『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

旧暦7月30日 閼伽井嶽薬師縁日

2007年09月24日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。
『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月晦日(みそかび 月末)の項には、次のような記述がある。

晦日 小ノ月ナレバ廿九日 閼伽井嶽薬師ノ縁日ニテ、正月晦日ヨリ一層賑カナリ。近隣ハ勿論、白川、會津、二本松邉ヨリ二日路、三日路ヲカケ參詣スル者夥シ。別當常福寺ニ着クモノ千百人、庫裏、客殿ニ居餘リ、廊下、外縁マデ詰合テ通夜ス。寺ノ賄ヒ紛亂混雜大方ナラズ。坊ニ着カズ、堂下ニ通夜スルモノモ多シ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

旧暦7月30日(小の月であれば29日)は、閼伽井嶽薬師の縁日で、旧暦1月30日の縁日の際よりも人出が多い。近隣は勿論、遠く白川、会津、二本松のあたりからも2日、3日という日数をかけて参詣者がやって来る。別当寺である常福寺には千人もの人々が宿泊することになるのだが、庫裏や客殿だけでは収容しきれず、廊下や外縁、さらには縁の下まで人で溢れ、大変な喧騒となる。
コメント (2)
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