2004年10月23日に発生した新潟県中越地震。この時、人口2167人の高齢化・過疎化が進んだ村、山古志村(現長岡市)は「全村避難」をしなければならないほどの壊滅的な被害を被った。その山古志村・最後の村長として住民とともに約3年2ヵ月で「全村帰村」を成し遂げたのが、長島忠美衆議院議員だ。1年前の東日本大震災後、あらゆる場面で「リーダーの必要性」が大いに問われたが、リーダーは災害時のみならず普段からどう行動すれば、非常時も住民の生命や財産を守ることができるのか。未曾有の災害を経験し、復興を成し遂げた長島元村長だからこそ語れる、災害に対峙するリーダーのあるべき姿について聞いた。(聞き手/ダイヤモンド・オンライン 林恭子)
災害時、リーダーに必要なのは
「言葉」より「行動」
――04年10月に起きた新潟中越地震は、長島議員が当時村長だった山古志村に壊滅的な被害をもたらしました。地震発生前から村として防災対策をされていたと思いますが、それらは十分に機能したのでしょうか。
災害が起きた時の自治体の使命は、住民の命と財産を守ることです。そのために普段から安心・安全なインフラとして建物や道路・河川を整備し、そして災害発生時には、住民が自らの命や家族を守るのに足りない部分を行政がどう補うかを意識して対策を施していました。例えば、すべての住民を行政が直接的に救い出すことはできませんから、一番困っているのはどこの誰かなど、すぐに情報が集まるように地域の区長や消防団や各地域の職員から連絡が入る体制を整えていました。
しかし、昨年の震災時もそうでしたが、当時も完全に通信手段とインフラを失ってしまったのが現実です。すると最終的には人間力に頼るしかなく、歩いて情報を伝えてくれたり、孤立をした地域において行政の手が届くまで住民の命と財産を守ってくれる人の存在が重要になりました。
その重要性を特に感じたのが「全村避難」の時です。人間だれしも、災害時に何も知らされずに放置されれば不安になります。全村避難を決断した際、ある小学校にだけはすぐにヘリが飛ばせない状況でした。もし、そんななかで住民ひとりが「俺らのところには来ない」と騒げば、群集心理が働いて、パニックになります。しかし、その状況をある職員が危険な中を抜けてきて伝えてくれました。私はそれを受けて、不安なときは言葉だけでは信頼されない、言葉よりも行動を優先したいと思い、自衛隊と県にかけあってなんとかヘリコプターを飛ばしてもらうことができました。
震災対応には何が正しくて何が誤りというのはありません。しかし私は当時、村長として「決断したことをやり遂げよう、それが最善の策だ」と考えて、絶対に中途半端なことはしないように心がけて行動していたと思います。
住民の生命・財産を守るため
リーダーとして下した「3つの決断」
――実際にリーダーとしてどのような決断をされたのですか。
最初にした決断が、先ほどもお話しした「全村避難」です。村を離れ、大切な財産を一時的に捨てろというわけですから、いくら村長でも絶対にしてはいけないし、したくない決断でした。しかし現場を歩いたり、話を聞くと、この災害はそんなに生易しいものではなく、1、2ヵ月で元に戻せる状況にない。しかも冬がまもなく来る。このまま戻れば、住民の命を危険にさらすことになるのではないか。せっかく助かった命を絶対に失いたくない、だから少しでも暖かくて明るい場所に移ってもらおうと、この決断を下しました。
当時、全村避難するヘリに乗った住民の多くが「もう帰って来られないだろう」と思ったといいます。災害は誰のせいでもありませんが、大きな傷跡が残る上、平等でもありません。放置すれば思いのすれ違いで村民がバラバラになってしまう。そうなれば、故郷を取り戻すのは困難になるだろうと感じました。我々は住む場所があるだけでは生きていけません。村という先祖から伝えられた田んぼや畑、山のある地域でこそ生きていけるのです。そう考えて、震災発生から10日後、2回目の決断として「みんなで帰ろう山古志へ」というメッセージを発信しました。
3回目の大きな決断は、「帰村の時期」についてです。災害復旧は残念ながら小さな村だけでは不可能で、国や県の力を借りなければなりません。そして村民にも復旧を同時に行ってもらわないといけませんから、私は帰るならできるだけ早くと思っていました。でも、「できるだけ早く」では分かってもらえません。人間に目標を示さないで頑張れというのは、ゴールのないマラソンを全力疾走しろというようなものです。そこで目標を示して、思いを共有できれば頑張ってもらえると考えて、避難生活の限界は2年だろうから「2年で帰ろう」と宣言しました。
もちろん大反発が起きましたよ。できない約束をして誰が責任をとるんだ、と。でも私は2年という目標を掲げない限り、限りなく2年に近づくことはできないと考えていました。結果、2年の目標は叶いませんでしたが、3年2ヵ月後、私が最後の1人として仮設住宅を退去してその全てを空っぽにできたのは、目標と、目標を共有して頑張ってくれた村民の力のおかげだと思います。
煩わしいほどの地域コミュニティが
住民の生命を守り、生きる意欲に
――「全村避難」は、長島議員が決断してからわずか26時間で成し遂げたといいます。なぜ、これほど短期間で避難ができたのでしょうか。
全村避難の決断は、震災翌日の24日午後1時、全村避難完了は25日午後3時ですから、人口が少ないとはいえ、26時間での達成は私も奇跡的だったと思います。でもそれは、何も情報が伝えられないなかでも住民が私を信じてくれたこと、地域のリーダーがうまくまとめていてくれたことが理由でしょう。
山古志村は、普段から緊張感のない間柄でお互いに連携や連絡できる関係性でした。私は村の中を歩くのが好きなので、みんな声をかけてくれ、全村民の名前と顔がわかる環境でした。それも大きな力になりましたね。都会の人たちには想像できないかもしれませんが、災害が起こると普段煩わしい隣近所もありがたみを感じるものですよ。
災害後、東京などで話をさせてもらうことがあるのですが、「東京はうらやましいです」とよくお話ししています。なぜかって、東京はコミュニティが薄いとか言われていますが、すぐ隣に人がいることほど心強いものはありませんから。いざとなれば、見捨てて逃げる人は日本人にはいないはずですよ。
そして、建物の崩壊を減らすことも減災ですが、私は助かった命を1つでも失わせないことも減災だと思い、避難所や仮設住宅でも希望をもって暮らせる環境を整えることを心がけました。実際に、当初バラバラだった住人を同じ避難所に集め、仮設住宅も集落ごとにつくりました。集落という一番小さな自治を復活・維持して、まず自助の原点を取り戻してもらう環境を整えたことは、住民の人々の生きる意欲につながったかもしれません。
「逃げる」のは決して弱いことではない
命さえ助かれば必ず復興できる
――山古志村の復旧・復興は、どのような視点で行ったのでしょうか。
災害復旧は、原型復旧が原則です。ただ、あれだけ甚大な被害を受けると、同じ場所に道や川、建物をつくっていいのか疑問が生まれます。同規模の災害が襲った場合、被害を受けずに暮らし続ける方法を探らなければなりません。
自宅も元の場所に再建するのが望ましいことですが、場合によっては近くの安全な場所に集落を移設する、あるいは過疎化とともにまばらになった家々も、これを機会に少し連携が取りやすいよう集落にすることも提案しました。また、谷筋を通っていた道路を山際につくることで安全になるのではないかと、そのような復旧も行いました。
行政の役割は、逃げられる体制、身を守りやすい環境をつくること
防災教育としては、お互いに約束ごとを作ろうと呼びかけました。例えば、家族同士で連絡を取り合う方法、遠くの親戚や役所への連絡などです。そして、自らの身を守る自助として、外出の際は食べる予定がなくてもおにぎりやチョコレートを車に積んでおいたり、常備薬は必ず持って出かけようとも呼びかけました。自分が助からなければ、人を助けることはできません。そのためにも、自分たちは生き延びられると信じて、自分の身を守ることが重要なのです。
――今後も日本列島では数々の大きな地震が起こると言われています。個人、そして行政はどう防災対策を行うべきでしょうか。
本来なら、国民全員が自分で自分の身を守り、徹底して逃げてくれるのが1番です。しかし、残念ながら災害弱者と言われる高齢者や小さな子どもさん、体が不自由な人がいます。そういう人たちを守るためにも、普段から自分が身を守るためにどこに逃げたらいいか想定し、災害弱者になる可能性のある人たちとともに逃げられれば、皆の命が守れるのではないでしょうか。
私は日本全体の防災力、減災力を上げるためには、ひとりひとりの気持ちの持ち方を高めることが最も重要だと考えています。深く考えなくても、雨が降ったら高いところへ、地震があったら岸壁や川や山の近くから逃げることを意識し、それを自分の住む地域に照らし合わせておけば、実際の災害時も慌てる必要はありません。
逃げるというと弱そうに見えますが、逃げるのは大事なことです。今、安心安全のために行政が巨大な防波堤を整えようとしても、きっとそのときに間に合いません。だったら行政が優先すべき点は、いつでも逃げられる体制を整えて、身を守りやすい環境をつくることです。例えば、今回の災害の教訓を生かし、渋滞を起こさない道路の整備、山の頂上にみんなが逃げられるスペースをつくるなど、逃げる環境と逃げたときに身を守る方法を準備することが重要です。そして、災害に対する知識、危険性を国民に知ってもらう機会を数多く設けるべきでしょう。
災害時に命をなくせば、残された人の喪失感、地域のダメージは大きいものです。人間生まれてきたときは裸なんですから、命が助かればなんとかなります。その後の生活再建にこそ、リーダーが大きな役割を果たせばよいのではないでしょうか。