『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

旧暦9月24、25日 花園権現祭礼 子だち参り

2007年10月26日 | 歴史
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦9月24、25日の項には、
次のような記述があります。
草野の花園神社の祭礼についての記事です。

廿四日 廿五日 城東一里三甼、下神谷村ノ花園権現例祭ナリ。文禄元年、常州車城主、好間三郎兵衛、常州花園山ヨリ勧請スル所。二歳ノ小兒、こだち參りトテ、四方ヨリ雲集ス。二歳ノ時、事故アリ、こだち參りセザレバ、四歳ノ時ニ參詣スル事ナリ。此こだち參りヲ小兒ノ祝儀トシ、一種ノ風習アリ。必ズ酒肴ヲ携ヘ、なげ餅、まき銭ヲナス事ナリ。なげ餅、まき銭ハ、宅ヲ出ヅル時ニ壱回、鎌田川ヲ過グル者ハ橋側ニテ一回、祠下ト都合三回ナリ。貧冨ニ應ジ、餅ヲ搗クノ多少、樽肴ノ美悪ハアルベシト雖モ、其用意ハ皆同一ナリ。祠壇ノ下ニテなげ餅、まき銭ヲ終リタル後、祠前ノ人家ヲ借リ、樽肴ヲ開キ祝フ。帰リニハ多ク熟柿ヲ買ヒ取リ、祝儀ヲ遣ラレタル家ヘ土産ニスルヲ例トス。道筋ニ村童、縄ヲ張リ、參詣人ヲ要シ、祝儀ト唱ヘ、銭ヲ索ム。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

廿四日 廿五日
磐城平城の東4.3キロメートル、
下神谷村に鎮座する花園権現の例祭が行われる。
この神社は文禄元年、常州車城の城主、好間三郎兵衛が
常州の花園山から勧請したものである。
この日、2歳になった子どもたちは
「子だち参り」ということで、たくさんの参詣がある。
2歳の時に差し障りや事情があって、
「子だち参り」が出来なかった時には、
4歳の時に参詣する。
「子だち参り」というのは子どもの成長の祝いで、
一種の仕来りがある。
花園権現に参拝する際には、必ず酒やご馳走を持参し、
投げ餅、撒き銭を行う。
投げ餅、撒き銭は自宅を出発する時に1回、
鎌田川を渡る者は橋のたもとで1回、
花園権現の下で1回、合計3回行う。
貧富に応じ、餅の多少、酒やご馳走の良し悪しなどの違いはあるが、
すべての者がこのような準備をする。
神社での投げ餅、撒き銭が終わると、
参詣者たちは神社の近所の家を借り、
酒を飲み、ご馳走を食べ、お祝いをする。
帰りには熟し柿を買い求め、
祝儀をいただいた人たちへの土産にする。
道筋では土地の子どもたちが縄を張り、
通せんぼをし、参詣の人たちに
「ご祝儀をください、ご祝儀をください」
とお金をねだる。
コメント (2)
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