ポーランドからの報告

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カティンの森事件犠牲者の記念日

2007年04月13日 | 歴史

今日4月13日は、 カティンの森事件犠牲者の記念日-Światowy Dzień Pamięci Ofiar Katynia でした。

カティンの森事件 とは、第二次世界大戦初期に、ソ連のスモレンスクにほど近いカティン(Katyń)の森で、約25,000人ものポーランド人の戦争捕虜・インテリ・軍幹部などが、ソ連のNKVD(ソ連の内務省、秘密警察)によって、銃殺され埋められた事件です。事件から60余年が経過し、ご遺族の方もかなり高齢になってきており、決してこの事件が風化することのないよう、このように「カティンの森事件犠牲者の記念日」が設けられ、犠牲者を追悼するセレモニーが開かれています。二年前の2005年には、ロシア大使館前にて抗議デモも行われました。

  

ポーランドを代表する歴史映画監督であるアンジェイ・ヴァイダの最新作、
「Post Mortem.Opowiesc Katynska (カティン物語)」も、このカティンの森事件をテーマにしています。ヴァイダ監督自身、この事件で父親を亡くしており、監督生命をかけた渾身の作品となっています。写真はクラクフ、ヴァヴェル城の入り口付近にたつ、「カティンの森事件犠牲者の碑」です。ヴァヴェル城の前という一番目立つ場所に立てられており、まるで、この歴史的な事件を忘れることのないよう、世界中からの観光客に呼びかけているかのようです。

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クラクフのユダヤ人 III イザークシナゴーグ

2007年01月29日 | 歴史

カジミエジュ地区は、中世の昔にクラクフの隣町として建設されたユダヤ人地区です。ポーランドのユダヤ人地区の多くが第二次世界大戦で破壊されてしまった中、このカジミエジュ地区は、中世から残るユダヤ人地区として、大変貴重な場所です。

カジミエジュには、数多くのシナゴーグが残っています。シナゴーグとは、キリスト教の教会にあたるユダヤ教の礼拝場所です。残念ながら戦時中にクラクフを占領したナチス軍は、シナゴーグの装飾品のほとんどを奪略しました。それでもいくつかのシナゴーグは、今日でも使用されています。

 

カジミエジュ地区の中心街、シェローカ通り広場やユゼファ通りに近いイザークシナゴーグでは、戦前のクラクフのユダヤ人の暮らしを、ビデオとパネル展にて紹介しています。

 

シナゴーグに入る際、男性は帽子をかぶらなければいけません。紙でできた帽子を入り口で借りることができます。

 

戦前はクラクフの人口の1/4がユダヤ人でした。ビデオでも、イザークシナゴーグ前の広場やユゼファ通りを黒背広に山高帽のユダヤ人が大勢行き来している様子を見ることができます。しかし現在カジミエジュ地区でその姿をみかけることはめったにありません。彼らは一体どこにいってしまったのでしょうか?

戦争のもたらした悲劇についてとても考えさせられる場所です。ゲットーの英雄広場にあるゲットー博物館とあわせて訪問されることをお勧めします。


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クラクフのユダヤ人 II プワシュフ労働収容所跡

2007年01月28日 | 歴史

クラクフのユダヤ人は、クラクフ・ゲットーに集められた後、クラクフ市街に隣接する、 プワシュフ収容所(DAWNY OBÓZ PŁASZÓW) に収容されました。

1943年、クラクフ・ゲットーが解体されると、ゲットーのユダヤ人はクラクフ郊外のプワシュフ強制収容所へ連行されることとなります。このプワシュフ収容所は、ユダヤ人の労働力搾取を目的としていたため、労働力の近く、すなわち市街地のすぐそばに設けられました。絶滅収容所ではないため、ガス室などの絶滅施設は設置されませんでしたが、それでも虐待行為は日常茶飯事であり、加えて日々の重労働から命を落とす人も少なくなく、収容されていたユダヤ人は、毎日死と隣り合わせの生活を強いられました。

 

映画『シンドラーのリスト』にも登場しますので、ご存知の方も多いかもしれません。 シンドラーは、自身の工場をプワシュフ収容所の所属とし、工場の敷地内にプワシュフ収容所所属の私設収容所を設置、工場のユダヤ人労働者を強制労働収容所へ送ることなく、引き続きシンドラーの工場にとどめました。 過酷な労働条件の上、日常的な虐殺が耐えなかったプワシュフ収容所に比べ、シンドラーの工場での労働は、天と地の差でした。

 

プワシュフ労働収容所は、1944年に解体され、クラクフのユダヤ人はすべて絶滅収容所として悪名高いアウシュビッツへ送られることとなりました。この時すでに東側からソ連軍が快進撃を続けており、証拠隠滅のため、プワシュフ労働収容所は閉鎖されることになったのです。

 

このプワシュフ収容所があった場所は、現在モニュメントが残るのみです。収容所の建物自体は戦時中に解体されてしまった為一切残っておらず、また敷地も空き地のまま再開発もされていません。

このプワシュフ収容所跡へのアクセスですが、なにせクラクフの住宅地が、このプワシュフ収容所跡を避けるような形で広がっているため、距離の割りに非常に交通の便が悪いです。中心地からは、バスやトラムを乗り継ぎ、さらに停留所からも徒歩30分くらいかかります。一番よいのははタクシーです。でも運転手さんにびっくりされるかもしれません。それほど訪れる人がほとんどいない場所です。


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クラクフのユダヤ人 I クラクフのユダヤ人墓地

2007年01月28日 | 歴史

クラクフ・カジミエジュ地区、ミオドーヴァ通り(ul.Miodowa)を東へ進み、スタロヴィシルナ通り(ul.Starowiślna)を渡ってさらにいくと、ユダヤ人墓地があります。「地球の歩き方」などのガイドブックにも記載がないため、観光客の姿はほとんど見かけることは無い場所です。

このユダヤ人共同墓地の入り口の一角に、第二次世界大戦で犠牲になったユダヤ人の合同慰霊塔があります。クラクフには、第二次世界大戦開始前に、およそ6万5千人のユダヤ人が住んでいました。当時のクラクフの人口がおよそ24万人ですから、約4人に1人がユダヤ人であった計算です。しかしそのほとんどが、第二次世界大戦にて、ベウジェツ(Bełżec)、マイダネク(Majdanek)、アウシュビッツ(Auschwitz)などの絶滅収容所へ送られ、ガス室の露と消えました。

  

この慰霊塔をよく見ると、様々な形に切り取られた別々の墓石からできているのがわかります。周囲の壁も、同様にモザイク状に切り取られた墓石が敷き詰められているのが認められます。これは、ポーランドを占領したナチス軍が、ユダヤ人墓地から墓石を切り取り、こともあろうに、強制収容所の周辺の道路の舗装に使ったためです。戦後になって、道路にされていた墓石を回収し、このような慰霊塔としたのです。ナチス軍の残虐さは、ユダヤ人の生者を殺害するにとどまらず、このようにユダヤ人墓地を徹底的に破壊することで、死者への冒涜も行ったのでした。
つづく


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アウシュビッツ=ビルケナウ収容所の改名騒動

2007年01月27日 | 歴史

日本からポーランドにくる旅行客の方のほとんどが、アウシュビッツ収容所を訪れます。しかしポーランド人に「アウシュビッツに行く」というと、あまりよい反応が返ってきません。「せっかく日本から来たのだから、わざわざそんな所に出かけなくてもいいのに」「クラクフには、ヴァヴェル城や中央広場、ヴィエイリチカ岩塩坑など他に見るべき所は沢山ある」と、皆一様に苦虫をかみつぶしたような顔になります。

どうしてかと理由を夫に尋ねたところ、意外な答えが返ってきました。「アウシュビッツ収容所はポーランドにあるのだから、ポーランド人がこの強制収容所を造ったのだろう」と誤解されることを、ポーランド人は大変恐れているのだというのです。現にイスラエルでは「ポーランド人がアウシュビッツ収容所を造った」と考える人がいて、ポーランドに対する恐怖と憎悪の念が一部であり、そうでなくとも歴史的にポーランドは反セム人種的な国であるという印象が知られているので、それ故ポーランド人は濡れ衣を着せられるのを大変嫌悪しているのだそうです。

「むしろ勘違いということなら、日本では、アウシュビッツはドイツにあると思っている人も多い」と私が説明すると、今度は夫の方が、とても意外という顔をしました。日本ではアウシュビッツの悲劇というと、ドイツ人(ナチス)vs ユダヤ人という捕らえ方が一般的だと思います。「ポーランド人がアウシュビッツ収容所を造った、などという発想は、およそ出てこないだろう」と付け加えると、ほっとした顔になっていました。

  

それにしてもポーランドに来てからわかったのですが、ポーランド人は神経質なまでに「ポーランド人がアウシュビッツ収容所を造った」と誤解されることを恐れているようです。それを象徴しているのが、昨年夏に一部で話題になった、アウシュビッツ収容所の改名騒動です。

アウシュビッツ、アウシュヴィッツ=ビルケナウ、オシフィエンチムなどさまざまな呼び方をされるこの強制収容所ですが、ユネスコ世界遺産登録での正式名称は、Auschwitz Concentration Camp (アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所) となっています。この正式名称をめぐってポーランド政府から改名の要請が出ており、現在ユネスコ側との調整が続いています。ポーランド政府いわく、現在の名称は「ポーランド人がアウシュビッツ収容所を造った」との誤解を招くので、the Former Nazi German Concentration Camp of Auschwitz(旧ナチス・ドイツのアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所) に変更するよう、昨年3月からユネスコに提案しているのです。変更後の名前では、旧ナチス・ドイツによる収容所であることを明確に示す名称となっています。

この改名騒動の始まりも、アメリカやドイツなど欧米のメディアで、アウシュビッツ=ビルケナウ収容所が「ポーランドの強制収容所」と紹介されたことがきっかけといわれています。それをうけ直ちにユネスコに改名を要求するほど、それほど神経質なまでに、「ポーランド人がユダヤ人を迫害した」と思われることを、ポーランド人は嫌っているのです。

さてこの改名騒動ですが、昨年夏にリトアニアで開かた会議では、ユダヤ人団体の反発を受け、当面のあいだは見送りとなっています。今後の展開に注目したいと思います。


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ホロコースト記念日

2007年01月27日 | 歴史

62年前の今日1月27日、アウシュビッツ=ビルケナウ収容所解放が、ソ連軍によって解放されました。

アウシュビッツ=ビルケナウ収容所では、第二次世界大戦中、ユダヤ人をはじめヨーロッパ中の28の民族が強制収容され、重労働をさせられた上殺されました。アウシュビッツAuschwitz、ビルケナウBirkenau はそれぞれドイツ語の地名で、ポーランドでは「Oświęcim(オシフィエンチム)」、「Brzezinka(ブジェジンカ)」と呼ばれています。クラクフの西70kmのところにあり、バスで1時間半ほどです。

  

アウシュビッツ収容所の入り口はには『働けば自由になる』と書かれた標識が掲げられています。この門をよく見ると、3番目のBの文字が上下さかさまにつけられているのがわかります。この門を作らされた囚人が、せめてもの抵抗として、わざと逆につけたと言われています。

  

日本同様ヨーロッパでも、第二次世界大戦の悲劇が徐々に忘れられてきています。なんでも、イギリスの高校生の約50%が、アウシュビッツが何の名前だか知らないのだそうです。とはいえポーランドの学生は、中学校や高校の課外授業で必ずアウシュビッツ=ビルケナウを訪れますので、ほぼ全員がこの悲劇について多かれ少なかれ知っていますが、それでも当時の生存者の方も少なくなってきており、歴史教育に改めて力を入れる必要性を痛感します。

一昨年の60周年時より、毎年1月27日がホロコースト記念日に定められました。今日は当地で記念式典が開かれています。



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異教の神、シヴィアトヴィド

2006年12月29日 | 歴史

千年来のカトリックの国、ポーランドにも、その昔、異教の神を信仰していた時代がありました。

今となってはカトリック一色となったポーランドの街並みに、異教時代の面影は殆ど認められません。それでも辛抱強く、よーく眼をこらして探してみてください。例えば、クラクフ旧市街南にそびえ立つ、ヴァヴェル城。その城下に、スラブの神様は、今でもひっそりと立っています。

    

其の名も、太陽神、シヴィアトヴィド(Światowid)

このシヴィアトヴィドは、キリスト教以前、西スラブ人によって広く信仰されていた神さまです。白馬にのった軍神で、東西南北を見渡す四つの顔を持ち、またの名を太陽神と呼ばれ、五穀豊穣の神であり、同時に戦争の神でもありました。呼び名の由来は、世界を見渡す神-シヴィエントーヴィド(Świętowit)が訛ったものといわれています。

元々ポーランド人を含むスラブ民族は、スラブ神話の神々と精霊を信仰する多神教の民族だったのが、千年の歴史を経て、徐々にキリスト教化されていったものです。異教時代、スラブ民族は文字を持っていなかった為(文字はキリスト教とともに伝来)、現代スラブ神話として知られるものは、すべて口承民話によるところですが、それでも、この太陽神シヴィアトヴィドをはじめ、雷神ピョルン、狩猟の女神ジェヴォーナなど、さまざまな神話が伝わっています。

しかしカトリックの影響が非常につよい現代ポーランドにおいては、国史においても、966年のキリスト教受容からが重要視される傾向があります。それゆえ、キリスト教受容以前については、今から高々、千余年前のことに過ぎないにもかかわらず、ともすると異教時代の歴史そのものが、「先史扱い」か、もしくは「神話と同格扱い」になってしまうこともあります。実際、一体何人のポーランド人が、このシヴィアトヴィドについて知っているかは、まったく未知数です。

このシヴィアトヴィドが立っているのは、ヴァヴェル城下、ゲルトルーディ通りとストラドムスカ通りの交差点の緑地の一角です。旧市街中央広場からは、グロツカ通りをまっすく進んだ突き当り交差点向かい、トラムなら、Wawel駅下車、徒歩1分のところです。最近向かいに立てられた「カティンの森事件犠牲者の追悼碑」の方が目立つので、その影に隠れて、このシヴィアトヴィドには、殆ど立ち止まる人もいません。それでもシヴィアトヴィドが大好きな私は、いつも前を通るたびに、そっと拝んでしまいます。


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「戒厳令」 から 四半世紀

2006年12月13日 | 歴史

ポーランド全土を震撼させた1981年の「戒厳令」から、今日で四半世紀が経過しました。

81年の「戒厳令」とは、 レフ・ヴァウェンサ 率いる 「連帯」 など国内で強まる民主化運動の動きに、当時の首相兼、党第一書記の ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ が、民主化運動の取り締まり、夜間外出禁止などを全国民に布告したものです。日本語の「戒厳令」だと、言葉の持つ重みがあまり伝わってこないように思うのですが、ポーランド語では スタン・ヴォイェンヌィ-Stan Wojenny と呼ばれており、これは和訳すれば、「戦時下状態」という意味です。

ヤルゼルスキは「戒厳令」を敷いたことで、「民主化の流れにそむいた」として世界中からの批判を浴びましたが、後年になって、この「戒厳令」がなければ、ポーランドでも、隣国で発生した ハンガリー動乱プラハの春 のように、ソ連の軍事介入の危機があったことが明らかになっています。

25年も経った今、若い人達のなかには「戒厳令」の存在すら知らない人もいます。学校の授業であまり詳しく教えない上に、そもそも教える側の教師ですら実体験していないためによく知らない(当時まだ子供だったため)という状況です。しかしもちろん、今でも中年以上のポーランド人にとっては、この「戒厳令」は決して忘れることのできない歴史の一コマであり、根強い反ロシア感情の原因の一つとなっています。私の夫の両親も、電話の盗聴におびえた話、バスで3時間かけてチェコまで食料品を買出しにいった話、せっかく買った新鮮なハムを帰りに国境で没収されてしまった話、肉は貴重品で魚を食べるなど夢物語だった話など、当時の貴重なエピソードを聞かせてくれました。

この戒厳令から10年、数度に渡る円卓会議を経て、ポーランドはついに体制変換の時を迎えました。そしてこの偉大なる歴史の一シーンを担ったヤルゼルスキはポーランド初代大統領に、ヴァウェンサは二代目大統領に就任し、ポーランドはついに民主化したのでした。時は下って1991年のOECD加盟、NATO加盟を経て、ついに2004年5月には念願の欧州連合(EU)加盟をも果たしました。これで西側への完全復帰ということで、EU加盟の日はお祭り騒ぎでした。

さて、誰もが明るい未来を夢見たEU加盟の日から2年半、「戒厳令」から25年が経った今年、周囲から聞こえてくるのは... 相変わらず不満の声です。確かにEU加盟で経済は活性化しました。通貨のズウォーティ(zl)の価格も上がり、外国からの投資も増えました。しかし肝心の生活水準は一向に豊かにならないままで、物価上昇、優秀な人材の流失など、いいことなし。医療体制も腐敗したまま、最近は社会福祉制度(ZUS)まで崩壊の危機にあることがちらちらと聞こえてきました。 実際ポーランドの生活水準はEU加盟25カ国中最下位で、これは東アジアの平均をも下回る水準です。 一方国外流失組の顛末も芳しくありません。西欧ではやはりポーランド人労働者の地位は低いため、イタリアやスペインの労働キャンプで低賃金の強制労働を強いられている話、仕事の契約をしてイギリスに渡ったものの実際には仕事がなく(詐欺にあい)、かといって故郷にも帰れずホームレスの日々を送る人達の話-こういったニュースが国内にも伝わってきています。

ポーランドの人々にとって、EU加盟はいわば最後の持ち札で、これで西欧と肩を並べられると、EU加盟にすべてを期待していた面がありました。しかし2年半経ってもちっとも生活水準が上がらず... かといって今後、EU加盟に匹敵するイベントは当面ないわけで、国民の間に、あせりと不安が出始めています。

私のレポートが概して悲観的過ぎるとの意見もあるようですが、私の住んでいるマウォポルスキ県が、ポーランドで一番政治の汚職と腐敗がひどいお土地柄である、ということも影響しているかもしれません。確かに首都ワルシャワなどでは、ニューリッチ層が確実にいます。最近では月20万以上稼ぐ人も増えていますし、教養のあるエリートビジネスマンの未来は明るいでしょう。(また今度機会があればレポートします。)しかし地方に行けばいくほど、底なしの貧困の現実があります。

81年の戒厳令から、90年代の民主化までほぼ10年 - ということは、ポーランドが所得や生活水準、福祉などの面で真に「西欧」の仲間入りをするには、EU加盟からやはり10年くらいは気長に待つことになるのでしょうか。


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カティンの森事件

2006年11月24日 | 歴史

カティンの森事件 とは、第二次世界大戦初期に、ソ連のスモレンスクにほど近いカティン(Katyń)の森で、約25,000人ものポーランド人の戦争捕虜・インテリ・軍幹部などが、ソ連のNKVD(ソ連の内務省、秘密警察)によって、銃殺され埋められた事件です。

この衝撃的な事件は、第二次世界大戦終了後も、実質ソ連支配の傀儡政権下では、調査されることもないまま、隠蔽されてきました。しかし1990年代の一連の体制変換を経て、やっと国内でも独自の調査ができるようになり、広く国民一般に知れ渡るようになりました。

   

もちろん、広く知れ渡るや、多くのポーランド人が、衝撃と激しい怒りを感じることとなりました。ワルシャワの、ロシア大使館の真向かいに「カティン記念館」が設立され、クラクフでは、一番観光客が多く集まる、ヴァヴェル城の入り口付近に、「カティンの森事件犠牲者の碑」(写真)が立てられました。元々ポーランドでは、第二次世界大戦では、ナチス軍よりも、ソ連軍の蛮行が恐ろしかったと証言する人が多数いるのですが、この事件も、それを裏付ける事例の一つと言えるかも知れません。

この「カティンの森事件」に対して、ポーランド政府は、ロシア側に謝罪と補償を求めていますが、ロシア側は一切応じていません。もちろんポーランド側も食い下がらず、現行のカチンスキ双子政権でも、「カティンの森事件の解決(=補償)」を、外交カードとして、事あるごとに持ち出しており、それを嫌悪するロシアとの外交関係が、現在かつてないほど悪化しています。( 関連記事

カチンスキ双子政権は、その発足当時こそ、国民からの支持率が、野党「市民プラットフォーム(PO)」と半々でしたが、最近では、対ロシア強硬路線に出る度に、支持率を上げています。その背景の筆頭には、もちろん、この「カティンの森事件」があります。ポーランドでは、第二次世界大戦は、まだ終わっていないのです。


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ビックリ仰天

2006年11月24日 | 歴史

先日中央広場を歩いていたら、広場の一角の建物正面に、ナチスの鉤十字(ハーケンクロイツ)のついた大きな赤い垂れ幕がかかっているのを発見し、何の騒ぎかと、びっくり仰天してしまいました。

その後家に帰って調べてみたら、映画のロケ撮影だったことが判明。「灰とダイヤモンド」「地下水道」などの名作がある、アンジェイ・ヴァイダ監督の新作 「Post Mortem.Opowiesc Katynska (カティン物語)」 という映画で、第二次世界大戦中の実話、 「カティンの森事件」 を題材にしており、今年の10月からクラクフなどで撮影に入っているとのことです。

残念ながら現場の写真を撮るのを忘れてしまったので、家に帰ってから、ネットの記事に写真がないか探したのですが、どの記事も申し合わせたように垂れ幕の写真がありませんでした。やはりいくら映画ロケ撮影用のセットといえども、鉤十字を現行のメディアに掲載するのはタブーのようでした。(ひとつだけ、鉤十字部分を覆った状態の垂れ幕の写真を載せている記事がありました。)

それにしても、街を歩いているときには、映画ロケだなんて知りませんでしたので、唐突に鉤十字を目にして、心底驚きました。もちろん驚いたのは私だけではなくて、事情をまったく知らない観光客らは、唖然としていました。特にイスラエルからの旅行客らは、怒りをあらわにし、「悪夢だ!いったい何の真似事か」と、腸が煮えくり返るといった感じで、クレームをつけていました。

もちろん、撮影スタッフ側も、景観への影響を配慮して、鉤十字付き垂れ幕は、撮影に必要な最低時間だけ掲げることとし、撮影時間以外は、鉤十字の部分を黒い幕で覆って隠したそうですが、それにしたって、ちょうど覆いが外れたときに鉤十字を見てしまった人は、本当に気の毒でした。


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