はい、ども。
書けば書くほど終わりが見えなくなってきました。
当初はただ『士別れて三日なれば、刮目して相待すべし』って言葉の意味を書くだけのつもりだったのが「この人物について書くなら、この話が必要。そうなるとこの人物描写も必要」と際限なく思えてきて、無駄に長くなってしまいます。
時代もあっちこっちに飛んでいますから、知らない人には「???」ってカンジでしょうし、知ってるひとにも「?」だと思います。
それでも最後まで書かないと気持ちわるいので、もう少しだけお付き合いください。
そういえば今日、僕の自転車がなくなりました。盗まれたとは考えたくありません。きっと旅に出たのだと思います。
そもそも僕の自転車ではなくて、正確にはあべくんの自転車なのでどうでもいいっちゃあどうでもいい。通勤が少し難儀になるかな。
…
そんなわけで河北の雄で名門の出自である袁紹と、成り上がりながらも華中一体に覇を唱えることに成功した曹操との戦いが幕を開きました。
兵力だけで勝敗を計ることはできませんが、袁紹の軍は曹操のおおよそ二倍。
しかも、勢力を拡大するためにあちこちに兵を出して転戦を繰り返していた曹操とは違い、袁紹はここ何年もこの戦に備えて準備を進めていました。
曹操は戦の天才です。兵法に通じ、自ら兵法書(「孟徳新書」で知力+7」)をも著作するほど。
寡兵をもって多兵を制す戦略ももちろん持ち合わせていましたが、今回はどうにもうまくいきません。
その原因は袁紹軍の最強ツートップ、顔良と文醜の武力でした。
突撃大好きなこの二人、兄弟とも言われていますがそんなことはどうでもいいし。
とにかく強いので、曹操がうまいこと兵を進めても「顔良じゃ~ッ!」「文醜じゃ~ッ!」と二人が姿を現した途端に、曹軍の兵は我先に逃げ出してしまう始末。
兵士たちがこれでは戦になりません。
もちろん曹操の旗下にも、二人に対抗できるであろう実力者はいました。
曹操旗揚げの頃からその軍の一翼を担う、軍率の能力に秀でる隻眼の夏侯惇。
天然ボケキャラでのんびりした性格ではあるが腕力では誰にも負けたことのない許褚、愛称は虎痴。
曹操のボディーガードとして、いつもその傍でその身を守ってきた悪来典韋。
どいつもこいつも顔良、文醜と並ぶ実力者です。
どいつもこいつもピアスぜ。
しかしながら顔良、文醜はよっぽどいい馬に乗っているのか、その出現の報を聞いた夏侯惇たちが現場に駆けつける頃には、あっという間に撤収していなくなってしまっています。 あとに残っているのは曹操の兵士たちの累々とした屍のみ。
当時、騎馬軍団の最強といえば、袁紹に滅ぼされた公孫瓚の「白馬陣」が名高いですね。
白い馬ばかりで集めた騎兵軍団。その白さはGM KURAと並び称され「白馬陣を見たものは生きて帰れない」「俺のタバコとるなよ~」というほどの評判高いものがありましたが、その比類なきスピードゆえに、袁紹軍が掘った落とし穴に面白いように嵌ったり、ウイスキーを原液でイッキしたりしてズタボロにされてしまいました、
もしくは西涼一体を領土とし、遥か西のモンゴル地帯などとも交易し国外産のサラブレットすら所有し、その国では産まれた子供は母親に抱かれる前に馬に乗せられたという、馬騰(馬超の父)の騎馬集団。
話逸れたけど。
曹操の作戦は、いつも顔良と文醜によって潰されてしまいます。まずはこの二人をなんとかしないことには、いたずらに兵を失ってしまうだけ。
とうとう曹操の周りの軍師たちは進言します。「許昌に残してきた関羽を呼び寄せるべきでは?」
関羽将軍の所有する馬こそ、あの一日千里を走るといわれた名馬である赤兎馬です。
ワープ9までの航行を可能とする唯一無二の最強の馬。顔良と文醜の乗る駿馬に追いつくことのできる馬といえば、それしか考えられません。
「うむー、関羽か。確かに関羽将軍なら…でもな~」
曹操は関羽を戦場に招聘することには反対でした。
…
関羽は曹操に降ったとはいえ、有能の士を愛する曹操のもと、降将としてではなく一武将として、いやそれ以上の扱いを受けていました。
大きな屋敷を与えられ、たくさんの服飾品や美術品を与えられるという好待遇。
曹操が幹事で飲み会をするぞ~ってときにも関羽には特別に曹操の隣の席に座ることを許され、曹操自ら部下に「関羽将軍への無礼は許さぬ」とまで言わせるほどの歓待ぶりでした。
しかし関羽は自分に与えられた屋敷を、劉備の婦人や家族が住むための場所として提供し、自分は厩で寝たり寝なかったり、寝ないときには一晩中屋敷の門の前で見張りをし、華美な贈り物も全て夫人に献上していました。
曹操からの貰い物を決して自分のために使おうとしませんでした。
その行動はもちろん、屋敷を与えるときに放たれた間者により曹操にも届いていました。
関羽の清貧さっつーか「敵からの施しは受けない」的な立派な態度、そしてその態度の根底にあるのは主君劉備への忠誠であることも曹操は感じ、なんともいえない気持ちになりました。
「こういう者に慕われるような人間になりたいものだ」
ある飲み会に、関羽はボロを纏って出席してきたので、曹操はそのみすぼらしい着物を見て「良かったらいい着物差し上げようか?」と杯を手にしながら関羽に話しかけました。
「いや、そんな、悪いですよ」
「いやいやいや」
「いやいやいや」
最初の頃こそ、関羽は飲み会に誘われてもかなり迷惑そうな顔をしていました。知らないひとばっかりだし、敵である曹操に降った自分を恥じてもいたからです。
それでもあまり断るのも失礼にあたると考えて、次第に顔だけは出すようになりました。
どんな美酒が出てきても、目の前で美女が舞を披露しても、楽しくなさそうな表情こそしない関羽ですが、自分がどことなくここにはいないという顔をすることがあります。ほんの一瞬なのですが寂しそうというか目は遠くをみるような、そんな表情を浮かべます。
笑って杯を重ねるようになった関羽のことを、曹操はよくよく観察しました。
そのとき関羽が遠くなにを見ているのか、曹操にはわかっていましたが、それでも関羽の気持ちを少しでも自分に向けたくて。その寂しさを少しでも紛らわせてあげたくて、あえて何も言いませんでした。ただ「かんぱ~い」。
「大事に想っている」ということを口には出しても行動に示すことがあっても、そのあとに「キミは僕のことをどう想っているんだ?」とは言えない。
それを言葉にしてしまうことは「自分の気持ちを相手にあずけることになる」と曹操は考えていた。
自分は伝えたいことを伝えた、だからあとの返事はあなた次第なんてことは、その想いが強ければ強いほど、無責任なことだと思う。
上等な生地で織り上げられた着物が宴席に届きました。関羽はそれをうやうやしく拝謁すると、ボロの上に纏いました。
「関羽よ、せっかくかっこいい服あげたんだから、そのボロは捨ててしまえばいいんじゃあない?どうして上から着るのさ」と曹操は尋ねますが、関羽はボロを優しく撫でながら、こう答えます。
「この服は、古くなったとはいえ兄である劉備からいただいたものです。これを着るといつも兄者の傍にいるような気持ちになれます。どんなにボロとなっても捨てるなんてとんでもありません」
曹操は目を細めて思いました。関羽は絶対に自分になびくことはないだろう。忠誠を誓うことはしないだろう。たぶん死んでも劉備に対する忠義を忘れることはないのだ。
正直、面と向かって言われたくないセリフでした。曹操にとって。曹操は「うん、そうか」と言ったっきり。
そんな関羽の行動を、曹操の部下たちは正直あまりいい気分で見てはいませんでした。曹操さまからの賜りものを邪険に扱っていると感じていたのです。口にこそしませんが。今は仕方なく曹操さまにつき従っているが、この関羽という男はいつかわが国に災いをもたらすのではないか。今ここで殺すべきではないか。
曹操は部下たちのそんな思いもわかっていました。わかってはいましたが、何も言いませんでした。
言えば、関羽は曹操の部下たちに害され、殺されるかもしれません。もちろんそんなことはさせたくないし、いつかは別れるときが来ても、できるだけ長い時間を関羽と過ごしていたかったから。
とある日。曹操は関羽に馬を送ります。その馬こそが赤兎馬でした。引き締まった真っ赤な馬体と長い鬣、他のどんな馬と比較できないスピード。GT-Rか赤兎馬かってくらいのもんです。
かつてこの馬は呂布が所有していましたが、その死後には曹操が所有していました。気性も激しい馬だったので、誰一人乗りこなすことができなかったのです。
この赤兎馬を与えられたときだけは関羽は目を輝かせました。赤兎馬の背中を優しく撫でるとその背にまたがり、颯爽と駆けたのです。乗りこなす者がいなかったこの馬も関羽という最高の乗り手を得て、草原を颯爽と駆け抜けました。
試し乗りを終えて戻ってきた関羽に曹操は「今までどんな贈り物を与えられても喜ぶことなく全てを劉備夫人に渡してしまったと聞くが、馬一匹でどうして関羽どのはそんなに喜ぶのだ?」と尋ねます。
「この馬があれば兄弟たちの行方がわかったときにすぐに駆けつけることができるではありませんか」
ここまで面と向かって劉備と張飛への想いを口にする関羽。
ひとを思いやるという気持ちの強さと、その言動。それが決して自分に向かないことが曹操には苦しかった。
関羽の気持ちも尊重するなら、曹操は今この場で、今ここで「一緒にいられてとても楽しかった。劉備のもとに帰りなさい」と言うべきなのかも知れない。それが最良なのだろう。お互いのためなのだろう。
それでも、どうしても関羽ともっと遊びたかったし、一緒に飲みたかったし、その時間があといくつか続けば、きっと関羽もここに残ることを少しでも考えてくれるかもしれない…そんな気がして言い出すことができませんでした。
実は関羽も、同じような気持ちを曹操に抱いていました。劉備への忠誠は今でも変わりなくある。曹操はいろんな高価な物をくれました。
対して劉備はかけがえの無い時間を共有し、苦楽をともにした人間です。物と時間。どっちが大切かは明々白々。
今の曹操は一国の君主、それもこの時代の最先端で覇を競うほどの力を持ち、それをいつでも行使できるほどの権力を持つにまで至りました。昔のように身一つで、友情と夢だけを食べて飲んで生きていく頃に戻ることもできません。
曹操も若いころは相当苦労しました。逆境、また逆境。明日をも知れぬ命だったこともあるけど、その頃に知り合えなかった。
お互いが一番ツライであろう時期に、お互いを救いとしたかった。支えとなりたかった。
こんなこといってもしょうがないのですが、そんな頃に出会っていれば、二人はきっとこれ以上ない絆で結ばれる友人同士となれたかも知れません。
しかし、それを言葉にすることになんの意味があるのでしょうか。お互いが気まずくなるだけです。なんともなしに気持ちは冷めて、少しずつ離れる未来が訪れることにしかならない。
もしかすると、それが最良かもしれません。互いがあとに傷を残さないために。
それでもひとは、ひとが思うほど自分の未来は読むことはできない。
曹操に降る際に「兄弟が見つかればいつでもここを離れますから」と言った関羽の正直な気持ちも、ここにきてからはじょじょに曹操に大変な恩を感じていました。
なるほど、物をくれることによって、劉備夫人の生活は保証されました。
それ以上に自分を想ってくれる気持ちは、降将として扱われるはずの関羽の生活、それはただ息をして毎日を過ごす覚悟をしたつもりの生活ではなく、より良く人間らしく暮らす時間を与えてくれました。嬉しかった。
いずれ兄弟の居場所がわかって離れることがあっても、関羽は言わなかったけど、「曹操の恩に報いることができた」と関羽自身が納得できるまではこの許昌に留まる気持ちでした。
…
官渡の戦いで劣勢に立たされた曹操軍。
軍師たちが曹操に「関羽将軍を呼びましょう。関羽の武力、赤兎馬の速さがあれば、あの顔良と文醜を押さえることはできるかもしれません」と提案しても、曹操が反対した理由はそこでした。
関羽に恩を返す機会を与えてしまっては、自分のもとを去ってしまうかもしれない。
恩義なんか感じて欲しいわけじゃあない。ただ一緒にいて笑って、お酒を飲んで、どうでもいい話をしたいよ。ただ盃を交わして、たまに無言で微笑む、そんな時間を共有したいだけなんだ。
それが曹操一個人としての心でした。
しかし曹操は一個人ではなく、一国の総統でした。国をことを第一に考えるのなら手段は一つ。
「関将軍に、今すぐ戦場に参陣するよう伝えよ」
曹操の報を受け、関羽はすぐに戦場の最前線に駆けつけます。いつでも呼ばれる準備をしていた関羽を、曹操は少し複雑な気持ちで向かえました。
しかしその気持ちはおくびにも出さずに状況を説明します。
「実は袁紹の軍にいる顔良、文醜という敵将に手を焼いている。我が兵たちは最早その名前を聞くだけでも逃げ出す始末だ」
そう言って困った顔をする曹操に対して、関羽は「少しばかりお待ちください」と言い残し、許昌からここまで休みな走り続けたはずなのに息ひとつ乱れていない赤兎馬に跨ると、戦闘の場へ颯爽と駆けていきました。右手には青龍偃月刀を携えて。
関羽はまず文醜と相対しました。「我こそは文醜なりッ!誰かは知らないが、かかってこ…ッ!」
そして顔良は「よくも弟を殺してくれたなッ!この顔良が相手になろ…ッ!」
袁紹の本陣に入った物見からの報告では、顔良も文醜も突如現れた騎馬武者に一合も交えることなく討死。二人とも頭から一刀両断にされたとのこと。
袁紹軍に動揺が走りました。あの二人に攻撃をする間も与えずに斬り下ろすほど武人がこの世にいるのか?!一体何者だ?!
このとき袁紹の陣営に客将として迎えられていた劉備は、「関羽だ!我が弟の関羽に違いない!よかった!生きていたんだな!」と直感しました。敵である曹操のもとになぜ関羽はいるのか、しばらく会ってなくとも劉備には想像できました。自分の家族を守るための行動であること。やむなく曹操についた関羽の境遇も。
関羽の今の精神状態、曹操に並々ならぬ想いを抱き始めたこと、それを劉備は知りえることはできませんが、彼にとっては仮にそれを知っていても「関羽が生きていた!」それだけが喜びでした。
官渡の戦いは、こうして一見すると曹操軍の関羽の力により袁紹軍と互角にまで持ち込んだようにみえますが、ツートップ不在になった袁紹は全軍をやや後方に下げ、守りの姿勢に入り、持久戦の様相を保ち、曹操の出方をみる戦術をとりました。
兵数で圧倒的不利な曹操軍にしてみると、持久戦は長引けば長引くほど危険です。敵陣には北方からどんどん新しい兵も導入されるでしょうし、食料も運ばれます。自軍は許昌から遠く離れ兵力も兵糧も充分とはいえず、ある意味アウェイだし、その許昌も留守のまま放っておけば、第三の勢力や力をつけ始めた呉の軍勢などが、いつ都に攻め入らないとも限りません。
その時期、曹操は屯田制を自ら考案し、実行していました。
曹操が打ち出した屯田制とは、半農半兵を軸としたものです。戦時下ではないときに兵士には畑を耕させ、家族と団欒の時間を与え、各々の土地のために働くことを許可すると同時に、いざ戦争が起こったときには兵力として召集するというもの。
畑というものは、そこに四季があり、風があり、土があり、降り注ぐ陽光と、流れる水の恵みがあっても、手をかけずにいて作物が実るというものじゃあありません。
農作物という収穫の恵みとは、常にひとの手によってのみ作られるのです。
人がいなくなって面倒をみてもらえなくなった畑は恵みを与えてはくれないでしょう。
大地は、人間が勝手に始めた戦争の都合をいちいち考えません。
曹操は、動員する兵数を常にその動員可能人数の半分と決めていました。いかに大事な時期で人手が必要とされる戦争であっても、その兵士たちには兵役の期間をそれぞれに明確に示し、徴兵されて半年が経てば、あとの半年は畑に戻ってもいいことを約束していました。
河を挟んでの持久戦。持久戦とは座して相手の出方を伺い、ことによれば相手の自滅を待つ戦法ではない。表面上は対峙し、お互いを牽制する体を保ちながら、裏で策略を巡らす。一方に綻びが見えれば一気に叩くという一触即発の限界点、その見極めを試される戦法なのです。
そのような臨戦下のなか、今配置されている兵士を自国に戻し、新たな兵の補充を待つような時間はありません。さすがの曹操も自ら提案した屯田制を恨めしくも思いますが、ある日陣頭に立ち全軍に告げます。
「諸君らの役目は終わった。国に帰り、その元気な顔を家族に見せ、そのからだは田畑を耕すことに使え。これは命令だ」
これには武将たちも多くの兵士たちもびっくりしました。みんなこの戦が、曹操の国がこれ以上拡大し勢力を広げるのか、もしくは滅びてしまうのか、イチかゼロしかない戦いであることを現場にいて肌で感じていたからです。それなのに我が軍の大将は、自身の危険を省みず民のことを考えていらっしゃるのか。
皆が口々に叫びます。
「なにをおしゃるのですか我が君!そんなことをすれば袁紹に追撃され我が軍は全滅ですッ!」
「曹操さまッ!多くの兵の気持ちを代弁させていただきますが、我々は今ここで家族の待つ国に帰るよりもあなたさまと共に戦うことを誓いますッ!半年の約束なんか我々のほうから破棄させていただきますぞッ!」
「俺に来るなって命令しないでくれ~ッ!ブチャラティ!」
ゴゴゴゴゴゴゴゴ…!!
多くの兵士の声という声。それが陣中にこだましました。
関羽は、そのとき黙って曹操の傍にいました。そしてそのときの曹操の表情を忘れることはないでしょう。その曹操という人物はひととの約束を必ず守り、そして自分のことよりも何よりも他人の幸せを思いやる心の持ち主であると感じました。
もちろん曹操は、みんなに慕われたいから、関羽に想われたいからこんな発言をしたわけでもありません。一国の主として、公約を守るという当然のことをしたまでです。そこに計算はありません。自らの意志で誰かと交わした約束、それを守れないようになっては自分はきっとそれだけの人間なのだろう。
戦争、また戦争、そんな世の中ではあるが自分が真実だと思うことをしていきたい。正しいと信じる道を歩いていきたい。まるでどっかのブチャラティです。
曹操のこの信念、誰よりも人の気持ちに敏感であったことは、かえって不幸なことだと僕は思うのです。
兵士や将軍たちの熱い思いが自軍の士気を確実に高めたこと、関羽の気持ちがぐらつくその揺れ幅をも冷静に感じ、秤にかけることもできる才能、それもまた哀しい。考えることをやめられない。ひとの気持ちを無視してその場のイキオイで物事を決定できないということは、とても哀しいこと。熱い心があればあるほど。それを押さえつける苦しさがあることを、傍で関羽は感じていました。
曹操は結局、多くの兵士や側近の武将に反対されたのも関わらず、約束を反故にはせずに無理矢理に兵士を母国へ送り帰しました。
そして代わりに新たな兵が補充されました。ただし、新しい兵は当然士気も高く、今すぐにでも戦闘をできる準備を半年にわたって行ってきたわけですから、意気揚々です。
袁紹軍とのその後の戦闘具合はここでは割愛しますが、勝利は曹操にもたらされました。
圧倒的な兵力を誇る袁紹でしたが、その最大の武器だった兵数、数の多さこそが逆に最大の弱点になったのです。
曹操に兵糧庫を奇襲され、食料の大半を焼かれ奪われた河北の軍は、兵数を維持することができなくなり、敗退を続けました。
食うことができない仕事なんか、誰もやりたがりないし~。
度重なる戦闘で、曹操の軍も疲労困憊となりますが、そんなときだからこそ曹操は追撃の手を休めませんでした。
河北を蹂躙し、とうとう袁紹そのひとを討ち取りました。
それだけではやめずに、散り散りになった袁紹の親族もいちいち討ち取り、遼東(今でいう朝鮮半島北部の地方)に逃げ込んだ袁紹の息子たちも追い回して、その首を挙げました。
北方の国は想像を絶する冬があり、雪もあり、行軍は困難を極めました。それでも曹操は、半年間の兵役義務というローテーションを約束を守り抜き、多くの兵士、側近を失いながらも、完全なる平定を達成したのでした。
許昌へと凱旋した曹操のもとに、関羽の屋敷に放っていた間者から報告が入ります。「関羽将軍、劉備玄徳を密書を取り交わし、屋敷で関羽と劉備夫人や家族は、主である劉備のもとへ旅立つ準備をしているよ」っと。
袁紹軍にいた劉備は、関羽の存在を感じ部下を使って関羽と交信を行っていました。
関羽は、曹操の戦に参戦し、敵を討つことによって義理を果たしたと思いました。思い込もうとした…と言ってはいけないかもしれませんが、恩を返し、その元から離れるときが来たことを関羽は思っていました。
書けば書くほど終わりが見えなくなってきました。
当初はただ『士別れて三日なれば、刮目して相待すべし』って言葉の意味を書くだけのつもりだったのが「この人物について書くなら、この話が必要。そうなるとこの人物描写も必要」と際限なく思えてきて、無駄に長くなってしまいます。
時代もあっちこっちに飛んでいますから、知らない人には「???」ってカンジでしょうし、知ってるひとにも「?」だと思います。
それでも最後まで書かないと気持ちわるいので、もう少しだけお付き合いください。
そういえば今日、僕の自転車がなくなりました。盗まれたとは考えたくありません。きっと旅に出たのだと思います。
そもそも僕の自転車ではなくて、正確にはあべくんの自転車なのでどうでもいいっちゃあどうでもいい。通勤が少し難儀になるかな。
…
そんなわけで河北の雄で名門の出自である袁紹と、成り上がりながらも華中一体に覇を唱えることに成功した曹操との戦いが幕を開きました。
兵力だけで勝敗を計ることはできませんが、袁紹の軍は曹操のおおよそ二倍。
しかも、勢力を拡大するためにあちこちに兵を出して転戦を繰り返していた曹操とは違い、袁紹はここ何年もこの戦に備えて準備を進めていました。
曹操は戦の天才です。兵法に通じ、自ら兵法書(「孟徳新書」で知力+7」)をも著作するほど。
寡兵をもって多兵を制す戦略ももちろん持ち合わせていましたが、今回はどうにもうまくいきません。
その原因は袁紹軍の最強ツートップ、顔良と文醜の武力でした。
突撃大好きなこの二人、兄弟とも言われていますがそんなことはどうでもいいし。
とにかく強いので、曹操がうまいこと兵を進めても「顔良じゃ~ッ!」「文醜じゃ~ッ!」と二人が姿を現した途端に、曹軍の兵は我先に逃げ出してしまう始末。
兵士たちがこれでは戦になりません。
もちろん曹操の旗下にも、二人に対抗できるであろう実力者はいました。
曹操旗揚げの頃からその軍の一翼を担う、軍率の能力に秀でる隻眼の夏侯惇。
天然ボケキャラでのんびりした性格ではあるが腕力では誰にも負けたことのない許褚、愛称は虎痴。
曹操のボディーガードとして、いつもその傍でその身を守ってきた悪来典韋。
どいつもこいつも顔良、文醜と並ぶ実力者です。
どいつもこいつもピアスぜ。
しかしながら顔良、文醜はよっぽどいい馬に乗っているのか、その出現の報を聞いた夏侯惇たちが現場に駆けつける頃には、あっという間に撤収していなくなってしまっています。 あとに残っているのは曹操の兵士たちの累々とした屍のみ。
当時、騎馬軍団の最強といえば、袁紹に滅ぼされた公孫瓚の「白馬陣」が名高いですね。
白い馬ばかりで集めた騎兵軍団。その白さはGM KURAと並び称され「白馬陣を見たものは生きて帰れない」「俺のタバコとるなよ~」というほどの評判高いものがありましたが、その比類なきスピードゆえに、袁紹軍が掘った落とし穴に面白いように嵌ったり、ウイスキーを原液でイッキしたりしてズタボロにされてしまいました、
もしくは西涼一体を領土とし、遥か西のモンゴル地帯などとも交易し国外産のサラブレットすら所有し、その国では産まれた子供は母親に抱かれる前に馬に乗せられたという、馬騰(馬超の父)の騎馬集団。
話逸れたけど。
曹操の作戦は、いつも顔良と文醜によって潰されてしまいます。まずはこの二人をなんとかしないことには、いたずらに兵を失ってしまうだけ。
とうとう曹操の周りの軍師たちは進言します。「許昌に残してきた関羽を呼び寄せるべきでは?」
関羽将軍の所有する馬こそ、あの一日千里を走るといわれた名馬である赤兎馬です。
ワープ9までの航行を可能とする唯一無二の最強の馬。顔良と文醜の乗る駿馬に追いつくことのできる馬といえば、それしか考えられません。
「うむー、関羽か。確かに関羽将軍なら…でもな~」
曹操は関羽を戦場に招聘することには反対でした。
…
関羽は曹操に降ったとはいえ、有能の士を愛する曹操のもと、降将としてではなく一武将として、いやそれ以上の扱いを受けていました。
大きな屋敷を与えられ、たくさんの服飾品や美術品を与えられるという好待遇。
曹操が幹事で飲み会をするぞ~ってときにも関羽には特別に曹操の隣の席に座ることを許され、曹操自ら部下に「関羽将軍への無礼は許さぬ」とまで言わせるほどの歓待ぶりでした。
しかし関羽は自分に与えられた屋敷を、劉備の婦人や家族が住むための場所として提供し、自分は厩で寝たり寝なかったり、寝ないときには一晩中屋敷の門の前で見張りをし、華美な贈り物も全て夫人に献上していました。
曹操からの貰い物を決して自分のために使おうとしませんでした。
その行動はもちろん、屋敷を与えるときに放たれた間者により曹操にも届いていました。
関羽の清貧さっつーか「敵からの施しは受けない」的な立派な態度、そしてその態度の根底にあるのは主君劉備への忠誠であることも曹操は感じ、なんともいえない気持ちになりました。
「こういう者に慕われるような人間になりたいものだ」
ある飲み会に、関羽はボロを纏って出席してきたので、曹操はそのみすぼらしい着物を見て「良かったらいい着物差し上げようか?」と杯を手にしながら関羽に話しかけました。
「いや、そんな、悪いですよ」
「いやいやいや」
「いやいやいや」
最初の頃こそ、関羽は飲み会に誘われてもかなり迷惑そうな顔をしていました。知らないひとばっかりだし、敵である曹操に降った自分を恥じてもいたからです。
それでもあまり断るのも失礼にあたると考えて、次第に顔だけは出すようになりました。
どんな美酒が出てきても、目の前で美女が舞を披露しても、楽しくなさそうな表情こそしない関羽ですが、自分がどことなくここにはいないという顔をすることがあります。ほんの一瞬なのですが寂しそうというか目は遠くをみるような、そんな表情を浮かべます。
笑って杯を重ねるようになった関羽のことを、曹操はよくよく観察しました。
そのとき関羽が遠くなにを見ているのか、曹操にはわかっていましたが、それでも関羽の気持ちを少しでも自分に向けたくて。その寂しさを少しでも紛らわせてあげたくて、あえて何も言いませんでした。ただ「かんぱ~い」。
「大事に想っている」ということを口には出しても行動に示すことがあっても、そのあとに「キミは僕のことをどう想っているんだ?」とは言えない。
それを言葉にしてしまうことは「自分の気持ちを相手にあずけることになる」と曹操は考えていた。
自分は伝えたいことを伝えた、だからあとの返事はあなた次第なんてことは、その想いが強ければ強いほど、無責任なことだと思う。
上等な生地で織り上げられた着物が宴席に届きました。関羽はそれをうやうやしく拝謁すると、ボロの上に纏いました。
「関羽よ、せっかくかっこいい服あげたんだから、そのボロは捨ててしまえばいいんじゃあない?どうして上から着るのさ」と曹操は尋ねますが、関羽はボロを優しく撫でながら、こう答えます。
「この服は、古くなったとはいえ兄である劉備からいただいたものです。これを着るといつも兄者の傍にいるような気持ちになれます。どんなにボロとなっても捨てるなんてとんでもありません」
曹操は目を細めて思いました。関羽は絶対に自分になびくことはないだろう。忠誠を誓うことはしないだろう。たぶん死んでも劉備に対する忠義を忘れることはないのだ。
正直、面と向かって言われたくないセリフでした。曹操にとって。曹操は「うん、そうか」と言ったっきり。
そんな関羽の行動を、曹操の部下たちは正直あまりいい気分で見てはいませんでした。曹操さまからの賜りものを邪険に扱っていると感じていたのです。口にこそしませんが。今は仕方なく曹操さまにつき従っているが、この関羽という男はいつかわが国に災いをもたらすのではないか。今ここで殺すべきではないか。
曹操は部下たちのそんな思いもわかっていました。わかってはいましたが、何も言いませんでした。
言えば、関羽は曹操の部下たちに害され、殺されるかもしれません。もちろんそんなことはさせたくないし、いつかは別れるときが来ても、できるだけ長い時間を関羽と過ごしていたかったから。
とある日。曹操は関羽に馬を送ります。その馬こそが赤兎馬でした。引き締まった真っ赤な馬体と長い鬣、他のどんな馬と比較できないスピード。GT-Rか赤兎馬かってくらいのもんです。
かつてこの馬は呂布が所有していましたが、その死後には曹操が所有していました。気性も激しい馬だったので、誰一人乗りこなすことができなかったのです。
この赤兎馬を与えられたときだけは関羽は目を輝かせました。赤兎馬の背中を優しく撫でるとその背にまたがり、颯爽と駆けたのです。乗りこなす者がいなかったこの馬も関羽という最高の乗り手を得て、草原を颯爽と駆け抜けました。
試し乗りを終えて戻ってきた関羽に曹操は「今までどんな贈り物を与えられても喜ぶことなく全てを劉備夫人に渡してしまったと聞くが、馬一匹でどうして関羽どのはそんなに喜ぶのだ?」と尋ねます。
「この馬があれば兄弟たちの行方がわかったときにすぐに駆けつけることができるではありませんか」
ここまで面と向かって劉備と張飛への想いを口にする関羽。
ひとを思いやるという気持ちの強さと、その言動。それが決して自分に向かないことが曹操には苦しかった。
関羽の気持ちも尊重するなら、曹操は今この場で、今ここで「一緒にいられてとても楽しかった。劉備のもとに帰りなさい」と言うべきなのかも知れない。それが最良なのだろう。お互いのためなのだろう。
それでも、どうしても関羽ともっと遊びたかったし、一緒に飲みたかったし、その時間があといくつか続けば、きっと関羽もここに残ることを少しでも考えてくれるかもしれない…そんな気がして言い出すことができませんでした。
実は関羽も、同じような気持ちを曹操に抱いていました。劉備への忠誠は今でも変わりなくある。曹操はいろんな高価な物をくれました。
対して劉備はかけがえの無い時間を共有し、苦楽をともにした人間です。物と時間。どっちが大切かは明々白々。
今の曹操は一国の君主、それもこの時代の最先端で覇を競うほどの力を持ち、それをいつでも行使できるほどの権力を持つにまで至りました。昔のように身一つで、友情と夢だけを食べて飲んで生きていく頃に戻ることもできません。
曹操も若いころは相当苦労しました。逆境、また逆境。明日をも知れぬ命だったこともあるけど、その頃に知り合えなかった。
お互いが一番ツライであろう時期に、お互いを救いとしたかった。支えとなりたかった。
こんなこといってもしょうがないのですが、そんな頃に出会っていれば、二人はきっとこれ以上ない絆で結ばれる友人同士となれたかも知れません。
しかし、それを言葉にすることになんの意味があるのでしょうか。お互いが気まずくなるだけです。なんともなしに気持ちは冷めて、少しずつ離れる未来が訪れることにしかならない。
もしかすると、それが最良かもしれません。互いがあとに傷を残さないために。
それでもひとは、ひとが思うほど自分の未来は読むことはできない。
曹操に降る際に「兄弟が見つかればいつでもここを離れますから」と言った関羽の正直な気持ちも、ここにきてからはじょじょに曹操に大変な恩を感じていました。
なるほど、物をくれることによって、劉備夫人の生活は保証されました。
それ以上に自分を想ってくれる気持ちは、降将として扱われるはずの関羽の生活、それはただ息をして毎日を過ごす覚悟をしたつもりの生活ではなく、より良く人間らしく暮らす時間を与えてくれました。嬉しかった。
いずれ兄弟の居場所がわかって離れることがあっても、関羽は言わなかったけど、「曹操の恩に報いることができた」と関羽自身が納得できるまではこの許昌に留まる気持ちでした。
…
官渡の戦いで劣勢に立たされた曹操軍。
軍師たちが曹操に「関羽将軍を呼びましょう。関羽の武力、赤兎馬の速さがあれば、あの顔良と文醜を押さえることはできるかもしれません」と提案しても、曹操が反対した理由はそこでした。
関羽に恩を返す機会を与えてしまっては、自分のもとを去ってしまうかもしれない。
恩義なんか感じて欲しいわけじゃあない。ただ一緒にいて笑って、お酒を飲んで、どうでもいい話をしたいよ。ただ盃を交わして、たまに無言で微笑む、そんな時間を共有したいだけなんだ。
それが曹操一個人としての心でした。
しかし曹操は一個人ではなく、一国の総統でした。国をことを第一に考えるのなら手段は一つ。
「関将軍に、今すぐ戦場に参陣するよう伝えよ」
曹操の報を受け、関羽はすぐに戦場の最前線に駆けつけます。いつでも呼ばれる準備をしていた関羽を、曹操は少し複雑な気持ちで向かえました。
しかしその気持ちはおくびにも出さずに状況を説明します。
「実は袁紹の軍にいる顔良、文醜という敵将に手を焼いている。我が兵たちは最早その名前を聞くだけでも逃げ出す始末だ」
そう言って困った顔をする曹操に対して、関羽は「少しばかりお待ちください」と言い残し、許昌からここまで休みな走り続けたはずなのに息ひとつ乱れていない赤兎馬に跨ると、戦闘の場へ颯爽と駆けていきました。右手には青龍偃月刀を携えて。
関羽はまず文醜と相対しました。「我こそは文醜なりッ!誰かは知らないが、かかってこ…ッ!」
そして顔良は「よくも弟を殺してくれたなッ!この顔良が相手になろ…ッ!」
袁紹の本陣に入った物見からの報告では、顔良も文醜も突如現れた騎馬武者に一合も交えることなく討死。二人とも頭から一刀両断にされたとのこと。
袁紹軍に動揺が走りました。あの二人に攻撃をする間も与えずに斬り下ろすほど武人がこの世にいるのか?!一体何者だ?!
このとき袁紹の陣営に客将として迎えられていた劉備は、「関羽だ!我が弟の関羽に違いない!よかった!生きていたんだな!」と直感しました。敵である曹操のもとになぜ関羽はいるのか、しばらく会ってなくとも劉備には想像できました。自分の家族を守るための行動であること。やむなく曹操についた関羽の境遇も。
関羽の今の精神状態、曹操に並々ならぬ想いを抱き始めたこと、それを劉備は知りえることはできませんが、彼にとっては仮にそれを知っていても「関羽が生きていた!」それだけが喜びでした。
官渡の戦いは、こうして一見すると曹操軍の関羽の力により袁紹軍と互角にまで持ち込んだようにみえますが、ツートップ不在になった袁紹は全軍をやや後方に下げ、守りの姿勢に入り、持久戦の様相を保ち、曹操の出方をみる戦術をとりました。
兵数で圧倒的不利な曹操軍にしてみると、持久戦は長引けば長引くほど危険です。敵陣には北方からどんどん新しい兵も導入されるでしょうし、食料も運ばれます。自軍は許昌から遠く離れ兵力も兵糧も充分とはいえず、ある意味アウェイだし、その許昌も留守のまま放っておけば、第三の勢力や力をつけ始めた呉の軍勢などが、いつ都に攻め入らないとも限りません。
その時期、曹操は屯田制を自ら考案し、実行していました。
曹操が打ち出した屯田制とは、半農半兵を軸としたものです。戦時下ではないときに兵士には畑を耕させ、家族と団欒の時間を与え、各々の土地のために働くことを許可すると同時に、いざ戦争が起こったときには兵力として召集するというもの。
畑というものは、そこに四季があり、風があり、土があり、降り注ぐ陽光と、流れる水の恵みがあっても、手をかけずにいて作物が実るというものじゃあありません。
農作物という収穫の恵みとは、常にひとの手によってのみ作られるのです。
人がいなくなって面倒をみてもらえなくなった畑は恵みを与えてはくれないでしょう。
大地は、人間が勝手に始めた戦争の都合をいちいち考えません。
曹操は、動員する兵数を常にその動員可能人数の半分と決めていました。いかに大事な時期で人手が必要とされる戦争であっても、その兵士たちには兵役の期間をそれぞれに明確に示し、徴兵されて半年が経てば、あとの半年は畑に戻ってもいいことを約束していました。
河を挟んでの持久戦。持久戦とは座して相手の出方を伺い、ことによれば相手の自滅を待つ戦法ではない。表面上は対峙し、お互いを牽制する体を保ちながら、裏で策略を巡らす。一方に綻びが見えれば一気に叩くという一触即発の限界点、その見極めを試される戦法なのです。
そのような臨戦下のなか、今配置されている兵士を自国に戻し、新たな兵の補充を待つような時間はありません。さすがの曹操も自ら提案した屯田制を恨めしくも思いますが、ある日陣頭に立ち全軍に告げます。
「諸君らの役目は終わった。国に帰り、その元気な顔を家族に見せ、そのからだは田畑を耕すことに使え。これは命令だ」
これには武将たちも多くの兵士たちもびっくりしました。みんなこの戦が、曹操の国がこれ以上拡大し勢力を広げるのか、もしくは滅びてしまうのか、イチかゼロしかない戦いであることを現場にいて肌で感じていたからです。それなのに我が軍の大将は、自身の危険を省みず民のことを考えていらっしゃるのか。
皆が口々に叫びます。
「なにをおしゃるのですか我が君!そんなことをすれば袁紹に追撃され我が軍は全滅ですッ!」
「曹操さまッ!多くの兵の気持ちを代弁させていただきますが、我々は今ここで家族の待つ国に帰るよりもあなたさまと共に戦うことを誓いますッ!半年の約束なんか我々のほうから破棄させていただきますぞッ!」
「俺に来るなって命令しないでくれ~ッ!ブチャラティ!」
ゴゴゴゴゴゴゴゴ…!!
多くの兵士の声という声。それが陣中にこだましました。
関羽は、そのとき黙って曹操の傍にいました。そしてそのときの曹操の表情を忘れることはないでしょう。その曹操という人物はひととの約束を必ず守り、そして自分のことよりも何よりも他人の幸せを思いやる心の持ち主であると感じました。
もちろん曹操は、みんなに慕われたいから、関羽に想われたいからこんな発言をしたわけでもありません。一国の主として、公約を守るという当然のことをしたまでです。そこに計算はありません。自らの意志で誰かと交わした約束、それを守れないようになっては自分はきっとそれだけの人間なのだろう。
戦争、また戦争、そんな世の中ではあるが自分が真実だと思うことをしていきたい。正しいと信じる道を歩いていきたい。まるでどっかのブチャラティです。
曹操のこの信念、誰よりも人の気持ちに敏感であったことは、かえって不幸なことだと僕は思うのです。
兵士や将軍たちの熱い思いが自軍の士気を確実に高めたこと、関羽の気持ちがぐらつくその揺れ幅をも冷静に感じ、秤にかけることもできる才能、それもまた哀しい。考えることをやめられない。ひとの気持ちを無視してその場のイキオイで物事を決定できないということは、とても哀しいこと。熱い心があればあるほど。それを押さえつける苦しさがあることを、傍で関羽は感じていました。
曹操は結局、多くの兵士や側近の武将に反対されたのも関わらず、約束を反故にはせずに無理矢理に兵士を母国へ送り帰しました。
そして代わりに新たな兵が補充されました。ただし、新しい兵は当然士気も高く、今すぐにでも戦闘をできる準備を半年にわたって行ってきたわけですから、意気揚々です。
袁紹軍とのその後の戦闘具合はここでは割愛しますが、勝利は曹操にもたらされました。
圧倒的な兵力を誇る袁紹でしたが、その最大の武器だった兵数、数の多さこそが逆に最大の弱点になったのです。
曹操に兵糧庫を奇襲され、食料の大半を焼かれ奪われた河北の軍は、兵数を維持することができなくなり、敗退を続けました。
食うことができない仕事なんか、誰もやりたがりないし~。
度重なる戦闘で、曹操の軍も疲労困憊となりますが、そんなときだからこそ曹操は追撃の手を休めませんでした。
河北を蹂躙し、とうとう袁紹そのひとを討ち取りました。
それだけではやめずに、散り散りになった袁紹の親族もいちいち討ち取り、遼東(今でいう朝鮮半島北部の地方)に逃げ込んだ袁紹の息子たちも追い回して、その首を挙げました。
北方の国は想像を絶する冬があり、雪もあり、行軍は困難を極めました。それでも曹操は、半年間の兵役義務というローテーションを約束を守り抜き、多くの兵士、側近を失いながらも、完全なる平定を達成したのでした。
許昌へと凱旋した曹操のもとに、関羽の屋敷に放っていた間者から報告が入ります。「関羽将軍、劉備玄徳を密書を取り交わし、屋敷で関羽と劉備夫人や家族は、主である劉備のもとへ旅立つ準備をしているよ」っと。
袁紹軍にいた劉備は、関羽の存在を感じ部下を使って関羽と交信を行っていました。
関羽は、曹操の戦に参戦し、敵を討つことによって義理を果たしたと思いました。思い込もうとした…と言ってはいけないかもしれませんが、恩を返し、その元から離れるときが来たことを関羽は思っていました。
終わりなわけないじゃあないですか!
このあとは当然、関羽千里行のスタートですよ!
でも関羽ばっかり書いてもしょうがないので、どのタイミングで方向を切り替えるか…そこが自分でも迷っているところです。
>クメ
もしも「この辺がイマイチわからないな~」「誰これ?」ってのがあったら遠慮なく言ってね~。
そんな意見や質問も取り入れながら進行していきたいと思ってます。
分かり易い三国志がモットーです。
実家に帰ったら横山三国志読み返してみます。
これで終わり?