『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

旧暦9月13日 住吉神社の流鏑馬  

2007年10月15日 | 歴史
今回もまた、
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

『磐城誌料歳時民俗記』には、
江戸時代から明治時代の初めにかけての
いわき地域の人々の暮らしや民俗などが
極めて丹念に記録されています。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦9月13日の項には
次のような記述があります。

十三日 城南二里半、住吉村ノ住吉神社ニ流鏑馬ノ神事アリ。的三段ニアリ。郷人相勤ム。諸人參詣雲集ス。賣物ハ飯野八幡宮ノ祭日ノ如シ。此社ハ延喜式内磐城七座ノ一ニシテ、祭神ハ摂州住吉ノ神ト同體ナリ。現時ノ社殿、幣殿、拜殿、神楽殿。寛文十八年、内藤兵部少輔政晴ノ造營ナリ。境内千七百九十三坪ノ除地アリ。社ノ南側ニ老銀杏樹ノ殯出セルアリ。其南ニ森磈大石ノ一山丘ヲ為スアリ。松樹翠ヲ交ユ。古昔ハ社殿丘上ニアリシヲ、今ノ地ニ遷ストイフ。星見池アリ。生根橋アリ。橋ハ老櫻樹ノ根、横ニ小溝ヲ超ヘ、彼岸ノ地ニ入ル。圍リ四尺余、之ヲ渡リ、神殿ニ向フ、恰モ獨木橋ノ如シ。鐘樓ニ天文庚子ノ鋳鐘アリシガ、文政間、冶鎔シテ之ヲ新ニス。最モ惜ムベシ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

旧暦9月13日
磐城平城の南、約10キロメートルのところに鎮座する
住吉村の住吉神社で流鏑馬が行われる。
騎手(射手)が射る的は三つある。
騎手(射手)は土地の者が勤める。
多くの人たちが参詣に訪れる。
露店などで売っているものは、
平の飯野八幡宮のものと同じである。
住吉社は「延喜式」に記載がある「磐城七座」の一つで、
祭神は摂津の住吉神である。
現在の社殿や幣殿、拜殿、神楽殿は、
寛文18年、内藤兵部少輔政晴の造営によるものである。
境内に1,793坪の除地がある。
神社の南側にイチョウの大木がある。
そして、その南には山のように大きな石があり、
風光明媚な場所となっている。
昔は神社の社殿は
この山のような大石の上にあったという。
また、星見池という池もあり、
そこに生根橋という橋が架かっている。
橋は桜の大木の根でできている。
周りが1.2メートルくらいで、
この橋を渡って神殿にお参りをする。
丸木橋のようなものだ。
神社の鐘楼には、
かつて戦国時代の天文庚子の年に造られた鐘があったが、
江戸時代の文政年間に、その鐘が鋳潰され、
新しい鐘が造られた。
その鐘に刻まれていたであろう鋳造の経緯などの歴史記録が残されずに
鋳潰されてしまったのは、本当に残念である。
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