネ・パウロ二世が生前に行ったとされる奇跡について、ポーランド国営放送(TVP)などで、連日トップニュースで報道されています。

福者(Beato) とは、徳と聖性を認められた信徒に対し、死後に与えられる称号とされています。バチカンのローマ教皇庁にて列福(Beatificatio)されることにより、福者となります。 列福されるには、まず当該人物の出身の司教区にて徳と聖性についての調査(列福調査)が行われ、その資料はローマ教皇庁の列聖省に送られて、再び審査されます。この二度の審査により福者の位置に加えるのがふさわしいと判断されると、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂において列福が宣言されます。 さらに列聖調査がおこなわれ審査に通れば、列聖(Canonizatio)され、聖人(Saint)に列せられることになります。

   

この列福審査の中で、一番重要となるのが、生前その人物が奇跡を起こしたかです。というのは1831年の教改正以降、殉教者を除き、列福には、生前に1つ以上の奇跡、つまり現代科学で説明できない超科学現象を起こしたという証拠があることが望ましいとされているからです。そのためヨハネ・パウロ二世の場合も、生前に奇跡を行ったかどうかが、列福されるかの焦点のひとつとなっています。

現在連日メディアでの列福報道が過熱しているのは、ヨハネ・パウロ二世が奇跡を行ったと証言する修道女(シスター)が現れたからです。フランスの修道女マリー(Marie-Simon- Pierre)さんは、医者もさじを投げたほどのパーキンソン病をわずらっていましたが、ヨハネ・パウロ二世の奇跡により、すっかり病状が回復したのだそうです。これまで表舞台には姿を現しませんでしたが、ヨハネ・パウロ二世の列福がいよいよ近くなったため、今回メディアに登場したのだそうです。

通例、列福調査は該当人物の死後5年が経過しないと開始されず、また一連の列福調査から列福までの手続きには死後数十年を要するのが通常とされています。例外として、生前から聖女の呼び声が高かったマザー・テレサが、死後6年で列福されていますが、来月2日の二回忌を機に、今回ヨハネ・パウロ二世が列福されれば、史上もっとも早い列福となるため、各方面から注目されています。とくに現教皇のベネディクト16世は、就任当時からヨハネ・パウロ二世の列福に意欲的で、逝去からわずか1年2ヵ月後の2005年6月に早くも列福調査を開始しており、今後の展開が期待されています。

ところでヨハネ・パウロ二世自身、晩年長きにわたってパーキンソン症候群をわずらっていたのは有名ですが、フランスの修道女に奇跡を起こしパーキンソン病を治したのなら、なぜ自分の持病は奇跡で治せなかったのかな~などとふと思ってしまいました(素朴な疑問として)。ちなみに日ごろからポーランド・カトリック教会がポーランドの政治やメディアに顔を出しすぎることに批判的な我が家の夫は、今回のヨハネ・パウロ二世の列福調査についても、公共のマスメディアが、列福調査について連日トップで報道していることで、またまた機嫌が悪くなっています。というわけで、とりあえず今後もヨハネ・パウロ二世の列福調査に注目したいと思います。


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ヨハネ・パウロ2世ゆかりの地を歩く ⑥ ヨハネ・パウロ2世号

2006年09月17日 | ヨハネ・パウロ2世

今年の6月から、ポーランド国鉄(PKP)ではクラクフ-ヴァドヴィツェ間で ヨハネ・パウロ2世号-TOTUS TUUS-を運行しています。2005年9月ポーランド国鉄の社員がクラクフ南部ワギェヴニキのサンクタリウムを訪問した際、「ヨハネ・パウロ2世への感謝の気持ちを込めて、特別列車を運行しよう」というアイディアが生まれ、それからわずか一年未満で事業が完成しました。ポーランド国鉄といえば万年予算不足で、今年も大量リストラやダイヤ1/3カットなどの問題が伝えられていましたが、それでもこういう事業は驚くべき速さでことが進みます。

このヨハネ・パウロ2世号は、ヴァチカンカラーの黄金色の最新式車体で、側面に TOTUS TUUS の文字が刻まれています。この TOTUS TUUS とは「私のすべてはあなたのもの」という意味のラテン語で、ヨハネ・パウロ2世が生前に好んで使ってた言葉です。

  
  

電車はクラクフ中央駅を出発し、ワギェヴニキ、カルヴァリアとヨハネ・パウロ2世ゆかりの地に停車して、約1時間後にヴァドヴィツェに到着します。クラクフ中央駅発ヴァドヴィツェ行きが8:55、12:55、16:55の3便、ヴァドヴィツェ発クラクフ行きが10:30、14:30、18:30の3便で、料金は片道券が11.50zl、往復件が18.00zl。切符は一日有効ですので、ヴァドヴィツェに行く道中に途中下車してワゲヴニキ(Łagiewniki)の サンクタリウム(Sanktuarium Bożego Miłosierdzia)やユネスコ世界遺産の カルヴァリア・ゼブジドフスカ(Kalwaria Zebrzydowska)を訪問することができます。さらに車内では液晶モニターでヨハネ・パウロ2世の特集DVDが放映されていて巡礼地訪問のよい予習(?)ができたりと、まさにヨハネ・パウロ2世号の名前にふさわしい設備が備わっています。地元の人の交通手段としてはもちろんのこと、世界中からのカトリック巡礼者の利用が期待されています。

クラクフへ来る日本人観光客は、そのほとんどの方が、郊外のアウシュビッツ=ビルケナウ収容所を見学後、急ぎ足で別の街に移動してしまいます。クラクフ=アウシュビッツの街のようなイメージをもたれることもしばしばですが、ポーランド人にとって、クラクフはなによりも旧市街とヴァヴェル城の街、ヴィエリチカ岩塩坑の街、そしてヨハネ・パウロ2世の街なのです。ヨハネ・パウロ2世号ができて、ヴァドヴィツェ訪問もとても便利になりました。クラクフまでいらしたら、ぜひヴァドヴィツェやカルヴァリア・ゼブジドフスカまで足を延ばしてみてください。


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ヨハネ・パウロ2世ゆかりの地を歩く ⑤ 法王の生家

2006年09月16日 | ヨハネ・パウロ2世

ヨハネ・パウロ2世の生家は現在記念館となっており、亡き法王をしのんで世界中からカトリック信者が訪れます。記念館には幼少時代に使用していたベビーベッドや大司教や枢機卿時代の洋服や靴、さらにはスキーウェアやスキー板などの私用品まで、ヨハネ・パウロ2世に関するありとあらゆる展示がされています。広くはありませんが、入り口で入場制限をしているので混雑はしていなく、比較的ゆっくりと見学することができます。

  
  
  

この生家は大聖堂のすぐ裏ですので、迷うことはありません。そのほか通っていた小学校や、美味いクレムフカのケーキ屋さんなど、ヨハネ・パウロ2世に関する場所には説明パネルが設置されていますので、このパネルを辿りながら観光することができます。びっくりするのが、ヨハネ・パウロ2世の生活範囲の狭さ。生家、大聖堂、小学校、ケーキ屋がすべて大聖堂前広場から半径100メートルの範囲に収まっています。移動がいらないので観光客にはとても便利ですが、それにしても驚きの行動範囲の狭さです。

以前から思っていたのですが、家と学校が近い人は、通学の時間を勉強に当てられるからでしょうか、優秀になる傾向があるように思います。余談になりますが、私の知り合いの東大生も小学校が家の目の前でしたし、クラクフ大学医学部を出た私の夫も、やはり高校が家から50メートルでした。調べてみれば他にももっと例があるように思います。ヨハネ・パウロ2世の場合も、こんなに家と学校と教会が近いのだから、きっと毎日学校帰りに教会によって、ミサに参加したり神父の説教をきいたりしながら、信心を培っていったのでしょう。そういった意味で、ヴァドヴィツェはまさに「法王を生んだ街」の名にふさわしい街であると思います。


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ヨハネ・パウロ2世ゆかりの地を歩く ④ 法王のクレムフカ

2006年09月15日 | ヨハネ・パウロ2世

クレムフカ(Kremówka)とは、たっぷりのクリームをパイ生地にはさんだケーキで、りんごのケーキ・シャルロトカ(Szarlotka)やチーズケーキ・セルニク(Sernik)などと並び、一般家庭でよく食べられているポーランドの伝統的なケーキです。

そのクレムフカが、ある日突然 法王のクレムフカ(Kremówka Papieska) として一躍人気になりました。1999年6月、ヨハネ・パウロ2世のヴァドヴィツェ凱旋の時のことです。広場でのミサにて、ヨハネ・パウロ2世が、子供時代によく通った中央広場の一角のケーキ屋のクレムフカが美味しかった、とのエピソードを話したところ、翌日には町の全部のケーキ屋からクレムフカを筆頭にありとあらゆるケーキが売り切れてしまったのです!それ以来「クレムフカは法王のケーキ」というイメージがすっかり定着しました。

  
  

ヨハネ・パウロ2世ご用達のケーキ屋さんは残念ながら1950年代に廃業し、現在その建物には銀行が入っています。しかしヴァドヴィツェの街のカフェでは、必ずこのクレムフカを出しているので、ヴァドヴィツェを訪れたら、クレムフカを食べるのが、通な楽しみ方となっています。

というわけで、私も先日ヴァドヴィツェを訪れた際に、ヨハネ・パウロ2世の生家の真向かいにあるカフェに入ってみたのですが...残念ながらここのカフェのクレムフカは全然美味しくありませんでした。クレムフカはクリームの味が勝負なのに、そのクリームが全然美味しくなくって...しかも値段は安かったとはいえ、一切れが小さかったですし...どうにもこうにも近所のケーキ屋のクレムフカの方がよっぽど美味しかったです。というわけで、法王のケーキとはいえ、クレムフカにもあたりはずれがあるようです。私の場合ははずれでしたが、多分ほかのカフェでは美味しいクレムフカが味わえると思いますので、ぜひお試しになってみてください。



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ヨハネ・パウロ2世ゆかりの地を歩く ③ ヴァドヴィツェの人々

2006年09月14日 | ヨハネ・パウロ2世

ヴァドヴィツェの人々は、ヴァドヴィツェ出身であること、そしてカトリック教徒であることにとても誇りをもっています。

かつて共産主義時代、ソ連(ロシア)の経済支配に苦しめられていたポーランド人にとって、ローマ法王がポーランド出身であるということは、非常に誇らしいことでした。ロシア人とポーランド人は同じスラブ民族ですが宗教が異なり、ロシア人は東方ロシア正教を信仰しています。そのためポーランド人にとって、カトリック教徒であることは民族のアイデンティティそのものであり、その総本山のバチカンに君臨するローマ法王が、ポーランド人の、そしてヴァドヴィツェ出身の法王であるということは、カトリック教徒としてなによりの誇りでした。

  
  

そしてポーランド人にとって、ヨハネ・ パウロ2世はカトリックのシンボルであるとともに、東欧民主化運動のシンボルでもあります。80年代のポーランド民主化運動を支持したのが、ヨハネ・ パウロ2世まさにその人であるからです。1979年の第一回目ポーランド凱旋の際、ヨハネ・ パウロ2世は、ワルシャワのピウスツキ広場に集まった聴衆に向かって Nie lękajcie się (恐れてはいけない) と呼びかけ、当時ソ連による共産主義支配の絶望の中にいた人々に希望を与えました。このヨハネ・ パウロ2世の呼びかけでポーランド人は目を覚まし、その4ヵ月後には、ワレサ氏を中心とした「連帯(Solidarność)」運動がおこり、民主化への道を歩むことになったのは、いまだ記憶に新しいところです。

それゆえヴァドヴィツェの住民は 「すべてはこのヴァドヴィツェの街から始まったのだ」と「連帯」発祥の地グダニスクに加え、ヴァドヴィツェこそが20世紀のポーランドそして東欧の民主化の歴史の原点なのだとの誇りを持っているのです。


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ヨハネ・パウロ2世ゆかりの地を歩く ② ヴァドヴィツェ

2006年09月13日 | ヨハネ・パウロ2世

ヨハネ・パウロ2世の生まれ故郷、ヴァドヴィツェ(Wadowice)は、クラクフ西54kmの小さな街です。

ヴァドヴィツェの歴史は古く、はるか14世紀にさかのぼります。1430年にカジミエジュ1世により市町権(prawa miejskie)を与えられると、1489年までヴァドヴィツェ公国の首都として栄え、16世紀には手工業や商業が発達しました。街の見所は、大聖堂とヨハネ・パウロ二世の生家。ヨハネ・パウロ二世の生家は大聖堂のすぐ裏にあり、内部は博物館になっています。

 
 

世界中からカトリック信者が巡礼に訪れる街だけあって、その芳名帳の大きいこと!クラクフからの交通の便がよいことに加え、道中にもうひとつのカトリック巡礼地でユネスコ世界遺産のカルヴァリア・ゼブジドフスカ(Kalwaria Zebrzydowska)も経由できるため、ヴァドヴィツェとカルヴァリアの両方をクラクフから日帰りで訪問するコースが定番となっています。


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ヨハネ・パウロ2世ゆかりの地を歩く ① クラクフ大司教座宮殿・法王の窓

2006年09月12日 | ヨハネ・パウロ2世

敬虔なカトリックの国ポーランドが生んだローマ法王、ヨハネ・パウロ2世。
クラクフは、このヨハネ・パウロ2世の街としても知られています。

ヨハネ・パウロ2世は、1920年クラクフ郊外の街ヴァドヴィツェ(Wadowice)で生まれ、大学卒業後、クラクフ大司教を経て、バチカン枢機卿へ選任されました。ローマ法王になってからは、在位26年で130回以上の外遊をこなし、とりわけアルメニアやイスラエルを訪問するなど、異宗教との融和に努めました。さらにポーランド出身のコルベ神父を始め、多くの聖職者を聖人としたことでも知られています。昨年4月2日に逝去された際には、葬儀が行われた4月8日まで国全体が喪に服しました。そしてバチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂で行われたヨハネ・パウロ2世の葬儀には、ポーランドから50万人を超す人が参列しています。

  
  

クラクフ旧市街を中央広場から歩くこと徒歩1分、フランチェシュカンスカ通りに面した黄色い建物の入り口をくぐり中庭に入ると、ヨハネ・パウロ2世の像に出迎えられます。クラクフの教会区の管轄本部、 クラクフ大司教座宮殿 です。ヨハネ・パウロ2世は、この大司教座宮殿で大司教を務めた後バチカンに移られ、ローマ法王となってからも、ポーランド凱旋の際には必ずこの大司教宮殿に滞在されています。クラクフにおけるヨハネ・パウロ2世の足取りを辿る上で、一番重要な場所です。
  

そしてこの大司教座宮殿の象徴的な存在となっているのが、入り口のアーチの真上にあるお部屋の窓、 法王の窓 (Papieskie Okno) です。クラクフ凱旋の際に、いつもこのお部屋の窓から通りに集まった人に手を振って挨拶するのを好まれたことから、いつの間にか 法王の窓 と呼ばれ親しまれるようになったものです。先日ベネディクト16世がクラクフを訪問された際も、やはりこの法王の窓に立って挨拶を行いました。


クラクフには、このほかにも南部ワゲヴニキの サンクタリウム(Sanktuarium Bożego Miłosierdzia)や、2002年に250万人以上の信者を前に演説を行った ブウォーニア(Błonia)など、ヨハネ・パウロ2世ゆかりの場所がいくつもあります。



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