団塊太郎の徒然草

つれづれなるままに日ぐらし

報道されなかった「遺体安置所」の現実 ノンフィクション作家・石井光太らが釜石市でトークイベント開催

2012-03-10 11:16:54 | 日記

 東日本大震災から10か月以上が経過した。住民4万人のうち1100人以上の死者・行方不明者の犠牲が出た岩手県釜石市では、いまもなお行方不明者の遺体捜索が行われている。その釜石の遺体安置所を基点にして、膨大な死とそれに直面する人々の取材を重ねて書き上げたルポルタージュ『遺体 ―震災、津波の果てに』(新潮社)の著者でノンフィクション作家の石井光太さん(34)が、2012年1月14日に岩手県釜石市の青葉公園商店街、復興ハウスでトークイベントを行った。

「神も仏もないのか…」

トークイベントに参加した(左から)千葉淳さん、芝崎惠應さん、石井光太さん
トークイベントに参加した(左から)千葉淳さん、芝崎惠應さん、石井光太さん
 

イベントでは、石井光太さんがナビゲート役となり、野田武則釜石市長の他に、同書に登場する仙寿院僧侶の芝崎惠應さん(55)や民生委員の千葉淳さん(71)らが登壇。甚大な被害を受けた釜石市の遺体安置所をめぐって、ご遺体のため、そして遺族のために、ひたすら奔走してきた当事者たちが個人的な体験や想いを語った。

僧侶の芝崎さんは、目の前でおばあさんが助けを求めて手を振りながら津波に流されるのを黙って見ているしかないという経験をしたという。「その様子を見ていた近所の男性が『神も仏もないのか』と横でつぶやいた時、返事をすることができませんでした。僧侶として本当は言ってはいけないことですが、まさしくその通りだと思ってしまった。人間は非常に無力で、無情を感じました」と当時の状況を振り返った。

関西など遠方からも多数来場

一方、民生委員の千葉さんは、かつて納棺師として葬儀屋で働いていた経験を生かして、遺体安置所でボランティアに名乗りを上げた一人だ。千葉さんは、「死にたくて死んだのではない方々ばかり。残されたご遺族のことを考えても、遺体を死者としては扱うのではなく人間として扱わなければ全員がうかばれない」という思いから、毎日運ばれてくる圧倒的な数の遺体に向き合って、頻繁に優しく話しかけることで、死者を弔ったという。

会場には関東や関西など遠方からの来場者も多く、本の中にも登場する遺体搬送を突然命じられた釜石市職員や、生後54日の息子を亡くした両親など多くの人が集まった。『遺体』に紹介された、現場に携わった人々のその肉声は、テレビや新聞などで報道されたものと全く異なる現実があることを教えてくれた。

なお、石井さんは「J-CAST ニュース」が提供する動画番組「J-CAST THE FRIDAY」に出演し、遺体安置所の衝撃的な内容を報告している。該当番組のURLはhttp://www.j-cast.com/mono/2011/10/28111559.html<モノウォッチ>


配管、溶接「二流三流」の原発 本当に「再稼働」させていいのか

2012-03-10 11:04:54 | 日記

東日本大震災は東電福島原発事故という最悪の事態をもたらした。その原因、被害の実態、影響の広がり、事故の全容はまだまだ見えてこないが、1年が経過した今、いくつかの視点から改めて考えてみたい。J-CASTニュースの新書籍サイト「BOOKウォッチ」http://www.j-cast.com/mono/bookwatch/でも特集記事を公開中。

決死の覚悟で危機に向かった戦士たち

『前へ! 東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』
『前へ! 東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』
 

「稚拙で泥縄的」「連携不足」「組織的怠慢」。福島原発事故の対応をめぐる官邸や東電の不手際が明らかになってきた。首相は怒鳴ってばかりいたし、東電の社長は現場からの撤退を求めていたという。そんなトップの混乱と錯綜をよそに、決死の覚悟で未曾有(みぞう)の危機に立ち向かったプロの集団がいた。

新潮社の『前へ! 東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』(著・麻生幾、1575円)は、事件や災害時の危機管理をめぐるベストセラーで知られる著者が、「書き残しておかねばならない」という強い思いで書き上げた壮絶な記録である。自衛隊、国土交通省・東北地方整備局、警視庁機動隊、東京消防庁ハイパーレスキュー隊、災害派遣医療チーム、福島県警・・・。名もなき戦士たちの命を賭けたドラマがここにある。

「千年に1度の大津波」が原因だったのか

『福島原発 現場監督の遺言』
『福島原発 現場監督の遺言』
 

「想定外」という言い訳はもはや通用しない。福島原発事故は、「人災」だったという見方が広がる中、講談社から発売された『福島原発 現場監督の遺言』(著・恩田勝亘、1575円)は、事故原因は「千年に一度の大津波ではなく、配管の欠陥が主因ではないか」と主張する。

著者が配管を重視するのは、福島原発の元現場監督で1級配管技能士の故・平井憲夫氏の内部告発に基づく。平井氏は「日本の原発は設計図は立派でも配管や溶接は二流三流、ずさんな工事やインチキ点検がまかり通っている、やがて大事故につながる」と警告していた。この現場からの告発を、「週刊現代」の元記者で原発の取材経験豊富な著者が検証したのが本書である。原発再稼働の動きが出ている今、一読をすすめたい。

人類は核エネルギーと共存できるのか

『原子力 その隠蔽された真実 人の手に負えない核エネルギーの70年史』
『原子力 その隠蔽された真実 人の手に負えない核エネルギーの70年史』
 

広島、長崎の原爆投下を受けた日本は戦後復興へ向けて核の平和利用へ舵を切った。だが、築き上げたはずの原発の「安全神話」は、福島原発事故によりもろくも崩れ去った。飛鳥新社の『原子力 その隠蔽された真実 人の手に負えない核エネルギーの70年史』(著・ステファニー・クック、訳・藤井留美、2415円)は、核開発の歴史を辿りながら人類と核エネルギーの関係に根源から迫る。

作家の池澤夏樹は解説でこう語っている。「フクシマで起こったことはすべて既にどこかで起こっていた。それが明らかになるから、この精緻なレポートは却って恐ろしいのだ。フクシマは偶然ではなく必然であったとわかるから」。日本版特別章として「3・11 巨大地震の襲来」を加筆収録している。<モノウォッチ>


「政府発表がないから報じられない」世界が呆れた日本の新聞

2012-03-10 10:47:32 | 日記

 昨年来、原発事故報道で、新聞はひたすら大本営発表をたれ流した。世界から見れば非常識極まりない日本の大メディアの体質を、自身も日本経済新聞の記者経験があり、新聞社と権力との癒着を批判した『官報複合体』(講談社刊)の著者、牧野洋氏が指摘する。

 * * *
 東京電力の福島第一原発が津波に見舞われた翌日、福島県浪江町で数千人に上る住民は町長の指示に従って北へ向かって避難した。

 この時、政府のコンピュータシステム「SPEEDI(スピーディ)」は放射性物質が浪江町の北へ向かって拡散すると予測していた。なのに、浪江町の住民はなぜ南へ向かって避難しなかったのか。

 二〇一一年八月九日付のニューヨーク・タイムズ紙は「官僚の隠ぺい体質」と断じた。「不十分なデータを公表すると誤解を招く」といった理由で、政府は東日本大震災直後からスピーディのデータ公表を拒み続けていたからだ。同紙上で浪江町町長の馬場有は「情報隠ぺいは殺人罪に等しい」とコメントしている。

 スピーディのデータ公表が遅れた責任は官僚に加えて新聞にもある。国民が知るべき重要なデータであるにもかかわらず、政府の発表を待たなければ国民に伝えられなかったこれが新聞の責任だ。

 政府がデータの全面公表に踏み切ったのは大震災発生から一か月以上も経過した五月に入ってから。新聞が「隠されたデータ」を特報したのを受けて政府が発表に追い込まれたのではなく、政府が発表したから新聞がデータ内容を報道したのである。

 福島原発のメルトダウン(炉心溶融)をめぐる報道でも新聞は本来の機能を果たせなかった。実際にメルトダウンが起き、専門家もその可能性を指摘していたにもかかわらず、政府・東電が否定したことから当初は見出し で「メルトダウン」という言葉の使用さえ控えていた。一斉に報じ始めたのは、政府・東電がメルトダウンを認めた五月中旬になってからである。

 政府の発表を受けて書いているだけでは、権力側の発表をそのままたれ流す「発表報道」の域を出られない。発表報道に依存し過ぎると「大本営発表」と変わらなくなる。史上最悪の原発事故が起きている時にこそ、新聞は権力を監視しなければならないのに、現実には発表報道に終始した。

 福島原発報道については海外からも批判が出た。たとえばニューヨーク州立大学オールドウェストベリー校教授としてジャーナリズムを教えるカール・グロスマン。四十年以上かけて「環境ジャーナリズム」の分野を開拓した論客である。米環境専門誌「エクストラ!」の二〇一一年五月号で次のように書いている。

「福島原発事故の影響についての報道はあまりにもお粗末だ。日本政府が『直ちに健康に影響はない』と説明すると、記者はそれをオウム返しに報じているだけなのだ」

 なぜこうなるのか。単純化して言えば、発表報道の対極にある調査報道の伝統が根付いていないからだ。調査報道では権力側の説明をうのみにせず、独自調査の積み重ねで「権力側が国民に隠している秘密」を暴こうとする。権力の監視が報道機関に求められる基本機能だとすれば、調査報道こそ新聞報道の中心に位置していなければならない。

 調査報道が根付かない理由としてよく挙げられるのが記者クラブである。福島原発報道であれば首相官邸や経済産業省などの記者クラブに張り付き、政府・東電側の動きを漏れなく報じるわけだ。このような記者クラブ詰めの記者については「権力側の速記者」と揶揄する向きもある。

 記者クラブで発表報道に明け暮れると、記者は専門性をなかなか身に付けられない。記事の冒頭に「五W一H(誰が、何を、いつ、どこで、なぜ、どうして)」を詰め込む「逆三角形」を学べば、大抵のニュースを処理できるからだ。

 記者は「客観報道」の指導を受けているため、記事に独自の分析や解説を入れるのを最小限にしようとする。結果、書く記事はプレスリリースを読みやすく書き直しただけのストレートニュース(速報ニュース)になりがちだ。

 言うまでもなく、福島原発事故を報道する記者には、技術的な知識を含めて高度の専門性が求められる。専門性がなければ、政府・東電が嘘をついているかどうか判断することはままならない。それまで社会部で事件取材をしていた記者にいきなり原発報道を任せても、発表報道以上の仕事はなかなかできないだろう。(文中敬称略)

※SAPIO2012年3月14日号


新潟中越地震から3年2ヵ月で復興した旧山古志村

2012-03-10 10:35:36 | 日記

2004年10月23日に発生した新潟県中越地震。この時、人口2167人の高齢化・過疎化が進んだ村、山古志村(現長岡市)は「全村避難」をしなければならないほどの壊滅的な被害を被った。その山古志村・最後の村長として住民とともに約3年2ヵ月で「全村帰村」を成し遂げたのが、長島忠美衆議院議員だ。1年前の東日本大震災後、あらゆる場面で「リーダーの必要性」が大いに問われたが、リーダーは災害時のみならず普段からどう行動すれば、非常時も住民の生命や財産を守ることができるのか。未曾有の災害を経験し、復興を成し遂げた長島元村長だからこそ語れる、災害に対峙するリーダーのあるべき姿について聞いた。(聞き手/ダイヤモンド・オンライン 林恭子)

災害時、リーダーに必要なのは
「言葉」より「行動」

――04年10月に起きた新潟中越地震は、長島議員が当時村長だった山古志村に壊滅的な被害をもたらしました。地震発生前から村として防災対策をされていたと思いますが、それらは十分に機能したのでしょうか。

ながしま・ただよし/1951年生まれ。73年、東洋大学経済学部卒業。山古志村(現長岡市)村議会議員を経て、2000年、山古志村村長に当選。中越地震の復興を指揮した後、05年、自由民主党より衆議院議員選挙に出馬し初当選。
Photo by Masato Kato

 災害が起きた時の自治体の使命は、住民の命と財産を守ることです。そのために普段から安心・安全なインフラとして建物や道路・河川を整備し、そして災害発生時には、住民が自らの命や家族を守るのに足りない部分を行政がどう補うかを意識して対策を施していました。例えば、すべての住民を行政が直接的に救い出すことはできませんから、一番困っているのはどこの誰かなど、すぐに情報が集まるように地域の区長や消防団や各地域の職員から連絡が入る体制を整えていました。

 しかし、昨年の震災時もそうでしたが、当時も完全に通信手段とインフラを失ってしまったのが現実です。すると最終的には人間力に頼るしかなく、歩いて情報を伝えてくれたり、孤立をした地域において行政の手が届くまで住民の命と財産を守ってくれる人の存在が重要になりました。

 その重要性を特に感じたのが「全村避難」の時です。人間だれしも、災害時に何も知らされずに放置されれば不安になります。全村避難を決断した際、ある小学校にだけはすぐにヘリが飛ばせない状況でした。もし、そんななかで住民ひとりが「俺らのところには来ない」と騒げば、群集心理が働いて、パニックになります。しかし、その状況をある職員が危険な中を抜けてきて伝えてくれました。私はそれを受けて、不安なときは言葉だけでは信頼されない、言葉よりも行動を優先したいと思い、自衛隊と県にかけあってなんとかヘリコプターを飛ばしてもらうことができました。

震災対応には何が正しくて何が誤りというのはありません。しかし私は当時、村長として「決断したことをやり遂げよう、それが最善の策だ」と考えて、絶対に中途半端なことはしないように心がけて行動していたと思います。

住民の生命・財産を守るため
リーダーとして下した「3つの決断」

――実際にリーダーとしてどのような決断をされたのですか。

 最初にした決断が、先ほどもお話しした「全村避難」です。村を離れ、大切な財産を一時的に捨てろというわけですから、いくら村長でも絶対にしてはいけないし、したくない決断でした。しかし現場を歩いたり、話を聞くと、この災害はそんなに生易しいものではなく、1、2ヵ月で元に戻せる状況にない。しかも冬がまもなく来る。このまま戻れば、住民の命を危険にさらすことになるのではないか。せっかく助かった命を絶対に失いたくない、だから少しでも暖かくて明るい場所に移ってもらおうと、この決断を下しました。

 当時、全村避難するヘリに乗った住民の多くが「もう帰って来られないだろう」と思ったといいます。災害は誰のせいでもありませんが、大きな傷跡が残る上、平等でもありません。放置すれば思いのすれ違いで村民がバラバラになってしまう。そうなれば、故郷を取り戻すのは困難になるだろうと感じました。我々は住む場所があるだけでは生きていけません。村という先祖から伝えられた田んぼや畑、山のある地域でこそ生きていけるのです。そう考えて、震災発生から10日後、2回目の決断として「みんなで帰ろう山古志へ」というメッセージを発信しました。

 3回目の大きな決断は、「帰村の時期」についてです。災害復旧は残念ながら小さな村だけでは不可能で、国や県の力を借りなければなりません。そして村民にも復旧を同時に行ってもらわないといけませんから、私は帰るならできるだけ早くと思っていました。でも、「できるだけ早く」では分かってもらえません。人間に目標を示さないで頑張れというのは、ゴールのないマラソンを全力疾走しろというようなものです。そこで目標を示して、思いを共有できれば頑張ってもらえると考えて、避難生活の限界は2年だろうから「2年で帰ろう」と宣言しました。

 もちろん大反発が起きましたよ。できない約束をして誰が責任をとるんだ、と。でも私は2年という目標を掲げない限り、限りなく2年に近づくことはできないと考えていました。結果、2年の目標は叶いませんでしたが、3年2ヵ月後、私が最後の1人として仮設住宅を退去してその全てを空っぽにできたのは、目標と、目標を共有して頑張ってくれた村民の力のおかげだと思います。

煩わしいほどの地域コミュニティが
住民の生命を守り、生きる意欲に

――「全村避難」は、長島議員が決断してからわずか26時間で成し遂げたといいます。なぜ、これほど短期間で避難ができたのでしょうか。

 全村避難の決断は、震災翌日の24日午後1時、全村避難完了は25日午後3時ですから、人口が少ないとはいえ、26時間での達成は私も奇跡的だったと思います。でもそれは、何も情報が伝えられないなかでも住民が私を信じてくれたこと、地域のリーダーがうまくまとめていてくれたことが理由でしょう。

 山古志村は、普段から緊張感のない間柄でお互いに連携や連絡できる関係性でした。私は村の中を歩くのが好きなので、みんな声をかけてくれ、全村民の名前と顔がわかる環境でした。それも大きな力になりましたね。都会の人たちには想像できないかもしれませんが、災害が起こると普段煩わしい隣近所もありがたみを感じるものですよ。

 災害後、東京などで話をさせてもらうことがあるのですが、「東京はうらやましいです」とよくお話ししています。なぜかって、東京はコミュニティが薄いとか言われていますが、すぐ隣に人がいることほど心強いものはありませんから。いざとなれば、見捨てて逃げる人は日本人にはいないはずですよ。

 そして、建物の崩壊を減らすことも減災ですが、私は助かった命を1つでも失わせないことも減災だと思い、避難所や仮設住宅でも希望をもって暮らせる環境を整えることを心がけました。実際に、当初バラバラだった住人を同じ避難所に集め、仮設住宅も集落ごとにつくりました。集落という一番小さな自治を復活・維持して、まず自助の原点を取り戻してもらう環境を整えたことは、住民の人々の生きる意欲につながったかもしれません。

「逃げる」のは決して弱いことではない
命さえ助かれば必ず復興できる

――山古志村の復旧・復興は、どのような視点で行ったのでしょうか。

 災害復旧は、原型復旧が原則です。ただ、あれだけ甚大な被害を受けると、同じ場所に道や川、建物をつくっていいのか疑問が生まれます。同規模の災害が襲った場合、被害を受けずに暮らし続ける方法を探らなければなりません。

 自宅も元の場所に再建するのが望ましいことですが、場合によっては近くの安全な場所に集落を移設する、あるいは過疎化とともにまばらになった家々も、これを機会に少し連携が取りやすいよう集落にすることも提案しました。また、谷筋を通っていた道路を山際につくることで安全になるのではないかと、そのような復旧も行いました。

行政の役割は、逃げられる体制、身を守りやすい環境をつくること

防災教育としては、お互いに約束ごとを作ろうと呼びかけました。例えば、家族同士で連絡を取り合う方法、遠くの親戚や役所への連絡などです。そして、自らの身を守る自助として、外出の際は食べる予定がなくてもおにぎりやチョコレートを車に積んでおいたり、常備薬は必ず持って出かけようとも呼びかけました。自分が助からなければ、人を助けることはできません。そのためにも、自分たちは生き延びられると信じて、自分の身を守ることが重要なのです。

――今後も日本列島では数々の大きな地震が起こると言われています。個人、そして行政はどう防災対策を行うべきでしょうか。

 本来なら、国民全員が自分で自分の身を守り、徹底して逃げてくれるのが1番です。しかし、残念ながら災害弱者と言われる高齢者や小さな子どもさん、体が不自由な人がいます。そういう人たちを守るためにも、普段から自分が身を守るためにどこに逃げたらいいか想定し、災害弱者になる可能性のある人たちとともに逃げられれば、皆の命が守れるのではないでしょうか。

 私は日本全体の防災力、減災力を上げるためには、ひとりひとりの気持ちの持ち方を高めることが最も重要だと考えています。深く考えなくても、雨が降ったら高いところへ、地震があったら岸壁や川や山の近くから逃げることを意識し、それを自分の住む地域に照らし合わせておけば、実際の災害時も慌てる必要はありません。

 逃げるというと弱そうに見えますが、逃げるのは大事なことです。今、安心安全のために行政が巨大な防波堤を整えようとしても、きっとそのときに間に合いません。だったら行政が優先すべき点は、いつでも逃げられる体制を整えて、身を守りやすい環境をつくることです。例えば、今回の災害の教訓を生かし、渋滞を起こさない道路の整備、山の頂上にみんなが逃げられるスペースをつくるなど、逃げる環境と逃げたときに身を守る方法を準備することが重要です。そして、災害に対する知識、危険性を国民に知ってもらう機会を数多く設けるべきでしょう。

 災害時に命をなくせば、残された人の喪失感、地域のダメージは大きいものです。人間生まれてきたときは裸なんですから、命が助かればなんとかなります。その後の生活再建にこそ、リーダーが大きな役割を果たせばよいのではないでしょうか。


橋下市長、水道民営化で「水ビジネス」目指す

2012-03-10 10:32:36 | 日記

大阪市の橋下徹市長は9日、報道陣に対し、市の水道事業の民営化を目指す考えを明らかにした。

 実現すれば全国初で、民営化により「水ビジネス」への積極参入を探る。

 同市は府内42市町村で構成する大阪広域水道企業団への加入方針を示しているが、橋下市長は「世界を凌駕(りょうが)する技術を持つ市の水道局が先に民営化してでも、国内外で仕事を取っていきたい」と述べた。

 また、「公務員では成果をあげても給料が上がるわけではなく、仕事を取ろうとする動機付けがない」と指摘。民営化のメリットについて、「努力した分だけ実入りが増えるし、競争で水道料金が下がり、市民に還元できる」と強調した。