子鍬倉稲荷の祭礼について、
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)は
書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(明治25年(1892)序文執筆)のなかで、
次のようにも記述している。
又、屋臺狂言、地踊、練物等ヲ出ス。
是ハ十二甼ヲ四甼ヅヽ組合三年代リニ勤ム。
一甼目組ハ材木甼、長橋甼、久保甼トシ、
二甼目組ハ紺屋甼、新川甼、五甼目トシ、
三甼目組ハ四甼目、研甼、鍛冶甼トス。
七日ノ朝、辰ノ刻ニ三甼目横甼ヨリ不開(あかず)門ヲ入、
田甼通リ、城坂ヲ登リ、追手門廣小路ヘ挽ク。
領主在城ノ節ハ此處ニ棧敷カヽリ、観覧アリ。
夫ヨリ黒門、六間門ヲ出テ、揚土、やつとこ坂ヲ下リ、
鍛冶甼ヘ出テ、順次甼々ヲ牽キ廻ル。
遠近貴賎老幼男女ノ群集、雲霞ノ如シ。
此屋臺狂言、五日ヲ足そろへト唱ヘ、九日ヲ笠ぬきト唱フ。
見物人、当日ニヒトシ。
子鍬倉稲荷の例祭の際には、
屋台狂言や地踊り、練り物なども行われていたという。
それらは氏子である町内の人達が当番で、
責任をもって挙行していた。
また、これらの出し物は城の殿様も御覧になった。
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)は
書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(明治25年(1892)序文執筆)のなかで、
次のようにも記述している。
又、屋臺狂言、地踊、練物等ヲ出ス。
是ハ十二甼ヲ四甼ヅヽ組合三年代リニ勤ム。
一甼目組ハ材木甼、長橋甼、久保甼トシ、
二甼目組ハ紺屋甼、新川甼、五甼目トシ、
三甼目組ハ四甼目、研甼、鍛冶甼トス。
七日ノ朝、辰ノ刻ニ三甼目横甼ヨリ不開(あかず)門ヲ入、
田甼通リ、城坂ヲ登リ、追手門廣小路ヘ挽ク。
領主在城ノ節ハ此處ニ棧敷カヽリ、観覧アリ。
夫ヨリ黒門、六間門ヲ出テ、揚土、やつとこ坂ヲ下リ、
鍛冶甼ヘ出テ、順次甼々ヲ牽キ廻ル。
遠近貴賎老幼男女ノ群集、雲霞ノ如シ。
此屋臺狂言、五日ヲ足そろへト唱ヘ、九日ヲ笠ぬきト唱フ。
見物人、当日ニヒトシ。
子鍬倉稲荷の例祭の際には、
屋台狂言や地踊り、練り物なども行われていたという。
それらは氏子である町内の人達が当番で、
責任をもって挙行していた。
また、これらの出し物は城の殿様も御覧になった。